時は大江戸天下泰平というには無理があるんじゃないかと言う説が出てきた時代。
初動で爆発的な利益を叩き出したのみならず、継続的に利益を出し続ける競馬事業に藤兵衛は頭を抱えていた。
「やっべ、これ絶対やべぇって。利益が出過ぎておる」
「僭越ながら大旦那様、儲けが出る事は喜ばしい事であれども恐れる事ではないのではないでしょうか?」
ぶつぶつと呟く儂を不思議そうに見ながら問いかけてくる新右衛門、ではなく休暇中の新右衛門の代打として起用された三郎太である。
新右衛門は最近長女であるおとよと祝言を挙げた新婚ホヤホヤの身であるし、これまでまとまった休みと言える休みを取ろうとせなんだからこれを機にゆっくりするよう言い含めておるのじゃ。
あやつは渋い顔をしておったが、まぁおとよが何とかしてくれるじゃろ。うん。
「大赤字よりはマシなんじゃけどなぁ……まぁ良い、支度せよ三郎太。出かけるぞ」
「畏まりました、どちらまで行かれるのでしょうか?」
「うむ、ちょいとばかり競馬関係で世話になった『兄弟』に話をしに行く」
儂の言葉に三郎太は身を強張らせるとすぐに居住まいを正し、すぐに準備にとりかかりますと告げてせわしなく動き始める。
現代日本で大店が任侠者、平たく言うとスジモンと繋がりがあった日にはそりゃもう大惨事一直線確定じゃ。
無論今この時代でもスジモンにはピンキリおるし、モノによっては付き合いあったせいで普通に恐喝を受ける事もあるんじゃけど……。
まだ儂が若い頃、おさよを嫁にもらう為に何でもやってた頃に出会った任侠者が中々に気高い、まさに黄金の精神と言うべき持ち主だったのが幸いであった。
その縁は今も続いておるし、付き合いのあった盃を交わした事もある任侠者は今や大規模な一家の大親分。
足を洗いたい若者達に働き口を用意してやったり、まとまった銭を渡して街道保護やら宿場町の治安維持貢献やらをやってもらっておるわい。
「ああそう言えば、アヤツも最近やっと初子を授かったと言っておったのう。多めに祝い金を包んでやるとするかのう」
地獄の獄卒も逃げ出す強面なのに一途で嫁さん想いな兄弟を思って口元を緩めると、折角じゃし最近新開発された日持ちのする菓子も用意してやるべくボインな女中へ声をかけておく。
競馬事業の準備段階の時はちょくちょく顔を合わせて酒を酌み交わしたが、ここ最近色々と騒動が続いて会えなんだからのう。
・
・
・
・
・
江戸から少し離れた宿場町、その中でも一等際立つ造りの屋敷。
その門の前には明らかに堅気とは言い難い様相の男達が門番として立っており、彼等は仕事仲間である連中と軽口を叩きながら退屈な門番仕事に勤しんでいた。
しかし彼等は遠くからこちらへ近寄ってくる一団に気付くや否や即座に表情のみならず、纏う空気を一変させて近付いてくる一団へ鋭い視線を向け……。
「おぅい、久しぶりじゃなー」
背中に風呂敷包みを担いだ呑気な表情の顔馴染みである大商人に気付くと、瞬く間に纏っていた空気を弛緩させた。
余談であるが大商人の男こと藤兵衛に付き従っている三郎太と彼の部下達は、緊張しているのかその表情は硬かった。
「なんでぇ藤の大旦那じゃありやせんか、聞きましたよ? 競馬とやらでとんでもない銭儲けして御大尽の日々やってるとか」
「こっちにもあやからせてくだせぇよぉ」
「わかっておるわかっておるわい、おい甚太や。持ってきた酒全部彼らに渡してやりなさい」
破顔して朗らかに声をかけてくる男達に藤兵衛もまたつられるように笑みを浮かべ、荷物持ち兼護衛として連れてきた一人である甚太と呼ばれた男へ声をかけると。
彼が担いでいた風呂敷包みを、門番の男達へ渡すよう指示を出す。
「南蛮渡来の酒に、それだけじゃケチ臭いからうちの店の傘下にいる酒蔵に作らせた一品じゃ。飲みすぎんようにな?」
「さすが大旦那! 安心してくだせぇよ、飲み過ぎて大旦那みたいに簀巻きになったりはしねぇさ!」
「ははは、言いよるわい!」
甚太から酒の入った風呂敷包みを受け取ると男達は緩やかに道を開け、藤兵衛達に中へ入るよう促す。
「あの、大旦那様。簀巻きにされたと言うのは……?」
「三郎太や、もう終わった事じゃから気にするでないぞ」
屋敷の家人に案内される途中、小声で三郎太が簀巻きにされたという件について主人である藤兵衛へ聞くも聞かれた本人にとって黒歴史そのものである故、笑ってはぐらかす始末。
そう、藤兵衛は黒檀屋に捕まり北町奉行である遠山金四郎にあわやと言うところを助け出された事件について、詳細は部下や家人に説明していないのである。
それは何故かと言えば、酒を飲み過ぎて前後不覚になった挙句簀巻きにされたなんぞ恥ずかしい事この上ない、その一点に尽きるというあたり藤兵衛の微妙に見栄っ張りなところが透けて見えるのは言うまでもない。
しかし何故、当事者である藤兵衛が語っておらず部下も家人も知らない事を任侠者の門番が知っているのか、それはきっと蛇の道は蛇と言う事なのだろう。
ともあれそんな事を話している内にやがて目的の部屋の前へと一行はつくと、三郎太を除いたお付きの者は別室へと通されていき。
女中が部屋の中へ声をかけ、襖を開く。
「よう兄弟、派手にやってるそうじゃねぇか」
「そっちも元気そうで何よりじゃよ兄弟、今日は無理いって時間を作ってもらってすまんのう」
部屋の中で芸者から酌を受けていた、凶悪と言う言葉が似合う頬に大きな傷跡を持つ強面の男が破顔して藤兵衛へ声をかけ。
藤兵衛もまた男の言葉によっす、などと軽い調子で応じながら敷かれた座布団にどっかと腰を下ろす。
「俺と兄弟の仲だ、そんな水臭い事言うんじゃねぇって!」
「本当お前は変わらんのー」
「兄弟は変わり過ぎだけどな、主にその恰幅の良い体とかよ!」
強面の男……屋敷の主人であり近隣の任侠達をまとめる大親分の言葉に、藤兵衛は若干衝撃を受けて摂生する事をひっそりと誓いつつ芸者から注がれた酒に口をつける。
なおこのご時世に於いては恰幅が良いという事は金を持っている証拠であり、悪い意味ではないのだが……。
変な所で現代日本感覚が抜けない藤兵衛にとっては、ダイエットを決意させるに足る言葉となっていた。
藤兵衛の目の前に座っている大親分は見た目こそ藤兵衛の正反対と言える姿をしているが、実は二人の齢はそんなに離れておらず。
その関係はずっと昔から続いており、互いに様々な鉄火場を乗り越えて今の関係に至っているのだ。
「まぁ銭儲けが捗って金満なのはいいって事だが、あの仏頂面……新右衛門はどうした?」
「ああ、あやつはおとよと祝言を挙げたばかりだと言うのに碌に休もうとせんからの、無理やり休ませて夫婦水入らずにさせておる」
「そいつぁめでてぇな! んで、そこに控えて青い顔してんのは使えるのか?」
「新右衛門が認めるぐらいには頼りになるわい、お前さんに睨まれたら地獄の鬼も逃げるからそう苛めんでやってくれ」
藤兵衛の言葉を受けた大親分は豪快に笑い声をあげると手に持っていた盃の中身を飲み干し、侍らせていた芸者達に下がるように言うと。
だらしなく座っていた姿勢を正すや否や口を開いた。
「で、例の競馬とやらの件で何か心配事があるんだって?」
「おう、ちょいとばかり儲け過ぎてしもうてなぁ……」
「……あー、なるほどな。まぁ実際子分共が食い詰め者や盗賊が兄弟の店狙おうとしてるってのは聞いたそうだぜ」
大親分の言葉に神妙な表情で応じた藤兵衛の言葉に、さもありなんといった様子で大親分は頷くと子分達から上がってきている報告について藤兵衛へと話す。
「まぁそいつらは今頃海の魚共とよろしくやってるだろうけどよ、兄弟が俺のとこに来たって事は既になんぞ企んでるんだろ?」
「相変わらずおっかない事言うのう……それに儂がしょっちゅう何か企んでるみたいに言うでないわ」
「おうおう随分体だけじゃなく性根も丸くなってんじゃねぇの、昔は俺達とあの仏頂面の三人で大暴れしたってのに」
「若さゆえの過ちじゃあんなもん、今は同じことやれと言われても出来やせんわい」
互いの思い出話に花を咲かせる狸親父と地獄の鬼みたいな男、そんな二人の会話を聞かされている三郎太が生きた心地がしない中。
藤兵衛は懐から巻物を取り出すと、ソレを大親分の前で広げだす。
「こいつぁ……お江戸のみならず近隣の宿場町も含めた地図じゃねぇか、なんでこんなもん持ってんだよ兄弟」
「へ? 付き合いのある店やら傘下の店に宿場町の情報をまとめて作ったんじゃよ、これ結構便利なんじゃよな」
「兄弟悪いこたぁ言わねぇ、そいつは絶対他のもんに見せるなよ?!」
今自分達が住んでいる宿場町も載っており、経験則から巻物に描かれている地図の精巧度が高い事に気付いた大親分は冷や汗を一筋垂らし。
すっとぼけた事を抜かす目の前の兄弟に、そう言えば昔からコイツこうだったわなどと考えつつ叫ぶように忠告し。
「おいそこの青二才!てめぇこの地図の事は墓場まで持ってけよ!?」
「は、はいぃ!!」
即座に鬼のような形相で藤兵衛の隣に控えていた三郎太へ怒鳴る、酷い流れ弾であった。
なお藤兵衛はきょとんとした様子で、これ便利なんじゃけどなー。などと抜かす始末である。
ちなみにどうやって測量したかと言うと、ある程度位置関係把握できるもんないと仕入れやらなんやら不便じゃよなーと考えた藤兵衛が、色々と資本を投入している職人町の人間に声をかけて作り上げたもので……。
よく店に遊びにやってくる上様やご隠居に見つかると、色んな意味で洒落になってない危険物なのだ。なお藤兵衛当人に危険物と言う自覚はない模様。
「……まぁいい、んでこれがどうしたってんだよ兄弟」
「うむ、兄弟との話し合いで寺社の人間へのスジ通しに事故が起きた時の馬の供養、競馬に出場する騎手や馬が安心して休める宿など……まぁ他にもあるが、それらはまとまってるよな?」
「そうだな」
「ほんで…………じゃな」
腕を組み考え込む大親分に構想を藤兵衛は語り始める。
それは余りにも突拍子もなく、とんでもない内容で……だがしかし実現できたなら競馬と言う事業は間違いなく永く後々まで続くと言えるモノで……。
そんな代物を聞かされた大親分は瞑目し、深く考えた後。
屋敷中に響き渡るほどの大声で笑い始めると、口角を吊り上げて藤兵衛を見やる。
「……兄弟、昔から思ってたんだがお前さん掛け値なしの馬鹿野郎だな!」
「酷くない? 兄弟」
盃を交わした兄弟の言葉に何とも言えない表情を浮かべる藤兵衛、そんな兄弟分の顔に大親分は更に大きな笑い声をあげる。
結論から言うなれば、競馬で生じた莫大な儲けの大半をつぎ込むその計画に大親分は一家全ての総力を挙げて協力する事を約束するのであった。
そして藤兵衛が語った構想、描いた図面は紆余曲折様々な困難を経た末に結実し。
はるか遠くの後の世代である現代まで続く、全国規模の競馬事業の雛型となったのであった。
白状しますと、本当は大親分を当初は清水次郎長にする予定だったんです。
けどもあらためて調べると、次郎長親分は幕末~明治にかけての人物でさすがにソレを出すのは憚れると自重した結果、オリジナルキャラな大親分が産まれたという経緯があります。
ちなみに藤兵衛が描いた構想は平たく言うと。
トレセンの設立と江戸のみならず各藩にノウハウを伝授しつつルールや賞の設定、宿場町のお馬さん関係の充実と言った具合のトンチキ構想です。
競馬によるぼろ儲けが無かったら、藤兵衛資本だけでは達成不可能だった模様。