黒山はスマホを取り出し、操作しようとする。
環が、
「誰?」
と、気のせいか明るい声音でそう言った。
墨字さんは無言で手をとめ、表情はやはり沈んだまま。
「墨字さんはどこに電話するんですか? そして環さんは明るい表情になってますが気のせいですか?」
追いついた、追いつけない以前に、墨字さんがこの場所を選んだ理由は私に事の顛末を聞かせるためだ。
ここは蚊帳の外に置かれるわけにはいかない。
「ああ、不謹慎だったね。ごめんごめん。私はドラマがちゃんと進むことが大事なわけだから…」
「天知のところだよ。共同戦線中だし、俺にリスクについて説教たれたからな。今なら頼れる」
つまり、けいちゃんの代役を急いで確保するわけか。
けいちゃんは仮病で休業、墨字さんはしばらく干されて、私はこの節目に今一度自分の身の振り方を見つめ直す。
というところか…。
笑えない。なんだ、この降ってわいた絶望的状況は?
「あと、方程式が緩衝材ってのはなんですか?」
「あれは、他にもっといい言葉があったんじゃないか、と私なりに考えてみたんだけど、さすがは墨字くんというか、絶妙だ。これについては責められない」
「俺が欲張ったってことだ。現場でどういう流れになるかを教えた上で完全に無視させるのが正解だった。あの人も今は性格が悪くて口うるさいただのババァだからな。夜凪の集中力ならぎりぎり出来たはずだ」
黒山は「いや、口汚く言う気分じゃないな。説明させてくれ」と前置きし、薬師寺母子の物語の続きをしゃべり始めた。
薬師寺真波は「演じ方」をたくさん発明した女優だ。
たとえば、何かを手に取るために手を伸ばす場面。伸ばす手を途中で止めて、1回軽く拳を握ってすぐに開き、そこから手を伸ばす動きを再開させる。これを見せられた監督や他の役者は衝撃を受けた。
その演じ方の意味を自分たちが理解出来ていないことにも気づかずに。
真波は次のテイクで、握る指の速さをやや遅くし、拳の握り方を浅くした。再開させた手を伸ばす動きをやや速くした。
そこでようやく周囲の者に、「迷い」と「決意」だけでなく、その両者のバランスまで表現されていることが伝わった。
迷いも決意も求められていない場面だった。だが、その動きがあったほうが見る者にとっては面白かった。
演技においていちばん大事なことはなにか、見る者を楽しませなくてなにが役者か、真波はそのことを誰よりも理解していた。
真波が発明した演じ方は、その数が多すぎて本人すらそのすべてを把握しきれていないのではないか、とまで言われた。それでも真波は演じ方を増やし続けた。
真美が次々とそれらを描いていくからだ。
すべてを描かれてたまるか、という意地が真波にはあった。それほどに真美の存在は脅威だった。把握している数の多さで言えば娘の真美のほうが既に上回っているだろう、という耳障りな意見がたまに聞こえるのも真波の誇りを揺さぶった。
晩年の真波が披露した演じ方で有名なものは、「手にした汽車の切符が本来持っているべき切符とは別の物だった時の手の動き」だ。
そのシーンは、手に持つ切符の裏面が見えるアングルから入り、次に印字が見える切符の表側が映される、というもので、その間演者の顔は一切映らない。
その「手の動き」は後々まで多くの役者たちによって練習された。電車の切符、航空券、映画のチケット等に応用が利き、しかも物語において「ありがちなシチュエーション」だったからだ。
人はどういう動きに違和感を覚えるか、という心理学的なアプローチは可能だ。具体的にどの部分がどのように作用している現象なのかを細かく解析することも同様に可能だ。
無論、真波は心理学に頼ったわけではなく、独力でその動きを編み出した。
そんな偉大な女優を、娘に敵対心を剥き出しにする母を、真美は真っ向から迎え撃った。
真波が把握しきれていないであろう演技をあえて描き、「そういえばあれは私が編み出した演じ方だった」と本人を悔しがらせた。
あるいは、こういう場面ではこの「演じ方」よりもこっちの「演じ方」を「丁寧に」見せるほうが見る者をより楽しませる、数が多ければいいってものじゃない、と真波を嘲笑うような描き方を意図的に選択した。
そして、その日がやってきた。薬師寺真波逝去。母子の壮絶な相乗効果合戦は終焉した。
残された真美にはやるべきことがたくさんあった。
数多く手に入れた描き方、その演技の練度を高めなければならなかった。
まだ着手していない「演じ方」を塗りつぶさなければ「すべてを描いた」ことにはならない。もう真波によって数を増やされることはないのだから完遂は目の前だった。
薬師寺真美自身の演技も伸び盛りだった。
だが、真美は抜け殻となっていた…。
周囲の者は、真美に期待を寄せつつも待つしかないことを理解していた。
抜け殻のまま多くの映画に出演し続ける真美に対し、監督や演出家は無理な注文をしなかった。真美が以前と変わらず一流の演技を見せたからだ。
薬師寺真美にはまだまだ伸びしろがあることがわかっているというもどかしさ。
監督や演出家はそのもどかしさにひたすら耐えた。
スタジオ大黒天。
夜凪は1人テレビモニタの前に座っていた。
劇団天球からの帰りに、七生と一緒にレンタルショップに寄った。薬師寺真波が出演している作品2本、薬師寺真美が出演している作品2本、その二人の影響が色濃いであろう作品5本、それらを七生に借りてきてもらった。
薬師寺真波を演じる夜凪景を演じる千世子ちゃんを私が演じる!
これは、薬師寺真波を演じる千世子ちゃんを私が演じる、とはだいぶ違う。
今回の夜凪のこだわりポイントだ。
そういう意気込みで、夜凪は借りた作品を鑑賞していた。
見ているのは「二人の影響が色濃いであろう作品」として七生がチョイスしたドラマ。
真波も真美も出演していないのに、たしかに真波の演技があちこちに垣間見える…。
この演技を踏襲しようとする私を見た千世子ちゃんが「ここはこうだよ」と手本を見せてくれて、「こんな感じ?」と応じる私。
そのイメージをドラマの中の役者の演技に結びつけることに集中する。
…んー、難しい。やっぱり千世子ちゃんは凄い。
体育座りで、たまに両手を床に突いて身を乗り出して、また体育座りに戻って。
夜凪はドラマの役者を目で追う。
テレビモニタを見つめる夜凪に、もう吐き気は訪れなかった。
第11話「抜け殻」/おわり
以上が、私なりのアクタージュ「scene134」となります。
すごいぞ、劇団天球。ということで、なんだか夜凪の問題も解決しそうな気配です。
私は原作アクタージュの「銀河鉄道の夜」編が大好きで、天球メンバーには思い入れがあります。
ちなみに、
七生はディズニー好きなので、家に日本の映画やドラマが揃っていると変だ。
阿良也はミュージカル好きなので同様。
亀太郎の家にはあるかもしれないけど、夜凪の寄り道先としては不相応。
かと言って、レンタルショップで借りたら「大河ドラマ主演女優、今さら自分が演じる人物を?」とネットで騒ぎになってしまう。
まったく、なんて世の中だ!
などと思ったのですが、なんのことはない、七生に借りてきてもらえば済みました。
今回、抜け殻となった真美がやるべきことの中に「演技の練度を高めなければならない」という要素を放り込みました。
これは夜凪が今後クリアすることになるかもしれない課題でもあるわけです。
百城千世子と夜凪景の間には稽古量の絶対的な差があり、それは「演技の練度」に直結します。
当然、環と夜凪の間にも差があります。
夜凪をいつまでも不安定なままにはしておけません。