セカンドステージ (役者と監督のその後)   作:坂村因

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第29話 「発言力」

立体音感は誰もが持っている能力だ。

人によってその程度が異なり、高いレベルでその感覚を持っている人は100人に1人くらい。高いレベルの持ち主に該当するのはほぼ男性で、女性の例は珍しい。

 

なお、生まれつき高い立体音感を持つ人でも、生涯その自覚がないまま過ごす場合が多い。

 

(学術論文が少ないわけだ。メリットもデメリットもほぼ無いし、日常生活でこんな感覚を意識する場面に出くわす機会はまず無い)

 

この感覚がメリットとなる人種、つまり高レベルの立体音感が必須となる仕事は1つしかない。

 

…オーケストラの指揮者。

 

学術論文ではなく、指揮者に関する記事を追うと、詳しい記述がぞろぞろ出てくる。

ただし、「立体音感」という用語は出てこない。「立体的に~」という表現は多々あるが、記事の中では指揮者に必要な感覚という扱いだ。

 

例の吐き気は、無意識のうちに脳が自身の三半規管を疑ってしまうことで発生する。

解決の方法は簡単。

自分がそういう感覚の持ち主であることを知るだけでいい。

たったそれだけで、脳は「自身が捉えている空間と、他者が作った異なる形状の空間が混在している」と認識するようになり、自身の三半規管を疑うことをやめる。

 

具体的な解決法が存在することに黒山は安堵する。

煙草に火を点け、深く吸い込んでから(ふぅーっ)と長く息を吐く。

 

「ふぅーっ、じゃねーよっ!」

 

背後から、雪の怒気を孕んだ声が飛んできた。

くるりとオフィスチェアーを回し、声の方を向くと、いらいらした表情の雪が立っていた。

 

「面白くする話はどうなったんですかっ!」

「…ああ。なんか、思いついたか?」

 

 

 

雪は自分が考えたことを黒山に聞かせた。

そして、12歳の真美役が難しいことを強調した。

 

「……。それだと大掛かりな改変になる。無理だろ」

「え、いや、わかってますよ(←夢中になって忘れていた)。でも、これは無理とか制約したら、良いアイデアが出づらいじゃないですか!」

 

「んー、12歳の真美役ねえ…」

「やっぱり、オーディションでしょうか?」

 

「オーディション、…になるだろうな、やっぱり」

「厳しいオーディションになりますよ、これは」

 

ここで、環と夜凪がPC室に入ってきた。二人ともまだ眠たそうな表情で、それぞれオフィスチェアーに座った。

環は逆向きに座り、組んだ両腕を椅子の背もたれに置く形で顎を腕に乗せ、半開きの目を、とろん、とさせていた。

ほぼ同じように座った夜凪は、その状態で床を蹴って、椅子をくるくるさせた。

回転するオフィスチェアーの上の夜凪は、一回転ごとにその何も見ていないような寝惚けた目をこちらに向けた。

 

「柊、おまえが騒ぐから起きちまったじゃねーか」

「…うっ、すみません」

 

雪は、起きてしまったのなら話をするしかない、と前向きに考える。

そして、自分なりの「キネマのうた」を面白くする方法について、二人に語り聞かせた。

 

話を聞いた環は、

「…いいねえ。29歳までじゃ物足りないと思ってた」

と、ぼんやりした声で答えた。

 

もうすぐ回転力を失いそうな椅子の上の夜凪は、

「…雪ちゃん、ありがとう」

と、話がまったく頭に入らなかったことを隠しもせず平坦な声でそう言った。

 

 

 

4人で大部屋へと移動する。

環と夜凪も頭をしっかりと覚醒させ、ちゃんと目を覚ます。部屋の中央に集まり、話し合いが出来る状態が出来上がる。

ルイとレイは布団ごとキッチンへと運び、そのまま眠っていてもらう。

 

黒山はコピー用紙の束を手に、しばらく考える。

不思議なことに、メモの内容が今までとは違って見える。

このメモを作った環と夜凪の思いが伝わってくる気がする。

 

「夜凪は犬井さんの指示に抵抗したってことだよな」

「うん…」

 

「環は夜凪の負担を心配して、前もってメモを取るようにした。自分が書いた文を自分で消してるってことはテイク数も多かったってことだ」

「そうそう、わかってるじゃん」

 

そういうことを理解した上でメモを見返すと、後半の内容がボロボロになってしまっているのが分かる。

よほど疲れたんだろうな。

鎌倉で3人で真波を作ると言って、同居生活をしていた。そして、作り上げた真波と犬井さんが指示する真波が別物だったってことだ。

だが、ここまでだ。3人がどういう真波を作り上げたかは分からない。

相当良い物を作り上げたんだろう。だからこそ疲れ果ててもなお守ろうとした。

 

「俺の答えじゃ正解とは言えないな。3人がどういう真波を作り上げたかまでは俺には分からない…」

 

環と夜凪は顔を見合わせ、こそこそと互いの耳元で何度か会話を交わした。

 

「違うよ、墨字くん。どんな真波を作ったかは、3人以外に分からなくて当然だよ。重要なのは、それを必死こいて守ろうとする私らの思いの強さだ」

 

その思いの強さは良い物が作れたからじゃないのか、と訊くと怒られそうだ。

良い悪いといった単純な話ではなく、もっと繊細で感覚的な問題なんだろうな、と黒山は思う。

…どのみち、自分は不正解だったわけだ。

 

黒山は、

「そういう役者の思いが理解出来なくてすまなかった。今後はもっと意識しようと思う」

と申し訳なさそうな声音で告げた。

 

ただ、本来自分はそういう部分に配慮出来る人間だった。

今はやはり調子が狂っている、と黒山は思う。

 

そして、また環と夜凪が耳打ちで会話をしていた。

 

先から何をこそこそしているんだろう?

 

「私は、幼さが残ってて可愛くて茶目っ気のある真波がやりたい!」

「私はその延長上にある大人になってからのかっこいい真波を演じたい」

 

「……。それは俺じゃなくて、犬井さんに言うことだろ」

 

「だから、今日何度試しても折れてくれないのよ、あの監督」

「飲み友だちだから仲いいんだけど、犬井さんは頑固な人だよ」

 

監督と役者が衝突した時、監督が折れるべきだとでも考えているのだろうか。

目指す方向が同じで衝突しないのが理想ではある。

しかし…、うーん…。

でも、まあ、今回のターゲットは自分ではなく犬井さんなわけで、相談に乗るのは構わないか。

 

「ちなみに、おまえらが作り上げた薬師寺真波は実際の薬師寺真波とはずいぶん違う人物に思えるんだが、そこはいいのか?」

 

夜凪は、こくり、と頷き、環は「問題ない」と答えた。

 

 

「…あの、お二人の真波は、脚本改変後でも崩れない…感じの真波ですか?」

 

 

大きい声じゃないのにズシリと迫力のある、そんな重みを感じさせる声が、雪の口から吐き出された。

独特の声音に、場は一瞬固まった。

 

夜凪が、「うん、崩れない」と元気良く答え、環が「なんで景ちゃんが答えるの? 私の担当の箇所だよ」と困った風に言った。

 

夜凪が、

「真美さんでも無理なのかしら? 脚本の改変…」

と呟いた。

環が「大河だよ? いくら真美さんでも…」と言いかけた時、黒山が「いや」と声を上げた。

 

皆が注視する中、黒山は、

「薬師寺真美にはその力がある。ただ首を縦に振らないだろう、と俺は思う。実際、真美の発言力なら脚本の改変も可能だろう」

そんなことを言った。

 

「ただし、発言力が大きい存在、というのは本当に怖いんだよ。この業界では…」

 

               第29話「発言力」/おわり




以上が、私なりのアクタージュ「scene152」となります。

オーケストラの指揮者ってのは本当に人間離れしています。
まず指揮者に求められるのは楽曲にたいする深い知識と理解、及び楽譜の正確な暗記。
多くの場合、指揮者の仕事は、本番でアクシデントでもない限りリハーサルの段階でほぼ完了します。
国際的に活躍する指揮者は、その楽曲を「どういう形に仕上げたか?」という部分で評価されます。
指揮者は、頭の中に「こういう形に仕上げたい」という仮想の「演奏空間」を作るそうです。
そしてリハーサルで実際に作られる演奏空間の形が、頭の中にある形に近づくよう多くの指示を出します。

その時に必要になるのが、極めて高いレベルの立体音感です。

形が一致したら仕事はほぼ終わりです。本番で「なんか今日は体調が悪い。適当に振る真似するからリハ通りに演奏して」と発言した指揮者もいたそうです。

私はアクタージュ原作「scene4.町人A」で、高田が振った模擬刀を夜凪がよけた場面で「夜凪って立体音感でも持ってるのかな?」と思いました(私の勝手な妄想です)。
その時たまたま並行して読んでいた古い漫画に「武術の達人は背後からの不意討ちに対応するため、音を立体的に捉える鍛錬をしている」という話が出てきたので、そんなことを思ったわけです。

その後、原作の話が進んでいくと、千世子の俯瞰を真似る、想像や空想の世界を把握する、等々ことごとく辻褄があってしまうんです(あくまで私の妄想です)。
あろうことか、夜凪の最大の特徴であるメソッド演技が得意な理由にまで説明がついてしまうんです(くどいようですが私の勝手な妄想設定ですよ)。

今回の「発言力」ってやつ、なんだか芸能界の腐った部分に話が及びそうな気配です。
嫌ですねえ。大嫌いです。
逆にうまく利用してスッキリしたいくらいですねえ。

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