「キネマのうた」2話目、撮影2日目。
夜凪は1日目と同じく、OKが出るまで自分なりの真波で粘る。
そして、やはり妥協の産物である箇条書きが環のメモを埋めていく。
けっこうな勢いで袋入りの固形ブドウ糖が消費されていく。
「こんなに食べて、太りそうだわ」
「逆だねえ。これ、食べないと変なふうに痩せてみっともなくなる(顔もやつれるよ)」
効果は高いらしく、頭はふらふらにならない。
なので、前日のように途中から破綻し始めることもなく、夜凪は「自分の真波」ではない部分をしっかりとチェックし続けられた。
自分1人の別撮りではない撮影では、最初から犬井の指示通りに演じた。「マキコ」役の新名夏、「恵子」役の日尾和葉との絡みもあった。
他の役者を巻き込んでまで、テイク数を増やす芝居に付き合わせるのはさすがに憚られる。
こういう場合は、メモ帳の箇条書きも増えた。余計な「動き」はもちろん、1つ1つの演技の意味や風味まで、ほぼまるごと削除の対象となるからだ。
幸い、「キネマのうた」には群像劇的要素がなく、カメラはひたすら薬師寺真波を追いかける。
夜凪1人の別撮りも多かった。
環は少し困っていた。
夜凪の芝居を目に焼き付けなければならない。年内には自分の出番も始まるので、「オンエアーを見て夜凪の演技を確認する」という流れにはならない。
とにかく夜凪の芝居をすべて頭に叩き込むのが最優先だ。それが出来なければ、削除対象とそうでない物の判別も出来ない。
(ごめん、景ちゃん。こっちを優先させることにする)
夜凪の演技を注意深く観察する。後々それを思い出せるよう可能な限り詳細に文章化する。
(細かい部分も、所作の意味や雰囲気も、全部書き出す!)
書き終えると、紙面を睨んで、今見たばかりの夜凪の演技と文章を紐づけする。こうしないと何カ月も先まで記憶を保持する自信がない。
作業を全うし、息を1つ吐く。そして、夜凪が目の前に立って待機していることに気づく。
無言でメモ帳を手に取った夜凪は、「削除」のほうの箇条書きを一気に素早く記述した。
環は(結局そっちまで手が回らなかった)と思いつつ、メモ帳を返してもらった。
突然、人差し指が、にゅっ、と目の前に突き出された。
(…? 景ちゃん、この指は何だい?)
しばらく考えた後、環は、
(…E.T.かな?)
と予想し、自分の人差し指の先端を夜凪の人差し指の先端にゆっくり当てた。
二人の指の先端がくっついた時、環の頭の中で映画の壮大なBGMが流れた。
だが、それだけだった。
特に何が起こるわけでもなく、数秒後には指の先端は離され、夜凪は撮影現場へと向かっていった。
(……?)
結局、環には意味がわからなかった。実は夜凪も意味がわかっていなかった。夜凪は、皐月と犬井のやりとりを見て「グッジョブ」くらいのニュアンスだと解釈していた。
夜凪が一気に書いた箇条書きを見て、
(景ちゃんは頭がいいなあ)
と環は思う。
昨夜、黒山と「芝居を組み立てる時の真波の頭の良さは凄いんだぞ」「わ、私だって学校の成績はトップクラスよ」という言い合いをしていた。
そして、黒山と自分の「おまえの芝居は真波に比べたらまだひよっこ以下だ。現状で満足するんじゃねえぞ。常に上を目指せ」「見てきたように語るな(←苦しい)」という言い合いを思い出し、怒りが込み上げてきた。
(景ちゃんの嘔吐騒ぎの時はあんなにしょぼくれてたのに、偉そうなオヤジに戻りやがった。まあ、これはこれで喜ばしいことではあるんだが…)
あの嘔吐についても話し合いがあった。
夜凪が克服出来た理由と黒山の解説。医療や音楽の話ばかりで、環にとってはどうでいいような内容だった。
(…あっ!)
環はもう1つ、どうでいいことに思い当たった。
(方程式が緩衝材になってなかった!)
夜凪は勉強が得意な人物だ。自分や黒山とは違う(哀しい現実だ)。
数学も出来るらしい夜凪にとって、方程式は「理不尽の代名詞」ではない。
自分や黒山にとって方程式とは、
よくわからないのに、当てはめると正解が出る
意味不明なくせに正解だけはきっちり出す
という物だ。難解な方程式となれば尚更だ。
(まあ、解決した問題だし、どうでもいい。引きずるような話じゃない…)
自分だって、真波の演じ方1000種を頭に入れた。
芝居に関することなら頭も回る。役者はそれでいい(←引きずっている)。
夜凪の次の撮影が始まった。
「たか子さん。私ね、あなたは自ら降板すべきだと思うの。大島監督がなぜあなたを起用するのか私分からないもの。だってそうでしょ? あなたヘタクソだもの」
マキコを演じる新名夏の芝居。
傍線部に苦戦している、と環は思う。
「気にすることねぇよ、たか子。こいつ、あんたが怖いんだ。あんたの才能が怖いんだよ。惨めなもんだろ、落ち目の女優ってのはよ」
恵子を演じる日尾和葉の芝居。
これはヒドイ。雰囲気が持ち味の役者なのに、傍線部に囚われて雰囲気が消えてしまっている。
案の定、カットの声が掛かった。
3テイク目でようやく夜凪の演技まで途切れずに進んだ。
「私、マキコさんが正しいと思う。たか子さんは私たちの足を引っ張っている…。でもね…。私からすると皆さん五十歩百歩…」
(おお、景ちゃん、別格だ。これは他の2人が可哀想なレベルだ)
環はさっそくメモを取る。
自信の表現はやや早口、髪を回す動きは輪郭でピタリととめる(肩は動かさず、後ろ髪で隠れている首だけを使う)、歩みは超ゆっくり(一度も立ち止まらない)。
左手は腰で握り拳。
OKテイクにならなかったことに、安堵する。
右手がいろいろ動いていて、追いきれなかったからだ。
5テイク目でOKとなる。
夜凪の芝居の詳細をすべて書き切って、(よし)と思う。
そして、気づく。
(景ちゃん、ちょっと怖いな…)
自分が書いたメモを見る。そこには、恐ろしく完成度の高い所作に関する記述がある。
黒山に言われた「おまえはまだひよっこ以下」という言葉が頭をよぎる。
(景ちゃんに負けるつもりはないけど、相当頑張らなきゃいけないな、私…)
少し早いが役作りを始めよう、と環は考える。
真美が言っていた「どこに真波を演じられる女優がいるのか?」という言葉は重い。
自分が別人に成りきるその対象が「日本一の女優」というのは、役作りの段階で既に難関ということだ。
5テイク目でOKを出した後、犬井は考えていた。
…ムラがある。
夜凪景について、「芝居が不安定な女優」という情報は事前に耳に入っていた。
目の当たりにすると、想像していた以上に扱いづらい。
オーバーラップの演技は凄かった。
あれを引き出すのに高い集中力を必要とするタイプなのだろう。
(惜しいな…)
集中力に頼るため、柔軟さに難がある。
せっかく良い芝居をしているのに、指示への対応に時間が掛かりすぎる。
(活躍の幅が狭い女優として終わるだろう)
この「キネマのうた」の真波は役者の柔軟さが求められる役だ。
オーディションで見せたあの対応力は何だったのか?
どこからか「この傍線部はどうやってあんなにスムーズに出来るんですか?」と聞こえた。新名夏の声だった。
そして「監督の指示をしっかり聞いてるだけよ」と聞こえた。夜凪景の声だった。
もう少し見守ってみるか、と犬井は思う。
その夜、薬師寺真美の邸宅に3名の客が集まった。
草見修司。
星アリサ。
柊雪。
「まずは神妙に、草見さんとお話させていただきたいと思いまして」
真美が口を開いた。
それを聞いた雪は、(「神妙に」って、正しい手順を踏んでって意味だっけ。真美さん、難しい言葉を使うなあ)という現実逃避に近い考え事をした。
とにかく緊張していた。
にこやかにしていればいいのか、キリッとしていればいいのか、そんな判断も出来ない。
いや、ここは自然体だ、と雪は思う。
直前にアリサから「自然体でいいわよ」と言われたからだ。
かろうじて思い出したそのアドバイスにしがみつく雪。
だが、「自然体でいい」が具体的にどういう意味なのかに考えが及ばない。
頭の中は真っ白で、身体がカタカタと震えそうなのを堪えるのが精一杯だった。
第31話「別格」/おわり
以上が、私なりのアクタージュ「scene154」となります。
アクタージュ原作「scene115」のオーディションにおいて、4つの役が出てきます。
真波、マキコ、たか子、あと一人の名前が書かれていません。
なので、私が勝手に「恵子」とつけました。
マキコ…新名夏
マキコはあの怖い表情の子。新名夏の「マキコ」が素敵だったので採用。なお、アクタージュ原作「scene115」に複数の誤植があります。新名夏の「マキコさん 私ね」は、正しくは「たか子さん 私ね」です。日尾和葉の「気にすることねぇよ、マキコ」という部分は、正しくは「気にすることねぇよ、たか子」です。阿笠みみがやったのはマキコではなく、たか子です。
たか子…阿笠みみ
たか子は気が弱そうで泣き虫の子。アクタージュ原作「scene116.もっと」で阿笠みみが「ドラマやってる場合じゃない」と言っていたので迷いましたが、阿笠みみでいきます。今回は未登場ですね。「ぼっち感」を強調するために1人別撮りが多く、複数人撮影は恵子と2人のシーンが少しある程度です。
恵子…日尾和葉
姉御肌の子ですね。私が勝手に「恵子」という名前をつけた子です。マキコを「落ち目の女優」と言ってしまう性格です。順当に、日尾和葉でいきます。
夜凪が演じる少女時代の真波の物語をどうするかは、まだ具体的には決めていません。
ただアクタージュ原作で確認できる部分はなるべく拾っていきたいと思います。