深夜の静寂の中、カタッ、カタカタッ、と物悲しい音が響く。
…柊雪、21歳。
女の20代は、あっという間、とよく聞く。
突発的に、あー、チヤホヤされてえ、という衝動に襲われることもたまにある。
若い自分。若い日々…。
貴重な、本当に貴重な今の日々…。
…何故自分は夜中にこんなことしているのだろう、という疑念を雪は抑え込む。
ディスプレイの中のワープロの空白を文字で埋めていく。
ページの残り数が少なくなってくると、打鍵の速度が増していく。
ゴールが見えてきたことで、集中力が高くなっている証拠だ。
そして、最終ページの最後の文章となる文字を入力し終えた。
気を抜こうとした雪だが、それは許されなかった。
(…むっ!)
スクロールして画面を文章ファイルの冒頭まで戻した時、概要のまま放置された手付かずのページが目に入ったからだ。
これはいけない、と雪は思う。
そういえば作業は原稿の中程からだった。前の方は手付かずだ。
再び、静かなPC室の空間に、カタカタ、という音が響き始める。
前半部には肉付けが必要な個所が少ない。
しかし、後半部でせっかく調整した心情の明暗や展開の起伏や全体を包む風味が噛み合ってない。
戦前の話となる前半部にはこれといった事件が発生しないので、明暗や起伏や風味の重要度が高い。
(こういう部分がおろそかになってるせいで浸りづらくなるんだよ。世の作家さんたちはそのへんのサービスをちゃんとしろ。もっと私ら読者を楽しませろよ…)
ここは安易に登場人物を驚かせない。登場人物に先に驚かれると読者(←テレビドラマということを忘れている)が驚くタイミングを失う。
…大事なことだ。
雪のタイピングは続く。
空が白んじていることにも気づかず、完全に外が明るくなった頃に、雪は(おっ)と思う。
スクロールの下側から肉付け済みの文章エリアが出てきた。
そのエリアと雪の記述が繋がった。
つまり、1周した。
文章ファイルを保存して、保険用のコピーを作って、雪はPC室を出た。
フロアでは黒山と草見が、夜に見たままの状態で眠っていた。
雪はキッチンに布団を敷き、布団の中に潜り込んだ。
目が覚める。時計を見ると8時ちょい前。
8時になると目覚ましが鳴ってしまうので、雪はアラームをオフにした。
(もうすぐけいちゃんとチビたちが来る。朝食の用意をしなきゃ…)
伸びをして、布団を片付ける。
フロアに黒山と草見の姿はない。PC室に入ると、二人はオフィスチェアーを並べてパソコンの前に座っていた。
こちらに顔を向けた草見を、じとっ、と見る。
「柊さん、文章書くの異様に速いね」
「おはようございます」
「…あ、おはよう、ございます」
「速いというか、上手い下手を気にせずに、がむしゃらに書いただけです」
「でも、ちゃんとした文章というか、テニヲハを間違えずに書けてる…」
「ビジネス文書くらいなら書けると言った通りです。がむしゃらな文章です」
雪は二人に背を向け、PC室を出る。
(朝食、6人分か…)
キッチンに入り、朝食の準備に取り掛かる。
けいちゃんとルイとレイが来て、6人での朝食となった。
黒山と草見が食べながら会話をするのを見て、(行儀が悪い。ルイとレイがいるのに)と思う。
草見が、
「ごめんね。久しぶりに黒山としゃべりたかったんだけど、寝ちゃうつもりはなかった」
と謝罪してきた。
ルイとレイの手前、雪はにこやかな顔で「いえ、気にしないでください」と返した。
やがて、けいちゃんが撮影に出かけた。本日はタクシーで現場に向かった。
朝食の後片付けを済ませ、ルイとレイにはテレビを見ていてもらい、雪はPC室へと歩いていった。
「キネマのうた」2話目、撮影3日目。
夜凪と環は並んで、阿笠みみの演技を見ていた。
たか子を演じる阿笠は1人での別撮りだ。
「いいんです私! 私が下手なのが悪いんですから!」
この台詞と少しの身体の動きがあるだけなのに、傍線部は3個所。
複雑な気持ちの表現が重視される芝居なので、3個所となっている。
「みみちゃん、上手いわ」
「上手いねえ、相当練習してきてるね、あの子」
環は少し気になっていたことを夜凪に訊いてみる。
「景ちゃんは、あの子と自分と、どっちが上手いと思う?」
夜凪は「フッ」と小声を挟み、
「それはもちろん、みみちゃんね」
と得意げに言った。
「いや、言ってることと表情が合ってないぞ」
「私は劇団天球で知ったのよ。自分が上手いタイプの役者ではない、と」
「あのね、景ちゃん。真面目な話だけど、景ちゃんのほうが上手いよ。別格だよ」
「…そうなの?」
「やっぱりというか、君は自分を客観的に評価出来ないタイプかね?」
「でも、私より千世子ちゃんのほうが全然上手いわ」
百城千世子の名前が出てきて、環は(あぁ)と思う。
「百城千世子は練習の鬼だろうね。そういうタイプの演技だよ。上手い演技をする」
「…うん」
「あれに勝つのは大変だねえ」
「長い道のりだわ…」
環は(演技の上手さでは自分も百城千世子には負けている)と思いつつ、それを口には出さなかった。
役者として、主演として、夜凪に聞かせる訳にはいかない言葉だった。
百城の演技はとにかく精度が高い。
それは重厚な地力の上に成立する、輝くほどに磨かれた技。
長い時間と多くの鍛錬は、自身を研鑽するためだけに費やされた高密度な積み重ね。
環には、練習や稽古は同世代の誰にも負けないくらいみっちりとやってきたという自負がある。
多くの場数も踏んでいる。
ただ、それらの積み重ねはいろんな方向に分散していた。
女優として過ごしてきて、ここまでに多くの選択肢があった。
自分はその選択をただの1つも間違えなかった。
運が多少良かっただけかもしれない。
たまたま勘が冴えてただけかもしれない。
自分が勝ち取った地位は、選択を間違えなかった結果に過ぎない。
自信の根拠となる物、自分の実力の高さを確認出来る物、そういう物がぎっしり埋まっている地盤の上に自分は立っている。
自分は、多くの物の集合体として成立しているタイプだ。
百城のように、宝石を磨くようにひたすら自身を磨いてきたタイプではない。
それだけのことだ。
怖さで言えば、夜凪のほうがよほど怖い。
撮影が始まる前に夜凪に対して感じていた余裕は、ほぼ消えかかっている。
あと2カ月、とことん自分を追い込まなければならない、と環は思う。
都内の喫茶店。
雪は席で1人オレンジジュースを飲んでいた。
ストローで、ちゅーちゅー、とジュースを吸い上げながら人を待っていた。
待ち合わせのセッティングをした草見は、一緒に事務所を出たのに「ちょっと寄るところがある」と言ってすぐに消えてしまった。
すぐに行くから、と言っていたので草見はすぐに来るはずだ。
待ち合わせの相手もそろそろ来てもおかしくない。
店内には様々な年代の客がいるが、やはり若い人を見てしまう。
楽しそうだなあ、と思ってしまう自分がいる。
待ち人はなかなか来ない。
さすがに少し眠いと思いつつ、雪は、ぼーっ、とストローを咥えていた。
第33話「研鑽」/おわり
以上が、私なりのアクタージュ「scene156」となります。
環は主演なので、すべての出演者の中でいちばん良い芝居をしなければなりません。
自分の芝居の水準が全体の上限になる、というプレッシャーがあります。
低水準の芝居を見せると、ベテラン勢に気を遣わせることになります。
環から見れば、夜凪には、自分よりちょっと下のぎりぎりの位置まで距離を詰めてきてくれるのが理想です。
あくまで、ちょっと下のぎりぎりの位置、です。
追い抜かれてしまってはいけません。
役者として、主演として、そこは死守する部分です。
夜凪は自分の弱点の1つだった「不安定さ」が解消されている自覚がありません。
「凄い、凄くない」という視点で見るのは得意なようですが、「上手い、上手くない」を判断するのは苦手なようです。
他者に対しても、自分に対しても。