『エスタージュ(S-tage)』(「セカンドステージ;役者と監督のその後」) 作:坂村因
ある日、環は自宅にいた。
壁の掛け時計の音だけが室内に響いていた。
ソファーに座り、中空に目の焦点を合わせた環は、ひたすらにぼーっとしていた。
(晩年の真波って難しいよなあ。本当、すげえ難しい…)
メロンジュースが入ったコップのストローを、じゅーっと吸い上げ、「はーあぁああぁー」と奇声を発してみた。
「可笑しくもなし。女が1人…」
環は、「映画界一の実力者が実の娘の才能に嫉妬し、意地の張り方がわからない」という真波の心情の処理に困っていた。
…難しい!
OKテイクを貰った時も、「どうしても飲みたいワインがあるのに、買うお金もあるのに、生産数が少ないせいで入手出来ない悲しさ、ああロマネ・コンティ1990よ…」、という気持ちで演じたなんて誰にも言えない。
「日本の女優程度じゃ飲めねえか? どこかの国の王族にでもならなきゃ飲めないって話かあ?」
由衣を「あれはロマネ・コンティ1990」だと思いこむと妙にしっくりきた。
自分でも、それがどういう気持ちなのかを簡単には説明出来ない。
とにかく、難しい…。
(晩年の真波の撮影が本格的に始まるのはずっと先だ。それまでに何とかしよう)
気持ちを切り替えて、立ち上げることになるかどうか判らない自分の劇団について考えてみた。
環蓮の劇団で「銀河鉄道の夜」の公演が出来るのか、とわくわくしながら話を聞いていたら、阿良也が厄介なことを言い出した。
阿良也は「やるなら幕構成を増やして、あの後までやりたい」という願望を述べ、その願望に憑りつかれ、譲らなくなってしまった。
「誰か、あの続きを書け」
阿良也のその言葉に団員たちは「無理です」と即答した。
宮沢賢治は昔の人だし、「銀河鉄道の夜」はあれで終わりだと説明しても、阿良也は「あの続きが気になる。昔から気になってた」と駄々をこねるばかり。
環はソファーから立ち上がり、パソコンの前に座った。
ワープロを起動し、「ジョバンニは家に帰った。そして」と文字を入力した。
そこで環の手は止まった。
(書けるわけねえじゃん。宮沢賢治の霊を降霊させるしかないだろ、こんなの)
環はスタジオ大黒天に出掛けることにした。
いろいろ気が紛れる場所として気に入っていた。
柊雪作「キネマのうた」第5章の抜粋。
真波にとって、GHQ支配下にある日本映画の在り方は歓迎すべき内容だった。
「国家主義や愛国主義、自殺や仇討ち、残忍な暴力」を禁じるというGHQの方針は、事実上の「時代劇」の禁止だった。GHQは「民主主義礼賛」を先導した。
追い風だった。
真波が早くから予想していた「未来の日本映画界」を、アメリカが強制的にもたらしてくれた。
真波にとって、アメリカの存在もハリウッド映画もどうでも良かった。
重要なのは、民主主義礼賛の名のもとに製作された映画が大衆に支持されている「事実」だった。
支持の勢いが想像以上に猛烈であることも真波を歓喜させた。
(強制的とはいえ、見せられて理解しただろう、大衆諸氏よ。あなた方が求めていた映画はこれではないか?)
アメリカからの物資供給が再開され、日本映画界は大量の作品を製作し始めた。
才能ある監督、才能ある役者がどんどん頭角を現していく。
真波は、高鳴る鼓動を抑えつけるのに苦労した。
すぐにでも映画の世界に飛び込んでしまいたい気持ちだった。
だが、見ておかねばならない。
焼け野原から驚異的な速さで日本を立て直そうとしている人々の姿を。
歯を食い縛り復興作業に尽力するその表情を。
1つ1つの歩みに対し、心から嬉しそうに見せる笑顔を。
昭和25年、真波22歳。
ゆっくりと静かに、真波は活動を再開した。
宝仙通という映画監督が目立って活躍していた。
伝統芸能と映像作品の相性の悪さに気づいた名優が何人も誕生していた。
坂田孝志の作品に純然なアートを求める観客が生まれていた。
追い風の中、真波は「エネルギーの塊を飲み込み、あちこちに角を伸ばしたがっている化物」のような日本映画業界の異形を見つめた。
見つめる真波の瞳には、嬉しさと興奮に漲る光が宿っていた。
(さあ、何処から始めようか)
初手は「園風座」の設立だった。
「えん」には「エンターテインメント」そして「エンジョイ」の意味を込めた。
「ふう」には「ヒューマン」の意味を込めた。
真波が初代座長を務め、大船撮影所の仲間が第1期生となる実力派集団だ。
大船撮影所としては看板が1つ増えた形となり、歓迎すべき動きだった。
多くの依頼が寄せられた。
映画監督の品定めでもしようかと考えていた真波にとっては嬉しい誤算だった。
一流どころも二流どころも押し寄せるように依頼を持ってくる。
国内製作本数も映画人口も右肩上がり。
なにもかも右肩上がり。
大船撮影所で作る映画はもちろん、他所と掛け持ちをしなければならないほど園風座のメンバーは多忙となった。
作品を厳選してもなお、そのようになるという隆盛ぶりだった。
休日など無かった。
映画の仕事と食事と睡眠だけで時間が足りなくなる日々が続いた。
真波は、豆、魚、鶏肉を中心に、大量の白米を供した豪勢な食事を用意した。
座員の健康と体力を気遣う食事だ。
園風座の評判は良く、特に座長の真波の芝居の評価は高かった。
座員として入門を志願してくる役者も多くいた。
真波が用意した厳しい試験を突破して入門する役者たちが増え、座の規模は大きくなっていった。
真波は「第1期生」以外に序列をつけなかった。
「第1期生」は名誉称号であり、古くから付き合ってくれた仲間への感謝の形だった。
園風座は実力主義のもとに自由競争の原理で動いていた。
スタジオ大黒天。
環はPC室の椅子に座り、暇を持て余していた。
雪は多忙そうに作業をしていた。
黒山は、何をしているかは判らないがパソコンをいじっていた。
夜凪は、なんと学校の勉強をしていた。
(景ちゃん、わざわざPC室なんかで勉強しなくていいだろうに。もっと快適な場所でやればいいのに。でもなんか理由があってここでやってるんだろうなあ)
(チビッ子は昼寝してるし…。だーれも私を構ってくれないなあ…)
「景ちゃん、勉強なんかしてると馬鹿になるよ」
「……。うちにパソコンが無いので、パソコンが必要な部分があるのでここで勉強です」
「景ちゃん、今度カムパネルラやってよ。私、ジョバンニやるー」
「いいですよ」
「それとも景ちゃんがジョバンニやる? 私がカムパネルラやるから(なんかジョバンニだと鬼のしごきが来ないし…)」
「どっちでもいいですよ」
静寂が訪れた。
しばらく経って黒山が口を開いた。
「どっちでもいいなんて軽々しく言うな」
「知ってますよ。ジョバンニは純真で、カムパネルラはエゴイストでしょ」
(あー、私、蚊帳の外だあ)
見てて恰好いいのはジョバンニだけど、難しいのはカムパネルラだよね。
エゴイストかあ。
まあ、カムパネルラは自分勝手だなあ、たしかに。
「墨字さん。けいちゃんに間違ったこと教えないでください!」
黙々と作業をしていた雪から鋭い声が飛んできた。
ここで環の天性の勘の良さが働いた。
環は何か収穫になるような話、その匂いを的確に嗅ぎつけた。
柊雪作「キネマのうた」第5章の抜粋。
ある日、意外な人物が大船撮影所を訪れた。
坂田孝志だった。
4本の映画が人気作となり、坂田は一流半の地位にまで登ってきていた。
坂田は映画の企画の持ち込みという人気監督らしからぬ行動に出ていた。
持ち込まれたのは「都の哀歌」という映画の企画。
相変わらず、ただ自身の芸術を形にするためだけに練られた企画だった。
園風座の座員が集められ会議が行われた。
「都の哀歌」をどうするか?
坂田が提示してきた条件は以下のような物だった。
清楚な美貌を持つヒロイン「玲子」役に相応しい役者。
読み合わせへの不参加は厳禁。
他の映画との掛け持ちは厳禁。
アドリブは厳禁。
監督の指示に従わない芝居は厳禁。
必要な役者は薬師寺真波のみ。
この条件で坂田は「薬師寺真波さんに出演をお願いしたい」と口にした。
頭は下げず、直立のままのお願いだった。
座員たちは、真波が非礼・無礼に対して「どうでもいい」と考える人間だと知っていた。
つまり問題は、「都の哀歌」が面白いかどうか?
座長の不在が発生することと天秤をかけて釣り合うほどの価値があるか?
会議の結果、坂田の映画に真波が出演することに決まった。
「私が不在でもみんなが園風座の名を高めてくれると信じている!」
決め手となったのは、「都の哀歌」の内容が大衆の好みに「偶然にも合致している」と座員たちが判断したこと。
真波個人としては、17歳の時に実現しなかった「どれほどの名作になるか」という点に興味があった。
坂田の態度や提示された条件を見る限り、己のアート以外に興味はない、という人間性はあの時のままだ。
環はこっそりとPC室の隅っこに移動した。
息を殺して、どうせ「空気扱い」されていたこの部屋で本物の「空気」になるべく気配を消した。
そして、メモ帳を取り出しペンを構えた。
「カムパネルラはエゴイストではありません」
「エゴイストだろう。残される者の気持ちを考えてない」
「違います。それに、ジョバンニとカムパネルラは根っこは同じです」
「ジョバンニとカムパネルラは全然違うと思うわ」
(景ちゃん、グッジョブ!)
雪の解説が始まった。
「銀河鉄道の夜」には、「自分の幸い」「みんなの幸い」「本当の幸い」という3つの「幸い」が出てくる。
「自分の幸い」についてジョバンニとカムパネルラは考えが一致している。
それは自己犠牲の精神。
自己犠牲の精神を発揮することに自分たちは幸せを感じる。そして、自己犠牲の精神は「皆の幸い」に向けられるべきではないか、と二人は楽しく議論しつつおしゃべりしている。
「以上」
雪はそう言って作業に戻ってしまった。
環は(ええ、もう終わり?)と残念に思った。
「今の解説では納得できん。俺が嘘を教えたとは聞き捨てならない」
(墨字くん、ナイス!)
雪の解説再開。
巌が作ったジョバンニは偽物のジョバンニだ。
宮沢賢治が作ったジョバンニの人物像とは別人だ。
巌はそれを知っていたから、「蠍の火」をごっそり削った。
それは、作中の最高の名台詞である「みんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」をジョバンニに言わせないため。
「それ、カムパネルラの台詞じゃないの?」
「ジョバンニの台詞です」
「ジョバンニはそんなこと言わないわ」
「いえ、ジョバンニの台詞です」
雪の解説再開。
「みんなの幸い」が何であるかを知ることは大事だ。
自己犠牲の精神を向ける時に間違えないためにも。
でも、「本当の幸いとは何か?」について考えることは二人にとって、もっと大事なことだ。
「自分の幸い」と「みんなの幸い」は繋がっていて、結局は自己犠牲の精神が「自分の幸い」に回帰してしまう。
それでは何時までたっても「本当の幸い」が何なのかに辿り着けない。
「つまり銀河鉄道の夜の前半はカムパネルラによる問題提起、後半はジョバンニによる問題への回答という物語なんですよ。賢治は前半を書き終えたところで力尽きてしまいましたが…」
(こ、後半! つまり物語の続き!)
環は忙しくペンを動かし、懸命にメモを取る。
柊雪作「キネマのうた」第5章の抜粋。
「都の哀歌」の撮影が始まった。
まず真波が驚かされたのは、坂田が集めてきたという3名の役者の実力の高さだった。
次に、坂田が使う「OKの1」「OKの2」という独特の判断基準だった。
撮影が進む中、真波は(この男、恐ろしく演技が上手い)と感心した柳田直人という50歳の俳優と頻繁に会話を交わした。
この作品で70代の老人「周一」を演じる柳田は「老人の動き」を徹底的に研究してきたと言った。
坂田の方針に対しては「自分を捨てて、機械のように演じている」と答えた。
柳田は「そうでもしないと喧嘩になっちゃうからね」と笑った。
真波は柳田から「今の演技はどのようにやったのか?」という質問をよく受けた。
坂田の要求に応えるためには必然的に大量の「武器」を投入させられる。
真波はそう答えた上で、武器の1つ1つを説明した。
ただし、特殊な身体の使い方を駆使する演技については「教えられない」と正直に言った。
映画「都の哀歌」のストーリーは以下のような物だ。
尾道に住む周一と千絵の老夫婦はお手伝いの玲子を連れて、東京への旅行に出る。
東京には息子や娘たちが住んでいて、老夫婦は会えるのを楽しみにしている。
しかし、それぞれに家族を持ち、東京で多忙な日々を過ごす息子や娘の家人たちは一堂に会することが出来ない。
日が限られた東京旅行。
ようやく全員が集合して始まったのは「遺産分配」の話だった。
それきり東京で息子や娘に会う機会はなく、失意のまま老夫婦は尾道へと帰った。
静かな尾道での生活がまた始まる。
そして旅行中ずっと老夫婦に言葉を掛け続けた玲子は、周一から銀時計を貰う。
真波は兎にも角にも難しい「玲子」という役に苦しんだ。
すべての事情を知っているが血縁者ではないという立場。
映画を見に来る観客に、出来事の傍観者として登場人物たちの内面を伝える役目。
この1本に真波は600以上の技法を使用した。
特殊な身体の使い方を駆使する演技も8つ投入した。
そこまでしなければ坂田の要求に応えられなかった。
玲子の挙動や台詞を通して観客に届ける「情報」が多過ぎた。
特に、物語の締めとなる銀時計を受け取るシーン。
玲子は、家の一軒も買えそうなそんな高価な物を貰う筋合いに無かった。
周一が家宝として、また夫婦の思い出の品として、大事にしていた銀時計。
真波は銀時計を受け取る場面を完成させるのに61の演技を組み合わせた。
時間にしてわずか11秒間の場面。
その11秒間に詰められている要素を真波が数えると、61という途方もない数字になってしまう。
それほどに複雑な場面。
このシーンの真波の撮影は、「OKの1」「OKの2」とテイク数が伸びていった。
(なんだOKの2とは? OKはOKではないのか。NGでないなら何故テイク数が伸びていく?)
この11秒間の撮影は「OKの23」で完了した。
さすがの真波も61の演技を制御するのに必死だった。
「都の哀歌」は興行的にも大成功を収め、坂田は一流の仲間入りを果たした。
また、役者正面ピン撮りが多用された「都の哀歌」はヨーロッパで最大級の評価を受け、坂田は日本国内より海外での評価が高い監督となった。
ヨーロッパの多くの映画監督が「都の哀歌」に影響され、オマージュ作品を製作した。
坂田は再び大船撮影所を訪れた。
自分が集めてきた3名の役者、その4人目として真波を迎え入れたい、という依頼だった。
真波は坂田のことが嫌いだった。
真波は、自分が坂田の映画に出演する際の条件を提示した。
読み合わせへの不参加を認めること。
他の映画との掛け持ちを許可すること。
アドリブを許可すること。
坂田はこの条件を呑んだ。
「都の哀歌」の完成は、真波の力量による部分が大きいことを知っていたからだ。
雪の解説を聞いていた黒山が反撃に出た。
黒山は「自分はあの小説を何度も読んだ。今聞かされたようなことは既に知っている」と前置きし、それが何故「カムパネルラはエゴイストではない」という話になるのか、と主張した。
「だからカムパネルラは本当の幸いを探す志半ばで命を落としてしまったんですよ。そのバトンをジョバンニに託すんです。何がどうエゴイストなんですか?」
「正しけりゃ許されると思ってるから」
「許されるなんて思ってません。本心では許されないと思ってるからこそ、許してくれるだろうか、という台詞が出るんでしょう」
「……。まあ、いいか。過ぎた話だ。……。…そういや北瀬母子とビデオ30巻を見てきたぞ。娘のほうはすごい集中して見てたな」
「良くないっ!」
雪が「良くないっ!」と言うのとほぼ同時に、環は隅っこから飛び出して叫んでいた。
そして、環の思考はぐるぐると回転する。
こういう時、環の頭はいつだって高速回転してくれた。
「景ちゃんに嘘を教えたままでいいわけがない。墨字くんにとって、まあいいや、でも景ちゃんにとっては自分が演じた役だよ」
(慎重に。じっくりだ。続きの話に無理矢理持っていってはいけない。怪しまれずに、そーっと雪ちゃんをいざなう。景ちゃんの話から、ごく自然に話題を転がすんだ…)
「雪ちゃん、要点だけでも景ちゃんに教えてあげなよ」
「そうですね。ではなるべく簡潔に」
「墨字くんは話を逸らそうとしたくらいだから納得してないんだ。後で多分、景ちゃんに、俺が正しい、とか言うよ」
「わかりました。では要点を丁寧に説明します」
雪の解説再開。
銀河鉄道の夜の前半のポイントは、「みんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」というジョバンニの台詞。
これがトリガーとなって、賢治が書けなかった後半のジョバンニの物語が始まる。
ジョバンニの物語の中で、ジョバンニの目から見たカムパネルラの人物像が浮かび上がる。
第57話「キネマのうた(5)」/おわり
以上が、私なりのアクタージュ「scene180」となります。
環の策士ぶりと雪の脚本の内容を合わせてみました。
まあ、だいぶスケールは違うし内容も違いますが。
脚本抜粋紹介では環が担当する真波のところまで進みました。
私が書くこの「セカンドステージ」では史実が盛り込まれますが、今回は特に多いですね。
なお、元の史実が何だったのかは知らなくていいかと思います。
映画オタクの私が趣味で放り込んでいるだけなので、本編を読むのになんの影響もありません。
銀河鉄道の夜については、夜凪に「カムパネルラはエゴイストだ」と誤解させておきたくないと思ったから入れました。
宮沢賢治が書いた「銀河鉄道の夜」は、ジョバンニとカムパネルラが「本当の幸い」について語り合う美しい物語です。
あと、園風座の座長の真波が恰好よくて気に入ってます。
自分が稼いできたお金を「座員の健康と体力」のために使うのも豪快で良いです。
戦争が終わり、映画界が動くと真波も動いてくれるので助かります。