『エスタージュ(S-tage)』(「セカンドステージ;役者と監督のその後」) 作:坂村因
渋谷、MHKスタジオ。
休憩時間中の夜凪は通路を歩いていて、朝ドラに出演中の役者たちとすれ違った。
「キネマのうた」の撮影現場となるDU-106とはスタジオが隣同士なので、顔を合わせる機会がけっこうある。
おそらく彼らは、外の空気を吸うために建物外に向かっている途中だ。
長丁場の撮影がずっと屋内で行われるため、そういった工夫が必要になる大変さがある。
ロビーに設置してあるベンチで、「大変さではこちらも負けていない」と言わんばかりに加賀銀三が身体を休めていた。
加賀は「坂田孝志」を演じる役者だ。
リラックスの極致という感じで、加賀は顔も身体もゆるめていた。
…坂田先生のイメージが崩壊しそうな姿だわ。
夜凪は、ロビーの広めの空間の中で目と頭を休めたいと思ってここに来た。
疲労の色が濃そうな加賀には声を掛けず、隣のベンチに座った。
以前の芸能界において、「挨拶」は必要不可欠で「絶対」の行為という扱いだった。
今の芸能界にそういう雰囲気はない。
ベテランの人たちだって毎日毎日顔を合わせる度に挨拶されたら煩わしいに決まっている。
そういった「意識」の合理化が芸能界でも進んでいる。
やがて沢村がロビーにやって来て、加賀と同じベンチに座った。
沢村も無言で座ったわけだが、加賀が口を開いた。
「いやもう、キツイっすわ…」
独り言のようなその一言から加賀と沢村の談笑が始まった。
加賀は、草見脚本から柊脚本への改変に伴って「役」を変えられた唯一の役者だ。
12歳の真美役としてオーディションにより北瀬由衣が選ばれた。
出番の少ない5歳の真美役は、犬井が選んだ子役が務める。
キャスト陣への影響は、まずこの2名が増えたこと。
そして、加賀が「船橋敏夫」から「坂田孝志」に変更されたこと。
他の出演者に「役」の変更はない。
草見脚本における「山沢明夫」は柊脚本で「宝仙通」と名前を変えられはしたが、どちらもモデルは黒澤明であり、人物としては同じだ。
そもそも草見脚本では映画監督にはほぼスポットが当たっておらず、小津安二郎をモデルとする人物が登場しない。
加賀は「坂田孝志」への変更を喜んでいた。
というよりモデルが三船敏郎の「船橋敏夫」を演じなくて済むことに喜んでいた。
これは、ある意味当たり前の話だ。
どこの役者が、三船敏郎の役なんてやりたがるだろうか。
そんな役者はいない。
黒澤とコンビを組んで世界の映画シーンを席巻した超個性派俳優、三船。
クセが強く、替えが利かない。
加賀は「小津映画」のファンでもあった。
それは、自身が「小津(坂田)」を演じるのとは少しズレのある話ではあるが、やはり悪い気分では無かった。
夜凪は談笑中の加賀と沢村に声を掛けた。
「私、坂田先生が入ったことでキネマのうたの面白さが跳ね上がったと思うんです」
加賀は目を輝かせて、
「そうなんだよ!」
と答えた。
芸術に執着する男と役者の真髄を語る女の衝突はドラマチックだ、と評価した。
船橋役として選ばれた加賀は、その演技力の高さにおいて犬井が絶大な信頼を寄せる役者だ。
その加賀が「キツイっすわ」と言っていた。
「芸術に執着する男というのがキツイんでしょうか」
「いや、違う。難しいけど遣り甲斐があるし、楽しいよ」
「夜凪さん。キツイのは柊さんと犬井さんだよ」
沢村が代わりに答えた。
真波の技法に専念すると断言しただけあり、犬井は真波の技法に関わる部分に恐ろしく厳しい。
「真波の芝居を目の当たりにした坂田の反応はそうではない」という方向で細かく指示が出される、とのこと。
夜凪は別撮りなので、10話目にして初登場の坂田のシーンをまだ見ていない。
そして、雪がキツイとのこと。
雪は、師匠の黒山が尊敬する小津をずっと研究してきた。
なので、「坂田孝志はそうじゃない」という許容出来ないラインが、感覚レベルで作られてしまっている。
「まじ、キツイっすわ」
そう言いつつも、加賀の疲労感は心地が良い種類の物だった。
沢村が、
「みんな、多分気づいてる…」
と嬉しそうに呟いた。
「この調子だと、キネマのうたはすげぇ作品になる!」
ベテランには相応しくない「青臭い台詞」かもしれない。
でも、沢村は興奮を抑えられないほどの手応えを感じてしまっていた。
「同感ですねえ。キツイ指示上等、と思ってます」
「私も、私も同感です!」
夜凪は、出演者が良い芝居をすればその結果として作品の出来は自ずとついてくる、と考えていた。
その考え自体は今も変わらない。
ただ、今まではそこに「長さ」という要素を入れてなかった。
大河ドラマは長大だ。
「長い」というだけで、作品の性質は大きく変わる。
長いからこそ生じる「綾」はとても多い。
時間が短い作品とは全くの別物、根底から違う物、と捉えたほうが良いくらいの差異がある。
柊雪作「キネマのうた」第12章の抜粋。
真波は、
「8歳の今を映像で残すために、映画に出てみないか?」
と、真美に話を持ち掛けた。
案の定、真美の反応はいまいちだ。
真美は、真波やその周囲にいる人たちが何度も繰り返す「良い芝居を届けなければならない」という品質向上の話を「正しい」と認識していた。
なので、つまりそれは自分はまだ映画に出演するべきではない、という考えに向かってしまう。
「お母ちゃんのようにしゃべれない私が映画に映る、それはいかん」
「いかんことがあるものか。真美は映画が好きだろう。本番でしか経験出来ない嬉しいこともあるぞ」
「お母ちゃん、ここは考えどころだと私は思うぞ」
「考えどころ…か。…ふふっ、考えるといい。お母ちゃんは無理強いはしない」
これはとても難しい問題にぶつかってしまった、と真美は思った。
何気なく、廊下に落ちる自分の影を見た。
…お日さまの高さか。
お母ちゃんは、この長さの影を映画に入れるかどうかを上手に判断する。
それはとても難しいことのはず。
とても難しいは「楽しい」や「嬉しい」に繋がりやすい。
映画に出るか?
出ないのか?
難しい。
出るか出ないかが既に難しいところが、映画の魅力だと真美は思う。
「魅力だとは思わんか?」
真美は太陽に問いかける。
太陽は人より強い。
多分とても強い。
なぜあんなものが空にぽっかり浮かんでいるのか。
「…! おのれっ!」
日光の眩しさに真美は顔を逸らす。
返事もせずに、見上げた者の顔をしかめさせ、下げさせる、お日さまの卑劣さよ。
「おばあちゃん!」
真美はずかずかと廊下を歩く。
「おばあちゃん!」
「こっちですよ」
文代の声は外から聞こえた。
外出から戻ってきた文代は、これから玄関に向かうところだ。
おばあちゃん。日傘など差すとは、なんとオシャレな!
真美は玄関へと駆けていく。
家の中に入ってきた文代の姿を、真美はじーっと見つめる。
「オシャレなおばあちゃんに難しい話をする準備があります」
「いいですよぉ。ちょーっと待ってなさい」
文代は買ってきた物を整理するために家の中へと消えていった。
真美は玄関に文代が置いた日傘を睨んだ。
こしゃくな…。
傘は雨の日に使うのが決まりだ。
何処の誰が、これを使ってお日さまに立ち向かおうなどと考えたのか。
オシャレだから許される。
もし女の人が日傘を傾ける絵面が無様だったら、こんなものは使う価値がない。
「こんな綺麗な色に塗りおって…」
真美は日傘を広げ、デザインの美しさに悔しがる。
真美の中では、太陽に顔をしかめてしまった自分の芝居は失敗で、見事に日傘を使いこなした文代の芝居は成功だ、という解釈になる。
やがて、お茶を二人分用意された居間で真美と文代の話が始まった。
「芝居は奥が深いと思い知らされます」
「それを言うのは、真美にはちょっと早い気がするわねえ」
「お母ちゃんに映画に出ないかと言われました」
「いいんじゃないかい」
「私は負ける。みじめに。悔しく。(難しい)の(嬉しい)が消えるほどに」
「ほー、難しい話ってのはほんとに難しい話だね、それは」
「わかってくれますか、おばあちゃん。私の苦しさが」
「どうだろう。真美はおばあちゃんをびっくりさせる子だからねえ。予想もしない話かもしれない」
「負けるのに、お母ちゃんは本番にしかない物があると私を迷わせる」
真美は、自分は周囲の大人たちに比べて数段落ちる芝居しか出来ないと考えている。
だが、真波が言った「本番でしか経験出来ない嬉しいこと」に、ぞくぞくするほど期待してしまう自分がいる。
文代はすぐに真美の間違いに気づいた。
8歳の子供が8歳とは思えないほどに立派な芝居を見せれば、それには十分な価値がある。
真波が唱える「品質向上」の観点からも、真美の芝居は貢献の役割を果たす。
文代は、「点数方式だ」と真美に説明した。
大人は良い芝居をしても100点満点の80点しか貰えないかもしれない。
大人の点数の付け方はそうなっている。
子供は大人とは点数の付け方違う。
子供の点数の付け方だと、真美の芝居は90点以上かもしれない。
真波が言う「品質向上」とは、「点数を高くしろ」という意味だ。
なので、真美はもしかしたら大人以上に映画で活躍出来るかもしれない。
文代の話を聞いた真美は、落雷を間近で見たような表情になった。
ぽかーん、と開かれた真美の口はやがて力強く動き出し、
「映画に映るっ!」
という宣言を虚空に放った。
夜凪はこれまでに、高品質のうちに閉じられた作品で大河ドラマほどの長さを持つ物を見たことがない。
おそらくほとんどの人が、そんな物を見たことがないのではないだろうか。
このドラマを見た人は驚くだろうなあ、と考えると夜凪は顔が綻んでしまう。
…夜凪が会話に加わった中、沢村と加賀は脚本が改変されたことで良くなった点について論を展開させた。
草見脚本において、真波は「志が同じ者を集める」といった行動を取らなかった。
園風座も作らなかった。
大きな発言力を持っている訳でもないし、映画界のために「何かする」といった考えも持っていなかった。
史実の真波に準拠しているとは言えるが、それではキャラの魅力に乏しい。
山沢や船橋と交流があることや、映画会社の社長クラスと談義させることで「大物感」が表現されていた。
山沢、船橋、社長等との絡みは史実に合致していない。
つまり、ドラマの「嘘」の部分だが、その「嘘」の使い方がチープでつまらなかった。
史実上の薬師寺真波は「実力がとても高く、すごく人気があった女優」であり、それ以上でもそれ以下でもない。
草見脚本には、嘘が少な過ぎた。
大河ドラマは「人物紹介ドキュメンタリー」ではないので、もっと嘘を混ぜなければならない。
日本では、大河ドラマに限らず「放送全般」に関する「大ルール」があり、それは「戦前を扱うか、戦後を扱うか」で内容を大きく変えなければならないという物だ。
実名をストレートに出していいのは原則として「戦前を扱う作品」に限られる。
戦後を扱う場合は、細かく配慮しなければならない。
実名に似た偽名を使用する場合でも「モデルが誰なのか」が判る物語では、遺族の許可が必要だったりする。
草見脚本は、史実準拠の流れが濃く正直ギリギリだった。
史実準拠を重視するなら、柊脚本のように脇役には原形を留めない「名前」を使用したほうが良い。
夜凪は、雪の脚本になったことで以前感じていた「面白くない」が解消されたことは歓迎していた。
とはいえ、草見のことをこんな陰口のように悪く言っていいものだろうか?
夜凪はその疑問をそのまま口にした。
沢村と加賀は、多少驚きを見せた上で可笑しそうに説明してくれた。
他ならぬ草見本人が、「非道い出来だから手を加えさせてくれ」と方々に打診していたこと。
自分の脚本のボツが決定した時、大喜びして「やったああ!」と叫んだこと。
沢村が、
「それに草見は柊脚本にちゃんと貢献しているんだよ」
と言葉を添えた。
雪の脚本の中に大量の「真波の技法」を配置したのは草見だ。
自分で苦労しながら一度はやり遂げた作業ということもあり、二度目となる柊脚本では「満足のいく配置が出来た」と喜んでいたらしい。
そして草見の名前は、そういう作業をした人、としてしっかりクレジットされる。
ある意味、草見にとっては最高の結果になったと言える。
「だから新しい脚本は面白い。柊さんだけの手柄じゃないんだ」
「私、初耳です」
「柊さんの独特の演出で芝居に説得力が出るのは草見さんの配置が上手いからだよ」
「な、なるほど(そう言えば雪ちゃんは技法を覚えるのに苦労してたわ)」
そして、…と夜凪は思う。
準主役級の新キャラ「坂田」に加賀がスライドされた意義は大きい。
加賀はおそらく「キネマのうた」の出演者の男性俳優の中でいちばん演技が上手い。
少なくとも犬井はそういうつもりで加賀を参加させている。
そういう人が準主役級を務めるという「改変」は、良い流れと言えるのではないか?
いろんなことが良い方に向いている。
前途が明るいこの撮影現場において、夜凪は1つの現実を噛み締める。
(私の「真波」の出番はもうすぐ終わりになる…)
新脚本になって登場が1話増えて計9話になった。
嬉しいが、やはり短い…。
38話に渡って出演する環が羨ましい。
パズルの抜けたピースを嵌めるような撮影が、後のスケジュールに少し残ってはいる。
でも、メインの撮影はやはりもうすぐ終わりになる。
それが現実だ…。
(11話目の撮影、頑張ろう…)
11話目では、坂田に対して「大船撮影所の役者の力を見せつける」という難しいシーンがある。
坂田の注文に応えるために「多くの技法を出さざるを得ない」という、草見脚本には無かった「少女時代の真波の最大の見せ場」だ。
この「見せ場」があるからこそ、環担当の「真波」に綺麗に繋がる。
(私の「真波」の最後の大仕事だ)
…感傷的になっている場合ではない。
夜凪は、集中力の爪を研ぎ澄ませるべく、頭の中で何度も11話目の演技をトレースした…。
柊雪作「キネマのうた」第12章の抜粋。
映画「花にきいてごらん」の撮影本番当日。
真美は、撮影現場をぐるりと見渡した。
見知った光景、慣れた雰囲気。
ただ、自分も出演者の1人という話になると力の入り方が変わる。
リハーサルが始まり、真美も芝居の場に呼ばれた。
(あー、このおっちゃんか)
「欲しいから言った…、こぉんな当たり前の…こと! 不思議だぁ」
「千春ちゃん。俺の帽子見てみ」
「家の中で被ってるねぇ」
「そうじゃないよ」
ここで真美は、
「ちょっと待って。おっちゃん」
と芝居を中断させた。
(おっちゃんの声は明らかに大きい。私の声は少し小さい)
お母ちゃんはいつも大きくも小さくもなく丁度だ。
喉が、この喉が、手や足みたいに自由に動かないから難しい…。
真美はすっと立ち上がり、目を見開いて、
「私は声を大きくしてみます…」
と、亡霊のように呟いた。
そして掛け合い中だった園風座役者宇野達之のほうに、ぐりっ、と顔を向けて、
「おっちゃんも頑張ろう」
と平坦な声を出した。
おっちゃんは70点。私は85点。
どっちも駄目だ。何故こんなにも芝居は難しいのか?
私は、私が喉を動かせるようになるしかない。
おっちゃんは…、大人だから何かが何かをしてくれて、結局上手くいく。
きゅ、90点くらい…取らないと。
文代が提唱した「点数方式」は、真美にとってはかなり理解しやすい物だ。
世の中は「高度経済成長期」に突入していて、同時に大幅な教育改革が行われた。
学歴社会の堅固さに注目が集まり、日本に「教育ママ」という言葉が誕生したのもこの時期だ。
まだ8歳の真美が通う小学校でも、クラスメイトは常に「テストの点数」を意識していた。
真美は、テストの結果が悪くて酷く悲しんでいる級友を見たことがある。
この子は塾に通わされるんだろうな、と心を痛めた。
…大人は塾に通わない!
…子供は幼稚園で放り込まれるのに!
再開されたリハーサルで、真美は懸命に喉を制御した。
しかし声は狙ってる部分で大きくなってくれないし、宇野の声は大きいままだ。
(なんも変わらん)
真美は、カメラの近くに立っていた真波のところに駆け寄り、
「お母ちゃん。私の出番は後回しにしてください」
と、お願いした。
「このセットで撮るシーンは他にもたくさんある。真美は、その意味がわかるかい?」
「私の頭の中では、このセットで撮るシーンはたくさんあるとわかります」
真波は、真美の要求を呑んだ。
真美に現場の手順が判るはずがないし、実際問題後回しにしても影響はない。
真美は、大道具スタッフがいるエリアに移動した。
「あ、ぁ、ぁあ、あぁ、ぁ…ぁ、あ、あ、…ぁ、ぁ、あ、…あ、ぁー…あ、あぁあ、あ、ぁ」
大道具スタッフたちの手が、ぴたっ、と止まった。
真美は、再び「あ」が連続する発声を始めた。
スタッフたちは黙って作業を再開させた。
「あー、あー、ぁ、ぁ、ああー、ぁぁ、あ」
「ぁ、ぁ、ぁ、ぁ、ぁ、ぁ、あ、ぁ、ぁ」
「あああーああぁぁぁ、ぁ、ぁ、あ、あ、あ、あ」
やがてスタッフの1人が現場から離れ、しばらく経って真波を連れて戻ってきた。
「なんか妙に面白いんですよ。味があって、歌みたいで。座長も聞いといたほうがいいかと思って」
「へえ…」
真美は、「あ」の発声を披露しようとはしなかった。
別に真波に聞かせる意味はないと思った。
ただ、芝居の練習をしていただけだ。
「何が妙に面白いか。私は芝居の練習をしただけだっ!」
真美は大声を出した。
こういう場合、子供は怒りとともに涙が出るものだ。
だが、真美は涙を流さなかった。
我慢したエネルギーはさらなる大声の源に変換された。
「私は芝居を上手くやりたいだけだあっ!」
叫び声を上げた後の真美は、ふーっ、ふーっ、と息が荒いままだった。
真美はしばらく呼吸を整え、最後にふーーっと長く息を吐いた。
「あ、の練習が終わってないのに、お母ちゃんに聞かせる意味はない」
「そうか…。あ、の次は、い、か?」
「あ、の次は、お、です。私はその2つが苦手ですよ。お、が終わってから聞いてください」
「…ふふ、わかった」
真波は撮影現場へと戻った。
先刻の真美の「芝居を上手くやりたいだけだあっ!」はこちらでも十分に響いていたらしく、役者たちの顔つきが緊張気味だった。
…8歳の子供が芝居を上手くやりたいだと?
この「花にきいてごらん」の撮影現場は、いい意味で真美に引っ掻き回される、と役者たちは思った。
子供としては既に十分過ぎるくらい上手い真美が「上手くやりたい」と覇気を見せてくる現場。
皆の士気が上がらないはずがない。
第64話「キネマのうた(12)」/おわり
以上が、私なりのアクタージュ「scene187」となります。
夜凪の「真波」がもうすぐ終わりになります。
主演は環なのでしかたがないことですが、やはりさみしいですね。
草見脚本と柊脚本の違いに少し触れてみました。
物語の変更も大きいですが、それ以上にテイストの変更の影響が強いですね。
不親切な芝居を強要する雪。
それを「技法で補え」と叫ぶ犬井。
鉄壁の布陣です。
ぬるい芝居を通過させるような二人ではありません。
脚本の内容紹介では、8歳の真美視点を入れてみました。
子供ってのは不思議だなあ、と思いながら書きました。
そろそろ12歳の真美が登場することになります。