『エスタージュ(S-tage)』(「セカンドステージ;役者と監督のその後」) 作:坂村因
渋谷、MHKスタジオ。夜凪、11話目の撮影の日。
映画「傾いている道」の撮影の様子を撮影することになっている。
オンエアーでは、この映画は物語の内容も作品タイトルも視聴者に知られることなく未完成のまま消えていく。
夜凪は、他の出演者より早く1人だけカメラ前に呼び出された。
松菊本社の一室のセット。
夜凪は、テーブルに付き椅子に腰かける。
犬井と雪はこちらを見ずに資料を見ており、スタッフたちは忙しく動き回っている。
「両監督にお話がありますっ!」
夜凪には、撮影前に言っておきたいことがあった。
「うん」
「なんでしょう?」
二人とも目は資料に向けたまま。
雪のことを故意に「監督」扱いしたのに、雪はそこに触れてこない。
「本日の撮影ではいつも以上に厳しく願いますっ!」
夜凪は、11話目の芝居に並々ならぬ闘志を秘めて臨んでいた。
「ああ」
「あー」
…だというのに、犬井と雪のこの生返事はなんだ?
「夜凪さん。頭の位置、1センチ高く出来ますか?」
いきなりそんな声が飛んできた。
声の主はカメラマン。
「はい」
と返事した夜凪は、すぐに気づく。
高くすることは出来ない。
たとえ僅か1センチといえど、そんなことをするとシルエットが崩れてしまう。
「訂正! 1センチ高く出来ません。私は今の高さで目一杯です」
カメラマンは、
「監督。4番です」
と言い、
犬井は、
「座高測ったのにな。じゃあ4番で」
とカメラマンに答えた。
「けいちゃん」
「は、はい」
「大丈夫です。否が応でも厳しくなりますから」
「…。…はい」
夜凪には、今現在が何が行われている時間なのか、がよく分かっていない。
台本には「正面撮りあれこれ」と添えられているだけで、具体的な説明が記されていなかった。
犬井と雪には思惑があった。
「正面ピン撮り」は今後何度も出てくる。
ただ、それらは実在の映画作品の中で使われた物だ。
「正面ピン撮り」の完璧な再現は一度で十分であり、それは「背景が日本家屋」という条件を満たしてさえいれば何処に入れてもいい。
あえて「傾いている道」に入れてみたい。
制作陣が作った物であり実在しない映画である「傾いている道」の中で使用することで、時を超えて新作の正面ピン撮りを視聴者に届けることが出来る。
大げさかもしれないが、少なくともそういう雰囲気は届けられる。
問題は、この構図があまりに有名過ぎるという点だ。
半端な代物を提供すれば、再現度が低い、と辛口に判断されてしまう。
よって、制作陣は奮闘する。
テーブルの上に4つの容器を置く。
コーヒーカップ1つ、形や大きさが異なるガラス容器が3つ。
人物から見て右側にフルートグラスとロゼワインの瓶。
瓶は透明で、残量が半分以上あることが視認できる。
その瓶の中の液面とフルートグラスに注がれたロゼワインの液面の高さを揃える。
人物から見て左側にコーヒーカップと醤油差しが置いてある。
コーヒーカップの上辺の高さと醤油差しの中身の醤油の液面の高さを揃える。
「あと2滴」
「コーヒーカップ、右に3ミリ」
等といった声がカメラマンから出される。
夜凪は、自分の前で忙しく作業をするスタッフたちの作業の意味が分からない、と思う。
(これは何をしているの?)
やがて夜凪の芝居の撮影が開始された。
「私が来て、驚かれましたか?」
「カット!」
夜凪の台詞はこの1つだけ。
カットの声の後に犬井と雪が、撮ったばかりの映像をまじまじと見つめている。
「駄目だ。夜凪さん、ちょっと動き変えてみて。なんか、こう、ちょっと違う動き方してみて」
犬井の指示に、夜凪は困惑する。
夜凪の芝居自体に悪い点は何もない。
でも、ちょっと変えてみて、という注文。
夜凪の芝居は「動かずにしゃべる」物なので、呼吸に伴う衣服の揺れを操作するくらいしか変化をつける余地がない。
夜凪の次のテイクにもOKは出なかった。
犬井と雪が見ている映像には、格子状の補助線と縦横の目盛りが表示されている。
「背景の障子の高さを変えた方が早いかな」
「昔のカメラだと、OKの3、OKの4、と続くのも納得ですね」
夜凪のこの撮影は11テイク目でOKとなった。
そして、加賀や入江たちがカメラ前に呼ばれた。
他の役者たちが来てくれたことに夜凪は心底安堵する。
よかった。やっと普通のお芝居が出来る。
この後は、「傾いている道」の芝居を通して真波が坂田に「大船撮影所」の力量を見せつけるシーンとなる。
夜凪が頑張りたいと願っていた「真波の技法」の連発シーンだ。
草見脚本には無かったこの連発シーンは、夜凪にとっては高難度の演技に挑める絶好の機会となる。
そして夜凪は、先刻のテーブルのシーンでかなり、イラッ、とした自分自身について考える。
(これは使えるわ)
少女時代の最後の場面、17歳の真波は「坂田のことを嫌いになる」という心情で終えなければならない。
意味不明な注文を出す監督に不快感を覚える役者。
ばっちりだ、と夜凪は思った。
柊雪作「キネマのうた」第13章の抜粋。
1969年、東京の映画館。
1968年に公開された1本の映画について、宝仙から「見ておいたほうがいい」と言われ、1年遅れで真波はその映画の鑑賞に出掛けた。
12歳となった真美も連れていった。
リック・アルノー監督の「21世紀のオデッセイ」という作品だった。
真波は鑑賞が始まってすぐに、「この映画では言葉が意味が成さない」、と思った。
スクリーンに太古の猿がずっと映されている。猿は言語を持たない。
言語がないと、物語は綴れない。
つまり、この映画の中に物語を探そうとする観客は鑑賞し損ねる。
…真美はどのように観ているだろうか?
どんな顔をして鑑賞しているのか確認したいが、真波もスクリーンから目を離すわけにはいかない。
物語が無い以上、映像を観ることが全てとなる。
なので、常にスクリーンを見ていなければならない。
真波は真美のほうに頭を寄せ、
「どう思う?」
と訊いてみた。
真美は、
「素晴らしいです」
と、小さい声を返してきた。
映画館を出た二人は、その足で宝仙を訪ねた。
観にいくことを伝えた時、「では帰りにうちに寄り道して」と宝仙から言われていた。
道すがら真美は、
「あの序盤は親切ですね」
と、感想を述べた。
「お母さんの勝ちです。あの宝仙先生を相手に!」
真美はにこにこと楽し気に、長い黒髪を揺らして、弾むように歩いた。
宝仙宅で、お茶を飲みながらおしゃべりする薬師寺母子と宝仙。
「そりゃあ悔しかったよ。先着1名様を取られちゃったわけで。でもそれ以上に嬉しかったねえ。僕みたいなタイプの映画バカが他にもいたんだって思った。僕はずっと一人だったから」
「宝仙先生は、昨年ご覧になったんですよね。この1年、まさか何か新しいことを考えて過ごされたとか?」
「いや。考えないよ。今まで通りだよ」
世界の映画シーンに革命的な事件が起きていた。それが「21世紀のオデッセイ」の公開だった。
噂は真波の耳にも入っていた。
ただ、噂の内容を聞く限り、自分には他に優先すべきことがたくさんあるように思えた。
つまり、真波にとってはその事件は直撃弾ではなく、どこかヒトゴトのような扱いで受け止めていた。
…直撃弾を食らったのは宝仙だ。
例えば、誰かから「この作品は映画じゃなくても表現可能ではないのか?」と問われると、映画作りに参加した者たちは懊悩とさせられてきた。
否定することが出来ないからだ。
日本国内でそれを否定出来るのは、宝仙と園風座のみと真波は考えていた。
映画ならではの楽しさ、映画でのみ味わえる魅力、を追求する宝仙。
古典芸能や舞台演劇等と同じく「芝居で構成された作品」の1つの規格としての映画、この芝居を見るなら映画が「一番」楽しめる、そんな芝居そんな映画を目指す園風座。
宝仙は映画の在り方。
園風座は芝居の在り方。
そして、「この作品は映画じゃなくても表現可能ではないのか?」という問いを完全に否定してみせた世界初の映画が「21世紀のオデッセイ」だ。
小説でも、舞台演劇でも、漫画でも、テレビでも、「21世紀のオデッセイ」は表現できない。
映画でなければ表現できない。
宝仙が言った「先着1名様」が意味するところは深い。
誰かが一度成し遂げてしまえば、その後はもう誰もそんな面倒な物に挑戦する必要がない。
宝仙は、その「面倒な物」に挑戦していた人物だ。
世界の映画人の中に同様の挑戦をしていた者が何人いたかは判らない。
宝仙は、自分以外のそういう人物に出会ったことがなかった。
そして、リック・アルノー監督はそういう人物だ。
宝仙にとっては、自分以外に少なくとも1人は同志がいることを確認できた初めての出来事だった。
真美は、宝仙が嬉々と語る「21世紀のオデッセイ」の解釈を(面白い)と思って聞いた。
宝仙が、「二人はラストシーンをどう解釈した?」と訊いてきた時、真美は「えええ?」という声を上げてしまった。
「真美さん。いいから僕の話を聞いてごらん」
そう言われて聞いた宝仙の「解釈」の語りは、本当にそういう物語があるのではないか、と真美に思わせるほどの面白さがあった。
真美は知っていた。
あの映画には「物語」などなかったことを。
故に、「解釈」など無意味であることを。
帰り際、真美は宝仙から「あげるんじゃないからね。貸すだけ。読み終えたらちゃんと返してね」と十数冊の雑誌を渡された。
雑誌には、リック・アルノーと「21世紀のオデッセイ」を酷評する記事が大量にあった。
高名な映画監督が、「難解すぎる。観客を置き去りにする独りよがりな監督」と評していた。
高名な映画評論家が、「意味不明。金を払ってわざわざ観るものではない」と評していた。
他にも、映画関係者や文化人による多くの悪口が書かれていた。
(専門家に理解出来ないはずがない。私ですらどういう映画か分かったのに)
なんとなく真美は、昔は宝仙のことを(エラソーなおっちゃん)と認識していたこと思い出した。
今はちゃんと(エライおっちゃん)だと理解している。
その宝仙があの映画について勘違いするはずがない。
一般大衆なら分かる。
あの映画を映画館に観に行って、頭にクエスチョンマークを浮かべて映画館を後にした観客は大勢いたことだろう。
それが普通だ、と言える。
だが、仕事で映画に関わっているような人間は、映画の構造を知っている。
序盤で「言語を操れない猿」が延々と映されたのは、「これがこの映画を観る時のルールですよ」というメッセージだ。
(あんなに明確に、親切に、見方のルールが提示されていた作品なのに)
そして、真美は気づいた。
記事の執筆者たちは、どういう映画なのかを理解している。
理解した上で、本音と違うことを書いている。
…その方が読者の共感を得られるから?
「お母ちゃん!」
真美はその場で大きな声を出した。
次に、家の中をうろうろしながら「お母ちゃん!」と呼び続けた。
真美は淑女らしい言葉遣いをマナーとして習い始め、真波のことを「お母さん」と呼ぶようになってから日が浅い。
慌てている時などには、まだ「お母ちゃん」と言ってしまう。
西側廊下を歩いている真波を見つけた真美は、
「お母ちゃん! 雑誌に酷いことが載っています!」
と報告した。
普段はまず文代を呼ぶ真美が自分を呼んだということは、専門的な話が聞きたいのだろう、と真波は判断した。
「ああ、うん。真美の推測で合ってるね。この記事は読者を喜ばせるための物。…あの映画を観て自分もそう思ったんだよ、と読者は気分良く記事を読める」
「私が知りたいのは、なんで宝仙のおっちゃんは私にこんなものを渡したのかってことですよ!」
「真美が、えええ(ここで真波は真美の物真似をした)、と叫んだからじゃない?」
「叫びます。人が驚いたらそうなります」
「だから宝仙先生にとって先着1名様はオマケってこと。あの人は、今後も変わらず同じように面白い映画を作る。あの語りは自分ならあの映画をこんなふうに仕上げるって話。せっかく真美に面白い話を聞かせようとしていたら、えええ、と叫ばれた」
「……。まあ不覚をとりましたが。…お母さん、私も子供っぽい態度は消えつつありまして(マナーも勉強しています)」
ここで真波は、ぱん、と手を打って、
「子供っぽいが消えた真美、そんな貴女にお話があります。このために宝仙先生は今回の計らいをしてくれたと言っていい!」
と、話題を切り替えた。
それは園風座の方針に関わる大きな話だった。
…真美は顔立ちが端整で手足もすらりと長い。
芝居で演じられる役の年齢の幅もかなり広くなった。
そんな真美の力量を見込んでの大役。
真波や自分や園風座の皆の今後に影響を与える大役の話。
「お母ちゃん。それは、いかん! 私にそんな大役は務まらん!」
「いかんことがあるものか。役者は役が貰えたら喜ぶところだろう」
「役の意味が違うぅ!」
11話目の撮影に挑む夜凪。
ある招待を受けた男の代わりに「夜凪の真波」が演じる「すみ子」が出向くことを決めるシーン。
「そのほうが…良いでしょうね…」
「んー。慣れてるよ、俺…。こういうの」
「そのほうが良い…、というお願いが聞けないと。そうおっしゃる」
「……。当たり前だ」
「では。……。すみ子のお願いではなく命令と…。いうことで…。ふっ。ふふっ…」
「カット!」(←加賀が演じる坂田です)
「カット!」(←犬井です)
夜凪は、Vチェックする犬井と雪を見つめる。
今のをOKテイクにされたくない。
表現に不充分な個所があった、と自覚している夜凪はそう祈る。
「夜凪さん。そうおっしゃるの後、目の伏せ方が大きい」
「はい(まさに、そこっ!)
夜凪は、なんて頼りになる監督だ、と嬉しく思う。
そして、「普通のお芝居が出来る」という喜びに包まれる。
(環さん。大変だろうな)
ストーリーの上では、「環の真波」は今後ずっと坂田と仕事をすることになる。
あんな監督に付き合わされたら心が擦り減ってしまうのではないか、と心配になるほどの「坂田」というキャラクター。
(加賀さんは流石だわ)
その坂田を演じる加賀の芝居が実に上手い。
その口調、動作、仕草。
どれも自然で普通なのに、真波を苛つかせる物に見える。
ある1つの状況下における「人を苛つかせる芝居」のお手本ような加賀の芝居を見て、(これは勉強になる)、と夜凪は思った。
…7テイク目に入っていた。
大量の演技を制御する中で、夜凪は毎回どこかに小さな綻びを出してしまう。
そんな高難度の芝居。
楽し過ぎる、と夜凪は興奮気味に芝居を続けた。
「では。……。すみ子のお願いではなく命令と…。いうことで…。ふっ。ふふっ…」
「カット!」
「カット!」
夜凪は心の中でガッツポーズを決めた。
(やった!)
快心の出来!
どこにも綻びを生じさせず、全ての演技をきっちりと表現出来た。
映像をチェックする犬井と雪の姿を眺めつつ、夜凪は思う。
(やはり芝居は楽しい)
上手く芝居が出来た時のこの充足感。
役者にしか味わえない特権だ。
「けいちゃん。間の演技、揃えられますか。技法に挟まれた箇所の表情が強いです」
(雪ちゃん…)
犬井が、
「…ん? 無理ならこれでOKにするけど?」
と訊いてきた。
「はい。出来ます。すみません。大丈夫です」
夜凪は今のNGについて考える。
なまじ気合いが乗っているせいで、合間の演技が自分の狙いより強く出てしまっている。
それを見逃さない雪の目。
犬井の目が十二分に厳しい中、技法を制御し切るだけでも大変だ。
しかし、夜凪はたくさん練習してきた。
この日のために、11話目の芝居を繰り返し繰り返し身体と頭に叩き込んできた。
(望むところよ!)
撮影は続く。
16テイク目で、7テイク目と同様のノーミスを達成するも、残念ながらNG。
ようやく19テイク目でOKが出された。
夜凪は心の中ではなく、実際に小さくガッツポーズを決めた。
拳を、ぎゅっ、と握りしめ、「よしっ」と呟くだけの小さなガッツポーズ。
表情には、達成感と至福感から紅潮した笑みが浮かんでいた。
「じゃあ。次はシーン15の準備」
犬井が進行を告げる言葉を発した。
そう。
この連発シーンは複数のシーンに渡り、まだまだ撮影が残っている。
(望むところだわ!)
夜凪は一旦椅子に座り、水を飲む。
静かに1つ、ふぅ、と息を吐き、自分の頭や身体の調子を確認する。
多めに用意した「気合い」は全然尽きていない。
大丈夫。私はやれる。
…やってみせる。
柊雪作「キネマのうた」第13章の抜粋。
用意されたのは深紅のスポーツウェア。
「これが真美のトレードマークとなる」
真波はそう説明した。
宝仙は自身を孤独扱いしたが、今や園風座もそうなっていた。
映画の芝居に特化された「役者集団」は次々と姿を消し、残っているのは園風座だけだ。
映画製作会社の多くが倒産した。
倒産した会社は、立て直しの際に複合機能を持つ企業に変貌した。
映像業界に、「芸能事務所」という専門事業を扱う会社が生まれ始めた。
役者は映画製作会社の従業員から芸能事務所へと所属を移した。
映画がテレビに優る要素は「画面の大きさ」のみとなった。
人材もシステムも、テレビをメインストリームと化する方向へと動いた。
この大きく変容した業界において、園風座の需要はあるのか?
出演依頼は多かった。
園風座メンバーの力を使いたがる監督やプロデューサーはたくさんいた。
真波は座長として、園風座の仕事を厳選する方針を固めた。
それは、テレビ業界と融合した映画作品には出演しない、という方針。
この方針についていけない者が去っていくことを咎める空気は無かった。
親会社である松菊本社の作品すら出演対象外となってしまう厳しい選択だ。
事実上、園風座の役者たちの活躍の場は大船撮影所で製作される映画のみとなった。
大船撮影所では複数の映画を同時進行で製作する体制が取られた。
資金面の心配は無かった。
大船撮影所に限らず、日本全体が考えられないほど裕福な時代を迎えていた。
園風座メンバーの中での唯一人の例外。
それが真美だ。
テレビの息がかかった仕事を引き受けるのは真美1人。
仕事に出向く際、必ず深紅のスポーツウェアを着用する。
園風座の「本気」を示すために、真美の仕事には常に土居が付き添う。
現場に赴くのは真美と土居の二人だけ。
真美は部屋で1人、胡坐に腕組みという姿勢で、床に広げたスポーツウェアを眺めた。
(お母ちゃんが考えていることは判る)
真波は宝仙との話し合いの中で、今一度「映画専門の役者の在り方」について考えてみたわけだ。
大きく変わってしまった業界の中で、「映画専門」という存在はそのうち消えて無くなる。
その流れを止めることは出来ない。
真波が残したい物。
この芝居を見るなら映画という形態が「一番」楽しめる
そんな芝居をする役者
そんな役者たちによって表現される映画
これはとても尊い、と真美は思う。
いずれ消える運命だとしても可能な限り粘りたい、という真波の思いには賛同出来る。
ただ、これは我儘な選択だ。
我儘を通すには、それなりの理が必要となる。
その理とは、
映画専門の役者によって作られた映画は出来が良い
専門ではない役者は映画にとって異物となる
作品の純度を維持するために、異物は排除する
という物になる。
園風座の我儘の裏付けとして、外部の者たちにこれらを認めさせなくてはならない。
つまり、映画専門の役者の力量は他を異物扱い出来るほどに突出している、と証明すること。
真美は、この力量を知らしめるという大役を任された。
(つまり私は道場破りみたいなノリでテレビ業界に突っ込んでいくわけだ)
お母ちゃんの読みでは勝算は5分と5分
…5分と5分っ!
「うーむぅ…」
真美は腕組みして考える。
真波は、真美の力量で証明が敵わないなら「それを現実と受け止める」と言っていた。
「これはインパクトの問題だ!」
お母ちゃんが証明しても誰も驚かない
薬師寺真波が芝居が上手いなんて周知のこと
他のおっちゃんたちも似たり寄ったり
園風座が上手いのは当たり前でおっちゃんたちは大人だ
インパクトがない
まだ子供の私だからこそ破壊力がある
「門番か…? いや少し違うか」
ここを通りたくば俺を倒していけ
うん、しっくりくる
しっくりくるけどちょっと違う
園風座の人材を使いたがっているテレビ関係者の前に立ちふさがる者
それは間違いない
「こっちから打って出るとは。さすがお母ちゃん…」
暢気なことを言ってる場合ではない、と真美は思う。
園風座とテレビ業界が喧嘩する展開になっては駄目だ。
映画大好き人間の集まりではあるが、いずれテレビ関連の仕事を入れざるを得なくなる。
映画にこだわるとしても、「芸能事務所・製作プロダクション・配給会社」のシステムで作られる作品を避けて通れなくなる。
理想は、やはり撮影所製作の作品で映画専門の役者が演じるシステム。
その存在が許されるなら、残したいシステムではある。
だが、それが許されない環境が完成しつつあり、いつまでも続けているとテレビ業界との間に摩擦が生じ、園風座は孤立させられる。
真波の読みでは、そうなっている。
「ええい。わからん!」
真美がするべきことは、力量を示すこと。
それ以外の厄介な話は大人に任せればいい。
西栄スタジオ。
テレビドラマの出演依頼を受けた真美と土居が歩く姿があった。
真美は深紅のスポーツウェア。
土居はスーツ姿。
依頼内容は、19歳の大学生の女性の役。
…お母ちゃん、なぜ受けた?
歩きながら真美は、こんなものを引き受けていたら5分と5分より下がってしまう、と思う。
真美と土居に、すれ違う人の視線が刺さる。
主に真美に刺さる。
真美の道場破りは始まったばかり。
だが、やがて業界人たちは、テレビ界隈に頻繁に出没するこの深紅のスポーツウェアの少女に恐怖心を抱くことになる…。
第65話「キネマのうた(13)」/おわり
以上が、私なりのアクタージュ「scene188」となります。
夜凪のシーンはかつて経験したことのない高難度の芝居になっています。
こういう芝居を経験することは、夜凪にとって大きな成長に繋がる出来事です。
ピンポイントで夜凪の弱点を強化するような内容です。
正面ピン撮りのシーンについて。
あれは本当にあそこまでやるんですよ。
液面の高さを揃えたからそれが何だというのか。
あのシーンで観客は人物を見る訳で、テーブルの上の物なんて見ません。
意味が分からない演出です。
やはり、常人とは違う感性の持ち主だったんでしょうねえ。
なお、雪の中では先に「傾いている道」というタイトルが作られ、「じゃあ、監督の名前は坂田にするか」という感じで決まりました。
真美の深紅のスポーツウェア。
雪は、あれをネット検索画像で見つけました。
子供の頃の真美の深紅のスポーツウェア姿の画像が何種類もある、という部分から「トレードマーク」にアイデアを発展させました。
実は深紅のスポーツウェアは、真美が研究施設に行く時の服装なんです。
その折に運動することになるからスポーツウェアなんです。
頻繁に通っていたから複数枚の画像が残っているわけです。