環は、
「この作品にも墨字くんが言ってた方程式がある。見つけてみて、景ちゃん」
そう言ってディスクの1枚を選び、機器にセットした。
スタジオ大黒天自慢の特大テレビモニタに映像が流れ始めた。
夜凪は画面を見つめる。
(あ、知ってる。見たことある。なんとかって監督のなんとかってドラマだわ)(←あさいきんや監督の「海辺のカフェテリア」というドラマです)
(方程式というか、なにかのルールに則った感じの演技は見つけられるけど、「キネマのうた」の現場にあったのとはだいぶ違う)
ドラマのストーリーは進んでいく。有名俳優二人による、カフェテリア店長と大手チェーン店を手掛けてきたコンサルタントの「なにが得でなにが損か」というやりとり。優秀だがいかにも嫌な奴という感じのコンサルタントの口調。
唐突にそれはやってきた。
嘔吐の気配。夜凪は咄嗟に右手で口を押えた。やがて気配は完全に吐き気として顕現し、夜凪に襲い掛かった。
「ん、ん…ん」
「景ちゃん、耐えろ。耐えられなかったらどうなるかわかるな? そのためのマネージャーちゃんだ」
(えええ…)と思う雪。
「景ちゃん、手はマネージャーちゃんの肩に戻すんだ。姿勢はちゃんと維持しろ」
(え? えええええ…)と思う雪。
言われた通り右手を戻し、「んっ!」と唇に力を込める夜凪。(楽勝よ)と気合い十分の表情だ。
それから5分ほどが経ち、「よーく考えることですね。では、また」という台詞を残してコンサルタントが去っていく場面、そこで環はドラマの再生を止めた。
(耐えたわ)と息を吐く夜凪、(私の役割って必要だった…?)と呟く雪、そんな二人を横目にちらりと見て環は、
「墨字くん、早く連絡くれないかなあ。困るなあ」(このスタジオ、広くていいねえ)
フローリングにごろりと横になった。
二人に背を向け、肘枕で寝そべる形で。
「あ、あの…」(←状況が呑み込めない夜凪)
「異議あり! 異議あり!」(←とにかく諸々の異議を唱えたくて挙手する雪)
床に両手を突いて身体を起こした環は、
「冗談だよ」(早く連絡ほしいのはホントだけど…)
と、言葉とは裏腹に不安と剣呑が混じったような細い声音でそう言った。
「今のドラマ、あさいきんや監督の作品だ。墨字くんがその実力を認める監督だから、このスタジオに置いてあったんだろうね。そして私は今見た演技を上手いと思った。景ちゃんはどう思った?」
「……。上手いと思いました」
「だよね。実際上手いからね。でも今の演技をヘタクソだと言う人たちがいる」
「……。」
「テレビの前の素人さんたちだよ」
「えっ?」
ここで雪が、
「環さん、それは…」
と口を挟んだ。
「まあまあ」
と雪を制する環。
「私たちが上手いと思う演技を、テレビを見ている人たちはヘタクソだと言う。不思議だねえ」
「……。私たちはあの俳優二人が実力のある人だと知ってるから?(…かな? でもちょっと違うかも…)」
「ねえ、景ちゃん。演技が上手いってどういうことだろう?」
このある意味究極とも言える質問を投げられ、夜凪は(うーん)と唸りつつ考え始める。
その間、環も自分の考えを整理する。
顔合わせの場で薬師寺真美が言ったこと。
「薬師寺真波は自分をライバルとして見ていた。あの人の恐ろしさも美しさも自分が誰より知っている」
あの言葉は物凄く重くて深い。
事実であり真実であり、故に尊い。
あの母子の生き様はとにかく半端じゃない。
これらを事細かく景ちゃんに伝え、説明してもいいのか?
私にわかるのは今は伝えてはいけないということ。まずこの1つ。
墨字くんが景ちゃんをどう育てる予定なのか、その具体的なプラン。……それは今の私には関係のない話だ。
私にわかるのは今のままでは景ちゃんの症状はこの先さらに悪化していくということ。そして薬師寺母子に関する話はその伝え方を間違えれば悪化を通り越して破綻するということ。これが2つ目。
伝えるのは少なくとも私の役目ではないし、墨字くんに任せたとしてそれが失敗する可能性だって十分に考えられる。
結局伝えないことが正解かもしれない……。
雪は不思議な光景を目にしていた。
壁際にうつ伏せで寝そべり「むー、むー」と唸る夜凪景。
フローリングの中央に胡坐をかいて座り、難しい顔をしたまま彫像のように固まっている環蓮。
素晴らしい構図だ。
これはカメラに収めるべきではないだろうか、などと考えているとスマホが鳴った。
「あ、墨字さん? 今けいちゃんが大変でね……。うん……」
待ちに待った電話が掛かってきた時、環が反射的に感じたことは「あのテンションじゃ駄目だ」ということだった。
飛び起きて雪に駆け寄り雪のスマホを奪う。
「黒山墨字! すぐに帰って来いっ!」
受話口から「……。……環か?」と聞こえた時、環は(まだ繋がってた。間に合った。電話を切られる前で良かった)と思った。
「すぐに帰って来るんだ。黒山墨字の痛恨の計算ミスだ。私が言ってることがわかるか? 墨字くん」
(あのな、環よ。俺には俺の考えが……)
黒山の言葉に被せるように、遮るように、かき消すように、
「すぐに帰って来いと言っているっ!」
(ま……)
「キネマのうたが台無しになった時、あんたは私にどうやって詫びるっ!?」
(あ……)
「これは時間との闘いだ。大急ぎで帰って来いっ!」
びりびりと空気を震わす言葉を連発した後、「ふーっ、ふーっ」と荒い息を漏らし、「うん、……そう、うん、待ってるよ、墨字くん」と最後は平常に近いテンションで環は通話を終えた。
スマホを返す時「ありがとう、マネージャーちゃん」と言った環に対し、雪は「柊雪です」と名乗り、環は「ありがとう、雪ちゃん」と言い直した。
「さて、と……」
と言いながら再びフローリングの中央に胡坐をかいて座った環は、
「墨字くんが戻るまで早くても3時間はかかるだろうし、さっきの続きをしようか」
そう告げた。
「は、はい」と素直に答える夜凪。
「異議あり! 異議あり!」と挙手する雪。
「まずね、私が知ってるだけで3人いる。景ちゃんと同じように明らかな吐き気を感じた役者」
その3人は吐き気を感じただけで実際に嘔吐するには至っていない。このことは景ちゃんに言う必要はない。
環は言葉を続ける。
「3人に共通するのは吸収する能力がずば抜けていたこと。2人は景ちゃん同様、気持ちが悪くなっての吐き気、もう1人は理論派の天才肌でこの役者は頭が痛くなっての吐き気」
夜凪と雪は静かに話を聞きいるモード。
「君はシーン10で難解な方程式とやらを見つけてどう思った? 何を見た?」
聞きいるモードだった夜凪はとくに考えを巡らすでもなくそのまま、
「薬師寺真波はこういう演技をする人なんだと思った」
そう答えた。
「だろうね。でもほとんどの役者は、薬師寺真美はこういう演技をする人なんだ、と思うんだよ」
(そ、そうなの?)隣に座る雪に尋ねる夜凪。
(けいちゃん、その癖なおそうか)と応じる雪。
「どっちが見えても間違ってないと思うよ。そして吐き気を感じるタイプは真美の向こうにいる真波の姿が見えてしまう役者だ」
「……。……あれ? でも私が見た真波さんは鮮やかなのに落ちついていて、なのに見てると眠くなるような子守歌みたいな演技をする人だったわ」
「うん、正しい。真波はそういう演技もした。他にも、表情の作り方、間の作り方、現場の空気の作り方、ちょっとした仕草の工夫、他にもたくさん、それはもう膨大な数の演技で、ああこれは真波の演技だ、と言われるような演技をした」
そう言われても無言。話を聞きいるモードの夜凪と雪。
「じゃあ、景ちゃん。本題だ。さっきの海辺のカフェテリアで方程式を見つけた君はその向こうに何を見た?」
「……。……え?」
第5話「向こう側」/おわり
以上が、私なりのアクタージュ「scene128」となります。
黒山は挫折をしないし、考えや目標もブレません。
読み切り作品「阿佐ヶ谷芸術高校映像科へようこそ」には30歳の黒山墨字と15歳の柊雪が登場し、アクタージュには同名の二人が35歳と20歳で登場しています。
「阿佐ヶ谷芸術高校映像科へようこそ」と「アクタージュ」が完全な地続きではないことは、アクタージュに「たんぽぽ」が出てきたことで明示されています。
なのですが、別作品の30歳の頃を見ても、アクタージュscene123まで見ても、とにかくブレない、挫折しない。
さすがに気になります。
挫折させてやりたいという気持ちがむくむく膨らんでしまいます。
挫折して、克服して、成長する黒山を見てみたいという欲求がとめられません。
私は黒山をヴェンダースという壁にぶつからせました。
足りません。
そして今「キネマのうた」編で痛恨の計算ミスという失敗をさせようとしています。
まだ、足りません。
薬師寺真波と薬師寺真美のコンビは実に強大で、本当に天才なのは娘の真美のほうです。
夜凪が真美の天才性にどっぷりと浸かってしまうと、そこから引き起こされる現象は若輩の黒山では手に負えないかもしれません。
暗くて後味の悪いものは他ならぬ私が嫌いなので避けますが、今後黒山にはたっぷり苦しんでもらおうと考えています。
なお、「あさいきんや監督」というのは私が勝手に作った架空の名称です。
コミックス5巻にて俳優の「高田高二郎」、映画監督の「あ…なんとかさん」、女優の「木梨かんな」の3人が紹介されています。木梨かんなの台詞に隠れて、映画監督の名前は最初の1文字の「あ」しか確認できません。
なので「あさいきんや」と適当につけさせていただきました。
「海辺のカフェテリア」というドラマ名も同様に適当です。