夜凪は自分が「海辺のカフェテリア」を通して何を見たかを考える。考えなければならない時点で、ぼんやりした物しか見えなかったということだ。
「か、監督?」
「あさいきんや監督のこと? へー、会ったことあるんだ」
「うん。黒山さんが迷惑をかけて、そのお詫びに行った…」(←正しくは夜凪が迷惑をかけた。しかもあさいきんや監督の名前を忘れていた)
夜凪は、
「あ、ちょっと待って」
と、さらに考えを追いかける。
「監督を含めた撮影現場の光景…、あの二人の役者も。その…見えた、というより思い浮かべた?」
「うん、上々の回答だよ」
「…でも、それでなんで吐き気が来るんだろ。意識は画面に向いてるはずなのに、突然来た」
「ほんとだねえ。あのドラマに薬師寺真美が出てたわけでもないのに……」
たしかに、真美がいないドラマだったのに、と夜凪は思う。
答えられない夜凪を見て、環は口を開いた。
「あの二人の役者人生、これまでにどれだけの数の監督や役者やスタッフに出会ってきたと思う? そして芝居や演技に関わる膨大な数の様々な欠片、そのすべてに薬師寺真美が作った万能薬が含まれていた。…この事実をどう思う?」
「……。」
「大げさじゃないんだよ、景ちゃん。すべてに、だ。昔のある時期に爆発的に普及したそれは今もなお使われ続けている。当然の結果だよ」
そう聞かされた夜凪の顔が若干悲痛気味に歪んだ。話を聞いただけで、吐き気に近い感覚がぶり返した気分になったからだ。
「景ちゃん、君のそれは胸焼けに近い。同じ物を一度に大量に食べてしまった時の症状だ。そんなことをすれば気持ち悪くなるし、吐き気も来るだろう」
この説明でほぼ正解と言っていい、と環は思う。
仮に、もっと詳細に厳密に伝えるのならば、少し異なる解釈の説明が相応しい。だが、それは墨字くんが担うべき領域だ。薬師寺母子についても同じ。そのあまりに根深くやっかいな問題は、墨字くんの口から教えられるべきだろう。
「でも、前に一度このドラマを見た時は全然平気だった」
夜凪のその言葉を聞いた環は、今やれること、が終わったと確信した。あとは墨字くんが帰るのを待っているしかない。
一時的とはわかっていても、解放され気持ちが楽になっていく自分を感じた。
先刻と同様、肘枕でごろりと床に横になり、夜凪に背を向けて、
「奇遇だなあ、私も全然平気だったよ」(吐き気なんか全くなかったよ)
夜凪は(なんで拗ねてる感じになってるの?)と不思議に思う。
ここから先は黒山抜きでは話が進まないということで、完全な待機時間となった3人は、
「すぐ電話を切るの、どうせあれ映画かなにかの真似だろ。恰好良いつもりか? 普通に困るっての」
「あのヒゲ、人として欠点が多いわ」
「私は弟子になって5年(もうすぐ6年?)、師匠らしいことを何もしてもらってないことにちょっと怒ってます」
「教わるんじゃない、盗むんだ、とか言われた?」
「それすら言われてません」
「ヒゲの行動原理は、まず逃げる、よ。さすがにわかってきたわ」
という悪口大会のような談笑をしつつ、コーヒーや紅茶で時間を潰していた。
雪が15歳の頃の話題も出た。「たんぽぽ」を撮った時の20歳の黒山が既にヒゲ面だったというマメ情報も出た。フローリングの中央に集まり座っておしゃべりする女3人。
コーヒーや紅茶やオレンジジュースやクッキーやスナック菓子が消費されていった。
そして黒山が帰還した。
事務所内に入ってきた黒山は、(真ん中に集まって何やってんだ?)という目で3人を見た。
女性陣は無言で黒山のほうへ顔を向けていた。
「自分の目で直接確認しろ(←電話で環にそう言われた)って、夜凪は別に普通じゃないか」
そう言いながら部屋の中央へと進む黒山。
さらに黒山は言葉を続けた。
「そういう状況も織り込み済みだ。俺だってちゃんと考えて…」
ここで黒山のしゃべりに被せて環が、
「シーン10。5テイク目」
と呟き、黒山の話を遮った。
「シーン10の5テイク目よ、景ちゃんがトイレに駆け込んだのは」
「5テイク目か。そしてそれがシーン10。なるほど、うん」
黒山はとくに動揺するでもなく環の言葉を確認した。本当は非道い動揺に襲われていた。必死に押し殺し、態度には出さなかった。
柊雪の実家。
もう1人の同居人である雪の母親は仕事で出ている。つまり今家には誰もいない。そこに雪、黒山、環の3名が入っていった。
「ゴメンね、雪ちゃん。私が有名人なせいで」
「いえ、とんでもないです。光栄というか、この家の価値が上がりましたよ、間違いなく」
それは本心だが、雪にはもう1つ思うところがあった。
ただ環さんが有名人であることを考慮するだけなら、あのままスタジオ大黒天で良かったはずだ。それだと1人だけ外出するけいちゃんが仲間外れのような空気になる。
なので全員が外出するこの形は好ましい。
だからといって墨字さんがそんな理由でこの場所を選んだとは思えない。そんな気の利いたことが出来る人じゃない。
「すまんな、柊」
「いえ、全然大丈夫ですよ」
「これから俺がする話は柊に聞いてもらいたい話でもあるんだ…」
力なくそう言う黒山の表情。
(先までは動揺を隠していたけど、もう隠す必要はなくなった)
とばかりに、苦悶と悲哀をその顔に曝してしまっている黒山の異変に気づいた。
劇団天球。
道中で菓子折りを買った夜凪は、今の自分が向かうべき場所としてここを選んだ。
中に入り、練習場の袖から皆の様子を見る。
かつて同じ舞台をともに作り上げた仲間たち。
夜凪に気づいた劇団員が明るく声を掛けてきた。
その声で夜凪のほうへ顔を向けた他の劇団員たちからも明るく歓迎する声が飛んできた。
(ああ、いいなあ。やっぱりここは)
そう思う夜凪のほうに、今は劇団の長である明神阿良也がゆっくりと歩いてきた。
「こ、これ。陣中見舞い」
そう言って大きめの菓子折りを阿良也に差し出す夜凪。
「お? おお…。今うちは公演の合間だけどな(まあ、もらっとくけど)」
黒山は作戦会議を兼ねてすぐに出掛けようと言った。たしかにこれは時間との闘いだ、とも言った。実際、黒山は大急ぎで広島から戻ってきた。
そして夜凪だけは別行動で「吐き気に強くなる工夫について調べろ」ということだった。
人によって体質が違う。
男と女でも違う。
即効性が求められる。
胡散臭い方法は駄目。
夜凪がまず思いついたのは役者の知人に電話で訊くこと。だが、それは効率が悪いとすぐに気づいた。
急ぐなら実質スターズか天球かの2択だ。
ネットで調べるのは論外だし、環のようにそもそも吐き気が来ない人は当てに出来ない。
「ということだそうだ」
阿良也が皆にそう告げた。
「たとえばよく効く漢方薬がある、とかそういうこと?」
「そういうことだろうな」
「しっかり食べてしっかり寝るのがいちばんだけど、即効性がないわね」
「あ、たしかあの人吐き癖あったな。電話してみるか」
「未成年じゃなかったら煙草は効果あるんだけどな。酒は逆に身体を弱くするんだ」
「漢方薬はただの例えで実際には無いの?」
けっこうな勢いで意見が出され始めた。心強いと夜凪は思った。
同時に、この天球という鍛え抜かれた演劇集団にどうしてもあのことを質問したいと思った。
演技が上手いってどういうことだろう?
あの会話の流れの中で環にそう問われ、夜凪は答えのヒントになるような手掛かりすら見つけられなかった。
でも今はその質問をする時ではないと自分に言い聞かせた。
第6話「誤算」/おわり
以上が、私なりのアクタージュ「scene129」となります。
黒山が自分の映画に必要なピースと考えている役者は、夜凪、百城、王賀美の3名であることが原作内で既に明示されています。
そこに阿良也は含まれていません。
黒山は巌から「お前はいつまでも星アリサの幻影を追っている」と指摘されています。その一か月後に夜凪と出会います。
つまり、星アリサを見て「あんな凄い女優ならあの役が出来る。あの映画が作れる」と思っていた黒山が、夜凪を見つけて「やった、これで作れる」というのが「scene1」です。
原作者によるアクタージュ「scene1」~「scene123」までの確認できる限りにおいて、黒山のその思惑はブレません。
さらに言えば黒山は、
「実力がある」「常に正しい」「何が大事か見えている」「何が大事かわかっている」という、
【アクタージュ内の世界観の上限を決定する神のようなキャラ】
という立ち位置に固定されています。
私はブレさせます。固定もさせません。
黒山を成長させ、目指す作品も変化させます。
新キャラも登場させたいですし……。
なお、夜凪、百城、王賀美は、日本の役者で言えば
夜凪……笠智衆(男ではありますが他に考えられません)
百城……原節子
王賀美……三船敏郎
海外の役者で言えば、
夜凪……イングリッド・バーグマン
百城……オードリー・ヘプバーン
王賀美……クリント・イーストウッド(あるいはスティーブ・マックイーン)
というところでしょうか。
なんだかこれだけで、どういう映画なのかが見えてきそうなラインナップです。
もちろん、連載が続いていれば黒山の作品に必要なピースは、このあと徐々に明かされていき増えていた可能性も十分あります。
まあ、考えてもしかたありません。
もう知る術のないことです。
とりあえず私は黒山映画に必要な役者は増やすつもりでいます。