セカンドステージ (役者と監督のその後)   作:坂村因

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第7話 「殴打」

劇団天球は優秀だ。

わやわやと意見や電話やメールが飛び交った末、かなりの短時間で最終的な回答が出された。

 

基本、日々の体調管理がすべてだが、今回ネックになるのは「即効性」という要素である。

乗り物酔いの薬の類は、東洋医学も西洋医学も今回のケースに効果がある薬を提供してくれない。

小さい効果ではあるが、有効なのは「ブドウ糖」である。

 

そして、「これは良い物だ。本番前にラムネ菓子を数粒食べるのを天球の公式儀式として採用しよう」という案まで出た。とはいえ皆やはり冷静であり、あくまでラムネ菓子摂取は推奨儀式扱いとなった。

 

「というわけでラムネ菓子だ。安心しろ、スーパーで50円で買える」

「ありがとう…」

 

「俺は食べる。良い物を教えてもらった。感謝するよ」

「…えと、はい(教えたのは私ではないのだけれど)」

 

天球内外のいろんな役者さんたちの体験談が集結し、医学的根拠に関する情報も検討され、計量の手軽さ及び正確さに対する評価も高く、かの「ラムネ菓子」様は果てしなくファイナルアンサーの輝きに満ちたプラチナアイテムとなってしまった。

 

なんてありがたいことだろう、と夜凪は思う。

 

予想以上に、自分の考えよりずっと高い次元で、調べ物の課題にケリがついた。

 

そしてやはりこの有能な人たちに訊いてみたい。

演技が上手いってどういうことだろう?

このことも今回の時間との闘いの一件と無関係ではないはずだ。

 

 

 

柊家のダイニングのテーブルにつく黒山、環、雪。

沈んだまま浮上の気配がまったくない黒山が口を開く。

 

「環。おまえにどう詫びるかってのは無意味だ。どんなふうに詫びようが許されるはずがない。許されるべきではない」

 

重い空気の中で黒山は話を続ける。

 

「やっと見つけた、ようやく出会えた夜凪にも、どんな言葉をかければいいかわからない。ただ環、怒りはすべて俺に向けてくれ。夜凪には向けないでやってくれ」

 

次に黒山は雪の顔を見つめた。

 

「柊にもまだ教えたいことがたくさんあった。おまえには良い映画が撮れるさ。こんな俺の下とはいえ5年も学んだんだ…」

 

 

静寂が訪れた。

 

 

テーブルの上のお茶には誰も手を伸ばしていなかった。

誰も触れていないコップの中の氷がコロンと音を立てた。

 

 

 

静寂を破ったのは雪だった。

無言で席を立ち、二階へと階段を駆け上がっていった。

雪は怒っていた。

自室に入り、ぐるりと周囲を見渡す。目に入った筒状のままの、まだ使っていない新品のカレンダーを手に取り、一階ダイニングへと戻った。

 

椅子に黙って座る黒山、その後頭部を雪はカレンダーで思い切り殴った。

 

「なにが5年だ。私は何も学んでねえ。墨字さんはさぼってばかりだった。ほんとさぼってる姿しか見てねえぞ。それで私に映画が撮れるかっ!」

 

息を荒げる雪。黒山は無言のままその打撃を甘んじて受ける。

雪はさらに追撃のカレンダーを振り上げる。今度は3連打。

 

「そもそも私だけ状況がわかってねえ。何がどうなったんだっ! ちゃんと説明しろ、コラッ!」

 

その3発も黒山は黙って受けた。

 

 

 

環が、

「状況を知らないのに、師匠の頭をぽかぽか殴ってるのか…」

と呟いた。

 

 

 

「じゃあ語るが……」

黒山がようやく沈黙を解いた。

「環もけっこう詳しいはずだ。俺の話に説明不足があったら補足してくれ…」

「……。いいよ」

環はわりと平静だった。

「聞か…せてもらう」

雪はもう涙でぼろぼろ。なんだかよくわからない怒りと悲しみ。突然に、しかも自分のあずかり知らぬ場所で大変なことになってしまったらしい、そんな空回りの疑念。

 

 

 

黒山の無機質な説明が始まった。

 

薬師寺真波は映画の世界に強烈な興味を持っていた。それは21世紀を生きる我々の感覚で言う「興味」とはまるで異なる「興味」だ。

今も昔も、年配者の口癖のように扱われてきた「最近の若い者は」という言い回しがある。いつの時代にもその言い回しが廃れないことにはちゃんと理由がある。興味の選択肢は時代が進むほどに増え、増えれば増えるほどに薄まっていくのは当然の理であるからだ。

真波が生きる時代の役者たちはそういう意味で化け物揃いだった。

理解の深さと広さ、どんな些細な表現の違いも見逃さない貪欲さ、研究し研鑽する根性、演じることへの執念、そういう様々な物の集合体である「想い」が、

「興味」

のただ一言で片づけられてしまう。

そういう時代だった。

役者の仕事は、その量の多さも質の濃さも、21世紀の我々から見れば桁違いに高負荷な代物だった。

当時の役者たちはそれらを当然のようにこなした。

そんな中、真波は才能を開花させ、頭角を現す。

新しい表現を見せる。細かいが効果の大きい工夫を見せる。既存の表現の解釈を先鋭化させる。

真波の芝居は見る者を虜にした。

監督や他の役者たちにとっても、驚きと発見を連続で味わわされる驚異的な存在となった。

 

真波は一流の女優だった。

 

そして女優としての真波は更なる境地へと足を踏み入れることになる。

娘である薬師寺真美の存在があったからだ。

 

 

 

この時点での雪には、まだ黒山の話の全貌が見えなかった。

ただ言葉に聞き入るのみだった。 

 

                第7話「殴打」/おわり




以上が、私なりのアクタージュ「scene130」となります。

黒山は「scene117.奪う」において、「キネマのうた」における夜凪の撮影期間を環の5分の1と言っています。
計算すると、
皐月……1話、夜凪……8話、環……40話
となります。
夜凪の撮影は、約2か月に渡る期間、日数にして32日です。
有効に使えば、夜凪が大きく成長できるかもしれない長さの時間です。
ただ、真波担当を皐月がメインに演じる第1話の撮影、その4日間のうちに夜凪の出番が数カット、翌週には夜凪の担当がメインの撮影が始まってしまうわけです。
まさに時間との闘い。

雪の怒りは自分が蚊帳の外に置かれていることに対するものと、黒山が諦めている姿を初めて見たことへの衝撃との合わせ技です。
つまり、雪は絶賛混乱中です。

ブドウ糖はあれですね。
栄養点滴の主成分でもあり身体が元気になる物質です。
脳がエネルギーとして使う唯一の物質でもあります。
スティックシュガーを1本食べる、というのも効果があるのですが、身体への負担を加味するとブドウ糖に軍配が上がります。

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