アーチャー・カーマと■■■■■■■の聖杯戦争へ   作:ルシエド

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愛の世界、燃える宇宙

 自分を殺せ。

 願いを捨てろ。

 我儘は言うな。

 自分を殺さなければ、この世界に居場所はない―――そう思いながら、生きてきた。

 

 

 

 

 

 かくして、『彼女』は召喚された。

 

 少年はその夜、見てしまった。

 摩訶不思議な光を走らせる――龍脈と呼ばれるものが輝いている――地面。

 空間に満ちる奇天烈な光――魔力と呼ばれるもの――と、生暖かい気持ちの悪い風。

 その中心で詠唱する、怪しげな男を。

 

「うん? 人払いの魔術を抜けて来たのか?

 魔術師……ではないな。天然物か。

 やれ、セイバー。お前の初仕事だ。聖杯戦争は秘匿されなければならない」

 

 少年は歌うようなリズムで、鈴のような声色で、すがるような心持ちで、怪しい男がした詠唱をそのまま繰り返した。

 わけがわからなかった。

 状況が理解できなかった。

 何故、平和であるはずの日本の街の片隅でこんなことに巻き込まれているのか。

 この非現実的な光景は何なのか。

 あの怪しい男はなんなのか。

 怪しい男の指示で自分を殺そうと剣を振り上げるこのセイバーという男はなんなのか。

 まるで分からなかったから、転がるように避けて、逃げて、怪しい男がした詠唱を無我夢中でそのまま真似して口にした。

 人間は驚愕の事実を聞かされると、聞かされた驚愕の事実を一言一句違わずそのままリピートして聞き返すと言うが、今の少年には、同じような脳の動きが発生していた。

 

 かくして、『奇跡』は起きる。

 

 白色の光の柱が屹立する。

 粒になった光がふわふわと舞う。

 光の中から現れた少女が、セイバーと呼ばれた男と少年の間に立つと、セイバーと呼ばれた男の足は止まった。

 

 怪しい男の詠唱は、剣士のごとき何かを呼び出した。

 それを真似した少年の詠唱は―――弓兵のごとき何かを呼び出した。

 

「サーヴァント・アーチャー。召喚に応じ……って、自己紹介してられる状況じゃないですね」

 

 『それ』が、怪しい男には、恐ろしい怪物が人の形をしているように見えた。

 『それ』が、セイバーには、弓を持った熟練の弓兵に見えた。

 『それ』が、その少年には、可憐で花のような白髪の少女に見えた。

 少女は迷いなく少年を庇い、守るように立ち、弓を構える。

 

 その夜、少年は運命と出会った。

 

 おそらくは、一秒すらなかった光景があった。

 

 けれど、たとえ地獄に落ちようとも、その少女と出会った瞬間だけは、鮮明に思い返すことができる―――少年は、そう思った。

 

「ま、ちゃちゃっとやっちゃいましょうか。宝具使っていいですよね?」

 

「え? ああ、よくわかんないけど、どうぞ!」

 

「感謝します。先手必勝、後手に価値(勝ち)なし―――『恋もて放つは花の五矢なり(クマーラ・サンバヴァ・サンモーハナ)』」

 

 愛に溺れる夜の始まり。

 

 恋と出会う戦の始まり。

 

 サーヴァント・セイバーの脱落をもって、この地の聖杯戦争は開幕した。

 

 

 

 

 

 夜の公園で少年と、少年を助けた弓兵の少女はベンチに並んで座っていた。

 少女は弓を小脇に抱え、公園のベンチを照らすライトの下、ぼーっとして足をぶらぶらと揺らしている。

 少年が盗み見るように横目で少女を見るが、少女は小柄で可愛らしく、白い髪を肩まで伸ばしている普通の少女にしか見えない。

 だが、先の戦いで派手に怪しい男とセイバーなる男をまとめて吹き飛ばしたこの少女が、普通の人間であるとは到底思えなかった。

 

 コスプレのイベントでも見ることはなさそうな、異端の色合いとデザインの服、一般人にはまるで縁が無さそうな装飾品の高級感。

 少女が小脇に抱えた大きな金色の弓。

 何より印象に残るのは、その赤い瞳だ。

 

 虚無と表現するのが正しいのか?

 深い色の瞳と表現するのが正しいのか?

 とにかく底が見えず、輝きが見えず、感情の色が見えない。

 人間というよりは化生の瞳と評すべきその瞳が、急に少年を見て、見つめた。

 

「うーん、見れば見るほど一般人ですね、マスター。説明要ります? 要りますよね?」

 

「え、ああ、うん」

 

「はー、面倒臭い。割とハズレを引いた感じはしますね……いいですか、これは聖杯戦争です」

 

 『聖杯戦争』。

 

 七人のマスターと呼ばれる人間が、七騎のサーヴァントと呼ばれる英霊を召喚する。

 サーヴァントは英雄、偉人、魔人……様々なものが在る。

 人智を超えた英霊・サーヴァントの力を借り、最後まで生き残った人間が全てを手にする殺し合い。それが聖杯戦争だ。

 マスターは魔術を飛ばし、サーヴァントは奇跡を行使し、山は砕け、海は煮え立つという。

 

 少年は魔術師(マスター)がサーヴァントを召喚していたところに偶然鉢合わせ、召喚の詠唱を動揺から丸々輪唱してしまった。

 結果、意図せずしてアーチャー・カーマを召喚してしまったということだ。

 彼はカーマの力もあり聖杯戦争の開幕を担うと同時に、最初の戦闘勝利者となり、もはや簡単には聖杯戦争を抜け出せない身の上となってしまったのである。

 

 カーマは巻き込まれただけの少年に同情しつつ見下し、事細かに聖杯戦争について教えながら、その愚かしさを内心小馬鹿にしていた。

 臆病なくらいに慎重なら、夜に出歩いて聖杯戦争になど巻き込まれはしない。

 少女が浮かべる微笑みは、微笑みに見えるだけの嘲笑であった。

 

「聖杯、戦争……」

 

「そうです。あなたは運悪く巻き込まれたんですよ。運良く、かもしれませんが」

 

「運良くって……運が良いとは思わないかな……」

 

「聖杯戦争の勝者は願いを一つだけ叶えることができます。

 だから皆必死なんですよ、マスター。勝者に与えられる聖杯は願望機なんです」

 

「あ、ドラゴンボール? なるほど」

 

「七人のサーヴァント集めても別に願いは叶いませんからね。ちゃんと倒してください」

 

「サーヴァントレーダーとかあるのかな……あ、かめはめ波撃てる?」

 

「マスターさては私の想像より八割増しで能天気ですね?」

 

 聖杯戦争は、願いのために戦う戦場である。

 誰もが願いを抱え、願いを叶える聖杯を求める。

 負ければ死。勝てば願いが叶う。構造自体はシンプルなのだ。

 

 どこにでも居るごく普通の少年にしか見えないマスターを見て、カーマは疑問を持つ。

 巻き込まれただけのこの少年に、他者を押し退けてまで叶えたい願いなどあるのか、と。

 

「マスターは何か願いがありますか?」

 

「えー、うーん……あ。

 僕を育ててくれた孤児院の経営を良くしたいかな。

 最近経営が悪化してて数年以内に閉めるかもって話があったから。

 僕が働きに出て仕送りして解決しようって思ってたけど、聖杯でいいならいいかな」

 

「あんま私好みの願いじゃないですね。まあ、いいですけど」

 

「ええと、君も叶えたい願いがあって聖杯戦争に?」

 

 カーマは口を開く前に、白雪のような髪をかき上げる。

 何気ない仕草に、妖艶な少女性を感じ、少年は少しドキリとした。

 

「マスターは私についてどのくらいご存知ですか?」

 

「名前も知らない」

 

「あっ……べ、別にこれは、名乗り忘れたわけじゃないですからね!?」

 

「う、うん」

 

 熱のない表情を浮かべていた少女があわあわと慌て始めたのを見て、少年は可愛げと親しみを同時に感じていた。

 

「こほん。申し遅れました、カーマと言います。インドの愛の神です」

 

「あ、コンビニで立ち読みした神話の本で読んだことあるよ。愛の矢のカーマだ」

 

「考えうる限り一番低俗な情報ソースで私のこと知ってるんですね……」

 

「あれ、カーマって上半身裸のだらしないデブのオッサンで粘着質にニヤついてる神じゃ……」

 

「考えうる限り一番低俗な情報ソースで私のこと誤解してる!」

 

 愛の神、カーマ・デーヴァ。

 インドにおけるキューピッドであり、快楽と喜びと共にあり、春を親友とする、愛を神格化した存在である。

 

 その頃、不死身の魔神ターラカというものが存在した。

 チベット系列の宗教においてかつて最高神だった魔神である。

 ターラカは修行の褒美として『シヴァの息子以外には殺されない体』を得ており、どんな神々もターラカにはまるで敵わず、あっという間に天界や地上を含む三界の全てを支配してしまった。

 

 だが最高神の一角シヴァは妻を失った悲しみから女性を受け入れず、修行と苦行に没頭し外界にはまるで目を向けなくなっていた。

 そこで神々が派遣したのがカーマである。

 カーマは恋慕と愛欲を司り、カーマが天界から地上にやって来ただけで、地上の生きとし生けるものは全て発情し狂ったように性交を繰り返したという。

 不犯を誓った清廉なる信仰者ですら、カーマが出現しただけで堕落し、長い年月をかけて清めた魂を穢されたとも言われる。

 

 カーマは神々の言う通り、恋情を引き起こす矢をシヴァに撃つ。

 シヴァはカーマの矢に心惑わされるが、その誘惑に負けることはなく、怒りのまま『宇宙すらも破壊する火』でカーマを焼き尽くしてしまう。

 灰になったカーマは肉体を失い、人間として転生し、大英雄のクリシュナの息子にして悪魔を滅ぼす英雄として戦うこととなった。

 シヴァが許すその日まで、カーマは肉体を取り戻すことはできない、とも。

 結局、シヴァのかつての妻が転生し、パールヴァティーという名でまたシヴァの妻として嫁ぐまで、ターラカを倒すことはできなかった……という話。

 

 とばっちりの悲運の神とも、インドらしい平均的なエピソードであるとも、修行者が欲求に負けないように『誘惑』を神格化した話であるとも言われる。そんな話。

 

「ああ、やっぱそういう感じに伝わってるんですね。

 はいはい分かってますよ。はいはい私が悪い私が悪い」

 

「思い出したくないことならこの話やめよっか。話戻そう」

 

 なお、実物のカーマは、大分やさぐれた可憐な少女であった。

 

「召喚って大分縁に左右されるんですよね。

 マスターとの縁で召喚されたり。

 既にその戦場にいる何かへのカウンターで呼ばれてたり。

 サーヴァント候補は無限にいるのに生前の宿敵や仲間と会いやすかったり……」

 

「え、そうなんだ」

 

「だーかーら、私が強力な霊基で顕現するとあいつらが後から召喚されやすいんですよね……!」

 

「ああ……」

 

「相性悪いんですよ!

 サーヴァントの宝具は生前の逸話や伝説を再現するもの。

 よって、サーヴァントは生前の死因に縛られる。

 私を焼き殺したシヴァの化身たる人間(アヴァターラ)が出たら私は死です!」

 

「カーマも大変だね」

 

「大変なんですよ!

 仮にですよ?

 こんなちゃっちい私じゃない……

 たとえば、本物の神としての私を召喚しようとします。

 めっちゃ生贄捧げて私をちゃんと召喚したとします。

 成功したとします。

 抑止力の類が私の宿敵派遣したらあっさり私ぶっ殺されちゃうんですよ!

 もうそういうの本当に嫌なんで……本当に……聖杯で生前の縁と縁切りしたいんです」

 

「なるほど……」

 

「はぁマジはぁですよ。マジはぁです」

 

 はぁー、とカーマが深く深くため息を吐く。

 見目麗しいカーマが『やってらんない』とばかりに気怠げな表情をすると、秋の月光に照らされた綺麗な横顔が、親しみと危うさを両立して魅せていた。

 

「縁、か。そういうのもあるんだね。うん、カーマの願いはよくわかった」

 

「ありますよ。私のこの姿、偶然だと思ったんですか?」

 

「……え」

 

 カーマはベンチを立って、少年の前で踊るようにくるりと回る。

 白雪のような髪が揺れる。

 同年代の少女からうらやまれるような肌の艶と張り、整った小顔、柔らかな印象の垂れ目、艶やかな唇、腰は細く他は女性らしいスタイルの良さ。

 握れば折れてしまいそうな可憐で細い指、心地よく耳に響く可愛らしい声、小柄だが抱きしめれば柔らかそうだと思える外見的な印象。

 

 髪の色を除けば、カーマのその容姿に、少年は見覚えがあった。

 

「召喚してくださったマスターの縁を辿った誰かの姿ですよ。

 多分ですけど、知り合いでしょう?

 あなたに縁のある誰かの姿になってるんです。私、身体無き者(アナンガ)ですから」

 

「……」

 

 カーマには肉体が無い。

 シヴァに奪われた肉体は、カーマには返されていない。

 ゆえにカーマは誰かを依代にすればその通りの姿になり、パールヴァティーなどの宿敵と合わせて顕現すれば、縁に従いそれに近い姿になる可能性が高い。

 この少年をマスターとし、現世に留まる楔としている以上、カーマはこの少年の縁を辿って誰かの姿にもなるということだ。

 

「誰なんですか? 私のこの姿のモデルになった女の子。情欲の対象ですか?」

 

 挑発的に笑み問いかけるカーマに、少年は一瞬だけ泣きそうな顔になって、泣きそうになった自分に気付いてもいないかのように、夜空を見上げた。

 

「死んだ子だよ。去年……中学二年生の時、僕と同じクラスだった子だ」

 

「え?」

 

「先月、死んでたんだ。

 よくわからないけど死んでた。

 死因すらよく分かってなかった。

 でもわかった。

 カーマの話を聞いて分かった。

 あれは多分……サーヴァントに魂を喰われて、死んだんだ」

 

「!」

 

「君のモデルになった子は、聖杯戦争に巻き込まれて……殺されたんだろうね」

 

 魂喰い、というサーヴァントの強化法がある。

 サーヴァントに生物の魂を喰わせることで、その力をブーストするやり方だ。

 バレれば膨大なデメリットがあるが、小規模にちまちまとやっている分にはバレにくく、サーヴァントの強化というメリットをノーコストで得ることができる。

 だが、当然、そうされた人間は死ぬ。

 まさしく外道の手段である。

 

「……ああ、なるほど」

 

 カーマは真面目くさった顔で、納得した様子で頷いた。

 

「あなたが愛の神(わたし)を召喚した理由が分かりました。

 愛の渇望。恋の飢餓。あなたの心に空いたその穴が、私を召喚する触媒になったんですね」

 

「……それって」

 

「私の今の容姿のモデルになった子を、あなたは好きだったということです」

 

「―――」

 

 カーマは愛の神。恋を成就させる恋の矢を放つ神。

 

 恋の終わりに、愛の死体を下敷きにして、カーマは少年の呼びかけに応えたのだ。

 

「僕は、あの子を好きだったのかな」

 

「ええ、そうです」

 

「何が、どこが……なんで、好きだったんだろう」

 

「私に聞いても意味はないですよ。私は知りませんから」

 

「……そうだね」

 

「ああ、なんでみじめで哀れなマスター。

 なんて無様で滑稽でかわいそうなことでしょう。あなたは……」

 

 カーマの声色から、小馬鹿にする感情の色が消えた。

 

「……あなたの初恋は、初恋だと気付く前に、終わってしまったんですね」

 

 少年の初恋が、終わる音がした。

 納得の虚に、恋が落ちていく音がした。

 少年が自分でも気付いていなかった苦しみと悲しみに、カーマが形と名前を与えたことで、それはただの思い出に堕落していく。

 前に進めなくなっていた少年の心に、色褪せることが許されていなかった初恋に、カーマは正しい堕落を与えた。

 カーマが心底呆れた様子で、腰に手を当て、少年の眉間を指先でグリグリと押す。

 

「だからこんな夜中に見回りしてたんですね。バカじゃないんですか?」

 

「そこまで言うことかなあ」

 

「仇討ちでもしたかったんですか?」

 

「そんなこと考えてないよ。

 ただ、彼女みたいに死んでしまいそうな人が居たら、助けてあげたかっただけなんだ」

 

「ふぅん。ま、いいですけど。……ああ、やだやだ……」

 

 カーマは出会ってからまだ二時間も経っていないマスターの内面に探りを入れたつもりだった。理解できない部分を理解しようとした。

 それは何か? それは愛か? 彼の行動の源泉を理解しようとした。

 けれどそこにあったのは、くだらなくて、愚にもつかない、反吐が出そうなほどに哀れで愚かな正義……カーマは、そう感じた。

 

 カーマの瞳に映る少年の心は、キラキラとしている。

 穢れはなく、心地の良い暖かさがあって、堕落の片鱗も無い。

 虹を吸って吐いて生きている人間は、こうなるのだろうかと思うくらい、綺麗だった。

 

 控え目に言っても、カーマが一番嫌いなタイプの人間だった。

 

「カーマ」

 

「はい、なんです?」

 

「僕の初めのお願いは、僕と君の願いを叶えること。

 僕と君が最後まで生き残ること。

 そして、もうこれ以上、こんなことに巻き込まれて死ぬ人を出さないことだ。できるかな」

 

「正義漢ですねえ。

 ま、いいんじゃないですか。

 マスターの命令なら従いますよ」

 

「ありがとう! カーマ! 君が来てくれて、僕は本当に幸せだよ!」

 

「……ただし、距離感は考えてくださいね。私とは仲良くできると思わないでください」

 

「え?」

 

「私、あなたみたいなキラキラしてる人間嫌いなんですよ。ビジネスライクでいきましょう」

 

「あ、うん」

 

 カーマが微笑み、手を差し伸べる。

 

 軽蔑をごまかすような、柔らかで蠱惑的な笑みだった。

 

「では改めて。

 私はサーヴァント・アーチャー、カーマ。

 あなたの愛の復讐に助力する者です。以後、ほどほどによろしくお願いします」

 

「うん、よろしく」

 

 少年はその手を取り、優しく握る。

 

 カーマの手を握る少年の手の甲には、奇妙な形の紋様が浮かび上がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年は孤児院に帰り、カーマは夜通しマスターを守るべく屋根に立ち、数時間が経って、夜が明け、朝が来た。

 カーマは少年を起こすべく正面から普通に孤児院に入ろうとし……少年と出会ったところで、孤児院の管理者であるふくよかな女性に捕まった。

 デブの質量アタックに捕まり、カーマが脂肪の圧力に飲み込まれる。

 

「!?」

 

「んまーあっくんが女の子連れて来るなんて! しかもこんな可愛い子! ンギャワイイ! 顔がいいわね顔が! 背はちっちゃいけど身体はちゃんと出るとこ出てる女の子! あーかわいいかわいい! 白いけど綺麗な髪ね! もしかして外人さん!? あ、服がそもそも外人さんっぽいわね! 外人さんだわ! でもその服目立つからダメよ! 服を貸してあげるわ! アタシの服を! あっくんと並んで歩いてても違和感のない服を! たくさん! 貸してあげるわ! あっくんとデートしてくるといいわ! ふふふでもね写真撮ってアタシに魅せてくれると嬉しいわ! そう、嬉しい! あんなに欲がなくて献身的だったあっくんにもとうとう彼女! アタシ嬉しい! きゃー! 今夜はお祝いよ! うひぃー!!」

 

「ぎゃー! ま、まま、マスター! なんですかこれ! これなんです!?」

 

「んまーマスターなんて! もうあっくんとあなたはそういう関係なの!?!?!?!?」

 

「マスタぁぁぁぁぁ!!」

 

「カーマ……ごめんね……マム、僕の客人だから、そのへんにしておいて」

 

「あらごめんなさい!!!!!」

 

 あっくん、と呼ばれた少年(マスター)が、管理者(マム)をカーマから引き剥がし、カーマと共に自室に引っ込んだ。

 

「ひぃ……ひぃ……酷い目にあいました……」

 

「ここの孤児院の子供達の母代わりの人だよ。

 ちょっと個性的だから、カーマも慣れるまでは疲れるかもね」

 

「ちょっと? 寛容の器ぶっ壊れてるんですか?

 不祥事起こしたVtuber全力で擁護マンでもここまでじゃないですよ」

 

「Vtuber知ってるんだ……」

 

「現世のある程度の常識はインストールして来てるんですよ……

 だから常識外れな人間にはまっっっっったく対応できないんです!」

 

「あはは、古いピコピコみたい」

 

「今時ゲーム機をピコピコとか言ってる人います????」

 

 カーマは会話のさなかに、少年の部屋に視線を走らせる。

 ボロい壁。

 ヒビの入った天井。

 取れない汚れで曇った窓。

 シミがところどころにあるのに処置もされていない床。

 部屋の調度品もベッドと机くらいしかなく、天井に小さな電球が一つしかないのも相まって、夜には底辺の牢獄のようになっているだろうと、カーマは推測する。

 

 孤児院の貧しさと、自分のものを欲しがらない少年の性格が、そのまま反映されているかのような部屋だった。

 

「僕は小さい頃に警察の人に拾われて、ここに預けられて、ずっとここで育ったんだ」

 

「マスターは捨て子だったんですね」

 

「うん、そうだったみたい。それで、あのマムに育ててもらったんだ」

 

「あの人に似なくて本当に良かったですね……本当に!」

 

「あはは。マムは僕より僕のことを見てくれてるんだ。

 この手の甲の……令呪? だっけ。

 カーマを召喚する前にこれに気付いたのも、マムなんだよ」

 

「いや言われる前に自分で気付きましょうよ……どんだけ自分のこと適当に扱ってるんですか」

 

「跳ねたケチャップかなって最初は思ってた」

 

「……」

 

 カーマは出かかった罵倒を、ぐっとこらえて、飲み込んだ。

 

「……まあ、いいです。この孤児院を救うのがマスターの願いってことでいいんですね?」

 

「うん。できれば敵のマスターもできる限り死なせないで勝ち残りたいかな」

 

「甘ちゃんですねえ。

 ま、そうしたいと言うならマスターの意思は尊重しますよ。

 でも心の中でバカにするくらいは許してくださいね?

 マスターはそういう選択をしてるんですよ。皆殺し合いのつもりで来てるんですから」

 

「……うん。カーマには感謝してる。だから、一緒に頑張ろう」

 

「はーやだやだ。理解できませんよ。

 こんなボロっちい孤児院のために命かけて?

 見ず知らずの人達の日常守るために命かけて?

 敵も殺さないのを目指す? 願いに欲はないけど欲深すぎませんか?」

 

「かもね」

 

「正義の味方気取りも大概にしないとすぐ死にますよ。

 もしインド系列の大英雄……昔の知り合いでも来てたら私なんて一瞬で蒸発しますからね」

 

「正義の味方……?」

 

「違うんですか?」

 

 少年は首を傾げて、年相応に子供らしい表情で考え込み始める。

 

「正義……うーん……結構違うと思う。少なくとも僕は正義とかそういうのじゃないよ」

 

「じゃあマスターのそれはなんだって言うんですか?」

 

「それはきっと、正義とか大仰な言い方をするものじゃなくて……

 良心の最後の砦なんだよ。

 それだけは捨てちゃいけないし、そこから退いてもいけないものなんだ」

 

「……良心の、最後の砦」

 

「人に優しくしよう。

 困ってる人は助けよう。

 泣いている人には寄り添おう。

 殺されそうな人は守ろう。

 誰かを殺そうとしてる人は止めよう。

 だって、誰かが死ねば、誰かが悲しんでしまうから。

 善というのは、人が最後に信じられるものだと思うんだ。最後の砦はそれを守るんだよ」

 

 カーマは、自分が苛立っていると思った。

 キラキラとした人間が、カーマは嫌いだ。

 堕落して、もっと穢らわしくて情けなくて醜いものになってほしいと思ってしまう。

 だからこの少年のことも自分は嫌いだと、そう思い込んでいた。

 

 カーマの自認識が何もかも間違っていることに、カーマは気付けない。

 

「それ、正義と何が違うんですか?」

 

「正義は正しいものだよね。

 でもほら、個人の善ってつまり

 『こういう人や世界が好きっていう皆の総意』

 みたいなものじゃない?

 正しいことではないと思うんだ。

 "皆こうだったらいいな"があるだけで。

 僕は自分が正しいとか思ってるわけじゃないんだ。

 他人を助けて、守って、優しくして、気遣う。皆そうなれればいいなって思うだけ」

 

「……」

 

「周りの人にそうなってもらいたいなら、僕が最初にそう在るべきだと思ったんだ」

 

 キラキラとしていた。

 眩しかった。

 だからカーマは、自分が『それ』に対してどんな感情を抱いたのか、分からなくなった。

 

「さーっぱりわかりませんね! 聖人君子じゃあるまいし、理解できませんよ」

 

「思ったより全否定された……」

 

「人の本質は愛ですよ。

 善とか正義なんて後付けです。

 善も悪も正義も醜悪も皆愛から生まれるものです。最悪ですね。

 人は愛なくして生きられず、愛ゆえに醜悪にならずにはいられないんですよ」

 

 カーマは嘲笑を浮かべ、愛の神らしい言い草で、愛の神らしくない侮蔑を混ぜて、愛を語る。

 対し少年は、ピンときていなかった。

 

「愛って、よくわかんないなあ」

 

「はぁ? 愛がなくて生きていける人間なんて居ないでしょう」

 

「……どうなんだろうね。親に愛されたことがない子供って、愛が分かるのかな」

 

 カーマは一瞬、言葉に詰まる。

 全ての生き物は、親から愛を学ぶ。

 親が自分にしてくれたことを記憶し、親のマネをして自分の子供に同じことをして、子孫代々連綿とそれを繋いでいく……これを、愛と言う。

 

 親の愛を教わっていない者は、愛を知っているのだろうか?

 本で読めば、愛は理解できるのだろうか?

 孤児院の管理者が大事にしてくれたら、それに愛と名付けていいのだろうか?

 そもそも、何が愛で、何が愛ではないのだろうか。

 何千年も文明を築いておきながら、人間という生き物は未だ、愛の定義すらできていない。

 

「大事にはしてもらった。

 優しくもしてもらった。

 でも、愛って言うと……どうなのかな……」

 

「あなたにとって愛とはなんですか?」

 

「分かんないよ。でも、うん、そうだな。

 『あなたの命を私の命より大事に思ってます』って、行動で示せることとかかな」

 

「難しい条件ですねぇ」

 

「でも、子供を愛してる親ならそうしそうじゃない?」

 

「……そうですね」

 

「僕が片手の指で数えられるくらいの歳の頃の話なんだけどさ。

 この辺に犬のおばけが出るって噂があったんだ。

 僕が孤児院を守るんだー!

 って僕はずっとパトロールしてた。

 でもマムにやんわり窘められてやめたんだ。

 その時……ちょっと、思った。

 僕をちゃんと愛してる親ならどうするんだろうかなって。

 ドラマみたいに僕を叱るんだろうかなって。……考えても、分かんなくなっちゃってさ」

 

 子供は、幼少期に、自分の中に席を作る。

 子供の頃大好きだった娯楽がいつまでも心の席に座り、大人になっても好きなままであるのと同じように、親からの愛もまた、心の中に座り続ける。

 けれど、親からの愛を受けずに育った子供は、"愛を座らせる席"を作らないまま、身体だけ大きくなっていってしまうのだ。

 

 カーマはそれを、見逃さなかった。

 

「私が愛してあげましょうか?」

 

「え?」

 

「私が愛してあげますよ。愛の神ですからね」

 

「待って待って、何、僕のママになるの?」

 

「それがお望みならなってあげますけど、恋人とかが妥当じゃないですか?」

 

「こ、ここここ恋人!?」

 

「あらあら……どうしたんですか、そんなに顔を赤くして」

 

「ま、待って! こういうのはそういう理由で決めるのは……」

 

「まあ全部冗談なんですけどね」

 

「オアッ」

 

「あ、いい悲鳴」

 

 くすくすと悪戯っぽく笑うカーマ。

 からかわれて顔を真っ赤にする少年。

 モデルの顔のトレースであるとはいえ、顔が良い美少女が笑うと、なんだか怒りも収まってきてしまうものだ。ずるい、と少年は思った。

 

「ま、初心な少年は初心な少年らしく、カーマお姉さんに全て任せて……」

 

 ドタドタドタ、と足音が近付いてくる。

 それが先程カーマを脂肪分アタックしたマムのものであることは明白で、カーマは言いかけた言葉を引っ込め、小さな悲鳴を漏らし、少年の後ろに隠れた。

 

「ひぃっ!」

 

「カーマお姉さんどうしたのかな」

 

「全部分かって言ってるでしょう!?」

 

 南無三。

 

 

 

 

 

 カーマはその後、抗うことすら許されず、マムの着せ替え人形になっていた。

 

「あれもこれもそれもどれもおおおおおおおお!!!」

 

「ふぎゃー!」

 

 肉体的強さではなく精神的勢いによって押し切るマムおばさんのパワーにカーマは敵わず、次から次へと服を着せ替えられていく。

 母は強し。

 カーマはどうにも、母属性の相手に相性が悪いようだった。

 

「ふ、ふふ……乗り越えましたよ……頑張った私……!」

 

 マムの魔の手から解放され、マスターの下に帰って来た頃には、カーマはすっかり憔悴しきってしまっていた。

 漫画を読んでいた少年が、いたわるような声色でそれを出迎える。

 

「お疲れ様。カーマのそれ、セーラー服?」

 

「ええ。古着をいっぱい貰ってきました。思わぬ僥倖ですね。不幸中の幸いでしかないですけど」

 

 セーラー服を着たカーマが、少年の前でくるりと回る。

 カーマのいつもの服であれば、妖精のようにすら見えたかもしれないが、セーラー服という現実の延長の服を着ていると、そのアンバランスが見る男の心を惑わせる。

 少年もその例外ではない、が。

 彼の心が揺れるのは、別の理由だった。

 

「どうです? 思い出したりしますか?」

 

「……」

 

「あなたの学校の制服で、あなたの好きだった女の子の顔ですよ?」

 

 少年は口を開き、声を荒げようとして、ぐっとこらえて、言葉を飲み込む。

 

「どうしてカーマはそんなことをするのか、聞いてもいいかな」

 

 結局口から出てきたのは、優しい声色で諭すような語調の言葉。

 

 "自分を殺して優しく語りかけた"マスターに、カーマは落胆し、溜め息を吐いた。

 

「怒ってほしいんですよ」

 

「怒ってほしい……?」

 

「私はカーマ。

 愛の誘惑を行う者。

 聖者を愛欲で狂わせた恋の弓神です。

 私は、仏教における禁欲を揺らがせる誘惑の神として信仰を集めました。

 仏に至ろうとする者達は、多くの禁欲を自らに課したからです。

 女に惑わされてはいけない。

 酒を飲んではいけない。

 嘘をついてはいけない。

 生物を殺してはいけない。

 他人の物を盗んではいけない。

 仏教にはそれらの(シーラ)があります。

 『怒ってはいけない』も戒の一つですね。

 それが人を縛り、それを守ることで人は堕落を防ぐ……と、昔の神は考えたんですよ」

 

「僕、仏教徒じゃないけど」

 

「いーんですよ、修行僧とかじゃなくても。

 ただ単に、こういうのを破れば破るほど、人は堕落するってだけですから」

 

「怒ったら堕落になるの?」

 

「はい、なります。

 その分だけ人は仏から離れ、魔に近いものになります。

 ……いえ。

 言い換えますね。

 これを破れば破るほど、人は神から遠ざかって、人間らしくなるんですよ」

 

「人間らしく……?」

 

「ちょっかいかけて怒らせるのは私の得意分野だと思ってたんですけどね……失敗です」

 

 シヴァにちょっかいをかけて怒りを買ったカーマの自虐ネタである。

 あんまり笑えない。

 

「なんでカーマはそんなに怒りを……人間らしさを引き出そうとするんだい」

 

「聖人君子とか嫌いだからです」

 

「あっ、はい」

 

「マスターは私好みのマスターにはなってくれそうもないですね……」

 

「ごめんね」

 

「あ、ちょ、そこで謝らないでくださいよ」

 

「カーマの誘惑に乗ってあげられなくてごめん。

 こういうところでちゃんと空気読めないといけないんだよな……」

 

「は!? 何言ってるんですか!?

 人間ごときが私の本気の誘惑に抗えるわけないでしょ!

 私まだ本気出してないだけですから! まだ! 見ててくださいよ!」

 

「いや僕じゃなくて君が怒ってどうすんの」

 

「怒ってないですぅー! 私怒らせたら大したもんですよくらぁ!」

 

 人間の善性を集めているがゆえに人間味が薄くなるのが聖人君子なら、人間の醜い部分を引き出そうとする悪神は、人間らしいと言えるのだろうか。

 世間一般の人が考える神の精神性はむしろ少年の方にあり、少年よりも神であるカーマの方がずっと人間味があった。

 

「ところで何読んでるんですか?」

 

「学校の友達に貰ったドラゴンボール全巻。面白いよ」

 

「へ~~~~~~~」

 

「そこまで興味無さそうな返事できるの逆に凄いな」

 

「外行きましょうよ外。

 聖杯戦争の戦いは夜ですけど、昼の間に調査と探索進めておくのは悪くないと思いますよ」

 

「外か……確かに、いいかもね。魂喰いとかは絶対に許せないし、止めたいや」

 

「あと室内よりは外で遊びたいです」

 

「本音出てる……」

 

「ほらほら行きましょう! セーラー服美少女とデートですよ?」

 

「カーマって美少"女"判定でいいのかな。容姿は美少女のコピーだけど」

 

「肉体失ってるのでどっちにもなれますよ。どっちがいいですか?」

 

「ええ……好きだった子にちんちん生えてるのは見たくないかな……」

 

「私は男の体だった期間の方が長いんですが、何故か女の体の方がしっくり来るんですよね」

 

「おちんちんの気持ちを忘れないであげて」

 

「私カーマですよ?

 乱交推奨のヤりまくりゴッドですよ?

 昔の女は忘れるのがウェーイ系テニサーの理です。もう忘れました」

 

「ちんちんを女の子扱いしてる人初めて見たわ」

 

 やれやれ、と言わんばかりの顔でテクテクと歩いていくカーマの手を、少年は思い切り引っ張った。

 

「危ない!」

 

「え?」

 

 と、同時、カーマの横にあった大きな本棚が壊れ、本の雪崩が一瞬前までカーマが居たところになだれ込む。

 そこに人間がいたら大怪我間違いなしだったことを確信させる、重いものがぶつかり合う嫌な音が、その場に響いた。

 

「あっぶな……この本棚古くなってたからなあ。カーマ、大丈……カーマ?」

 

 下心はない。

 それはカーマにも分かっている。

 だが、手を握られ、強引に抱き寄せられ、少年の腕の中で抱きしめられている現状を認識し、カーマの頬には誰が見てもはっきりと分かるほどに赤みが差していた。

 

「カーマ?」

 

「こっちの顔見ないでください」

 

「カーマ……?」

 

「ちょっと手を握って抱きしめたくらいで調子に乗らないでほしいですね!」

 

「しっかりするんだヤりまくりゴッド!」

 

「うるさいですよ!」

 

 カーマが少年に背を向け、走り出す。

 セーラー服の下の下着が見えることも全く気にしないフォームによる、超絶全力疾走による逃走であった。

 羞恥がカーマを加速させる。

 

「カーマ! さっきもそうだったけど前と足元見て走って!」

 

「本棚が直撃したところでノーダメージなんですよ私は!

 庇ってもらったところで微塵も嬉しくないですバーカバーカ! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」

 

「カーマ! 野沢雅子みたいな声が出てる!」

 

「誰ですかそれ知りませんよ!」

 

「フリーザに痛めつけられてる時の孫悟空の声!」

 

「知りませんよ!!!!」

 

 走るカーマ。

 追う少年。

 少年の制止に言い返そうとするあまり前を見ていなかったカーマ。

 突っ込んでくるトラック。

 

 かくして、トラックが孤児院前の水溜りを全力で踏み、派手に巻き上がった泥水が、カーマの全身をべっちゃべちゃにした。

 

「……」

 

「カーマ……」

 

「なぁんでこうなりますかねぇ!」

 

「着替えようか……」

 

「はい!!!」

 

 可愛い子だと、少年は思った。

 生意気な人間だと、少女は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜、少年は夢を見た。

 知っているような、知らないような、そんな夢だった。

 

 マスターとサーヴァントの精神は、パスを通じて繋がっている。

 マスターはサーヴァントの、サーヴァントはマスターの、記憶を夢のように見ることがある。

 時には、サーヴァントの精神にマスターの精神がそのまま入り込むことすらある。

 マスターとサーヴァントは一蓮托生。運命共同体である。

 運命だけでなく精神も密接に繋がっていて、互いに対してこれがあるため、隠し事を徹底するのが非常に難しい。

 

 少年が夢に見ているものは、彼のサーヴァント……カーマのものだ。

 

『なんで私だけが罰を受けてるんですか!?』

 

 カーマは世界のため、神々の指示を受け、シヴァに矢を射掛け、シヴァの怒りを買って焼き尽くされ、永遠に肉体を失った。

 

『私は役目を果たしました!

 愛の神として!

 全てを愛して、愛を蘇らせようとしました!』

 

 魔神ターラカは打ち倒され、皆幸せになった。カーマを除いて。

 

『得をしたのはターラカに虐げられていた全ての人。

 私に命令した神にはお咎めなし。

 シヴァは愛する妻の転生体と結婚してハッピーエンド。

 パールヴァティーはシヴァと結ばれてめでたしめでたし。

 ……私は? ねえ、私はどうなんですか、これ。シヴァが許すまで、私はこのまま?』

 

 笑えないことに、カーマは理不尽に無駄死にしただけだった。

 シヴァはカーマがした行為とは何ら関係なく、転生した妻と結ばれ、子を作り、そして世界を救ったのである。

 カーマが死んだことに、何の意味も無かった。

 カーマの事情を汲もうとした神も居なかった。

 

『私が他人を愛しても、他人は私を愛してくれないんですか?

 私が愛の神だから?

 それが私の仕事だから? だから……誰も……私を愛してくれないんですか?』

 

 居なかったのだ。

 

『は、ははっ。

 笑っちゃいますね。

 シヴァとパールヴァティーの愛は世界を救うのに……

 私の愛は修行の邪魔で、殺されて体を焼き尽くされても仕方ない罪だったんですか』

 

 愛の神が、愛の復活を依頼され、失敗した挙句に焼き殺され、自分のやったこととは何も関係なくシヴァとパールヴァティーに普通に愛が誕生する。

 カーマの心は折れ、やさぐれ、世の中の何もかもを斜に構えて見るようになり、聖杯に『あの過去をなかったことにして欲しい』という願いすら持たない人格ができた。

 

 過去を変えたい、という強い願いもなく。

 許さない絶対に復讐してやる、という熱もなく。

 「はいはい私のせいですね私のせい」と倦怠のセリフを吐く神様が出来上がった。

 諦めて、バカにして、適当にやってるフリをして、やる気の無さそうな自分を作る。

 そうしなければ、耐えられなかったから。

 過去改変や復讐のために全力を尽くそうとするには、カーマはあまりにも折れていた。

 

『まるで、皆が雑に扱う玩具みたいですね。私』

 

 シヴァとパールヴァティーの関係が愛の素晴らしさを伝えるものならば、カーマは愛の神でありながらそのかませにしかなれなかった塵芥である。

 

『……無価値な愛欲の神、か』

 

「違う!」

 

 もう何も変えられない過去の記憶、記憶の中のカーマのつぶやきに、少年は声を張り上げた。

 

 初めて出会った時、カーマの姿に見惚れた。

 まるで陽炎のような、姿があって姿のない美しさに見惚れた。

 助けてくれて、守ってくれて、感謝もしている。

 まだロクに付き合いもないけれど、カーマの自己否定の言葉を、少年は受け入れることができなかった。それだけは、絶対に受け入れられなかった。

 

「他人が雑に扱っても!

 他人に利用されるだけでも!

 やったことが無意味に終わっても!

 頑張ったのが報われなくても!

 自分の価値を決めるのは君だ! 他人じゃない!

 僕達は何があっても、自分の価値だけは自分で決めないといけないんだ!」

 

 まるで、自分に言い聞かせるような言葉が、繋がった精神のラインを通して響く。

 

「じゃなきゃ、じゃなきゃ―――この世界は、救われない人が、多すぎるじゃないか!」

 

 

 

 

 

 鏡のような、夢だった。

 

 

 

 

 

『君、親居ないんだって?』

『かわいそ~』

『親居ない子はちょっとおかしい子が多いから近寄るなってお母さんが言ってた』

『くっさ、孤児院の臭いがする』

 

 サーヴァントの過去をマスターが見れるのならば、その逆もある。

 サーヴァントもまた、マスターの過去を覗くのだ。

 少年の過去を夢見るように見ているカーマは、夢の中でしかめっ面をしていた。

 

『働きたい? でも君子供じゃ……分かった分かった、でも給金は安いバイトだよ』

『この孤児院の取り壊しが決まりました』

『あの男の子の周りではよく不幸が起こるらしいわよ』

『ああいう子にうちの子と同じ学校に通ってほしくないのよね』

『孤児院で育ってるから、家庭で受ける当たり前の教育を受けてないのよ』

 

 カーマは、カーマの弓を作ってくれた春の神ヴァサンタの言葉を思い出していた。

 ヴァサンタは言っていた。

 いつも笑っている人は、心が壊れた人か、人よりも我慢している人しかいないと。

 

「……我慢するのが美徳だとでも思ってるんですかね、マスターは」

 

 記憶の流れが、カーマにマスターがどういう人間かを教えてくれる。

 どんなに我慢する人間でも、どんなに抱え込む人間でも、どんなに弱音を吐かない人間でも、自分が従えているサーヴァントにだけは、過去を隠せない。

 それが聖杯戦争である。

 

『僕は捨てられっ子の孤児院育ち。人よりも我慢しないといけない』

 

『自分を殺さないと。周りに合わせて、周りを立てて、周りを得させて言うことも聞いて』

 

『自分を殺せ。

 願いを捨てろ。

 我儘は言うな。

 自分を殺さなければ、この世界に居場所はない』

 

『僕は親が居ないから、人よりダメなんだ。皆そう言ってる』

 

『優しい人でいよう』

 

『僕と同じ想いをしている人がいたら、僕が気付かなくても、見逃さないように』

 

『僕が決して追いつけないくらい立派な人が、ちゃんと幸せになれるように』

 

『いつか、優しさが行き渡ったら。

 皆が皆、周りの人に自然と優しくできるようになったら。

 僕みたいな孤児がまた生まれても、皆がその孤児に優しくしてくれるはずだから』

 

『優しい人でいよう。世界にそうなってほしいから。それが僕の願い』

 

『聖杯に叶えてもらうのは、違う。

 奇跡でそんな世界を作れても……

 きっと、奇跡だけで、そんな世界は続かない』

 

 カーマは舌打ちした。

 

「マスター。私、キラキラしてる人は嫌いだって言ったはずですけどね」

 

 "せめて彼に親が居たら、彼は自分のこの大きな愛に気付けていたはずなのに"と思って、自分がそんな甘っちょろいことを思ったことに辟易して、カーマは更に舌打ちした。

 そして見た。

 

『―――くんっ! 一緒に運動会管理委員やってー!』

 

 今のカーマと同じ顔の少女が、彼に優しくしていた記憶を。

 

 児童養護施設内部のいじめは、深刻な社会問題である。

 児童養護施設の外に出ても、児童養護施設の子供は学校で更にいじめられるという。

 学校でも、児童養護施設でも、いじめによる殺人事件はたまに起こる。

 孤児へのいじめなど、先進国ですら大して珍しいことでもない。

 孤児へのいじめは、大人も加担することが多いからこそ、救いがない。

 

 そんな中、少年に友人として優しくしてくれる少女が、一人だけいた。

 生まれも育ちも気にせず優しくしてくれた。

 だから恋をした。

 けれど、もういない。

 

 少年の初恋の相手は既に聖杯戦争に巻き込まれ殺され、その容姿は、カーマによってコピーされている。

 カーマは頬に手を当て、少年の心情に思いを馳せた。

 終わった恋の残骸が、カーマの顔に貼り付いている。

 

「ああ……だから、好きになったんですね。これが初恋だなんて、運の無い人」

 

 欠落と善性。

 

『もう彼女は天国に行ってるのかな……聖杯で連れ戻すのは、悪いことなのかも』

 

 世の中にありふれた不幸が、世の中にありふれた欠落を彼に与え、生まれつきの善性で生きる彼を、独特な人間に仕立て上げている。

 誰も憎まず。

 誰も恨まず。

 聖杯で初恋の人を蘇らせようともせず。

 他人に優しくするのが好きだから、他人に優しくし続ける。

 

 月の光のような優しさだった。

 月は、夜道を一人で歩く寂しそうな人に、ひっそりと優しく寄り添うのだ。

 太陽のように熱くもなく、強くもないが、穏やかに寄り添う月光のような優しさがあった。

 誰かを照らす優しさがあった。

 

『僕は、親に"お前はいらない"って言われた、そんな出来損ないだから。馬鹿にされて当然』

 

 その始まりに孤独があったことが、カーマは悲しかった。

 

 捨て子の気持ちは当人にしか分からない。

 物心ついた時には親に捨てられていた。

 親の愛を知る前に、親に愛されなかったことを知った。

 親の顔は知らないが、親が居ないことをバカにしてくる大人の顔は覚えた。

 無条件で親に愛される同級生を見ながら、生まれてすぐ親に見捨てられた自分を見る。

 

 そんな孤独から生まれた優しさが、カーマはたまらなく愛おしかった。

 

『生まれた意味ってなんだろう。生きてる意味も、無いのかな』

 

「違いますよ」

 

 カーマは愛である。愛そのものの神格化である。

 現存する最古の文献記載において、宇宙の始まりに誕生した、始まりの者である。

 カーマに父親はいない。愛は最初に生まれ、カーマは最初に生まれた者であるからだ。

 愛は宇宙創生の原動力であるとされながら、神話の中での扱いは悲惨。

 それがカーマという神である。

 

 全ての生命が親を必要とする以上、ほとんど全てのサーヴァントには親が居る。

 しかし、カーマには居ない。

 親が居ない者の気持ちを、カーマは他の神よりずっと実感的に理解できるのだ。

 親など居ないまま、孤独の宇宙を揺蕩っていた神なのだから。

 

「大人になれば分かります、マスター。それは違うんです」

 

 侮蔑、嘲笑、怠惰、否定。今のカーマの言葉にはそのどれもない。

 

「周りがあなたを嫌っても。

 あなたが殺されて当然だと思っていても。

 あなたが理不尽な目にあって眉一つ動かさなくても。

 ……あなたが痛めつけられて当然の人間だなんてことにはならないんです」

 

 まるで、自分に言い聞かせるような言葉が、繋がった精神のラインを通して響く。

 

「だから……『理不尽』に対して()()()()じゃ、何も解決なんかしやしないんです」

 

 鏡のような夢だった。

 

「いつかどこかで『ふざけんな』と言わなければ……私だって……あなただって……」

 

 互いの指と指を合わせて遊ぶような、精神の繋がりと想いの交流。

 

 マスターの想いはサーヴァントに流れ、サーヴァントの想いはマスターに流れる。

 

『誰かを愛せる人を、ちゃんと大切にしよう。それを僕が生きてる意味にしよう』

 

「―――」

 

 心が繋がるだけで、互いが救われる関係もある。

 

「……」

 

 マスターが何の触媒も持たずに召喚を行った場合、マスターの属性・性格・運命などが触媒の代わりとなり、召喚が行われる。

 よって極めて相性が良いことも、極めて相性が悪いこともある。

 かなりの博打になってしまうため、大抵のマスターは無触媒での召喚を行うことはない。

 

 カーマは彼の恋の残骸に引き寄せられ、精神の相性をもって召喚された。

 

 運命のような二人だった。

 

『僕もカーマにちゃんと気を使わないと。

 彼女からすれば異国の地だ。

 過ごし辛いこともあるだろうし。

 もう随分我儘も聞いてもらってる……

 いつものように、自分を殺して、彼女に合わせる。よし』

 

 「なんでそんなにバカなんですか?」と反射的に言おうとして、カーマは我に返る。

 真面目な顔で、こっ恥ずかしいことを言って、マスターを本気で想っていた数秒前の自分が恥ずかしくて恥ずかしくて恥ずかしくて、カーマは赤くなった顔を思い切り叩く。

 呆れてものも言えなくて、カーマは深く深く溜め息を吐く。

 

 カーマはキラキラした人間が嫌いだ。

 相対しているだけで自分の卑屈さやみっともなさを突きつけられる気分になるから。

 そんな人間に愛されたいと自分が期待して、それが裏切られるのが怖いから。

 キラキラした人間を、どこか見上げるように自分が見ているのを自覚しているから。

 だから、嫌いだ。それは、好きということでもある。

 

「バカじゃないですか」

 

 自分を殺す。

 他人に殺される。

 それがこの少年の人生であるならば。

 それは、自分の意思ではなく他人の意思で矢を放ち、全てが他人の都合のまま、他人に殺されたカーマの、鏡の向こう側のような人生である。

 神話の中でカーマは自分を殺し、神々にもシヴァにも復讐などしなかったのだから。

 

「マスターが従えてるサーヴァントに自分を殺されて、どうするんですか……」

 

 それは共感と言うにはあまりにも重く、同情と言うにはあまりにも複雑な感情だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、朝。

 

「おはよう、カーマ」

 

「おはようございます。今日も生意気な顔をしてますね」

 

「カーマの夢を見たよ、うん」

 

「へええ~私のこと夢に見るくらい私のこと好きになっちゃったんですかぁ~」

 

「カーマがかわいそうで……優しくしてあげないとなって気持ちです」

 

「ちょっ……なんですかその目! やめてくださいよ気持ち悪い!」

 

 何かあったわけでもなく、"夢を見た"だけなのに、妙に距離感が近付いていた二人がいた。

 

「というかなんでこんな朝早くから勉強してるんですか……気持ち悪い……」

 

「学力を活かして高収入を急いで獲得して孤児院を救いたかっただけで酷い言われよう」

 

「今からでもダメ人間目指しませんか? 私の好みの男の子はダメ人間ですよ」

 

「嫌です……」

 

「なんで?」

 

「なんでじゃないんだよ。僕今年で中学卒業しちゃうし」

 

「気持ち悪いを気持ち良いにしませんか?」

 

「スマホの下から飛び出てくる広告みたいなフレーズが飛び出して来た」

 

 勤勉な少年。

 堕落の少女。

 それはさながら悟りに向かう聖人ブッダと誘惑で邪魔をする魔王マーラの関係を思わせたが、それらを重ねるには聖性が大分足りていない。

 

「っと、もう一個」

 

 カーマが少年の周りで手を動かし、空中の虫を握り潰すような所作をする。

 

「今何したの?」

 

「いわゆる小魔を握り潰しただけですよ」

 

「醤油?」

 

「随分美味しそうですね……小魔です。魔は魔を呼ぶんですよ。知らないんですか?」

 

「ああ、ママって言葉の由来知らなかったけど、マがマを呼んだのか。なるほど」

 

「違いますよおバカ!

 魔は魔に寄っていく習性があるんです。

 魔が差す。

 通り魔。

 古来より魔術を扱う家は"そういう魔"に憑かれやすいんですよ。

 だから魔術師の家系の人間が無知なまま野に下ると大抵不幸になります。

 魔から身を守る術を与えるために、魔術師が魔術師に養子を出す理由がそれです」

 

「悟空がピッコロに息子預けて鍛えさせたみたいなものかな?」

 

「……私もその内ドラゴンボール読んでおいた方が説明に便利そうですね」

 

「え、本当に!? ドラゴンボールトークしようトーク!」

 

「うるさいですね!!

 なんで私の誘惑に勝っておいて鳥山明の誘惑にそんな負けてるんですか!?」

 

 握り潰された小さな怪魔が、微小な魔力の粒子になって霧散していく。

 それが見えていることも、こういったものが引き寄せられていることも、この少年が普通でない非凡な存在であることの証明だった。

 

「まあとにかく、マスターの日常の不運は大体これですよ」

 

「え」

 

「マスターの垂れ流しの魔力に引き寄せられてるんです。

 良くて不運の連続。

 悪ければ精神を病み狂います。マスターの精神力は大したものですね」

 

「……本当に?」

 

「ま、気持ちは分かります。これまでの過去を嘆くならご自由に……」

 

「ありがとうカーマ! じゃあ、これからはそういうことないんだ! 本当にありがとう!」

 

「……もう」

 

 夢を見る前と、見た後で、カーマの態度にも変化が生じていた。

 脳天気なマスターに対する呆れと嘲笑が、呆れと慈しみに変わっている。

 "理解"が、カーマの態度を変化させていた。

 

「こういったものに干渉されることを『魔が差す』と言うわけです。

 私だったり、天魔の類だったり、小魔だったり……

 そういうものが人を惑わせ、仏門の者の修行の邪魔をし、堕とすんですね」

 

「なるほど」

 

「自衛の手段くらい覚えておきましょうか?」

 

「自衛?」

 

「ちょっとくらいは魔術覚えてみますか? 教えますよ? ってことです」

 

「!」

 

「ま、私が教えられるのなんてカーマ信仰に根付いた愛の魔術くらいのものですけど……」

 

「お願いします!」

 

「うーん判断が早い。いい戦士(クシャトリヤ)になりそう」

 

 魔術とは一朝一夕で極められるものではない。

 が、才覚と魔術回路さえあれば、ある程度どうにかなることもある。

 魔力量さえあれば、指差したものの体調を崩すだけの呪術の基本『ガンド』でも、拳銃レベルの威力を発揮することも難しくはない。

 カーマの見立てでは、少年には十分すぎるほどの魔力量があった。

 ()()()()()()()

 

「やっぱり天然物とは思えないんですよね……」

 

「何が?」

 

「あなたの魔術回路、多分結構いいところの魔術師の家系のものですよ」

 

「あったかそう」

 

「魔術カイロじゃないです。

 魔術師の神経にして内臓、魔力のエンジンですよ。

 これがあるから魔力を作れる。

 これがなければ魔術師にはなれない。

 魔術回路が多いほど魔術師として優秀です。

 歴史があり強い家系ほど多いんですが……」

 

 カーマが少年の手を握り、体内の回路を探ると、手を握られている照れと体内を走るむず痒い感覚に、少年は少し顔を赤くして身悶えした。

 作業に集中しているカーマは気付いていない。

 

「……天然物でこれだけ回路が多いことはあまりないので、邪推しちゃいますね」

 

「多いと困るの?」

 

「いいえ。基本的には得です、基本的には。

 私に流れ込む魔力になっているので、私も万全で戦えています」

 

「あ、そうなんだ」

 

「ただ、先に言った魔を引き寄せる悪影響もあります。

 チャクラ開きっぱなしではいいこともないです。

 それに、厄介な裏事情があったら、この先マスターの人生に関わってくるかもしれません」

 

「厄介な裏事情……?」

 

「聖杯戦争が終わったら私は帰りますから。その後のことを考えると、どうにも……」

 

 作業に集中しているせいか、普段は零れ落ちないカーマの本音、根底にある善良さが、ぽろっと言葉としてこぼれ落ちる。

 少年の口角が、少し上がった。

 

「名門の魔術師がヤリ捨てとかしたのがマスターだったりするかもですね?」

 

「いきなり闇が深くなってきたね……」

 

「うーん、でも。

 神秘は秘匿し独占するものなんですよね……

 そんな自分の血統を拡散すること、魔術師の多くはあんましないんですが……

 けど……インドだとカーストもあって被差別階級の愛人にはたまにありますし……」

 

「カーマに分からないなら僕にも分からないよ?」

 

「だから自衛のために教えるってことです。あくまで念の為に。

 魔術師の実験体が逃げた可能性だってあります。

 今後何があるか分からないなら、私が居なくなってもちゃんと生きられるようにしましょう」

 

「なるほど! 分かった!」

 

「はい、良い返事です。ま、どう転がっても真っ当な親ではないでしょうし」

 

 カーマは一瞬言い淀んで、言うのを躊躇った言葉を、結局口にした。

 

「……真っ当な親がマスターを要らない子だと思って捨てたってわけではない、ってことです」

 

 親に捨てられたことが、その子供の価値を否定するものであるのなら。

 カーマの言葉は、否定の否定だった。

 子供を捨てた親を否定することで、子供の価値を証明するものだった。

 否定する形で肯定するという、酷くひねくれた、けれど優しい言葉だった。

 

「カーマは優しいね」

 

「ばっ……ばっかじゃないんですか! 修行に集中してください!」

 

「うん」

 

「まったく……」

 

 カーマは頬杖をついて、気怠げにマスターへ指導していく。

 

 ずるずるとマスターに引きずられて、彼に感情移入していく自分が、嫌で、不快で、面倒で、情けなくて、けれど、好きで、心地良くて、楽しくて、どこか誇らしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聖杯戦争には、大まかに二つの戦術が存在する。

 能動か、受動である。

 

 能動は自分から動いて状況を変化させる。

 魂喰いでサーヴァントを強化する者、敵を探して夜の街を徘徊する者、調査で敵の拠点を見つけて襲撃していく者などがこれに該当する。

 

 受動はあまり動かない。

 参加者が減るまで潜伏して漁夫の利を狙う者、陣地を作って引きこもり魔力を溜め込む者、怯えて自宅から出られなくなった者などがこれに該当する。

 

 ただ勝つだけなら、自分に合った戦術を選択し、状況に合わせて方針を調整していけばいい。

 が、それ以外に目的があるならば別の選択肢もある。

 たとえば、街を聖杯戦争から守りたい場合などだ。

 

 その場合、夜に街を出歩くことが正解の選択肢となる。

 魂喰いが行われていればそれを止められる。

 他の参加者とバッタリ会えば、他参加者の行動の邪魔と参加者の減少が同時にできる。

 能動的に動いている参加者を一掃できれば、とりあえず街の人間に被害が出る可能性は格段に下がるだろう。

 

 当然ながら、「もう誰も聖杯戦争の犠牲者にはしない」と決めているこの主従は、夜の街を能動的に動くことになる。

 

「見つけました」

 

「どこ?」

 

「あの橋の前です」

 

「よく見えるね……」

 

弓兵(アーチャー)ですから」

 

 高層ビルの屋上で、マスターを横目でちらりと見て、カーマは弓を構えた。

 

 矢先が狙うは、橋の前の敵。馬に騎乗している姿を見るに、おそらくはライダーだろう。

 

「宝具の許可をお願いします」

 

「うん。頼む、カーマ」

 

「おまかせあれ―――『恋もて放つは花の五矢なり(クマーラ・サンバヴァ・サンモーハナ)』」

 

 カーマが弓に矢をつがえ、瞬く間に矢を放つ。

 伝承に従った五本の矢は音もなくライダーへと迫り、超人的な反応をしたライダーは手に持った槍で矢を弾く。

 だが、矢を弾いた瞬間、ライダーは構えを解き、夢見心地な様子で空を仰いだ。

 続き放ったカーマの矢が、呆けているライダーの横を素通りし、後ろのマスターに刺さる。

 

「私の矢は恋慕の矢。

 防御しても意味はなし。

 受けた時点で効果が出ます。

 かのシヴァですら、防御はできても効果はありました。

 魅了無効系のスキルがなければ、矢を受けた者は私に魅了され―――ああなります」

 

 カーマはマスターを横抱きに抱きかかえ、高層ビルの側面をひょいひょいと駆け下りていく。

 

「失礼します」

 

「わ、わっ」

 

「女の子に抱き上げられるのは初めてですか?」

 

「こんな風に抱き上げられるのが初めてだよ!」

 

「あらあら」

 

 カーマ達を目の前にしても、ライダー達は戦闘態勢を取らなかった。

 それどころか、カーマに見惚れていた。

 

 カーマに魅了された者はあらゆる能動的な行動ができなくなる。

 そして、従順な彼女の駒となるのだ。

 

「自害してください」

 

「はい」

 

 カーマに指示されたライダーは自害し、消滅。

 

「令呪を放棄し、敗退を受け入れ、街を出て行ってください」

 

「はい」

 

 マスターもまた、カーマの言う通りに聖杯戦争から脱落していった。

 

「とまあ、こんなものです」

 

「おー」

 

「私のありがたみが分かりましたか?

 マスターは欲深ですからね。

 不殺で勝ち抜くとかとんだ強欲ですよ、まったく。

 普通のサーヴァントならそんなことはできませんが、私は別です。

 凄いでしょう? まあ、あなたみたいなマスターの我儘に付き合うのも私くらいのもんですよ」

 

「カーマは出会った時からずっと凄いよ。ずっと頼りにしてる」

 

「……そ、そうですか。まあ私は頼りになりますからね。どしどし頼ってください」

 

 褒めてもらいたかったのは分かるけどなんでいざ褒められるとこんな照れるんだろう……と、少年は思った。

 

「それにしても、今回は矢が爆発しなかったね」

 

 少年は不思議に思った。

 カーマが最初に出会った時撃った矢は、極大の光を放ってセイバーを消し飛ばした。

 その余波でセイバーのマスターも気絶させたほど、大威力の矢であった。

 ところが今回は同じ名の技を放ったはずであるのに、

 

「ああ、あれは壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)です。

 撃った矢に詰まっていた魔力を爆発させただけですよ。威力が欲しかったので」

 

「へー、それで矢は減らないの? 矢を補充してるところ見たことないけど」

 

 カーマは手の中で矢をくるくると回し、簡潔に、かつ自慢気に答えた。

 

「私には数々の異名があります。

 身体無き者(アナンガ)。ゆえに何にでもなれます。

 美しき者(アビルーパ)。ゆえに私は美しいです。

 心に生じた者(マナシジャ)。ゆえに私はマスターの心にも在れます。

 燃え上がらせる者(ディーパカ)。ゆえに私は炎の属性を持ちます。

 鋭い者(グリッツァ)。私は他人の心の機微に鋭いです。

 幻惑する者(マーイー)。私は人を惑わします。

 愛に熱中する者(マダン)。私はまあ……惚れっぽくて一途です。

 花の矢の者(クシュメース)。そのため、私が放つのは全て花の矢です。

 そして、奇数の矢を持つ者(アサマバーナ)

 私の矢は全て奇数、もっと言えば五本でなければなりません。

 使った分の矢は自動で私の手の内に生まれ直し、常に五本になります。

 そのせいで五本以上持ってると五本まで減っちゃうんですけどね。痛し痒しです」

 

「おお、なんか凄いね」

 

「凄いんですよ、ふふん」

 

 カーマは弓を小脇に抱えて、マスターの腕を抱きしめるように抱え込む。

 

「あと、もう一つ」

 

 微笑み、愛を伝え、欲求を刺激し、人間の本能を引っ張り出す。

 それは、サーヴァントとしてのカーマの本能のようなもの。

 

愛の根源(シュプリンガーラ・ヨーニ)です。あなたをちゃんと愛してますよ、ふふ」

 

 少年はくらっと来たが、なんとか堪えた。

 カーマの容姿にも慣れた。

 この容姿で接してくるカーマのおかげで、彼女の死も心の中で整理がついてきている。

 カーマの誘惑にも耐えることができている。

 カーマ本人には自覚がないようだが、本人の根底にある善良さや、本人の願望である『愛するより愛されたい』という欲求のせいで、いまいち誘惑の完成度が低い。

 

 それでもくらっと来るのは、カーマが誘惑していない時、凛々しくマスターを守っている時、半泣きで半ギレになっている時、マスターの心に刺さる何かを見せているからだろう。

 

「さて、デートしながら帰りますか……って言おうと思ったんですけどね」

 

「どうしたの?」

 

「お客さんです」

 

 カーマがマスターの腕を離し、弓を構えた。

 夜闇からローブで姿を隠した奇妙な男と、筋骨隆々とした息を荒げている男が現れた。

 息を荒げている男は目の焦点が合っておらず、挙動も不審で、明らかに頭がおかしい。

 バーサーカーである、と見て間違いないだろう。

 バーサーカーとそのマスターだ。

 おそらくは潜伏を選び、他のサーヴァントが戦闘するのを待ち、片方が脱落し、勝った方の真名も特定できたことで、漁夫の利を取りに来たのだ。

 

「別のマスターとサーヴァント……!」

 

「へっへっへ……真名はカーマか……転生先の英雄としての側面が出たのか?」

 

 新手を見て、少年は緊張から体を強張らせ、カーマはやる気なさそうに気怠げな表情を浮かべ、弓を手の中でくるくると回す。

 先程の戦いのようにはいかない。

 なぜなら、もう既に距離を詰められているからだ。

 

 聖杯戦争に参加する七騎のクラスはセイバー、アーチャー、ランサー、ライダー、アサシン、キャスター、バーサーカー。

 この中でもアーチャーとキャスターは――例外はあるが――遠距離型のサーヴァントである。

 距離を詰められると一瞬で負けることがあるクラスだ。

 セイバーの剣が届く前に初撃で葬ったのも、ライダーを遠距離から一方的に仕留められたのも、カーマがアーチャーであるからだと言える。

 この距離は不味い。

 アーチャーがバーサーカーと戦うには、近すぎる。

 

 カーマは敵のセリフの途中に容赦なく、一秒も使わず、弓矢を抜き打ちした。

 矢はバーサーカーの腕に刺さったが、バーサーカーはものともしない。

 

「無駄だ、効かねえよ」

 

「魅了無効、ですか。持ってるサーヴァントは少ないと思いましたが……どうもツイてませんね」

 

「へっ、バカだな。

 聖杯戦争ってのはな、真名当ての戦いよぉ。

 真名は徹底的に隠す。

 敵の真名をなんとか探る。

 そうして戦うもんだ。

 てめえらみてえに敵の真名に興味持たず、自分の真名を会話に出す二流は死ぬのさ」

 

 カーマは眠そうな目で、やる気なさげに、敵を見据える。

 光のない虚無の瞳。底が見えず、何を見ているかも分からない。

 不気味な瞳に、バーサーカーのマスターは少し気圧された。

 

「ああ、違いますよ。私があなたみたいな戦略を取ってないのは、あなたに興味がないからです」

 

「は?」

 

「興味がある人のことは何でも知りたいと思ってますよ」

 

 どうでもいいのだ。

 カーマには大抵のことがどうでもいい。

 適当にやっているし、他人の熱意や言葉も小馬鹿にして流すだけ。

 生前の出来事のあれこれで心が折れているから、何もかも無気力にやっていて、世の中の何もかもを斜に構えて見ている。

 だから、大抵のことはどうでもいいのだ。

 

 けれど。

 その瞳は、いつだって、自分がどうでもいいと思わない何かを探している。

 

「あなたは敵ですが、まあどうでもいいですね」

 

 どうでもいい敵を見据えて。

 

 どうでもよくないもののために、カーマは弓を引いた。

 

 

 

 

 

 古代インドの最古の聖典(ヴェーダ)、リグ・ヴェーダ曰く。

 カーマは敵を破壊し、駆逐する、力強き神である。

 カーマの別名・マーラは『殺す者』の意である。

 

 聖典(ヴェーダ)には数えられないことが多いものの、最古のヴェーダであるリグ・ヴェーダよりも更に古いアタルヴァ・ヴェーダ曰く。

 カーマは最初に生まれた者である。

 神々も祖霊達も人間も、誰も彼の下に達することはできない。

 それほどに彼は偉大で優れている。

 どれほど天地が広がろうとも、どれほど水が流れようとも、どれほど火が燃えようとも、カーマはそれら全てに勝っている。

 

 カーマの下に達することは叶わない。

 誰もその足元にもすがりつけない。

 弓兵として顕現したカーマ・デーヴァは、『誰も寄せ付けぬ始まりの者』として存在する。

 ゆえに、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 宇宙の始まりにあったこの存在は、宇宙の触覚であり、宇宙のごく僅かなバックアップを受けており、全ての命の真祖である。

 ゆえに、宇宙を焼滅させるシヴァの火には敵わなかった。

 宇宙の始まりの神程度では、宇宙を自由に破壊し自由に再生するシヴァに勝ち目はない。

 

 "愛は全ての始まりに在った"。

 "カーマは全てに勝っている"。

 アタルヴァ・ヴェーダにそう記された通りに、カーマはそう在ることができる。

 

「多少距離が詰まってればどうにかなるとでも思ったんですか?」

 

「な、なんだこれ……

 カーマに武の逸話とかあったか!?

 シヴァとパールヴァティーのかませになって死んだ程度の奴じゃ……!?」

 

 機関銃のように連射される五本の矢がバーサーカーの足を止め、壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)が大爆発を引き起こし、頑丈なバーサーカーの肉を削ぎ落とす。

 

 少年が見る限り、バーサーカーは弱くなどなかった。

 その速さは目で追いきれず、攻撃は巻き起こす旋風だけで合金製の街灯を捻じ曲げ、跳躍すれば高層ビルも悠々飛び越えそうで、肉体は鉄よりも硬く見えた。

 だが、相手が悪かった。

 彼女はカーマ。

 宇宙の始まりに愛があったことを証明する者。

 彼女が勝ち続ける限り、"愛は何よりも強い"というあまりにも陳腐なフレーズが、この宇宙の真理であると証明され続ける。

 

「私も甘く見られたものですね」

 

 爆発したカーマの矢がバーサーカーを吹き飛ばし、バラバラになったバーサーカーの破片が、バーサーカーのマスターの周囲に降り注いでいく。

 散った花の花弁のように、ひらひらと落ちていく。

 バーサーカーのマスターの顎から、垂れた冷や汗がぽとりと落ちた。

 

破壊者(マーラ)悪よりなお悪しき者(マーラ・パーピーヤス)

 正直こんな呼び方されるほど私悪いことしてないと思うんですけど……

 そう呼ばれる存在には、それ相応の格があると思いませんでしたか?」

 

 カーマが花のような微笑みを浮かべる。

 

「私の今回のマスターに感謝してくださいね。

 人の痛みが嫌いなマスターに、今の私は合わせてます。

 本来の私は……他人の不幸、没落、絶望、悲嘆。そういうのが大好きな者なんですから」

 

 花のような微笑みは、天上に咲く百合であり、地獄に咲く彼岸花。

 敵であるマスターには、それが葬式に手向けられる花に見えた。

 守られる少年には、それがこの上なく美しく可憐な花に見えた。

 愛の花。

 恋の花びら。

 愛はいつの時代も、どんな場所でも、大切な人を守り、敵を倒すための偉大なる原動力である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カーマと出会ってから、既に一週間以上が経過していた。

 一ヶ月にも満たない付き合い。されど少年にとってはもうカーマは、数年を共に過ごした友人に等しい存在になっていた。

 いや、それ以上に特別な存在かもしれない。

 運命の出会いから数日で、彼にとってのカーマはもう、これ以上ないほどに特別で大切な人になっていた。

 

「普通の聖杯戦争って、平均的には三人倒したら優勝なんですよね」

 

「そうなの?」

 

 二人は少年の部屋で漫画を読んでいた。

 少年は姿勢正しく読んでいたが、カーマは服がはだけるのも気にせずベッドにゴロゴロし、漫画を読みながら少年の頬、肩、脇などを軽く蹴っている。

 ちょっと触れる程度の、優しい蹴り。

 少年の反応がみたいからしているだけの蹴り。

 ご主人様にかまってほしい猫がする猫パンチのような蹴りだった。

 

「んー……一例を出します。

 七組の参加者がいますね?

 一対一で戦うと仮定します。

 奇数なので一つ除外して、対戦三セットできますね。

 三組が脱落して三組残って、戦ってない一組を合わせて四組。

 次に対戦が二セットできるので、二組が脱落します

 最後に残った二組が戦って、勝ったら優勝です。ちゃんちゃん。

 単純に考えれば三回勝ったら終わりなんですよ。聖杯戦争はそういうものなので」

 

「僕らもう三騎倒してるね。

 セイバー、ライダー、バーサーカー。

 残りがランサー、アサシン、キャスターか。

 残り三騎が戦って誰か脱落してたら、もうあと一回か二回勝てば終わりなんだね」

 

「ま、この業界、例外処理なんていくらでもありますが……

 今回の聖杯戦争は、わたし達が優勝候補であるのは間違いなさそうです。ふふん」

 

「カーマのおかげだね」

 

「そうですそうです。もっと褒めることを許します。……でも、マスターのおかげでもあります」

 

「僕? そんな大したことしたかな……」

 

「バーサーカーの呪いですよ、呪い! 解除手伝ってくれたじゃないですか!」

 

「あー、あったね。死亡時に発動する呪いってあるんだね」

 

「むしろサーヴァントにおいてはメジャーですよ。

 英雄って悲惨な死に方して死に際に呪いかけること多いですからね」

 

「そうなんだ……」

 

「私ことカーマは、自慢じゃないですが結構優秀です。自慢じゃないですけど」

 

「大分自慢じゃないかな……」

 

「三騎士じゃなくても対魔力A。

 ライダーじゃなくても騎乗A。

 ステータスも筋力以外高水準。

 筋力も弓で攻撃するのでデメリットになりません。

 まさにマスターを優勝させるために召喚されたハイパーゴッドです」

 

「強いもんね、ハイパーゴッド」

 

「ふふん。

 ま、自慢じゃないですけど、パールヴァティーくらいには負けませんよ?

 ……なんですけど、バーサーカーの呪いは対魔力抜けて来たので、アレ多分宝具ですね」

 

「宝具。必殺技だったよね。

 カーマの弓とかああいうの。

 カーマの宝具かっこよくて綺麗だから好きだよ」

 

「ふふっ、お褒めいただきありがとうございます。

 あーもう、アレのせいでかっこいいカーマちゃんアピールできなくて残念無念です!」

 

「あれほとんどカーマが自力で解いてなかった?」

 

「あのバーサーカーの呪いは外部から解除しないといけないタイプなんですよ。

 多分中東系ですね。真名に興味とかないですけど。だから、マスターのおかげなんですよ」

 

「……そ、そうかな」

 

「そうですよ。そうですとも」

 

 カーマが少年に最初に教えた魔術は、ジャダジャプタの解呪魔術であった。

 ジャダジャプタはインド北西部に息づくマイナーな反呪術であり、治療呪術である。

 21世紀になった今も科学や医学を信じず呪術を信じている国・地域・民族は多く、ジャダジャプタはインド北西地域で医者よりも信じられている呪術師である。

 病気にかかった人々はまずジャダジャプタの下に行き、お祓いを受ける。

 カーマが少年に教えたものがこれであり、少年がカーマにかけた解呪魔術がこれである。

 

 カーマは支配階級のアーリア人が記した書物ではかませ犬、邪魔者、邪悪の一側面として扱われるが、被支配階級のアタルヴァン族などが記したアタルヴァ・ヴェーダにおいては宇宙の始まりに在った比類なき神である。

 そして、アタルヴァ・ヴェーダは、()()()()()()()()である。

 アタルヴァ・ヴェーダが記された時代、呪術と医術は完全に同一のものであったからだ。

 

 サーヴァントは人間の想念、信仰の影響を受ける。

 カーマの存在の根幹と結びついたアタルヴァ・ヴェーダの医療呪術は、3500年以上前に生み出された大魔術であり、歴史の陰に手つかずで隠された大神秘と言えるだろう。

 ジャダジャプタの解呪法である『孔雀の羽を動かすイメージ』を魔術回路のトリガーにしたことで、膨大な魔力も相まって、少年は人を癒やす分野において既に一級の魔術師に比肩していた。

 

 優しい少年にまず人を癒やす魔術を教えようと思ったのは、根底が甘っちょろく、人を愛で溺れさせ幸福の海に沈めるカーマらしい判断だったと言える。

 カーマはマスターに、その優しさで人を救ってほしいと願った。

 そんな『カーマがマスターに向けた優しさ』が、回り回ってカーマを救ったのだ。

 

「あ、あのさ」

 

「なんですか?」

 

「いつも助けてもらってるから……カーマを僕が助けられて、嬉しい」

 

「~~~っ! マスター! 今の凄く……なんかこう、こう……愛せます!」

 

「わっ、ちょ、ちょっと」

 

「抱きしめてあげますから、たーんと私に甘えて、愛されて、堕落してくださいね?」

 

「……」

 

 カーマは少年をぎゅっと抱きしめて。

 甘く蕩けるような声色の言葉をかけて。

 愛おしげに少年の頭を撫でて。

 少年を思い切り投げて壁に叩きつけた。

 

「んぎゃっ!?」

 

「な、ななななななななななななな」

 

「い、いたい……」

 

「何してくれてんですか!?」

 

「こっちのセリフだよ!?」

 

「こっちのセリフですよ!」

 

「僕はただ、抱きしめてもらったから、抱きしめ返そうと……」

 

「手付きがいやらしかったんですけど!」

 

「え……そんなに?」

 

「あんなに大事そうな感じに……

 愛おしそうな手つきで……

 可憐な花の花弁に触れるみたいに……!

 まるで、宝物に触れるような手つきでした! 愛があるように誤解させてる!」

 

「……その通りなんだけど、ダメだったかな」

 

「……ダメじゃ……ないですけど……別に……嫌でもないですし……」

 

「なんで僕投げられたの」

 

「あ……愛するのは愛の神である私の仕事で、あなたに仕事を取られたからです!」

 

「え、ああ、そういうのダメなのかなやっぱり」

 

「ダメじゃないですけど???」

 

「なんなの」

 

「……無かったことにしてください。忘れてください……」

 

「ええ……? カーマがそう言うなら、そうするけど……」

 

 こほん、とカーマは咳払い一つ。

 ごまかして、なかったことにした。

 カーマの恋愛攻撃力は高いが、恋愛防御力は低い。ゴミのように低い。

 究極宝玉神みたいな恋愛ステータスしてるな、と少年は思った。

 

「では本日も偵察です。夜までに手がかりを見つけて、スパッと夜に決着つけましょう」

 

「よし、行こうかカーマ……カーマ?」

 

「先に孤児院の門のところに行っててください。着替えてから行きます」

 

「なにゆえ……」

 

「私が着飾った方が、一緒に歩くマスターも気分がいいでしょう?」

 

「む」

 

「それに、デートは現地待ち合わせが基本ですよね? ふふっ。ドキドキしますか?」

 

「デートかぁ。昔のインドになかった言葉を覚えたてで多用したくなる気持ちは分かるよ」

 

 カーマはマスターのケツを蹴り飛ばした。

 

 

 

 

 

 白いワンピース。

 幅広の麦わら帽子。

 水色のハイヒールに白いソックス。

 耳には浅葱色と浅縹色のイヤリング。

 普段の格好をしているカーマは『現実離れした美少女』であったが、ごく普通の少女の夏の装いをしたカーマは『とびっきりの美少女』にクラスチェンジしていた。

 現実感が増したために、より人の心に訴えかける魅力が増していた。

 

 少年がプレゼントした浅葱色と浅縹色のイヤリングはカーマのお気に入りで、ここ一番で身に着けてくる、カーマの切札オブ切札である。

 "美少女にプレゼントくらいしないんですか"と強請られた日のことを、少年は生涯忘れないだろう。

 

「どうですか? 可愛いですか? マスターの好みの理解はバッチリですよ」

 

 マスターの初恋の少女の容姿をコピーし、マスターの読んでいた本や精神のリンクから好みを把握し、身体無き者(アナンガ)の特性で微調整。

 カーマはこの地球上で一番マスターの好みを反映している自信があった。

 マスターに恋のドキドキを与えている自信があった。

 

「うん、可愛いよ。僕が今まで出会った人の中で、一番可愛いと思う」

 

「……もうちょっと熱のある反応が欲しかったですね」

 

「あ、あれ? 失敗だったかな?」

 

「淡々としててまあ……60点ですね。

 マスターじゃなかったら30点です。

 マスターの人生で一番可愛いっていうので加点してます。

 正直、私はコピー元のオリジナルより美人って言われたい系のゴッドなので」

 

「そこに対抗心持つんだ……」

 

「は? 私容姿自在に弄れるんですよ?

 性別すら弄れるんですよ?

 そんな私が最高に好かれる容姿を狙って作って負けたらバカみたいじゃないですか」

 

「バカみたいだね……」

 

「私を一番って言ってくれたマスターのこと、愛してますよ!」

 

「シヴァさんはカーマをこんなにひねくれさせた責任を取るべきだと思う」

 

 "でも60点か……"と思った少年は、ちょっと考えて、嬉しそうにして油断しているカーマに直球の感想をぶつけた。

 

「いや、うん、綺麗だと思うよ。

 僕が見てきたカーマはずっとキラキラしてた。

 今はもっとキラキラしてる。

 楽しそうな笑顔が増えた。

 嬉しそうにすることが増えた。

 気遣ってくれることが増えた。

 優しくしてくれることが増えた。

 出会った時は、とっても素敵だった。

 でも、今のカーマはもっと素敵だと思う。

 昨日のカーマよりも今日のカーマの方が素敵だって、毎日思ってるよ」

 

「―――」

 

「まるで宝石で作った花みたいに、キラキラしてる」

 

 一秒。二秒。三秒。時間が止まる。

 

「ま」

 

 カーマの顔が赤くなり、何かを言おうとした口が言葉を選んで迷って動き、またカーマの顔が赤くなって、時間が止まる。

 一秒。二秒。三秒。二人の間の時間が止まる。

 

「ま、マスターの方がキラキラしてますよ」

 

 絞り出した言葉は、あまりにも平凡だった。

 

「僕なんて全然だよ」

 

「……いいえ。太陽は、自分の輝きが見えなくて、月の光だけが見えるものなんです」

 

「? 比喩かな。ごめん、ちょっとよく分かんなかった」

 

「いいんですよ。自己評価が低いあなたにもきっと、分かる日が来ますから」

 

 今、彼がカーマに向けている優しさは、月のように静かで穏やかなものではない。

 太陽のように熱くて強い。

 もしかしたら、彼がカーマに向けている優しさは変わらないかもしれないけれど、少なくともカーマはそう感じている。

 だって、そうだ。

 そうでなければ。

 こんなに胸の奥が熱く、浮き立つような気持ちになるわけがない。

 そう、カーマは思う。

 

「さ、さあ、行きましょうか! 今日はどの辺りを調べに行きますか!?」

 

 マスターの視線をごまかすように、自分の内心を悟られないように、カーマは話題を変える。

 それが、自分の気持ちをごまかして、自分の内心に気付かないようにするための行動であることに、カーマだけが気付いていなかった。

 

「海の方に行こうと思ってる。あっちはまだ探りを入れてないから」

 

「海! ……こほん。いえ、海で遊びたいわけじゃないですけど」

 

「……昼に戦闘起こることってまずないみたいだし、遊んでもいいよ」

 

「い、いえ、別に私はそんな……」

 

「僕ほら、自分で言うのもなんだけど、真面目で堅物な方じゃない?」

 

「そうですね」

 

「そんな僕が聖杯戦争の最中に遊んだりするのは、カーマの好きな堕落じゃない?」

 

「!」

 

「あー、カーマの好きなダメ人間になってしまうー」

 

「!!!」

 

 カーマの目が、輝いた。

 

「しょうがないですね、マスターは。

 聖杯戦争の途中に美少女と何の意味もなく遊びたいなんて……いいことですよ!」

 

「カーマに影響されちゃったかな? しょうがないね」

 

「いいことですよ。堕落してダメ人間になっていくのは人の本質ですからね」

 

「そうかなあ……」

 

 喜ぶカーマ。

 苦笑する少年。

 少年は孤児院の自転車を引っ張り出して、後ろにカーマを乗せて、蹴るように力強くペダルを踏み締めた。

 カーマはこれでもかと体を密着させて、これでもかと少年を抱きしめる。

 

「マスター」

 

「なに?」

 

「……ありがとうございます」

 

「あはは、なんでお礼言うのさ」

 

 これを堕落と呼ぶのか。

 優しさと呼ぶのか。

 恋と呼ぶのか。

 愛と呼ぶのか。

 

 呼び方を決める権利を持っているのは、この二人だけだった。

 

 

 

 

 

 少年は、自転車をこぐ。

 後ろに乗っていて少年に抱きついているカーマの感触が柔らかい。

 高鳴る心臓の音が聞こえないだろうか。

 もっと足を動かして心臓の音をごまかせないだろうか。

 汗びっしょりだが気持ち悪く思われてないだろうか。

 汗臭いと思われてないだろか。

 後ろのカーマは暑い想いをしていないだろうか。

 少年はそんなことを考えながら、ひたすらに自転車をこぎ続ける。

 

 海の香りが、海が近いことを教えてくれる。

 海風が、火照った体を冷やしてくれる。

 海を見たカーマの笑顔が、ここに来た意味を教えてくれた。

 つられて、少年も笑顔になってしまった。

 

「まったく、海に来たらこの私がみっともなくはしゃぐとでも思ってるんですかね」

 

 五分後。

 

「わっ、つめた……つめたっ! 気持ち良い……ああ、夏には足だけでも海に入ると違いますね……! わわっ、波で足の下の砂が……マスター、マスター! 見てください、私の足の下の砂が波でさらわれて私の足が勝手に沈んでいってる! 面白いですよ! うふふっ! あっ、お、おおっ……見ましたかマスター!? 今すっごいでっかい波が……膝の上まで捲くり上げてるのにスカートの端っこがちょっと濡れるくらいのでっかい波! マスター、見ました!?」

 

 靴を脱いで、ソックスを脱いで、ワンピースを捲くり上げて、海に足だけ浸かってはしゃいでいるカーマの姿があった。

 

「カーマ、あんまり沖に行かないようにね」

 

「子供扱いしないでください。私はマスターよりは大人ですよ」

 

「本当かなあ……」

 

「いいからマスターもこっち来てくださいよ、早く早く!」

 

「ちょっと待ってて。自転車をポールに固定しておかないと盗まれちゃう」

 

「私と自転車のどっちが大事なんですか!?」

 

「君だよ! 面倒臭いな!」

 

「そーですかー、私ですかー、ふふ、自転車くん私と違って愛されなくてかわいそう」

 

「自転車にマウント取る人初めて見た」

 

 カーマを見ているだけで、胸の奥に湧き上がる気持ちがある。

 楽しそうなカーマを見ているだけで、幸せな気持ちになる。

 カーマのおかげで奇妙な形で初恋を終わらせることができた少年は、既に恋を知っており、ゆえに自分の中にある気持ちが何かを、なんとなくに理解していた。

 

 彼は、自分の中にあるその気持ちの名前を知っていた。

 

「マスター。貝合わせしましょう貝合わせ。

 日本ではそういう遊びが人気でバズってたんでしょう?」

 

「ああ、うん、平安時代から江戸時代まではバズってたね」

 

「私が拾った貝殻とマスターが拾った貝殻がピッタリ合ったら私の勝ち。

 合わなかったらやり直しです。はいスタート! 私は勝てる勝負しかしません」

 

「勝敗確率がゴジラVS夢見りあむみたいになってるんだけど?」

 

「あ、マスター、この貝殻綺麗じゃないですか? 持って帰っていいですか?」

 

「……いいよ。君が楽しいなら、なんでも」

 

「わっ、でっか……マスター、マスター。

 私が拾ったこのでっかい貝殻と貝合わせできる大きさの貝殻を見つけられますか? ふふん」

 

「うわ、でっか! ちょ、ちょっと時間ちょうだい」

 

「五分あげます。はいスタート!」

 

「ええ~」

 

 二人で笑って、貝殻を探して、二人の貝殻をかちゃかちゃ合わせて、全然形が合わなくてまた二人で笑って。

 貝殻を探している"自分を見ていない"マスターを愛おしげな表情で、熱っぽい瞳で見つめているカーマがいて。

 貝合わせ遊びに使えない巻き貝を見つけて、耳に当て目を閉じ、貝殻の奏でる音楽を味わっているカーマに見惚れているマスターがいて。

 二人は自分が見ていることは分かっていても、自分がそう見られていることには気付かない。

 

「カーマ、ちょっと聞きたいんだけど」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「カーマって、運命の赤い糸とか見えるのかな」

 

 カーマはきょとんとして、くすくすと挑発的に笑む。

 

「びっくりするくらいロマンチックなこと言うんですね」

 

「あはは」

 

「というか、聞くこと間違ってませんか?

 『僕とカーマに運命の赤い糸は繋がってる?』でしょう? マスターの聞きたいことは」

 

「あはは……」

 

「……何照れてるんですか。突然こんなこと聞かれて照れてるのはこっちですよ」

 

 愛が相手を思いやることならば、正しい愛は理解から生まれる。

 無条件に与えるだけの愛は真の愛には程遠い。

 貰って貪るだけの愛も真の愛には程遠い。

 双方向の繋がりになっていない愛は陵辱に等しく、それは獣の愛である。

 人類愛であったとしても、人類悪となるだろう。

 

 愛は相互理解という土台の上に立つ、この世で最も強く絢爛な城である。

 逆説的に言えば、相互理解の延長には、信愛、親愛、友愛、恋愛……どんな形であれ、愛があるということでもある。

 "そう"なった二人の間には、漫画でよくあるような鈍感ゆえのすれ違いはない。

 

 言葉にしなくても、互いの気持ちは分かっている。互いの気持ちは、伝わっている。

 

「見えませんよ、運命の赤い糸なんて。少女漫画じゃあるまいし」

 

「そっかぁ」

 

「運命の赤い糸が目に見えるようなら……

 私はそれを絡ませる仕事をするでしょうね。

 機械のコードみたいにめちゃくちゃに。

 どこに何が繋がってるのかわからないくらいに。

 誰が自分の運命の相手かわかるようになった瞬間、恋はこの世から消え去りますから」

 

「ロマンだねえ」

 

「ロマンですよ。愛は醜くてもいいですが、恋はロマンがあって綺麗じゃないといけないんです」

 

 カーマが拾った貝殻をサイドスローで海に投げると、水切りの原理で一回、二回、三回と海面を跳ねていく。

 少年も真似して投げてみるが、一回も跳ねずにぼちゃんと沈む。

 ふふん、とカーマが勝ち誇った表情をして、少年は苦笑して頬を掻いた。

 

「私は恋の矢専門ですけど、運命の赤い糸とか司ってる神も多分ブラック労働ですよ」

 

「めっちゃ言葉に実感こもってるね。笑えないやつだ」

 

「給料のない恋愛斡旋所ってどうなると思います?」

 

「……地獄かな」

 

「恋の神、愛の神って、人間の醜いところ死ぬほど見せられるんですよ。

 まだ戦の神や死の神の方がマシだと思います。

 恋の矢? 運命の赤い糸?

 はいはい、そうですねそうですね、お綺麗なワードに見えますね。

 でも実際は私みたいに丸焼きにされたり貧乏くじばっかです。

 人間、愛が絡むと大体死ぬほど勝手ですから。自分を殺さないとやってられないです」

 

「ああ、だから、根っこのところで人間が好きな善い神様にしかできないんだ」

 

「えっ……そ、そんなことないですよ、私が務まってましたからね」

 

「? 僕が話したことある神様ってカーマしかいないから、カーマしか知らないよ」

 

「……と、ともかく!」

 

 話題が変な方に行きそうになって、カーマは強引に修正する。

 

「経験者として言いますけど……

 自分を殺してもいいことないですよ。

 我慢したら良いことがあるなんて幻想です。

 私なんてシヴァの火に延々と焼かれてなおも我慢しても、いいことなかったですからね」

 

「なかったんだ……」

 

「ふふ、聞きますか?

 私シヴァに生きたまま焼かれて灰にされたんですけど。

 その時、シヴァとパールヴァティーがくっついたら体返すって話になってたんです。

 で、シヴァとパールヴァティーは難なくくっついたんですけど……

 ……返してくれなかったんですよね。シヴァ。おかげで今でもずっと体無しです」

 

「返してくれなかったんだ……」

 

「私は愛の神で、快楽と喜びを妃とし、春を親友としていました。

 私が持っているこの弓はその親友の春……ヴァサンタに貰ったものです」

 

「いいね。親友に貰った武器に命を預けるのって」

 

「ええ、私もそう思います。

 私はシヴァに焼かれ、灰にされました。

 それを嘆いた快楽は春に命じて自分を生きたまま火葬させようとしました。

 いわゆる後追い自殺ですね。

 私のいない世界で生きていたくない、ってことなんでしょうけど……

 そこで、例の話を聞いたわけです。

 シヴァがパールヴァティーと結ばれればカーマの体は返される、ってね。

 それで快楽は思い留まり、春に火葬をやめさせ、生きていくことを決めたんですが……」

 

「へぇ……ん? あれ?」

 

「そうです。シヴァ別に私に体返してないんですよ。クソですね」

 

「うわぁ」

 

「しかも続きあるんですよ。

 私その後転生したんですけどね?

 そこで赤ん坊の頃から殺されかけるんですけどね?

 来世の私の命を助けてくれたのが、生まれ変わった快楽だったんですよ」

 

「おお、そういうの好き……ん? あれ?」

 

「笑っちゃいますよね。

 私の妃や親友はずっと私待ってたんですよ。

 私の体が返されるって聞いてたから。

 死んで後を追うことすらやめて待ってたんです。

 でも返されなかったんですよ。

 私は戻って来なかったんです。

 で、私の大切な人達は寂しさと苦しみの中、生きるだけ生きて、死んで……

 それで来世で偶然再会です。バカみたいですよね。みーんなバカです。バカ」

 

「……ああ」

 

「片方の妃と親友どこ行ったか本当に知らないんですよ、私。

 だって私の来世が片方の妃と偶然再会しただけですからね。

 再会することすらできなくて……あはは、何か期待してた方がバカなんですけどね」

 

 少年は、納得したように頷く。

 インドの命の概念は、輪廻(サンサーラ)を基本とする。

 失した命は流転し、生まれ変わり、また廻るのだ。

 もし、来世で偶然再会するという幸福な偶然がなければ……カーマは、天上を焼き尽くす魔王と成り果てていてもおかしくはなかった。

 それほどまでに、残酷な理不尽があった。

 踏み躙られた愛の神への愛があった。

 

「カーマの怒りの源泉って、そこにもあったんだ」

 

「……」

 

 カーマ・デーヴァは愛を知らぬ愛されたい神ではない。

 愛を知り、愛を奪われ、愛を踏み躙られた神の残響である。

 愛するということは、他人を大事にするということだ。

 自分だけが踏み躙られたなら、ここまで捻じ曲がらなかったかもしれない。

 

 カーマの愛が自己愛ではなく他者愛である以上、カーマは自分が傷付けられること以上に、自分の大切な人が傷付けられることに怒り、憎み、そして狂うのだ。愛ゆえに。

 

「自分を殺して生きてる奴の末路なんてそんなもんだと思います。

 勝手すぎれば敵を作りますが、自分勝手にならないと幸せにはなれないんです」

 

「そう……かも、しれないね」

 

「だから私みたいな、自分を殺して、捻じ曲がって、卑屈で、醜い者になっちゃダメですよ」

 

「それは違う! カーマはそんなんじゃない!」

 

 生前、カーマは否定されていた。

 その行動を。その選択を。その愛を。

 そして、否定によって捻じ曲がってしまった。

 

 なのに今、自分の言葉が否定されていることが、こんなにも心地良い。

 不思議な気持ちになって、カーマの口元が少し綻ぶ。

 

「ぷぷぷ、なーに熱くなってるんですかマスター。冗談ですよ」

 

「冗談……?」

 

「私が悪いものになっちゃダメとか言うわけないじゃないですか。

 誘惑し修行の邪魔をし、堕落させる神が私ですよ?

 マスターがキラキラからダサダサになったら、ただ喜ぶだけでーす」

 

「ええ……うーん……まあ、カーマがそう受け取ってほしいなら、そうするけど」

 

「ふふっ」

 

 優しい人は踏み込まない。

 踏み込みすぎない。

 カーマはそれが心地良くもあるが、寂しくもあった。

 大事にされている実感と、自分の深いところまで触れてくれない不満。肉体を失い何にでもなれるようになったとはいえ、元は男性神格だったとは思えない乙女心であった。

 

「そんなに長い間、一緒に居られるわけじゃないですけど……

 一緒に居る間は……いいえ、別れてからも遠くからずっと、私は言いますよ。

 堕落してもマスターを愛してあげます。

 あなたが孤児でも関係ありません。

 孤児だから立派な人間じゃないと居場所がないなんて思いません。

 立派なあなたも、そうでないあなたも、私はずっと愛し続けてあげます。自信を持って」

 

「……カーマ」

 

 愛する者は慈しむ。

 自分の有無すらも関係なく、永遠に残る愛を置いて行こうとする。

 少年はそれが心地良くもあるが、寂しくもあった。

 湿度の高い沼のような愛と、どこかドライな諦めを感じさせる乾いた愛の神のスタンス。

 愛の水を他人に与えすぎて、他人から与えられなすぎて、カーマは乾ききっていた。

 だから、ある意味では子供らしく、ある意味では男らしく、少年は欲張った。

 

「ねえ、カーマ」

 

「なんですか、そんなかしこまって」

 

「聖杯戦争が終わって願いを叶えた後も、ずっとここにいてくれないかな」

 

「え?」

 

 カーマが、とても珍しい表情をした。

 

「できる?」

 

「で、できるとは思いますけど……受肉すれば……」

 

「そっか、よかった」

 

 少年はほっとして、すぐに凛々しい表情になる。カーマの心が揺らぐ。

 

「君が自分を殺さなくてもいい。

 君が自由に好きなように生きていていい。

 君がちゃんと愛される。ちゃんと大事にされる。

 そんな場所を君にずっと捧げ続けるって、約束する」

 

「え、えっ、い、いや、待ってくださいよ? よ?」

 

「僕は君を幸せにしたい。君がちゃんと、他人じゃなくて、自分を愛せるように」

 

「―――」

 

 カーマはずっと、彼がキラキラしている理由が、彼の善性と優しさにあると思っていた。

 

 けれど、違った。

 

 彼の周りでキラキラしているものは、善性と、優しさと、他人の幸せを願う気持ちだった。

 

「せ……聖杯に願えばいいじゃないですか。きっと叶いますよ」

 

「聖杯にこんなことお願いできないよ。君の意思と関係なく叶っちゃうじゃないか」

 

「令呪で命令すればいいんじゃないですか。

 マスターが持っている絶対命令権。

 前に教えたでしょう?

 あなたの手に刻まれた三画の令呪は、命令の権利です。

 マスターの魔力なら、本気でやれば私は逆らえません。

 私を自分の好きなようにしたいなら、それで命令してしまえば……」

 

「命令もしたくない。

 カーマに命令してシヴァにけしかけて不幸にした神様みたいになりたくない。

 僕はカーマを好きなようにしたいんじゃなく、好きなように生きられるようにしたい」

 

「っ」

 

「だって僕は、君と一緒に居たい。君を守りたい。君を幸せにしたいんだ」

 

 自由と、愛と、幸せを手渡そうとする人間をどう扱えばいいかなんて、カーマは知らない。

 

 

 

「だから、一人の友達として、君にお願いするんだ。僕にできるのはそこまでだよ」

 

 

 

 少年は、ただお願いする。

 一緒に居てほしいと。

 幸せにするからと。

 誰にも君を虐めさせないと。

 子供のお願いらしく純朴で、大人のプロポーズのように強烈だった。

 

「ふ、ふっ」

 

 カーマが顔を真っ赤にして、真っ赤になった顔を海に向けてごまかして、彼に背を向けて感情を隠して、けれどセリフはどもってしまって。

 何を言えば良いのか分からないカーマが黙ってしまう。

 一秒、二秒、三秒、四秒、五秒。

 黙りこくっていたカーマは、彼に背を向けたまま、上ずった声を必死に抑えて、いつものように小馬鹿にした口調を作る。

 

「友達ぃー、友達ですかぁー」

 

 危なかったと、カーマは思う。

 "友達として"彼が誘ってくれたから耐えられた。

 "それ以外"だったら、きっと耐えられなかった。

 誘惑し、堕落させる神と定義されているカーマが、普通の男の子に誘惑されて堕とされてしまうなんて、ギャグにもなりやしない。

 

「駄目かな?」

 

「ふっつー過ぎて全く惹かれません。凡庸極めてるって感じですね」

 

「……そっか」

 

「私が心惹かれる文句を考えて、また誘ってください。待ってますから」

 

「……! うん!

 

 海で良かったと、カーマは思う。

 

 海風が頬を撫でる度に、冷えた風が赤くなった頬を冷やしてくれるから。

 

「まったく。本当に普通の男の子でしかなくて、つまらない人ですね」

 

 顔の赤みが消えた頃、カーマは振り向いて、ちょっと仕返しをしようと考えた。

 

 ひねくれカーマは、誘惑されて「はい」と頷いてしまいそうになった自分が、本当に悔しかったのである。

 

「いい文句が言えたら、何でも言うこと聞いてあげますよ。

 家族にでも、性奴隷にでも。えっちなことでも好きなだけどうぞ?」

 

「!?」

 

「マスターが私をメロメロに出来たら、ですけどね」

 

「え、いや、あの、ちょっ」

 

「血の繋がった家族に捨てられたのが辛い。

 孤児院という疑似家族を救うために聖杯を使いたい。

 あなたの根幹にあるのは『家族』です。

 なら、私が家族になってあんなことやこんなことをしてあげてもいいんですよね」

 

「い、いや……家族ってそういうのだけじゃないから!」

 

「でもそういうことするもんですよ」

 

「するもんだけど!」

 

「やですねマスター、さっき貝合わせしてたじゃないですか」

 

「え? ああ、うん、してたね」

 

「あれ、貴族の遊びから婚礼の儀式になったものなんですよ?」

 

「えっ」

 

「婚礼の儀式が貝合わせの儀で、貝は嫁入り道具だったんです。

 私はそういうつもりでやっていたのに……マスター……ひどい……」

 

「え、え、え、え、あ、ごめん、そういうつもりは」

 

「まあ全部冗談なんですけどね」

 

「ええええええええええええええ!?」

 

「私に惑わされてる内は、私を好きにするなんて夢のまた夢ですよ。頑張ってください」

 

「……頑張ります」

 

「頑張ってください。待ってますから」

 

「あ、待っててくれるんだ。ありがとう」

 

「……別に、普通の礼儀ですよ」

 

 また顔が赤くなってきた気がして、カーマはマスターに背を向け海を見る。

 

 そして安心した。

 

 海の彼方に沈む夕日が、炎のように真っ赤に燃えて、カーマの顔色を隠してくれていたから。

 

 

 

 

 

 夕日がゆっくりと沈んでいく。

 夏の日暮れは長い。

 聖杯戦争の前の時間、夜と夕の狭間に、二人はいた。

 あと30分もせずに、明確に夜と言える時間が来るだろう。

 水平線の彼方にかすかに見える赤い夕焼けが、徐々に夜空の黒に押し負けて行くのが見えた。

 

 夕日をぼーっと眺めているカーマを見て、少年はタオルを砂浜に敷く。

 カーマが礼を言って、敷かれたタオルの上に腰を下ろす。

 少年もまた、人一人分の間を空けてカーマの隣に座る。

 カーマはノータイムでタオルごと移動し、ぴったり密着できる隣に座り直した。

 マスターに寄りかかったカーマが、マスターの肩に頭を乗せて、マスターはカーマが寄りかかりやすいように、姿勢を変える。

 

 そのまま、どちらも何も言わず、静かな時間が続く。

 風が葉を揺らす。

 波の音が聞こえる。

 小さな蟹が二人の横で砂に潜る。

 10分か、20分か、あるいはもっとか。

 静かにずっと、無言でずっと、夜になるまでずっと、二人で沈む夕日を眺めていた。

 

「マスター。私がマスターのものになるのに一つだけ、条件があります」

 

「もの扱いはしないよ」

 

「私が許可するかしないかの話です。

 権利の行使はご自由に。

 難しい条件じゃないですよ。……自分に優しくなってください」

 

「え?」

 

「マスター、他人には優しいですけど、自分には優しくないじゃないですか」

 

「……」

 

 海を見ながら、少女はそう言った。

 

「カーマが交換条件を受け入れてくれるならいいよ」

 

「交換条件? いいですよ、なんでも言ってください。どんとこいです」

 

「カーマも自分をちゃんと愛してほしい」

 

「……ぇ」

 

「カーマは誰でも愛せそうだけど、自分だけは愛してくれそうにないから」

 

「……」

 

 海を見ながら、少年はそう言った。

 

「私は……私よりもずっと"カーマ"を愛してくれる人がいるから、いいんですよ」

 

 照れを隠しながら、本音を隠さず、カーマは言った。

 

「……じゃあ僕も、僕よりもずっと"僕"に優しくしてくれる人がいるから、いいかな」

 

 何も隠さず、優しげな笑みを浮かべて、マスターは言った。

 

 カーマは自分だけは愛せない。

 だから、彼女を愛せる者だけが、彼女を幸せにできる。

 彼は自分にだけは優しくできない。

 だから、彼に優しくする者だけが、彼を幸せにできる。

 

 真の愛とは、幸せにし合うこと。

 愛するということは、幸せを分け合うこと。

 愛の正しさは、愛したその人が幸せになったか、ただその一点で証明される。

 他の誰がなんと言おうと、その人を愛していると迷わず言えて、その人が幸せになったのならば……その愛は、間違っていないのだ。

 

「あれ、マスター、前髪にゴミついてますよ」

 

「え、どこ?」

 

「取ってあげますから動かないでください」

 

 カーマの手が少年の前髪に伸びる。

 

 夜で見えづらいからか、カーマの顔が前髪に近付いていく。

 

 カーマの麦わら帽子が少年の髪をかすめて、吐息が少年の顔にかかる。

 

「―――」

 

 

 

 唇に柔らかい感触があって、それが何なのか理解するのに、少年は数秒を要した。

 

 

 

「待ってますよ、マスター」

 

 彼岸に咲く花のように、カーマは笑う。

 

「私、もし負けて焼け死ぬなら、あなたと一緒がいいです」

 

 月の光の下、世間話でもするかのように、彼女は言った。

 

 恋と言っても良い。

 

 愛と言っても良い。

 

 どちらでも別に間違ってはいない。

 

 そんな、夏の月夜の一瞬だった。

 

 

 

 

 

 その時。幸か不幸か、少年が心の整理をつける前に、状況を正しく理解する前に、街の中心で大爆発が起こった。

 

 

 

 

 

 自転車でチンタラ移動している余裕はない。

 自転車を置いて、カーマがマスターを抱え、流星のごとき速度で街を駆ける。

 ビルすらジャンプ台にするカーマの高速移動は夜に視認すること甚だ困難で、街の人々が逃げ惑っているのもあって、誰にも見られないまま問題なく街と夜空の狭間を駆け抜けていった。

 

「なんださっきの!?」

 

「分かりません、分かりませんが……魔力を感じました。今のは宝具です!」

 

「!」

 

「サーヴァントです、間違いなく!」

 

 街の中心に到達すると、そこは地獄であった。

 壊れた建物。

 崩れた路面。

 折れた電柱。

 燃える市街。

 死者は見当たらないが、見渡す限りあちこちに重軽傷者が転がっていた。

 

 たすけて、たすけて、と声がする。

 いたい、いたい、と微かな声が漏れている。

 あつい、あつい、と炎の中から悲鳴が聞こえる。

 少年の決断は、早かった。

 

「カーマ! 救助最優先! 他のことは気にしなくていい!」

 

「待ってください、マスター!

 敵の目的が見えません!

 奇襲か能力の算定が目的かもしれません!

 それにマスターが魔術の行使を躊躇わないなら神秘の秘匿に触れます!

 最悪の場合、魔術協会から手配されてマスターのこれからの人生が……」

 

「今ここにいる沢山の人達の人生は、今じゃないと助けられない!」

 

「っ」

 

「後のことは後に考えよう!

 『助けて』って言ってる人がいるなら、助けてあげないと!」

 

 少年は駆け出し、カーマが教えた医療呪術の応用で怪我人の傷を塞ぐ。

 火傷も恐れず、火の中に息を止めて飛び込み、人を助け出す。

 息を切らせて走り回って、潰れた車の中からまだ息のある人を引きずり出し、魔術をもってなんとかその命を保たせる。

 

「聖杯戦争終わった後も一緒にいないと危なすぎる人ですね……! もう!」

 

 カーマも加わったことで、救護効率は爆発的に増した。

 感覚、筋力、移動速度。

 全てが人間離れしているカーマが救助し、少年が魔術で治癒を行う。

 奇跡的に死人はまだ出ていなかった。

 少年はそれにほっとし、カーマは怪訝な目で現状を疑う。

 

 ()()()()()()()()()

 死人が大量に出ていれば、もっと諦めがついた。

 少年もカーマもここまですることはなかった。

 カーマは直感的に、この大爆発が『マスターとカーマが全力を尽くせばなんとか全員の命が助かる』というバランスになっていることに気付いていた。

 二人は全力を尽くしているのではない。

 ()()()()()()()状況に誘き寄せられたのだ。

 が、それが分かっていても、他に選択肢などない。

 マスターが善良であるがゆえにカーマはマスターに逆らわず、マスターが善良であるがゆえにここから離れられず、カーマは気付いても何もできない。

 

 カーマの横で、マスターがふらっと倒れかけ、カーマが抱き留める。

 

「うっ……」

 

「マスター、休憩しましょう。

 緊急性のある怪我人はもういません。弓兵の目を信じてください」

 

「でも……」

 

「マスター。

 魔術回路は無限に魔力が出る魔法の壺ではありません。

 生命力を魔力に変換する神経回路です。

 魔術を使えば使うほどあなたの生命力は削られています。どうか、ご自愛を」

 

「……傷は塞がってるけど、痛みに苦しんでる人が……」

 

「自分に優しくしてください」

 

「……む」

 

「いくら私でも、自殺志願者までは愛せませんよ。いえ、マスターは愛してますけど」

 

「……」

 

「なんですかその目。私は間違ったこと言ってませんよ」

 

「カーマって『愛してる』とは言ってくれるけど、『好き』とは言ってくれないんだなって」

 

「なっ、ななななななななっなななななな」

 

「カーマにとって大事な言葉なんだなって、思った」

 

「こんな時に何考えて何言ってるんですか!?!?」

 

「ごめんね、真面目じゃなくて。カーマに堕落させられちゃったみたい」

 

「違う……これ堕落とかそういうのじゃないやつ……!」

 

 少年はカーマに肩を貸してもらい、移動する。

 救急車は既に呼んだ。

 あとは警察など諸々の面倒に巻き込まれる前に撤退だ。

 人前でおおっぴらに魔術を使った以上、秘匿を至上とする魔術師も来るかもしれない。

 とにかくここに居るのは悪手である。

 最悪、聖杯戦争が終わったら街から逃げる必要があるかもしれなくなってきた。

 

 カーマはマスターを優しく背負い、できるだけ揺れないようにして運び始める。

 

「マスター」

 

「なに? 今、ちょっと頭がぼーっとしてて……」

 

「ツケにしといてあげます」

 

「え?」

 

「私をメロメロにする言葉はいつかでいいです。聖杯戦争の後も、一緒に居ますよ」

 

「! 本当に……!?」

 

「流石にこれで放っておけませんよ……しばらくは一緒に居てあげます」

 

「カーマ!」

 

「ああああああああっ! 愛情たっぷりに抱き留めるの禁止! 投げ捨てますよ!?」

 

「ご、ごめん」

 

「……禁止は言いすぎでした。たまにならいいですよ」

 

「あ、はい」

 

 背負われている少年は、優しい背負い方に、愛を感じる。

 カーマは首に回されている少年の腕に、愛を感じる。

 二人の体温が伝わり合い、愛が伝わるゼロ距離の密着。

 ただただ、二人はお互いを大切にしていた。

 

「ずっと一緒にいます。

 私があなたをずっと守ります。

 私があなたを幸せにします。

 感謝してくださいよー?

 私がこんなに一人に対してだけ献身的なの、滅多にないことなんですからね」

 

「……うん、ありがとう」

 

 鏡のような、誓いだった。

 

―――だって僕は、君と一緒に居たい。君を守りたい。君を幸せにしたいんだ

 

 物真似のような優しさだった。

 けれど、それでいい。

 『愛』はそれでいいのだ。

 愛は、互いが口にする言葉は同じでもいい。結婚式がそうであるように。

 同じ言葉で同じ愛を誓うことは、間違いにはならない。

 

「僕さ……初恋の時、何が何だか分からなかったんだ。

 ドキドキして、ハラハラして、ずっと落ち着かなくて、気付いたら終わってた」

 

「皆そうですよ。そういうものです」

 

「カーマにしたのも、恋だと思ったけど。

 なんだか違って……楽しかった。もっと幸せな気持ちだった。

 暖かくて、キラキラしてて、気持ちが良かった。楽しい恋なんだね、これは」

 

「そう、ですか」

 

「海を見て、カーマと一緒に見たいなって思った。

 テレビを見て笑って、カーマなら笑うかなって思った。

 街角で服を見て、カーマに似合いそうだなって思った。

 だから……うん。

 だから、一緒に居てほしかったんだと思う。僕の人生の中に、君が居てほしかった」

 

「……私なんかを好きになるなんて、ゲテモノ好きにもほどがありますよ」

 

「君なんかじゃない。君だから好きになったんだ」

 

 目も眩み、他の女性なんて見えなくなるくらい、瞳に好きな人が焼き付いている。

 融けるように熱く、他の何にも熱を感じないほどに、恋の熱を感じている。

 ただまっすぐに、愛した人だけを見つめている。

 若さゆえの、一直線な恋と愛。

 

「ばーか」

 

 "恋に落ちた愚か者"を、カーマは二人まとめて馬鹿にした。

 いつものように、小馬鹿にした口調で、気怠げに、嘲笑混じりに馬鹿にした。

 愛で人生を決めてしまった愚か者を、二人まとめて馬鹿にした。

 そうして、二人で笑い合った。

 

 二人は今、幸せだった。

 

 だから、そう。

 

「マスター、来ました」

 

「ご苦労」

 

「「 ! 」」

 

 その幸せを奪う者は―――今この瞬間に、現れる。

 

「ランサーと……そのマスター!?」

 

 槍を持った寡黙そうな女。

 ()()()()()()()()()()()()

 公園を走り抜けようとした少年とカーマの前に、その二人が立ちはだかった。

 

 運命が、追いついてきた。

 

 逃れることのできない運命だ。

 

「それも間違ってはいないが、お前の父でもある」

 

「―――え?」

 

 運命は、少年に現実を知らせ、選択を迫る。

 

「昔、少し実験をした。

 適当に一般の女を十人ほど捕まえてな、孕ませた。

 そして魔術によって一ヶ月で出産させた。

 魔術の副作用で女どもは精神が壊れたようだが、まあいい。

 出産自体は無事成功した。

 私の血を引く子供を大量に生産できれば、大規模な魔力タンクになる。

 上手くやれば膨大な魔力から無色の魔力を生成し、万物の根源に辿り着けたはずだった」

 

 少年の息が荒くなる。

 心臓の鼓動が速くなる。

 

「が、まともな赤ん坊が生まれなくてな。

 畜生腹と因果が繋がったからか、先祖返りで動物のようになっちまった。

 気付いたら保健所に謎の害獣として処理されているとは、ったく……後始末が面倒だったな」

 

 知っている。

 少年はそれを知っている。

 

―――僕が片手の指で数えられるくらいの歳の頃の話なんだけどさ。

―――この辺に犬のおばけが出るって噂があったんだ。

 

 当時、そういうものが街にいたのを、知っている。

 

「結局、まともな人間として生まれてきたのはお前だけだった」

 

「嘘だ!」

 

「なんでお前のカーマが召喚できたと思う?

 人間の英雄としての側面があるとはいえ、神の一角だぞ」

 

「……え」

 

「お前の額の中に、白毫ってものを埋め込んである」

 

 少年の息が荒くなる。

 心臓の鼓動が速くなる。

 男が額をとんとんと指で叩いた。

 

「白毫はブッダの額にあり、一万八千世界を照らしたものだ。

 インド哲学における第六のチャクラに位置する。

 チャクラ穴に白毫を埋め込むことは、チャクラの活性に繋がり……()()()()()()()()

 

 知っている。

 自分の魔力と魔術回路の優秀さを、少年は知っている。

 

「赤ん坊のお前の額にドリルで穴を空けるのは手間だったな。

 赤ん坊のお前が泣き叫んで随分とうるさかった。

 ああ、そういえばまだ、赤ん坊の頃と同じように人の血が苦手なのか?」

 

 知っている。

 

「白毫はな、インド神話の『第三の目』なのさ。

 つまりは『シヴァの目』なんだよ。

 シヴァの目は、

 『開かれし時、欲望(カーマ)を焼き尽くす』

 と聖典に記される。

 お前の額に埋め込んだ白毫はシヴァの寺院から入手したものだ。

 分かるか?

 カーマが魔王として降臨する時、抑止力としてシヴァは顕れる。

 これは逆だ。()()()()()()()()()()()()()()()()、カーマはお前に召喚されたのさ」

 

 息が切れて、心臓の鼓動が速くなる。少年の父が、笑っている。

 

「どうだ。父に聖杯を譲る気は無いか?

 どうせ大した使い途もないだろう?

 お前を観察してそれが分かった。

 大した願いもないお前よりは、俺の方が正しく聖杯を使える」

 

 父親が、少年に手を差し伸べて―――その手を、カーマが叩き落とした。

 

 少年に触れる時のような気遣いはなく。

 軽蔑と冷笑を表情に浮かべ、ゴミを見るような目で、少年の父を見て。

 指がちぎれそうなくらいに強く、少年の父の手を叩き落とした。

 

「悪い冗談ですね」

 

 ランサーが己のマスターを庇うように立つ。

 カーマが背負っていたマスターを降ろし、抱きしめて、庇うように立つ。

 

「私と彼は、ただ一つ。この魂が引き合う縁によって召喚され、契約したんです」

 

「いいや、触媒による召喚だ」

 

「そんなもので召喚されるほど、私は安い愛の神ではありませんので。違うと思いますよ」

 

 カーマはニッコリと微笑む。

 カーマは悪に対し寛容だ。

 大体の醜悪な人間を愛することができる。

 情けない人も無価値な人も残虐な人も、等しく愛せる。

 カーマが苦手なのは悪ではなく、むしろ暴力と殺害に躊躇がない正義の方だ。

 

 だから、カーマは己のマスターの父の悪行に対して不快感を抱いていない。

 悪の陣営に属するカーマが、こんなことで嫌悪感を顕にするわけがない。

 "卑怯なあなたも愛してあげますよ"で微笑んで終わりだ。

 

「ま、これから生まれてきたこと後悔する人に説明する必要もないですよね」

 

 だから、カーマがこんなにも怒り、怒りで弾けた魔力が公園の木々を揺らしているのは、マスターの父親が悪であるからではない。

 その悪行を許せないからではない。

 カーマの『愛するもの』を、傷付けたからだ。

 

「では、戦いましょうか。

 私、ちょっと忙しいんですよ。

 これからクソ親父にショックを叩き込まれた私の主を元気にしないといけないので」

 

 問答無用で、カーマは敵マスターとランサーを射殺せんとする。

 セイバー、ライダー、バーサーカーを無慈悲に一方的に削り殺した力は本物だ。

 愛の始祖神たるその力は、A級サーヴァントであってもまるで歯が立たない。

 戦闘試合であれば英霊の大半は敵わないだろう。

 試合であれば、だが。

 

 これは試合ではない。聖杯戦争……戦争である。

 その結果を受け止められるのであれば、あらゆる手段が許されている。

 

 古今東西、聖杯戦争は()()()()()()()()()ようにできている。

 強すぎる者が居れば他の参加者は手を組み、綿密に対策を立て、真名を特定してその弱点を突いてしまおうとするからだ。

 弱者は徒党を組み、工夫を凝らし、敗北と死を回避するため、強者に勝つためになんだってしてしまうようになる。

 負けて夢を諦めたり、負けて殺されるよりは遥かにマシだからだ。

 

 大英雄ヘラクレスですら、周囲全てに恐れられれば敗退する。

 それが聖杯戦争だ。

 恐れられた者は負ける。

 負けるしかない。

 "手段を選ばない"ことが、弱者と悪党に許された権利である限り。

 

「使い魔を一体、あの孤児院に置いてある」

 

「―――」

 

「条件は三つ。

 お前達がこの場所から逃げるか。

 俺達にお前達がなんらかの行動を起こすか。

 俺が指示するか。

 このどれかをトリガーとして、今孤児院に居る人間を皆殺しにする」

 

「……マム!」

 

「ちょうど夜だ。孤児院の人間は全員揃ってるだろうな」

 

 カーマは舌打ちし、弓を降ろし、冷静さを一瞬で失ったマスターをなだめる。

 

「マスター、落ち着いて。令……ああ、そういうことですか」

 

 カーマはそこでようやく、ランサー陣営が何を企んでいたのか気付いた。

 

「そうだな。お前達の魔力なら令呪で大抵のことはできる。()()()()()()()

 

 カーマにも、少年にも、明確な失策はなかった。

 彼らにはほとんどの状況に対応できる能力があり、一つの大事件で黒幕になれるレベルに綿密な計画を立てることができる、カーマのプランニング能力があった。

 膨大な魔力ゆえに、令呪で大体の状況を覆すことができた。

 それこそ、力技で倒すなら、トップサーヴァントクラスの駒か、概念マウント合戦に引き込み大勝利するだけの備えが必要だっただろう。

 

 されど、人の心を捨てた者なら、いくらでもやりようはあった。

 

 まず夜を待った。

 夜は状況が混乱しやすく、警察や救急の稼働率も下がり、また孤児院に全員が帰る。

 次に街を宝具で破壊した。

 カーマと少年がどこに行っていたとしても、大量の罪なき人間が死にかけている時点で、他の選択肢は消え失せている。

 もうこの時点で、少年は魔力のほとんどを失っている。

 

 サーヴァントはマスターの魔力を消費して存在し、更に消費して戦闘し、もっと消費して宝具を発動する。

 止められる可能性が0だった街破壊を止められなかった時点で、カーマは全力での戦闘を行う権利を剥奪されてしまっていた。

 令呪もまた、強力な奇跡をサーヴァントに実行させるには、大量の魔力を必要とする。

 マスターである少年にも、もうできることはない。

 

「マスター。私の提案を聞いてくれますか?」

 

「カーマ……何か、思いついたの?」

 

「『見捨てる』勇気を出しましょう」

 

「……!」

 

「あの孤児院の人間を全員見捨てれば、何の憂いもありません。

 奴らは私達が見捨てられないと思ってます。勝機はそこだけです」

 

「カーマ……」

 

「どうか、見捨てる勇気を。

 他人より自分を優先する決断を。

 今こそ、他人のために自分を殺すという悪癖を捨てる時です。

 どうか、自分の幸せを他人の幸せより優先してください。

 聖人のような善人であることを捨てて、どうか、普通の人間らしく……」

 

 少年は、葛藤し。

 首を横に振った。

 

 少女は、葛藤し。

 溜め息を吐き、構えようとしていた弓を構えるのを、やめた。

 

「ほんっっっとうに、堕落しない人なんですから。

 でも、いいですよ。あなたはそれでいいんです。私はマスターの指示に従います」

 

「ごめん」

 

「いいんです。そういうの、嫌いじゃないですから」

 

 この瞬間、少年とカーマが二人で生き残り、聖杯戦争の勝者となる可能性は、消え失せた。

 

 少年は魔力欠乏でふらふらしながらも、父親に話しかける。

 少年は父親を敵意の目でしか見られず、愛の行き来が無いことが、虚しくて悲しかった。だからずっと泣きそうな顔をしていた。

 父親は厄介な敵を、馬鹿で低俗な人情を利用することで簡単に排除できたことに、喜色満面の笑みを浮かべていた。

 

 ランサーは無言無表情を貫き、カーマはそれらを見て、苛立ちで壊れそうなくらいに強く拳を握り締めていた。

 

「僕に、何をさせたいんですか。父さん」

 

「察しがいいな。だが、悪くない。要求は一つだ。アーチャーを自害させろ」

 

「―――えっ」

 

 少年は、正気を疑う目で父親を見る。

 父は笑っていた。

 次に、恐る恐るカーマを見る、

 全てを予想していたカーマは驚きもせず、死を受け入れた気怠げな表情をしていた。

 最後に、己の右手の甲を見る。

 一度も使っていない令呪が三画、丸々残っていた。

 

 これを使えば、カーマの非常に高い対魔力をもってしても、抗えず自殺するしかない。

 弱いサーヴァントも強いサーヴァントも、自殺すれば同じことだ。

 選択肢は他にない。

 戦うことを選べないなら、カーマを死なせるしかない。

 だが、できない。

 

 できるはずがないのだ。

 そこに、愛がある限り。

 

「できません。それだけは、僕には絶対にできません」

 

「そうか、なら孤児院の人間は皆殺しだな」

 

「あっ……ま、待って!」

 

 泣きそうな顔で、少年はすがるような声を出す。

 カーマは苛立った。

 心優しい少年に、こんな二択を迫ったこの男に。

 カーマは嬉しく思った。

 こんなになってもなお、芯が揺らがないマスターの優しい心に。

 カーマは覚悟を決めた。

 この優しい少年の傷になりたかった。その心に居座りたかった。けれど、それを諦める。

 自分が愛したこの少年の心に、できるだけ傷を残さない終わりを、彼女は選ぼうとした。

 

「まあまあ。あ、ちょっと時間くれます?

 私がマスターを説得すればいいんですよね。

 こう見えても愛の神ですからね、説得はお任せあれ、ですよ」

 

「……好きにしろ。俺は気が長い方ではないから急げ」

 

「カーマ!?」

 

「まあまあ」

 

 父親の方を軽く言いくるめて、マスターに向き合う。

 もう選択肢はない。

 カーマにここからできることは、どれだけ上手くマスターに令呪を使わせて死ぬか。

 それだけだった。

 

「マスター、他に選択肢はありません」

 

「嫌だ! 他の人を生き残らせるためにカーマに死ねって命令するなんて……

 そんなことするくらいなら、他の人を死なせた方がずっとマシだ! 絶対に!」

 

「でも孤児院の仲間を見捨てられないでしょう? 育ててくれた彼女は特に」

 

「っ……!」

 

「いいですか、よく聞いてください。

 令呪三画をもって命じてください。

 『僕をこの場から逃して自害せよ』と」

 

「え?」

 

「あの手の人間の行動パターンは熟知してます。

 あれは、自分の得にならないことはしないタイプです。

 無駄な時間や労力を嫌うタイプです。

 令呪とサーヴァントを失ったマスターに手を出すことはないでしょう」

 

 カーマの淡々とした語り口に、少年は激昂する。

 

「違う! そうじゃない! そういうことが問題なんじゃない!」

 

 カーマに怒っているのではない。

 世界の理不尽に。

 この状況に。

 元凶の悪に。

 全てに怒っていて、どうしようもない悲しみに飲まれていて、どうしようもない現実に絶望し、叫び出したい気持ちになっている。

 

 些細な願いがあった。

 好きな人と一緒に居たいと。

 好きな人と笑っていたいと。

 好きな人を幸せにしたいと。

 そんな些細な願いも、叶うことはない。

 否。その願いを、自分から踏み躙らなければならない。

 

「僕は君を―――大好きな人を、失いたくないんだ!」

 

 『死ね』と言わなければならないのに。

 

 『死ね』とだけは絶対に言えない。

 

 泣きそうだった少年の瞳から、透明な雫が零れ落ちた。

 

「本当に、困った人」

 

 カーマは微笑んだ。

 愛の微笑みであった。

 いかなる星より、花より、遥かに美しい微笑みだった。

 愛は何よりも美しいということを証明するような微笑みだった。

 カーマが彼に向ける愛がそのまま形になったかのような微笑みだった。

 

 カーマは終わりを受け入れている。

 座に記録され、今ここに召喚された自分が、ここで終わることを受け入れている。

 かつて他人の愛のために矢を撃たされたカーマは、今ここで、自分の愛のために死を受け入れようとしていた。

 

 横目でちらりと見ると、少年の父親が長話に苛立ち始めていた。

 

「マスター、お願いします。

 あんまり時間はありませんよ?

 大丈夫です。心配しないでください。

 マスターのことは恨みません。

 怒りもしません。

 むしろ嬉しいです。

 マスターの大切なものを守るために自分を犠牲にするなんて、本物の愛っぽいでしょう?」

 

「―――っ!」

 

「愛してる人に殺されるなら……まあ、悪くはないですよ。

 シヴァに殺されるよりはずっと納得できて、ずっと苦しくないと思いますしね」

 

「だけど、だけど」

 

「マスターが命じないなら私は勝手に自害します。

 でも、そうするとマスターに令呪が残ります。

 つまりあの男がマスターを念の為殺す理由ができてしまうんです。

 ここで令呪を使い切ってしまいましょう。私が言っているのはそういうことです」

 

「だけど!」

 

 死を命じるのはマスターの方で、死ぬのはサーヴァントの方である。

 なのに何故か、マスターは今にも殺されそうな人のように泣いて声を荒げていて、サーヴァントは昼下がりの雑談のように穏やかだった。

 泣いている。

 少年は、一生分の涙を流し切ってしまいそうなくらいに泣いている。

 カーマのために、泣いている。

 それだけで、カーマは満足だった。

 

 "傷にならないといいなぁ"と、カーマは思う。

 

「愛してるなら殺してください、マスター。

 マスターの明日の幸福を願う私のために。

 私の願いを叶えるために、私のために、私を殺してください。愛してます」

 

「―――」

 

「どうか、私を殺してください。

 今度は、他人の愛のために滑稽に死んだ噛ませ犬ではなく。

 愛する人のために、自分の愛のために死んだ、真っ当な愛の神として死なせてください」

 

 葛藤があった。

 迷いがあった。

 絶望があった。

 恋慕があった。

 信頼があった。

 祈りがあった。

 願いがあった。

 想いがあった。

 

 正解は最初から決まりきっていて、あとは彼がそれを見つけ出し、口にするだけだった。

 

「令呪三画をもって命ずる―――」

 

 そして。

 

 

 

 

 

「―――僕を殺せ、カーマ」

 

 

 

 

 

 終わりは、訪れた。

 

 

 

 

 

 愛。

 痛み。

 答え。

 くるりくるりの貝合わせ。

 最中に待つは那由多の女。

 

 ―――情と欲に支配されるのもまた、生命の証。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カーマの弓が、少年の胸を撃ち貫いた。

 

「―――え?」

 

 呆然とするカーマ。

 微笑む少年。

 吹き出す血飛沫の生暖かい温度が、これが現実であるとカーマに突きつける。

 

「本当だ。愛してる人に殺されるのは……そんなに悪くないんだね……」

 

「マスター!」

 

 駆け寄るカーマ。

 だが、もう手遅れだ。

 この状況から助ける方法など存在しない。

 それこそ、魔法の域の奇跡でもなければ不可能だろう。

 

「なんで、なんで……

 私は元より死人です!

 今を生きているマスターと引き換えにするような存在じゃありません!」

 

「ダメ、だよ。

 カーマはずっと傷付いて、きたんだ。

 心も、身体も。

 自分で自分を、傷付けろ、なんて言えない……死ねなんて、言え、ない……よ」

 

「……っ、マスター……あなたは……」

 

 少年は微笑み、カーマは泣きそうな顔で冷静さを失っている。

 先程まであったマスターとサーヴァントの関係性が、まるで逆だ。

 少年は自分を抱き留めているカーマの顔を見て、顔に小さな傷があるのを見て、ほんの僅かな魔力を使って、医療呪術にてその傷を消す。

 

「ふふ……綺麗に、なった……」

 

「……そんな愛を、私が欲しいって言いましたか!?」

 

「ダメ、だっ、かな……」

 

「嬉しいです、嬉しいけど……嬉しくない……! こんな、こんな……!」

 

 少年は顔を横に傾け、父親を見る。

 父親は少し驚いていたが、大まか予定通りには話が進んだため、うろたえてはいなかった。

 

「結果は、同じ……

 マスターが、いなくなったカーマは、消える……

 なら……いいよね……求められたこと、に、は……応えた……」

 

「ああ、まあいいぞ。ほれ、俺の使い魔は消えた。わかるか?」

 

「……うん」

 

 使い魔は消えた。

 これで孤児院を狙う者はいない。

 少年も死に、カーマも消える。

 そうして大まかこの男の思い通りになるということは、なるほど確かにカーマの言う通り、この男は無駄な労力や魔力を費やさない人間なのだろう。

 

 魔術師らしい現実主義で合理主義。

 自分達の常識とルールの上で最高効率を目指して行動するがために、家族ですら生贄にし、一般人であればどれだけ踏み躙っても気にしない。

 これが、魔術師。

 愛のために生きることが理解できない、人類の神秘の行使者達だ。

 

「カー、マ」

 

「……はい、なんですか?」

 

 カーマは少年より、少しだけ大人だった。

 少年の前で怒りを出すことはすぐにやめ、少年を安心させる微笑みを作る。

 聖女のような微笑みを浮かべたカーマは、少年にやすらぎを与えてくれる。

 けれど、救えはしない。

 

「どう、かな」

 

「どう、とは?」

 

「僕のこれは……君を愛してるっていう、証明に、なるかな……?」

 

「―――」

 

 カーマの微笑みはくしゃっと崩れ、カーマは涙をこらえる。

 

―――あなたにとって愛とはなんですか?

 

―――分かんないよ。でも、うん、そうだな。

―――『あなたの命を私の命より大事に思ってます』って、行動で示せることとかかな」

 

 素晴らしき出会いだと思った。

 運命の出会いだと思った。

 救われたと思った。

 愛されていると思った。

 だから、カーマはずっと幸せだった。

 

 幸せだったから、今、心が折れそうになっている。

 

「君は、愛されない人、なんか……じゃないよ。

 ちゃん……と、皆に、愛される人だよ……

 ちょっと、酷い、目に……あって、自分を……見失っているだけで……」

 

「マスター、マスター、死なないでください。

 あなたが生きていてくれればそれでよかったんです。

 あなたが私を照らしてくれる(アーバ)だったから、だから……!」

 

「今日、まで、ありがとう」

 

「ありがとうって、百回言っても、千回言っても足りないくらい、感謝してて……」

 

「君を……勝たせてあげることができなくて……ごめんね……」

 

「私が、私があなたを勝たせたかったんです!

 私の好きなご飯を作ってくれようとするあなたを!

 私の心の傷を慮ってくれるあなたを!

 いつも早起きして努力してるあなたを!

 道端で泣いている子供がいたら助けに行こうとするあなたを!

 部屋に入ってきた小さな虫ですら、窓から逃してあげてる優しいあなたを!

 勝たせたくって……幸せにしたくて……だから、だから私は……ああっ……!」

 

 もう、少年の返事はない。

 

「マスター?

 マスター?

 冗談、ですよね?

 死んでなんていませんよね?

 ねえ、マスター、冗談が過ぎますよ。マス……っ……マスター……」

 

 穴の空いた心臓は止まり、魂は抜け、生命は活動を停止した。

 

「……マスター……」

 

 悲しみがあった。

 ただただ、悲しみがあった。

 愛があった。

 失われ、けれどなおも在る愛があった。

 別れがあった。

 もう二度と会えない、永遠の喪失だった。

 

 だが、喪失の悲しみに浸っているカーマを気遣いそっとしておくほど、性格が良い者はここにはいない。

 

「ちゃんと生まれたように見えても、出来損ないか。

 俺の実験は失敗だな。全く俺に似ていない。

 遺伝子的には俺の子でも、精神的には全く俺の子ではなかった」

 

「―――」

 

 その一言が、最後の引き金となった。

 

 何かが切れる音がした。

 

 何かが燃える音が生まれた。

 

 何かが堕ちる、音が響いた。

 

「なんだ、まだ残っていたのか、アーチャー。

 お前は元々魔力が尽きていた。

 魔力が十分にあるサーヴァントでも、マスターを失い半日経てば自我すら欠ける。

 依代であるマスターを失い、世界の強制力を受けるということはそういうことだ」

 

「……」

 

「変に踏ん張らず諦めるがいい。

 どうせもうお前は一秒も戦えん。

 今回の聖杯戦争の勝者は、俺で決まりだ」

 

「マスターとあなたが似ていないと、そう言いましたね」

 

「ん? ああ、言ったが」

 

「あなたと彼が似てなくて助かりました。

 彼は健気な勉強家で、あなたはその足元にも及ばない塵屑だった」

 

「何?」

 

 その瞬間、二つの人影が動いた。

 一つはカーマ。

 一つはランサー。

 カーマは拳を振り上げ、雷光に迫る速さで振り下ろす。

 マスターを庇ったランサーは槍でそれを受けるが、カーマの拳が触れた瞬間に嫌な音を立て、一瞬にしてへし折れた。

 

「……は?」

 

「マスター、下がって! このアーチャー……よく分かりませんが、危険です!」

 

 ここまで黙りこくっていたランサーが、声を荒げる。

 それだけで、この状況がどれだけ危険か分かるというものだった。

 

「燃えるような愛」

 

 カーマの腕は、燃えていた。

 ただの炎ではない。青い炎だ。

 加工工場で使われているような、青い炎が燃え上がっていて、その中に星が見える。

 ただの炎であるはずなのに、まるで宇宙を内包しているかのような炎だった。

 カーマの両手足はそれそのものが炎になっているかのように燃え上がり、膨大な熱量を周囲に放ち、カーマの両手足はまるで燃える宇宙のようだった。

 

―――燃え上がらせる者(ディーパカ)。ゆえに私は炎の属性を持ちます。

 

 かつて少年にカーマが語った内容を体現するかのように、カーマの両手足は燃えている。

 

「な、なんだこれは……!?」

 

「アーチャーのクラススキルは『単独行動』。

 マスターを失っても存在し続けることができます。

 私のマスターはちゃんと勉強して覚えてましたよ?

 ……あなたはやはり、私のマスターに遠く及ばない塵屑ですね」

 

「マスター、もっと下がって!

 感情の悪性の爆発によって霊基が変化しています!

 ありえません!

 霊基の……霊基の別側面が、表出している……!? 本当に、アーチャー……!?」

 

「チッ……不気味な。俺も切り札を一つ切るか」

 

 ランサーのマスターは杖を取り出し、莫大な魔力を込め、振る。

 それがカーマの周りに、不可思議な現象を引き起こした。

 落ちる木の葉が落ちなくなり、風の動きが止まり、転がっていた小石がゆっくりになる。

 

「ククッ……どうだ、対魔力を抜いてくる『時間干渉』は!?

 これは多額の寄付を条件に協会から借り受けたもの!

 極東の衛宮という封印指定魔術師の刻印を加工した杖だ!

 封印指定魔術師の研究成果の塊!

 時間に干渉する魔術礼装よ!

 お前は既に時間を無限に減速し続ける結界を貼り付けられている!

 何が起こっているかも分からないまま、ランサーに八つ……裂き……え……」

 

 ほとんど停止されている時間の中を、カーマは悠々と歩いていた。

 

 葉は落ちず、風は流れず、小石は転がらない、干渉された時間の中、カーマは全ての時間に足を止められることもなく、いつもの気怠げな表情で、止まった時間の中を歩いていた。

 

 時などというものでは止められない、愛の復讐があった。

 

「お遊びは終わりですか?」

 

「ち……違う。

 時間操作を打ち消し、時空を超越する……

 それはアーチャーの単独行動などではない!

 それは、それは、黙示録の獣の一族、単独けんげ―――」

 

 バギンッ、と音を立て、無限減速によって止められていた時間と空間が砕けた。

 

 カーマの両腕、両足が燃える。宇宙のような色合いで燃える。

 

 まるで、宇宙そのものが、愛しい人を奪われた怒りで燃え盛っているかのようだった。

 

「ひっ」

 

 ランサーのマスターは悲鳴を上げて後退り、ランサーは藪をつついて蛇を出し、もはや勝利の可能性が存在しないことに気付いていた。

 

 愛欲の獣は、今はただ、愛しい人のためだけに、失った悲しみのためだけに燃え堕ちる。

 

「見届けてください、マスター。愛しい人。優しい人。私の運命」

 

 胸に手を当て、少女は今は亡き者を想う。

 

 

 

「―――大好きでした。本当に、本当に、大好きでした」

 

 

 

 それは愛。

 溺れるような愛。

 爛れた色の中で、唯一煌めく星のような愛。

 

「マスター。私は、あなたの願いを叶えてあげたい。

 世界中の人が優しくなれる世界。

 私みたいな捻じ曲がった小悪党でも愛してもらえる世界。

 素晴らしいと思います。

 でも、私はあなたみたいに優しくないから……優しくない人を殺します。今、一人だけ」

 

 "ああ、私らしくないことを言っている"と思っても、カーマは言葉を止められない。

 

「誰も殺さないというあなたとの約束を破る私で、ごめんなさい。

 私はやっぱり、そういうダメな存在です。

 あなたとの約束を守りもしない。最低です。

 それでも……それでも。

 私は、あなたの優しい夢の邪魔になる、あなたの父親を、あの邪悪な男を――」

 

 優しすぎる息子がいた。皆が優しくなれる世界を願っていた。

 

 優しさの欠片もない父がいた。子が夢見た世界を、生きているだけで侮辱していた。

 

「――あなたを殺した者を、赦せない。あの男も、私も。絶対に赦さない」

 

 カーマは許せなかった。

 何もかも、許せなかった。

 元凶の父親も。

 マスターを直接手にかけた自分も。

 こんなことになった世界も。

 運命も、何もかも、許せなかった。

 

 世界の何もかもを呪い、何もかもを許さないという悪意が、カーマを魔王に昇華させる。

 悪よりなお悪しき者(マーラ・パーピーヤス)へと変える。

 許す者が聖者なら、許さぬものが邪悪である。

 カーマはただ、彼を死なせた全てを、許したくなかったのだ。

 

「面白い話をしてあげますね?

 私の第二宝具は、私が身体無き者であることを証明する宝具です。

 失った自分の体そのものを愛の矢と解釈し、再定義する宝具なんですよね。

 私は別の霊基で現れた時にはこれを、失われた私が宇宙であると定義するために使います」

 

 カーマは微笑む。

 綺麗な微笑みだった。

 残虐な微笑みだった。

 憎悪の微笑みだった。

 その微笑みを見たものが震え上がるような、おぞましい微笑みだった。

 

「元々、あやふやな概念の宝具ですからね。

 あなたが奪った『私の半身』も―――もう、私の愛の矢です」

 

 かくしてカーマは、『愛した半身への想い』を、矢の形に固める。

 両腕両足から迸る宇宙のごとき炎が、愛の矢に集約されている。

 それは、愛の一撃。

 "失われたもの"を、天地を滅ぼす一撃へと転換する、カーマ最大最強の一撃。

 『彼』に、自分自身の仇を討たせるための一撃。

 

「た、助けてくれ!

 お前は愛の神カーマだろう!?

 生きとし生けるもの全てを愛する神!

 全てを愛し、全てを許し、愛で堕落と快楽に堕とす神のはずだ!

 わ、私のことも愛してくれ! 許してくれ! お前はそういう神だろう!?」

 

「知りませんよ」

 

 命乞いを始めた男の願いを、にべもなく切って捨てる。

 

 愛の神らしい振る舞いを、カーマは捨てた。

 

 愛のために、愛の神らしくない選択をして、炎の弓に愛の矢をつがえて構える。

 

 

 

「私はお前を―――(あい)さない」

 

 

 

 

 こらえた涙が溢れる前に、自分の中の空っぽの境界を横切るように、その矢を撃ち放った。

 

「『恋もて焦がすは愛ゆえなり(サンサーラ・カーマ)』」

 

 宇宙を駆ける彗星のように、美しい光の軌跡を描く宝具を見て、カーマは在りし日の――幸せだった頃の――会話を思い出す。

 

 

―――カーマの宝具かっこよくて綺麗だから好きだよ

 

―――ふふっ、お褒めいただきありがとうございます

 

 

 もう、そんな風に褒めてくれる彼はいない。

 

 矢を撃ち放ち、拡散する光が敵を飲み込み、ランサーもそのマスターも消え去り、空を見上げ、月を見上げる。

 

 月を見上げたカーマの瞳から涙が零れ落ち―――彼女はようやく、愛した者の死を嘆いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦いを終えたカーマは、もうボロボロだった。

 マスターはなく、魔力もなく、その状態から魔力を捻出して、宝具まで撃ってしまった。

 女神の恩恵スキルで、攻撃時にランサーの魔力を強制的に奪い取ってはいた。

 グランドサーヴァントがそうするように、自らの霊基を燃やして魔力を作ってもいた。

 だが根本的に、他者から魔力を供給されていないサーヴァントに真っ当な戦闘など不可能なのである。

 

 アーチャーの単独行動――あるいは、それ以上のスキル――によって存在を保っていたカーマも既に限界だ。

 ロクに動かない体で、カーマは少年を抱きしめ、その頬を愛おしげにつついていた。

 

「マスター。マスター。―――さん。……私まだ、あなたの名前も呼んでないんですよ」

 

 寂しそうに、カーマは微笑む。

 

「私達、似た者同士かもしれませんね」

 

 そうして、ふと気付くのだ。

 

 微笑みかけると微笑みを返してくれる彼が好きで、自分に笑いかけてほしかったから、彼にずっと微笑みかけていたのだと。

 

 失ってから、手遅れになってから、カーマは気付く。

 

「……本当に欲しい物だけは、絶対に手に入らない」

 

 後悔して、後悔して、後悔して……そうして、ふと気付くのだ。

 失ってから、手遅れになってから、カーマは気付く。

 

「―――聖杯」

 

 まだ、全てが終わったわけではないということに。

 

「遺体はほとんど綺麗に残ってる……

 死んでからの時間も経ってない……

 聖杯に願えば、()()()()()()()()()()()()()

 

―――もう彼女は天国に行ってるのかな……聖杯で連れ戻すのは、悪いことなのかも

 

「知ったことじゃないですよ。

 マスターが勝手したのが悪いんですから、私も勝手にさせてもらいます」

 

 少年の言葉を思い出したカーマだが、容赦なく切って捨てる。

 

「ごめんなさい。でも、しょうがないんです。

 あなたが大切にしていた考え、知っているのに、一つだけ足蹴にさせてください」

 

 ちょっと謝り、カーマは一人、戦場に向かった。

 

 

 

 

 

 ボロボロのカーマは、必死に駆けた。

 セイバー、ライダー、バーサーカー、ランサー。もう既に四騎をカーマは倒していた。

 残るはキャスター、アサシンの二体。

 七組の参加者の内四組を単独で脱落させたカーマの恐ろしさは既に他参加者に周知されており、残り二組は対カーマ同盟を組んでいた。

 魔力が尽きたカーマにとって、それは絶望的な難敵であった。

 

 狙撃、射撃、奇襲。

 なんでもやって、まだ届かない。

 山でネズミや野犬を食って、魂喰いを繰り返した。

 僅かな魔力を補充して、みじめったらしく食らいつき続けた。

 万全のサーヴァント二騎。

 魔力を健全に供給し続けるマスター二人。

 もはや味方など一人もいないカーマの孤軍奮闘では、倒すどころか揺さぶりもかけられない。

 

 それでも、食らいついて、食らいついて、食らいついて。

 走って、走って、走って。

 撃って、撃って、撃って。

 カーマはたった一人で戦い続けた。

 魔力の欠乏でぐずぐずに崩れ始めた足で走り、魔力不足で欠けたまま戻らなくなった指で弓を引き続けた。

 

 全ての苦しみが、痛みが、絶望が、足を止める理由にならなかった。

 

 どんなにみじめでも、情けなくても、ボロボロでも、諦められないものがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私が許されないことなんて分かってる。

 マスターを殺した。

 愛した人を殺した。

 私は、愛の神なのに。

 

 生き返らせたらチャラだなんて思ってない。

 だってそうなら、生き返らせるなら殺してもいいことになる。

 私はそうは思わない。

 死ぬのは、死ぬほど痛いことだ。

 マスターだって、死ぬほど痛かったはず。

 死ぬ時の痛みと苦しみは、生きたまま焼き殺された私が一番よく分かってる。

 

 生きてほしい。

 マスターには、生きてほしい。

 たとえ、この世界に苦しみが満ちているとしても。

 たとえ、愛の先には絶望しか待っていないとしても。

 マスターに生きていてほしい。

 マスターに幸せになってほしい。

 その隣に私が居なくたっていい。

 マスターが幸せだと、胸の奥が暖かくなる。

 そのためなら、今ここに居る私が、消えてなくなったって構わない。

 

 ……ごめんなさい。

 大嘘ぶっこきました。

 マスターの隣に居るのは私じゃないと嫌です。

 他の誰にも渡したくはないです。

 私、独占欲も嫉妬心も他の人より強いので。

 できればずっとマスターと一緒に居てあげたかったですけど……まあ、しょうがないですね。

 

 私は、愛というものに倦んでいました。

 愛が嫌いでした。

 愛に絶望していました。

 愛に疲れていました。

 愛の神なのに、です。

 それでも愛の神であることをやめられなくて、何もかも嫌になっていました。

 

 でも、今は少しだけ、胸を張って居られます。

 

 それはきっと、あなたのおかげ。

 

 いいえ、絶対にあなたのおかげです。

 

 生きてください、マスター。

 

 あなたが私への愛を忘れて、いつの日か、一人で生きていけるようになる、その日まで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年が眠るベッドがあった。

 疲れ果て、ボロボロになって、ベッドに突っ伏した少女がいた。

 

 少女の体が消えていく。

 光の粒になって消えていく。

 少女が愛おしそうに少年の頭を撫でるが、撫でていた手も光になって消えていく。

 少年がプレゼントした浅葱色と浅縹色のイヤリングが床に落ち、カツンと音を立てる。

 少女が完全に消えてなくなってから、少年は目を覚ました。

 

「ん、んん……」

 

 目を覚まし、体を起こした少年の体には傷一つない。

 胸に穴も空いていない。

 少年は自分の体をチェックして、「死んだはずじゃ」と傷一つない自分の体に首を傾げる。

 

「カーマ?」

 

 呼びかける。返事はない。

 

「カーマ、どこ? 居るんでしょ?」

 

 呼びかける。返事はない。

 

「……ねえ、悪い冗談はやめてよ。心配性のカーマが僕を放っておくわけがないよ」

 

 呼びかける。返事はない。

 

「カーマ……」

 

 呼びかける。返事がないことは分かっている。

 

「……カー、マ……」

 

 呼びかける。本当は、どうなっているのか、なんとなく分かっていた。

 

 傷がなくなって、死んだ自分が蘇って、カーマが居ない。答えを出すのは簡単だった。

 

「……うっ……」

 

 涙が溢れる。

 零れて落ちる。

 ベッドのシーツに、透明なシミがいくつもできていく。

 これが終わり。

 これが結末。

 聖杯戦争は集結した。

 一人の少年と、一人のアーチャーを勝者として。

 

 カーマが頻繁に身に着けていたイヤリングを拾い、少年は泣く。涙が枯れそうなほどに。

 

「ううっ、うっ……うっ……くうっ……ぐっ……ううっ……!」

 

 溢れる涙を止められない。

 

 流れ落ちる涙を止められない。

 

 さようならすら言えずに、愛の神様は去ってしまった。

 

 だからせめて、心の中でありがとうを言った。

 

 それが彼の愛が果たせる、最後の愛だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 命とは終わるもの。

 生命とは苦しみを積みあげる巡礼だ。

 

 だがそれは、決して死と断絶の物語ではない。

 

 あらゆるものは永遠ではなく、最後には苦しみが待っている。

 だがそれは、断じて絶望なのではない。

 限られた生をもって死と断絶に立ち向かうもの。

 終わりを知りながら、別れと出会いを繰り返すもの。

 輝かしい、星の瞬きのような刹那の旅路。

 

 これを、愛と希望の物語と云う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある土地で、聖杯戦争が行われた。

 魔術師が集まり、サーヴァントが召喚され、戦いが始まる。

 善良なる者が集まらぬ限り、また多くの罪なき人々が犠牲となるだろう。

 そして魔術師は基本的に人でなしだ。

 罪なき人々が涙を流すことは、ほとんど確定のことであるように思われた。

 

「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。

 降り立つ風には壁を。

 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」

 

 一人の魔術師が、召喚の詠唱を行っている。

 

「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。

 繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 

 光が魔法陣に満ち、空間に魔力が満ち、この世とこの世ならざる場所が接続される。

 

「――――告げる。

 汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。

 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 

 召喚の詠唱を行う魔術師の手には、触媒である浅葱色と浅縹色のイヤリングが握られていた。

 

「誓いを此処に。

 我は常世総ての善と成る者、

 我は常世総ての悪を敷く者。

 汝 三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」

 

 光の柱が立ち、その中から人影が現れる。

 

「サーヴァント・アーチャー。召喚に応じ……あら、まぁ。随分……背が伸びましたね」

 

 懐かしい顔だと、魔術師は思った。

 懐かしい顔だと、アーチャーは思った。

 やっぱり綺麗だと、魔術師は思った。

 かっこよくなりましたねと、アーチャーは思った。

 

「私を二度召喚したマスターはあなただけですよ、まったく……本当に、愛せる人ですね」

 

 アーチャーが駆け寄り、魔術師を優しく抱き締める。

 

「もう、私を――― 一生、(はな)さないでくださいね」

 

 魔術師もまた、アーチャーを抱きしめる。

 

 物語は、ここでおしまい。

 

 きっと彼らは、幸せになった。だからここで、お話はおしまい。

 

 

 

 

 

 誰もカーマのことを救いませんでした。

 誰もカーマに身体を返しませんでした。

 カーマは泣きながら焼けて死にました。

 輪廻を廻るがカーマの運命(サンサーラ・カーマ)

 

 けれど、死んで生まれて、死の境界を越えたその先で、カーマはまた出会うのです。

 

 死が二人を別つとも、絆は死では別てない。

 

 別れに終わらず、再会で終わる。それが愛の神カーマの神話。

 

 そうして―――カーマの神話は終わるのです。

 

 めでたし、めでたし。

 

 

 

 

 




アーチャー・カーマと■■■■■■■の聖杯戦争へ
アーチャー・カーマとまた出会うための聖杯戦争へ

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