意識をなくして自由落下するヴィラクスを俺は受け止めたが、慣れていなこともあってズッコケてバランスを崩してしまった。幸いにも怪我はないし、ヴィラクスも無事だから良かったが……問題はそこじゃない。
俺はヴィラクスの安静を確認すると静かに地面に横にして、今回の功労者である人物へと歩んで行った。
「ウリエル……」
そこには頭部だけとなり、焼け焦げたことで元の肌色も消え、髪も全部焼き払われた少年の亡骸があった。
本人が口にした通り『ゴーレム』ということもあってか、首筋からは血は出てないし、呼吸はまだ続いている。特殊なマネキンのようだと思えば特別怖いと思うこともない。
だけどもう少しでその命は終わる。こんな寂しい暗闇の世界で少年の命は尽きようとしている。
……自分でも残酷なことだが、ウリエルがこうなっても、そこまで傷ついていないのが少々悲しかった。
それだけ人の死を見慣れてしまったからか、あるいはニャルラトホテプの先入観があるからか、単純に知人としての関わりが少なかったからか。
『レン……。『魔導書』の支配も魔力もすべて放出させた。じきにこの空間は消え去り、君とヴィラクスは元の世界に戻れる……』
何も言うことができない。彼自身のことを俺は何も知らない。
『……一つ言っておくよ。ニャルラトホテプは一筋縄じゃいかないし、諦めも性根も悪い。一度逃したら、それは新しい戦いの……新しい犠牲者が出るってことだ』
だから俺は聞き続けることしかできない。
少年の遺言になる言葉を、一言一句忘れないために。
『もうヴィラクスみたいな犠牲者はごめんだ。必ず……今ここで、ニャルラトホテプを倒すんだ』
「……言われなくてもやるよ。俺だって負けっぱなしは嫌だから」
ウリエルは輝きを失いつつある目で、聞こえたのか怪しい態度で『そうか』と呟きながら一生懸命何かを探すように視線を泳がす。
その意味に俺は瞬時に気づいて、ウリエルの頭部を持ち上げて「どこに運ぶ?」と質問した。
『……ヴィラクスの顔を見せてくれないか』
迷うことなく無言で頷いて、軽すぎるウリエルの頭を眠るヴィラクスの横へと置いた。
今までのことなんて何も知らないと言わんばかりに安らかに眠る横顔。そんなヴィラクスを見て、ウリエルは撫でるような優しい声で呟いた。
『……ありがとう。それしか言えないけど、本当にありがとう。君に会えて楽しかった————』
そこでウリエルは力尽き、骨も残さずに砂塵となって暗黒の世界に溶けて消えていった。余韻などなく、ただ最初から何もなかったかのように寂しそうにひっそりと。
暗黒の世界に閃光が裂く。それはもうすぐここから出られる前兆だ。世界に日々が入り、少しずつサモントンの空が映写機のように薄く見え始める。
俺はヴィラクスを抱えて、今か今かと待ち侘びる。
ウリエルの想いも背負って……あのニャルラトホテプを倒すために。
…………
……
「——ちぃっ! ヴィラクスの奴、ヘマしやがって……!」
上空を覆っていた『裂け目』が砕け散って消える。
同時にニャルラホトテプは感じた。自分に繋がる物が二つ切れたことを。一つは『魔導書』を通したヴィラクスとの契約。もう一つは取り込んでいたはずのレンの束縛だ。
「……あの女、口だけの役立たずか。従者というくせに情けないやつだ」
それはニャルラトホテプの目的が崩壊したことを意味していた。流石のニャルラトホテプもこの事態には笑みは崩さずとも、その奥にある余裕が薄らいでいく。
「——ッ!」
その絶好の隙を見過ごすやつは一人もいない。
戦闘中に掛け声なんて無粋とばかりに、異形のラファエルこと『ルクストゥール』と名乗る存在はその両手にある『見覚えのない武器』を、心ここに在らずなニャルラトホテプの頭部へと叩きつけた。
武器の形状は円形。中央を丸々とくり抜いた金属にも近い円盤の縁には研ぎ澄まされた『刃』があり、それら金属部分はまるで蛍のように『緑色』の光を粒子と共に解き放っていた。
その武器は一見すれば古代インド神話に出てくる『チャクラム』に見えるが実は違う。正確には『乾坤圏』と呼ばれ、前者と違って斬るのではなく殴るための武装だ。時代を遡れば、古代中国に伝わる武神・哪吒太子が使用していたと言われる物だ。
その破壊力は下手に槌や剣を振り回すよりも高く、仮にもレンの顔をしたニャルラトホテプは車両のタイヤに潰されたかのように頬の骨が血塗れに砕けて歪む。
「不器用なダンスだろうと、精々自分の足は踏むなよ」
ルクストゥールはさらに『流れる』ように間合いを詰め、『舞う』ような動作でニャルラトホテプを腹部、腕部、胸部、頭部と全ての箇所を念入りに追撃をしていく。回避など間に合うはずもなく、順繰りに骨と皮膚を削いでニャルラトホテプの本性が露わになっていく。
身体の奥、あるいは瞳の奥に潜むのは『混沌』だった。重力よりも強く惹かれる底無しの混沌。一眼見ただけで、この世の真理を垣間見させる全ての事象を孕んだ混沌は常人であれば一瞬で狂ってしまうほどに冒涜的な姿であった。
だがニャルラトホテプも一方的に嬲られるままではない。
隙を見て反撃をするがそれは無駄となる。何故かルクストゥールの身体は蜃気楼のように『幻』となって攻撃をすり抜けしまい、そのまま反撃の反撃を無防備にニャルラトホテプは受けてしまうからだ。
今度の一撃は顔を深々と変形させ、その勢いのまま地面へと熱烈な口づけをして地面へと倒れ伏した。
見た目だけならもう動くどころか呼吸さえままならないほどに傷だらけ。だが、これで終わらないのが『外宇宙の生命体』だ。ルクストゥールは油断などせずに間合いを詰め、その手にある武器を突きつけた。
「これで終わりか? お前にしては弱いな」
「ふふっ……はは……」
ルクストゥールの見え見えの挑発——。
それをニャルラトホテプは笑って受け止めた。
「あははははははは!! 強い強い! 実に強い! 困るほど強い!」
もうレンの姿など無駄だと言う様に、ニャルラトホテプは自身の身体を変化させていく。身体は膨らみ、少女から青年へ。青年から大男へ。そして3m超えの巨人へと変化させる。
「失敗した俺と違って、お前は見事に溶け合ってるなぁ! 真体が持つ力の一割近くは出てるんじゃないか! さぞかしお前の力はラファエルと馴染んでいるよ!」
「…………何が言いたい」
「別にぃ〜〜? ただ『人間』にとって俺たち生命体の『情報』は劇薬中の劇薬だ。宿すだけで身体で毒となって侵し続け、使えば加速的に蝕まれて人ならざる化物になるしかない」
変貌は少しずつ終えていく。今度は髪の一本一本が触手となって蠢き、身体は人型ながらも漫画に出る様な上半身が太く、下半身が細いというアンバランスさ。代わりに足先は小さな触手が何本も蠢き、それd身体のバランスを支えてる様に見える。
「いやぁ〜〜、ラファエルとしての部分はどれくらい残ってるのかねぇ? 従者をそんな雑に扱うなんて、ニャル様も不憫で涙が出てくるぅ〜〜」
「……ヴィラクスを使い潰したお前には関係ないだろ」
「ああ、関係ないな。どうでもいい。あの穀潰しの女も、その唐変木な女なんて心底な」
「だが問題はお前自身だ」とニャルラトホテプは未だ変貌を追えず、小枝の様にか細い指をルクストゥールに向けた。
「なぜ俺の邪魔をする? 俺とお前は同じ生命体だろう? 手段は違えど我らの目的は同じ『異星の侵略』だ。味方になることなくても、わざわざ敵対する理由にはならないだろう」
「あのセラエノだって、中立維持なんだからな」とニャルラトホテプはケタケタと笑うと、ルクストゥールは身体の元であるラファエルのことなを代弁するように「その下衆な笑いはやめろ」と一喝して話を続ける。
「……今のお前は危険すぎる。異星の侵略といっても、我らはほぼ半永久的に存在できる。だから気長に箸休めの様に地球に干渉しては引いていくのを繰り返していた。『ヨグ=ソトース』だってそうだ。だから悠長に長い歴史をかけて『守護者』を選抜している。焦る必要など塵ほどにもないからな」
「はい、お前バカ。いつまでも『物語』が続くなんてのはエゴだよ。物語には始まりがあれば終わりがある。それが当然だろう?」
突然の言い分にルクストゥールは困惑するしかない。
物語が終わる——? いったい何を言っているか。ここは御伽噺のような世界ではない。だからこそ『七年戦争』での怨恨や傷は未だ病まずに舐め合いを続ける。
それをルクストゥールは知っている。従者であるラファエルの気持ちと記憶を薄らながらも理解しているから。だからニャルラトホテプの言葉、同じ生命体だとしても理解し難いものであった。
その雰囲気をニャルラトホテプは察し、心底呆れたような仕草でやけに重苦しくも言葉だけは飄々として言った。
「鈍いなぁ。平和ボケも大概にしとけ? 要は『もう長くない』んだよ。人間にとっては500年ぐらい先の他人事でも、俺たちにはあまりにも短い。しかもその時間は外的要因でいくらでも短くなる。それほどまでに『あの方』の覚醒は近いんだ」
「あの方……?」
ルクストゥールに一瞬で脳裏にある情報がよぎった。だが、それは即座に否定する。
馬鹿な——。あれは外宇宙の存在でも存在するかどうか怪しまれてる存在だ。だけど同時にニャルラトホテプ並みの格の高い生命体が『あの方』と呼ぶ以上、その可能性があることも否定できない。だというのに、ニャルラトホテプはルクストゥールの思考を察して静かに頷いた。
「ああ——。『万物の王』、『神々の始祖』、または『魔王』と呼ばれる真なる意味で我ら生命体の頂点のことだ」
——ニャルラトホテプはアッサリと認めた。その存在を象徴とする単語を並べて。
ありえない。ありえてはいけない。
あの存在が——『魔王』と呼ばれる存在が覚醒するなんてあってはいけない。
何故ならそれは——。
「しかし、この『覚醒』には一つの欠落がある。どういうわけか『あの方』の断片が一人の生命体に付与されていたんだ。それもごく普通の地球人になぁ」
ルクストゥールの心境なんて知ってか知らずか、悠長にニャルラトホテプは話続ける。当の本人が口にした『あの方』の『覚醒』なんて他人事だと言わんばかりにマイペースにだ。
「それじゃあ、いざという時に困る。不完全な『覚醒』のせいで不確定要素が混じり合ったら、世界は終わるよりも悲惨なことになりかねない。だからこうして『覚醒』を完全なるものとするために、わざわざ色々と用意したってのよ……」
しかし思考をいくら毒されてもルクストゥールは聞き逃しはしない。ニャルラトホテプが漏らしたある情報を。
地球の——ある一人の生命体に宿ったという。それもごく普通の地球人に。
そんな人物がいるというのなら『魔女』よりも『魔女』に相応しい力に持ってるに違いない。それこそ代替のない、この世界における非常に有用な人物として組織に保護されるほどに。
そんな人物なんて——。
ニャルラトホテプが『乗っ取ろう』とした経緯も含めれば一人しかいない。
「ああ、お察しの通りさ。レンはそれぐらい価値があるんだよ」
「なぁ」とニャルラトホテプが振り返り——。
「どう思う。元ご本人様?」
「あいつが……ニャルラトホテプか」
「間違いない。ゲロ以下のゲロ。それがニャルラトホテプだ」
背後に立つ『アレン』と『セラエノ』へと視線を合わせた。
「おやおや。セラエノにしてはいい顔をしてるじゃあないか。仏頂面の不細工が、嫌悪に満ちた美人さんに早変わりだ」
「口を塞げ。流石の私もお前相手にこれ以上中立を示すのは難しい。そこにいる『ハスター』の息子……ルクストゥールのようにな」
いつもは基本的に無表情なセラエノでさえ眉間に皺を寄せて、ゴミ捨て場から漂うゴミを一瞥するような態度でニャルラトホテプを睨みつける。
それはニャルラトホテプにとって好ましいことだったのだろう。ケタケタと壊れたカラクリ人形のような音を上げて上機嫌に笑う。
それがセラエノにとってはより不愉快だったのだろう。彼女の純粋無垢な瞳に似つかわしくない舌打ちをすると、これまた似つかわしくドスの効いた声で言う。
「今すぐ手を引け。そうなれば私もルクストゥールも、他の同胞もお前に敵対することはない」
「さっきの話聞いてたろ? お前は地獄耳の上に物事に敏感だからなぁ。そんな悠長な時間なんてどこにもないんだよ」
「それに」とニャルラトホテプは一息置いて告げる。
「それはお前自身がよく知ってることだろう、セラエノ」
その意味をセラエノは瞬時に理解した。ニャルラトホテプが何が言いたいかを。それはセラエノの手にある『断章』であることを。
「『断章』の情報がなくなったことは知っている。俺だって度肝を抜かれたからな。それに……アレンくんも聞いてはいるだろう?」
「……何のことだ?」
「断章が未来を見えなくなったこと。けど、それと同時に不可解なことも起きたろう。未来が見えなくなったと同時に、未来予知ができる『ある少女』が不幸な目にあったこと」
「……何が言いたい」
「可愛い可愛いスクルドちゃんのこと〜〜♪ 綺麗に死んで……本当つまらない」
その言い分でアレンは直感した。
ニューモリダスで起きたエクスロッド暗殺計画。レッドアラートの奇襲は退けたが、ヤコブが『イスラフィール』を利用した直接的な殺害は食い止めることができずにスクルドは命を落とした。
その時、ヤコブが話していた内容をアレンはイナーラを通して知っている。
色々事情が混み合っていたが、簡単に言えばヤコブがエクスロッド暗殺計画を企てたのはニューモリダス政府の政治家から取引があったからだ。それを成功すれば、マサダでの地位が落ちて居場所を無くしたヤコブを『トリニティ教会』の神父としてニューモリダスに匿うことを約束して。
つまりヤコブは自主的に暗殺計画企てたわけではない。政治家から唆されて実行したということになり、首謀者はその『政治家』ということになる。
ならば、その首謀者となる政治家が『誰か』という疑問は当然湧く。
もしも、その『誰か』がいるとすれば——。
レッドアラートでニューモリダスの一部を破壊させ、ヤコブを唆し、スクルドを殺すという『誰も得をしない』結果で終わった中で『得をする者』がいるとすれば——。
今、サモントンが『ドール』によって破壊され、ウリエルを唆し、レンを取り込んで目的を成すという『似たような状況』で『得をする人物』がいるのは——。
「まさか…………。あの『暗殺計画』に関与したニューモリダスの政治家ってのは……!!?」
「大正解。けどどうでもいいだろう、そんな過去のこと。水に流せよ、罪を許すのが人間の美徳なんだろ〜〜?」
「————ッ!!」
自分から振っておいて、自分で許せとはどの口が言っているのか。
あまりにも身勝手な理屈と態度に、思わずアレンはディクタートルの刀身を再生させて叩き斬ろうと間合いを詰めた。
その詰め方の速度はギンの『抜刀術』に劣らないほどだ——。
しかし、それでもニャルラトホテプは鼻歌を歌うように緩やかに身を捻って交わした。同時に人間が受けるには単純に質量が大きい触手の塊を用いた『殴打』をアレンは受け、血反吐を吐きながら一気にセラエノの後方へと吹き飛んだ。
だが、アレンだって戦闘には慣れている。即座に身を翻して着地をした。当たりどころも調整していたから致命傷はない。多少血が出ただけで、アレンは無事である。
しかし、それでもダメージはダメージだし、同時に今の立ち合いだけでアレンは理解した。
——まだまだ本気じゃない。底が知れない。
——レンが来ないと、打倒することができないと。
「おおっと、怖い怖い。それに三体一の状況……その内二人が俺と同じ生命体となるとちと分が悪い。ここは切り札を出すとしよう」
そういうとニャルラトホテプの身体はより膨らみ、背中から蛹が割れる様に裂けていく。
蛹が割れれば、蝶が出る。それが当然のように、ニャルラトホテプの身体から何かが這い出てきた。
それは『化け物』だった。
全長はまだ伺えない。1m、2m……徐々に高さを増していき、最終的には3mに達する巨体を晒してルクストゥールの前に立ちはだかった。
同時にニャルラトホテプの変貌もようやく終わり、その真なる姿を顕現させる。
それは何とも形容し難い姿見だった。一言で言えば『モンスター』だ。
恐ろしく巨大で、かぎ爪のついた手のような器官。顔は表情がない代わりに、赤い血の色をした長い触手が犇いて獲物を狩ろうと待ち侘びている。
特徴的な部分はまだ続く。身体全体は黒色に染まっていて、自分より何倍も大きい翼を翻す。翼は一つ羽ばたくだけで、鎌鼬のような鋭い突風を発生させて、その場にいるすべての生命という生命を傷つけた。それは植物さえも例外ではない。
そして顔部分に当たる触手の根本——。
不自然に空洞となっているその部分からは、光さえも喰らい尽くす禍々しい『赤い一つ目』が浮き出てきた。鮮血よりも真っ赤で、宇宙よりも真っ暗な悍ましい瞳がアレンを捉えたのだ。
「さあ、地球を賭けたチャンバラだ。俺はアレンとセラエノを。ルクストゥール、お前の相手はコイツがしてやる」
ルクストゥールの前に立ちはだかった巨体もようやく形状を整えて顕現する。
それは緑の衣を纏い、コウモリの翼を持った人型の異形だ。身長はさらに増して4m以上。もしかしたら5mにも達しているかもしれない。硫酸で溶けたように爛れて離れた目は、僅かにだが意思があり、自身の衣の中にある『何か』へと意識を向けている。
その『何か』とは赤子が乳を吸うように張り付く異形に向けた物だった。その異形は『顔のないもの』と形容したくなるほどショッキングで黒い不恰好な怪物であり、大きさとしては成人男性ぐらいだ。それは今この瞬間に誕生してるんじゃないかと疑うほどに、どこからともなく『無数』に溢れ出していた。
「我が可愛い娘——。『イブ=ツトゥル』がな」