魔女兵器 〜Another Real〜   作:かにみそスープ

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第5節 〜天淵氷炭〜

「……ミーム汚染で『世界が生まれ変わった前の記憶』を、バイジュウが持っている?」

 

 言っていることの意味が分からない。何一つ理解できない。

 世界が生まれ変わった、ってどういうことだ? その前の記憶ってなんだ? 何を意味しているのか。俺には何も察することができない。

 

「ああ。そもそも南極での事件、不可解なことが多すぎる。そもそも何故、20年間も南極での事件が認知されなかった? あまりにも突然にバイジュウの事件は浮上してきた。……どこかの世界から流れ込んできたかのようにな」

 

「……そんなこと俺に分かるかよ」

 

「君には心当たりがあるのではないかね? あったことがなかった様になる現象……あるいはそれに近しい出来事が」

 

 その言葉で俺は二つの出来事を思い出す。

 

 一つは、あの日焼き付いた地獄の光景だ。

 塩の彫刻と化した人々を見て、俺は狼狽え、何をどうすればいいのかも分からずにただ『ロス・ゴールド』に願った。そうすると地獄の光景は最初から無かったかのように消え去り、その代わりなのかどうかは一切不明だが俺の性別が女の子になってしまった。

 

 もう一つは、いつか見たファビオラの記憶にあったことだ。

 霧守神社の一件で『魂』に触れる能力の一環で、過去にファビオラの記憶の潜入して何があったかを薄らと俺は思い出している。その記憶で確かに俺はファビオラと所属する部隊の人達と一緒に自律型兵器と戦いはしたが……いかんせん俺にしてはあまりにも不思議なことがあった。

 それは俺が持つ道具が都合が良すぎるというもの。反動の低いライフルもそうだし、当時ではオーバーテクノロジーである『エアロゲルスプレー』を持ち、挙句には関係ないはずの生理用品さえも簡易的な爆弾を作るのに使用された。まるでゲームのセーブ&リセットでもしたかのように手持ちを最小限かつRTAのように最短で。あまりにも都合よく解決への力になってくれた。

 

 俺の長い思考と沈黙に、目の前のゴリラことブライトは察したのだろう。沈黙は事実上の肯定を意味するというのに、それ以上俺に何かを追求しようとすることなく話を続け始めた。

 

「そういう意味では『ロス・ゴールド』の件も突然すぎる。カテゴリとしては『Safe』級だ、あれは。だというのに一夜のうちに最初からなかったように消失し、入れ替わるように君が現れ、同時にアニー、バイジュウ、ソヤと次々と異質な能力を持つ者が多発し始めた。これを偶然と片づけるには些か苦しいことは君でもわかるはずだ」

 

 ……ヤバい。ブライトは俺が『ロス・ゴールド』の消失について何らかの関わりがあることを勘づいている。

 いや、マリルだって口頭で伝えただけで信じてくれて『ロス・ゴールド』の件は頭の片隅に置いてくれているんだ。マリルも含んだ『元老院』のようなクレイジーとクレバーが融合した連中なら、一年間の猶予もあれば気づくことくらい容易いに違いない。

 

「だが今はそれを君から問いただす気はない。君は嘘を苦手としていている。顔には『ロス・ゴールド』の件について関わりがあることを言っているが、その出来事の真意までは汲み取れていない。恐らく君と私との情報量の差はそう大きくはないだろう」

 

 ドンピシャだ。こちらが考えてることなんて、ガラス細工のように透けていて、最も容易く俺の心境を看破してくる。

 

 これが『元老院』なんだ。第五学園都市【新豊州】において、最も権威と知識が深い精鋭中の研究者。こと言葉や知識においては俺が関われる様な隙が一切ない。さっきから一方的な言葉の乱射に身を晒し続けてるだけで、自分から会話の主導権を握れることがない。

 

「さて話を戻そう。仮に……ほぼ確信にも近い仮の話ではあるが、世界が何度も塗り変わっていたとする。塗り変わった世界を『ミーム汚染』による物だとしたら、塗り変わる前の世界を知るバイジュウの記憶はどういう価値があると思う?」

 

「……バイジュウの記憶は『ミーム汚染されていない』という価値があるってこと?」

 

「正確には20年前のバイジュウの記憶だがな。今の彼女自身は『ミーム汚染』の影響を受けていることを忘れてはならない」

 

 俺の言葉に補足をつけてブライトは話を続ける。

 

「そして、そのバイジュウは今『播磨脳研』にいる。先程は知らないと口にしたが予測はくらいはできる。恐らくだが、彼女は20年前の南極の記憶を再度見るためにいるのだろう」

 

「20年前の……南極を……」

 

「ああ。君がファビオラの記憶に潜入した時と同じ様に、バイジュウは『播磨脳研』でその記憶を覗こうとしている。だが記憶の潜入は、記憶の持ち主である当人だけではできん。ここが私には不可解なのだが……君なら何かしら方法があるのを知っているのではないかね?」

 

 俺には一瞬で見当と予測がついた。『記憶共有』を持つヴィラクスの記憶へと潜入して、擬似的に20年前の記憶を見ようとしているということを。それも恐らくバイジュウとミルクの組み合わせた複合の記憶として。

 

 そうすれは最初から最後まで一連の流れを知ることができる……。その『記憶』にどんな価値があるのかはまだ俺には分からない。だけどミルクの顛末を知ることは、必ず『門』の奥にいるミルクを救い出す手掛かりになる可能性は見える。

 

 それが顔に少し出ていたのだろう。ブライトは「なるほどな」と納得すると「口に出さない以上は問うことはしないでおこう」と言って、目の前にある食事を口に運んだ。

 

「……それに来客がいるらしいからな」

 

「来客?」

 

 そう言われてブライトの視線を追って、俺は背後へと振り返る。

 

 そこには見覚えのある長身の女性がいた。恋や愛のような情熱的な赤髪。魅られた男性を全て下僕にしてしまいそうな蠱惑的で扇情的な姿に、俺は生唾を飲んで叫んでしまう。

 

「ベアトリーチェ!?」

 

「久しぶりに顔を見せたわね、可愛い子ちゃん。……まあ今はそんなことどうでもいいけど」

 

 艶やかな太腿を見せびらかすようにベアトリーチェはブライトの隣へと座り込み、ワイシャツから漏れ出るたわわな胸を計算的ながらも無防備に見せつける。

 

 ベアトリーチェお得意の『話し合い』の時間だ——。

 相手の自由意志など一切許さぬ交渉——。それはベアトリーチェの能力『魅了』が活きる瞬間でもある。

 

「ギンから話は聞かせてもらったわよ、元老院さん。レンちゃんに良からぬことをしようとしていると話は聞いたけど……ここは私に免じて引いてもらいましょうか」

 

 そう言ってベアトリーチェは指輪を外す。自身では抑えきれぬ能力である『魅了』を抑制する指輪を。それはベアトリーチェの『尋問』や『説得』が始まったことを意味する。

 俺は『霧守神社』の一件や精神性の汚染は多少は対抗できるようになったとはいえ、それでもベアトリーチェのフェロモン攻撃は強力無比だ。脳内の奥を刺激してベアトリーチェの吐息一つでさえも身体中の神経が反応して甘く蕩けてしまいそうになる。

 

 そんな『魅了』の能力を持つベアトリーチェ様に抗うことは難しい。今からでも俺自身が変わって「はい」と言って、犬みたいに尻尾を振り回して服従してしまいそうになるほどに。

 

「……悪いが、その手の類は効かん」

 

「……なんですって?」

 

 だというのにブライトは至って平然とベアトリーチェを一瞥して、すぐに興味をなくした。まるで都市部に流れる『vanilla』と煩い宣伝カーや、猫丸電気街の中央にある巨大家電量販店の大型ビジョンに流れるCMを流すかのように、本当に一瞬の興味だけを惹いて。

 

 ありえない。ベアトリーチェ様の能力をそんな程度で流せるなんてありえない。

 彼女が前に出たら世界のスポットライトは彼女だけの物。あらゆる男性は崇め、敬い、詩とするほどに魅力的だというのに、ブライトはそんなスーパーで安売りされる野菜や付属されるクーポン程度の認識で受け流せるというのか?

 

「私は研究部門の都合上、精神面での洗脳や汚染に対する耐性が非常に特殊でな。確かに君の魅了は私に効いてはいるし、君の完成された肉体美には欲情もする。だがその程度では私を御することはできんよ」

 

「チッ、このムッツリが……っ!」

 

 ベアトリーチェ様は上品な顔立ちには似合わない舌打ちをしながら指輪を嵌め込んで能力を抑え込む。抑え込むついでにワイシャツのボタンも止め直して極力肌を露出させないようにすると、俺の隣へと座り直した。

 

「さて、タイミングもいい。ここらで失礼させてもらおう」

 

「ま、待ってくれ! まだ聞きたいことが……」

 

「……何かね?」

 

「……なんで俺に話しかけてきたんだ?」

 

 それは俺にとって最後まで分からないことだ。

 俺とブライトの話は掻い摘めば『バイジュウの過去と行動』を『俺に教える』というものだ。俺から提供したのは無言の肯定しかなく、マリルと並ぶ『元老院』の一人がこんな浅い目的のために態々素性を晒してまで俺に会うなんてあまりにもリスキー過ぎる。

 

 だとすれば理由があるに違いない。顔を晒してまで、俺と会いにくる本当の理由が。

 

「単純な話だ。今のマリルは多忙で君の監視が手薄になってしまっている。現に君の身体から言葉を発することもできるはずなのに、一言も介入せずにベアトリーチェを呼ぶほどにな」

 

「……その通りよ。マリルは今はサモントンの件も兼任して多忙の身……。だからこうして私が出て貴方を止めようとしたのよ」

 

「やはりな」とブライトは一言吐くと、レシートを手に離席の準備を始め、ベアトリーチェに「何かご馳走を受けたいなら今のうちに頼め」といい、当の本人は「いらないわよ」と拒否すると、ブライトは少し面白そうに笑うと話を戻した。

 

「そうとなれば必然的に君に接触するチャンスが多少は生まれる。それは私や『元老院』だけではない。他国から君の能力に気づき始めた有力者に小さくも大きな隙だ」

 

「俺と接触するチャンス……?」

 

「ああ。マサダブルクでの一件以来、君の顔は各国に認識された。そのすぐ側には能力を覚醒させたエミリオがおり、同時にそれとは別に世界中で謎の波動を検知することになった。そこは理解しているな?」

 

 多分その『謎の波動』はマリルが言っていた俺とシンチェンの共鳴的なやつのことだな……。

 

「少しして君はCMや動画サイトで唐突な映像デビューだ。あまりにもわざとらしい。察しのいい輩なら、謎の波動とエミリオの覚醒にはお前が関わっていて、お前は『第五学園都市の権力者に保護されている』ということを暗に示したことを理解するだろう」

 

 そりゃ確かにそうですけど……。マリルもその方が扱いやすいと言っていたが、そもそも映像デビューすることになった遠因はエミリオがいた孤児院に金を無断で寄付して借金娘になったのもあるが……それは黙っておこう。

 

「しかし他国が認識できたのは『第五学園都市の誰か』という部分だけ。保護者がマリルということは、デックス博士やエクスロッド議員などの一部を除いて知っている者はいない」

 

 エクスロッド議員の名前がサラッと出てくるということは、本当にファビオラの一件については詳しくは知ってるみたいだな……。

 

「そんな中でサモントンが崩壊。ローゼンクロイツと合同してSIDが復興作業に明け暮れる中、君の警護が手薄になったら誰もが『レンの保護者はSIDの誰か』まで気づくだろう。やがては君を保護しているのはマリルだということに辿り着き、後は彼女の目が離れた機会さえ伺えば、君を拉致監禁することは容易いということだ」

 

「なにそれ。そんな物騒なこと初耳なんですけど」

 

「それはそうだろう。君みたいな半分一般人みたいな子の耳に入ったら秘密組織としての体を成さない。やるなら極秘中の極秘。私達みたいな最高権威を持つ者でも、噂程度で耳に挟むぐらいだ」

 

 知らなかった、そんなこと。俺って水面下だと非常に危うい状況にあったのか……。

 

「だから私は君と接触した。SIDの戦力が薄い中であろうと『新豊州』には君を守る者がいるということを分かりやすい形で示すためにな。あわよくば君の保護者が私と誤認してくれれば、SIDから認識が外れて保護する君の立場は盤石にもなる」

 

「えっと、じゃあ……」

 

 ここにブライトが来たのは『俺に目をつけた他国の組織から守るため』ということ?

 あまりにもメリットがない。ただ報告と忠告のために『元老院』が動くなんて……。それもSIDのためになるようなことなんて……。

 

 そんな疑問をブライトはすぐに察して、呆れるように鼻を一つ鳴らすと話を続けた。

 

「君に最初に接触したのは他の『元老院』の見せしめも兼ねてる。『君を見ているのはお前だけじゃない』というな。情報戦は常に先手を打ちつつも秘匿をして、後手で相手を叩き伏せる。先の先を読むのが権力者の必須能力だ」

 

 つまりは牽制ということか……。いや、抜け駆け禁止と言った方が正しいのかな? 

 要はマリルの管理が薄い中『元老院』の誰かが俺を個人的に保護して研究には使うな……って感じの。それで外の組織にも警鐘をしておくと。

 

 なるほど、聞く分には良い手かもしれない。しかしそのためだけに『元老院』がわざわざ『顔と素性』を見せるなんてことがあり得るのか……。そこの疑念だけは未だに拭えずにいる。

 

「……そう遠くない未来、君と接触するのは少なくとも後2人はいるだろう。1人は比較的心配性で良心的な『華音流』という人物だ。彼は確実に君にとって大きくて良い影響を及ぼすことを保証しよう」

 

 ブライトの話は続く。俺の心境を察してか察してないのか。

 どちらにせよ俺にとって何の関係があるのか予測できない話だ。急に『元老院』が接触してくると言われても……どうしてそうなるのか。仮に接触するなら、今の今まで機会はあったはずだ。それを今更するなんて……何かキッカケがあったに違いない。

 

 もしかしたらサモントンでの事件を機に、何か俺達が想像つかない何かが動き出したのか? それの対処にあたるのもあってマリルとはここ最近連絡を取る暇がないのか?

 

 だから『元老院』が接触してくるのか?

 

 分からない——。俺には何も分からない——。

 だけど確信した。ニャルラトホテプの件とは別に、何か六大学園都市内で大きな変化があり、それが少しずつ表に出ようとしている確信が。

 

 世界は今——。大きな変革を迎えようとしていることを——。

 

「そしてもう1人は注意しておけ。そいつはマリルさえも苦手意識を持ち、私でも手を焼く男。名は『#C』という」

 

『#C』——。

『#(ハッシュ)』は英語圏の意味合いでは『No.』とかの数字の順列を示す記号でもあるが、それを考慮しても『No.C』と意味が分からない。現代ではどんな名前でも違和感を持ちにくいというのに、偽名感溢れるいかにもな名前が、逆にその人物の底知れなさを肌身で理解してしまう。

 

「彼は私でも測ることができん。君にどんな影響を及ぼすか……それは実際に君が合わないと分からないだろう」

 

「……随分とご丁寧なことで」

 

「それを伝えるためにも私はここに来たのだ。華音流はまだしも、#Cは確実に危険だ。くれぐれも今日の私のように絆されるなよ」

 

 ……それを言われるとちょっと辛い。

 現に俺はここまでの一連のこともあって、ブライトに薄くではあるが信頼を抱いている部分が少しある。どれぐらいかと言われたらちょっと困るけど、あえて近い表現をするなら前に『天国の門』事件でちょっとだけ協力してくれた少年『ジョン』との距離感ぐらいだ。

 

「おっと……最後にもう一つだけ君に伝えるのを忘れていた」

 

「俺に伝えること?」

 

 忘れていたようなことならきっと大したことではないだろう。

 だから俺は特に警戒することもなく、いったいどんな無駄話が出るのかと軽く身構えようとしたら——。

 

「マリルは君の両親を殺した」

 

「えっ?」

 

 あまりにも予想を超えた言葉が吐き出され、俺の思考が一瞬だけ止まったのを感じた。

 言葉の意味を受け取るのに一秒。言葉の意味を理解するのに一秒。言葉の意味を整理するのに一秒。そこでようやく俺の思考は平常に戻り、ブライトが伝えた内容を頭の中で復唱する。

 

 マリルが、俺の両親を殺した——?

 何を戯言を言っているのか。いくら俺がブライトにある程度警戒心をなくしたとはいえ、そんな言葉を信じるには無理がある。

 

 無理があるんだが……それでも動揺してしまう。

 だって俺は知っている。マリルが非情な部分があることを。『天国の門』の時に、俺に救われるのを前提でソヤが自殺同然の自爆を黙認していた。マリルはある程度のラインを超えた命の管理になれば、例えそうせざる得ないとなったとしても「仕方がない」と冷たく割り切る部分があることをその目で、その肌で知っているのだ。

 

 だから想像してしまった。本当に一瞬だけ過ってしまった。

 俺の両親が乗っていた航空機の事故——。それがSIDの手にとって起こされた作為的なものではないかという疑念がほんの一瞬だけ脳裏に掠めてのだ。

 

「信じる信じない、本当か嘘か——。それを決めるのは君次第だ。だがこれだけは言っておく。本気であれ、冗談であれ、マリルは確かに元老院にそう言っていたことは事実だよ」

 

「そ、それってどういう……!?」

 

「もう待ちはしないよ。私も時間が惜しい身でな」

 

 そこでブライトは電子決算で手早く会計を済ませて店から出て行った。自分が頼んだ料理は半分ほどしか口にしないまま。

 

 ……この時間帯と場所には似つかわしくない重苦しい空気が俺の心へとおもくのしかかる。

 

 怖い——。怖いのは得体が知れないマリルとか『元老院』とかじゃない。

 何も知らないからこそ、無責任にマリルに対して無礼極まる想像を抱いてしまった自分が怖いんだ。

 

 ——何も知らない自分が怖くて、不安で、たまらなかった。

 

「……ベアトリーチェ。今の話、本当なのかな?」

 

 だから縋ってしまう。誰かにこの恐怖を肩代わりしてほしくて、ベアトリーチェに今の心境を溢してしまう。

 そんな俺にベアトリーチェは本当の心の底から美しいと思える、まさに『淑女』と名に相応しい穢れない笑みを浮かべて告げる。

 

「なわけない……とは言い切れないわよね。マリルの性格的には」

 

「でも」とベアトリーチェは俺の肩を優しく抱き寄せて子供を諭すように優しい声で話を続けた。

 

「時系列と事情のどちらもが矛盾してる。因果関係が逆転してる以上、それをする性格であってもマリルにできないのは絶対よ。絶対に絶対」

 

「だよな……」

 

 俺の不安を受け止めてくれて思わず涙腺が緩んでしまう。安心しきって緊張とかの諸々から解放されて、深呼吸と共に涙を一つだけ拭うと、俺は俺自身と向き合うことにした。

 

 ……そうだ。俺は今まで受動的だった。

 どんな強くなろうと、どんなに戦う力を得ようと、今まで降り注ぐ事態に対処していただけで、自分の周囲だけを見ているだけの小さな世界に満足している子供のままだった。

 

 もう俺は子供じゃない。夢の世界であろうと親離れをして、俺一人でも歩けるように決意したんだ。

 

 今のままじゃダメだ——。

 世界は今大きな変革を迎える予兆がある。それをそのまま受け止めるだけではきっと俺は後悔する。

 崩れ去っていく街並を見て思ってからじゃ遅いんだ。ありきたりな毎日の温もりを求めて嘆こうと、もうあの夢みたいに時計の針を巻き戻すことはきっとできない。

 

 自分から立ち向かわなければ何も変えられないんだ——。

 止まった時間も、運命も——。

 

 ……だけどどうすればいい? 前に進もうにも世界は広すぎてどこに足を進めばいいか見当がつかない。

 分からないことが分からない、という学校の問題児によくある悩みを抱える俺にとって、世界で今起きてる情勢は例え意識しても未だに遠く調べようにも調べられないむず痒さを抱えている。

 

「……そういえば」

 

 そこで俺は思い出す。そんな時に役立つ頼れる存在が『SID以外』で存在する事を。

 俺は懐からスマホを取り出して、今の今まで登録しておきながら一向に連絡しなかった番号へとすぐさま繋ごうと送信ボタンを押す。

 

 それは第二学園都市『ニューモリダス』で知り合った存在。世界を反復横跳びするように軽快に駆け巡る孤高なる者。

 けれど『彼女』の存在は名前だけが知られていて、その顔や能力を覚えることが何故かできない童話のように虚ろな存在でもある。

 

 だけど、その姿を俺は覚えている。

 燻んだ赤髪にコロコロと変わる表情。瞳は碧緑色で、キメ細かなファッションセンスを持つ中身はかなり剽軽タンポポみたいにフワフワした身軽さ。

 

 

 

 ——『いつでも力になるよ』

 

 

 

 そんな言葉を、メモを渡してくれた女性の名は——。

 

 

 

『はいはーい。いつでもどこでもあなたの力になる便利屋さんこと『イナーラ』ちゃんでーす。ご用件はなんでふ〜〜?』

 

 

 

 そう、イナーラだ。『いつでも力になるよ』と電話番号を貰っていたのに、今の今まで頼ることはないだろうと思って思考の片隅ですっかり置いてけぼりになっていた。別に忘れてたわけじゃないのだが、我ながら少々薄情なところがあると思う。

 

 ……しかし声からして何か食ってるな? それも弾けるようなパリパリ音からして上等な揚げ物を。これが一応は客に対する態度なのか……まあ、こういう性格だからイナーラは一人でもやっていけてるのかも知れない。

 

「……久しぶり、イナーラ」

 

『あっ、その声レンちゃんか! おひさ〜〜』

 

 あまりにも軽口でくるものだから緊張の糸というか、そういう心の硬さが一気に絆されていくのを感じる。

 だから深呼吸さえもなく俺は意思を固めて、これから自分がイナーラに頼みたい事を素直に吐き出した。

 

 

 

「ちょっと頼みたいことがあるんだ——」

 


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