「バイ〜〜〜〜ジュウ〜〜〜〜ちゃん〜〜〜〜♪」
私は何を見てるんだろう。ただただ嫉妬で狂いそうになるほど、眺めることしかできない自分に歯痒さを覚えてしまう。
バイジュウの目の前では、過去の自分とミルクが会話している。深慮から現実に引き戻される過去のバイジュウは「仕方ないなぁ」と言わんばかりに軽くため息を吐いてミルクへと向いた。
「ねぇ、私に会いたかったでしょ〜〜〜〜? さっきのパスコードはアホどもの悪戯だから、気にしなくていいんだよ!」
そう言ってミルクは上機嫌に、その手にある戦利品である札束を見せつける。ブルジョアな人達がするように、紙幣をうちわにして満面の下衆な表情を浮かべながら。
「悪趣味です」
『……もっと愛想よくしようよ、私』
何度目かも分からぬ自分の仏頂面が見せられながらバイジュウは過去の自分と違う意味でため息を吐いてしまう。
自分に自信と誇りを持っていて、南極での事件が起きるまで自分は『他人とは違う』という価値観で偉そうにしてた頃だ。実際に他人とは違う能力も記憶力もあるので、その部分に関しては今でも認めてはいるが、流石に『何でもできる』と思うぐらいの自信なんて物は一切ない。こんなツンケンとした態度なんて二度と取れない自負がある。
これから地獄が待っているというのに、何で昔の私はこんなにも万が一の考えも抱いてないのだろうか。失敗しないという確信を持って、自分の疑問に耽ることしかしないのか。自分の視野の狭さに頭を抱えてしまいそうだ。
「いつも私の期待に応えてくれるバイジュウちゃん、やっぱ最高〜〜〜〜それに可愛いっ!!」
カエルのように飛びついてくるミルクを、過去のバイジュウは心底面倒くさそうに引き剥がすが、それでも負けじと何度かミルクは飛びかかる。
それがやるだけ無駄だと気づくと、過去のバイジュウは再び溜息をついてソファーへと座る。ミルクはそれを追って、彼女の膝の上に足を乗せて、その両手で優しく頬を両手で包んで笑顔を溢した。
「実はね、今回の任務、実はこれぽっちも参加したくなかったんだ……。超常現象や人外生物とか、私の趣味じゃないし。南極上空に異常な類似生物の電波を検知、って情報だけで『目標』を見つけ出すなんて、普通は無理じゃん……」
——ミルクの発言にバイジュウはほんの少しの違和感を覚えた。
今なんて言った。南極『上空』に異常な類似生物の電波を検知? 南極の海域や海中ではなく『上空』に?
バイジュウは自身の絶対記憶能力を活かして、その情報が本当に確かな物かと追憶する。だが齟齬などない。バイジュウの記憶でも、ミルクの記憶を複合してできたこの世界において、その発言はミーム汚染などの類で汚染された物ではなく間違えなどない確かな物だ。
そこでバイジュウの疑問は覚える。それはもしかしたら『海底で見た生物』と『観測された類似生物の電波』は全く違う物ではないのかという物だ。
様々な経験をして、バイジュウは『常識』の知識だけでは語れない『超常』の存在を知った。それは今と昔では『異質物』そのものへの理解度が違うということもあるが、何よりも知ってしまったのは『OS事件』以降に接触した様々な異形の数々だ。
だからバイジュウにとって常識は既に崩壊している。故に思考を多少夢物語に飛躍させようとも、それは理論整然とした推測として成立してしまう。
異形は決して一種類じゃない。ヨグ=ソトース、ニャルラトホテプ、『OS事件』の異形などがいるように、バイジュウが見た『海底で見た生物』こと『古のもの』と『観測された類似生物の電波』は違うことを予測してしまった。
「……まあ、安心してよね」
バイジュウが色々と思い考える中、記憶の再現はそんなことなどお構いなしに進む。
過去のミルクとバイジュウは二人の会話を楽しみながらも、潜水艦での操作ログや今回の南極探索についての今後について話し合う。
深海で見つけた『アレ』と呼称される存在である『古のもの』のサンプルをどこで調べるべきか。
そのためにはどのような条件下であるべきか。
それを可能にする設備が南極の駐屯基地のどこにあるのか。
現実的な範囲内での交渉で基地を利用することができるか。
それら全てを解決するための基地が二つまで絞り込むことができた。その二つは『ニュルンベルク基地』と『スノークイーン基地』ということ。
——そして地獄への門は既のところにまで迫ってきていた。
「地理的な観点では、ニュルンベルク基地の方がエメリー棚氷の近くです。ですが——」
「だけどあいにく、ニュルンベルク基地は先月から民間の武装部隊が駐屯を始めた。つまり『独立機関』に売却されたってことだね」
——瞬間、バイジュウは小さな違和感を感じた。それは今後の顛末を知っているからこそ感じるものだ。
二つまで絞り込まれた段階でニュルンベルク基地はある『独立機関』の物となって安易に踏み込めない場所となった。
交渉の面倒ごとが増え、バイジュウとミルクが所属する組織の上もメンツが重要ということでわざわざ下手に出て頼みことなどするわけもなく、なし崩しでバイジュウ達の舞台は『スノークイーン基地』へと向かうことになった。
まるでその『独立機関』が間接的にバイジュウ達に導くかのように——。
それがバイジュウにとっての違和感だった。
もしかしたらその正体不明の『独立機関』が『スノークイーン基地』での悲劇を起こすために誘導したとしたら——。
そこまで考えてバイジュウは一度思考を止める。
なぜなら判断材料が少なすぎるからだ。推測どころか憶測でしかない曖昧すぎる考え。それに頼るのは理路整然としたバイジュウが許せるはずもない。
それに間接的であれ、そこに導こうとしたのはバイジュウ自身だ。『スノークイーン基地』での悲劇は自分の好奇心が抑えきれずに、甘い考えで踏み込んでしまったことも一因なのだ。自分の罪を棚上げできるほどバイジュウは図太くはない。
今は——ミルクを救い出す方法を優先して考えないと——。
「そっか……。手配するから、安心なさいな!」
「私が何か隠し事をしていても、あなたはいつも見抜いてしまいますね」
「バイジュウちゃんの事に関して、私を甘く見ちゃダメだよ〜〜!! だから隠し事はしないでね? 計画を知らないと助けることができないから」
ミルクの何気ない言葉は、バイジュウの心を抉るように刺し貫いた。
南極で起きた悲劇の中、ミルクは命がけで自分を助けてくれたじゃないか。下手な嘘をついて銃を突きつけながら『ドール』から離してバイジュウだけでも助けようとしてくれたじゃないか。
私は何もできず、ただただ泣きじゃくって冷たい壁の向こうで無力に押し潰されるしかなかったのに——。
自分の力ではない『奇跡』にも等しい力が宿ったことで、ようやく壁の向こう側に脱出した時には既にもう全てが遅すぎたというのに——。
そんな何もできなかった自分をミルクは助けてくれた。『OS事件』だってミルクが力をレンに貸してくれたからだ。
いつだってミルクは私を助けてくれた——。
だというのに、私からは何も返せてない。
「あんたはね、氷みたいに冷たい人間に見えるけど、本当はとっても情に脆いのよ」
やめて——。
今だけはその温かい言葉は弱い自分を溶かしてしまう——。
過去の幻想でもミルクの優しい言葉は今のバイジュウに一言一句突き刺さる。
無力な自分にそんな優しい言葉をかけてもらう資格はない。甘えていい資格もない。
だからお願い。それ以上は私に優しくしないで。温かい言葉をかけないで。
「隠し事はもうしないで。バイジュウちゃんは真っ直ぐなんだから、人を騙すなんてできないんだしさ。——私を信じて、本当のことを教えて?」
ああ——。過去の自分だというのに体温が感じるほどにミルクの抱擁はバイジュウの心に伝わる。
でも私にそんな資格はないんだ。抱きしめてもらえる資格はないんだ。
お願いだから、優しくしないで。私の弱さがあなたの温かさに溶けてしまいそう。そうなると私はまた逆戻りしてしまう。弱い自分のままになってしまう。
お願いだから——今だけは優しくしないで。
「まあ言わなくても、大体分かるんだけどね。私はバイジュウちゃんの心を見抜く、超能力を持っているんだから!」
「そうですね……。あなたは、聡明だから」
「でもあんたの意図を推測すればするほど、私は心配になっちゃうなぁ……」
「ごめんなさい……」
「謝るより、行動で示せ〜〜〜〜っ!!」
そうミルクはお願いするように「抱きしめてくれないの?」というと、過去のバイジュウは諦めたのか、それとも何か心の中に燻る迷いが吹っ切れたのか、バイジュウは言われた通りに手を伸ばしてミルクの腰に回した。
「ほら、笑って? こんなにも可愛い……女の子なんだから」
夕焼けのように明るい夜と、漆黒のように暗い夜の狭間。鮮やかな極彩色となって混ざり合う外の光。
幻想的で美しい光景だが、バイジュウの記憶にはそれ以上にミルクの笑顔が暖かくて明るい、夜さえも照らす朝日の笑顔が鮮明に刻み込まれていた。
だけど——今だけはその笑顔は眩しすぎる。
深海に沈んだ心に差す笑顔という光は、余りにも自分の無力と罪という闇を強く映し出してしまう。
『……それでも、見届けなきゃ』
まだまだ続く。まだ記憶と記録の底には届かない。
バイジュウは地獄の入り口すら立てていない。
…………
……
「到着〜〜〜〜〜〜っと!!」
時間は進み、問題となる『スノークイーン基地』へとタスクフォースはたどり着いた。
バイジュウ、ミルクを含んだ隊員達はスノーモービルから降りて各々の装備を点検する。これから深海で入手した『古のもの』のサンプルを届けなければならない以上、道中で不手際などは許されない。深海での調査結果が確かに未知なものを入手したことを他の組織が知ってしまえば、強奪の危険性だってある。そのための警戒だ。
だが今ここで記憶を観測するバイジュウだけは知っている。
これから先、戦うのはサンプルを盗みにきた敵対組織ではない。『異質物』の力によって狂わされた魔女の末路『ドール』が待ち受けていることを。
「——戦闘準備ッ!!」
奈落のように続く『スノークイーン基地』入り口の階段の果て。
それを見据えながらバイジュウは命令を下すと、タスクフォースは銃器のセーフティーを外して厳戒態勢へと移る。
刃の如く鋭く走る南極の冷たい風。肌身で感じながら慎重にバイジュウ達は階段を一段ずつ降りて『スノークイーン基地』へと踏み込むと、突如として視界の影からバイジュウを目掛けて大鎌を持った少女が襲いかかってきた。
——それはバイジュウの記憶と相違ない。現代まで脅威として認知されている紛れもない『ドール』の哀れな姿だ。
目の焦点も手足の動きも、糸に吊るされた人形のようにぎこちなくも人間離れした俊敏さでバイジュウ達へと間合いを詰めていく。
しかもその数は1人ではない。徒党を組んで押し寄せてきており、数えるだけ無駄と言わんばかりに増え続ける。
バイジュウは結末を知っている。この先にどんな悲劇が待っているのかを。この先に希望なんてないことを。
『……それでも見届けなきゃいけない』
時間は少し経ち、バイジュウを先陣にタスクフォースは『スノークイーン基地』の奥深くまで向かっていく。
その最中、何度も『ドール』と戦闘を繰り返し、その度に隊員達は傷ついて帰らぬ人となった。
それもそうだ。通常の人間相手に『ドール』が負ける道理がない。『ドール』は銃弾如きでは怯むこともできず、出血では死なず、焼き殺すこともできず、頭を吹き飛ばしても動き続ける超常の存在だ。
無力化するには徹底的に四肢を切り刻むか、『ドール』が内包する魔力が尽きるまで消耗戦をするしかない。
だが当時のバイジュウ達に『ドール』の知識など微塵もない。当時は異質物や魔女の研究はまだ入り口に立つのがやっとであり、ノウハウなどが溜まっているはずもない。
いくらバイジュウやミルクが聡明と言っても、知っているのは『既知』だけ。『未知』なる存在には対抗しうる知識など持ち合わせていないのだ。
「入室制限……よしっ」
やがてタスクフォースは壊滅し、残るはバイジュウとミルクの2人きりになった。
疲労困憊で銃弾も少ない中、電気制御室で2人はお互いの身体を支え合いながらコンソールを操作して『スノークイーン基地』の監視システムを作動させる。
「ここなら、しばらく安全なはず……」
「そうだね……。ちょっとシステムの様子を見ておくよ」
タスクフォースの隊員達が次々と命を落とした中、2人だけが無事なのは理由がある。現代では当然のように扱うバイジュウの能力『量子弾幕』が危機的状況下で覚醒したからだ。
それで窮地を脱することができたが、それでも満身創痍。慣れない力も利用したこともあってバイジュウは疲労の色を隠せずに寄りかかるようスクリーンの画面を眺める。
しかし——。その画面には安心などはない。
ミルクがシステムをハッキングしたことで監視カメラの映像がスクリーンに映る。監視カメラ越しで『ドール』が基地内を徘徊してるのが分かり、隊員達が必死の思いで撃ち貫いた弾痕は既に治っている。
ここまでの経過で過去のバイジュウとミルクは『ドール』の整体をある程度理解することができた。
人間を襲うことに特化した人間の形をした理性なき殺戮兵器。銃程度で無力化できないのであれば、バイジュウ達が打てる有効打はない。どうやって『ドール』の包囲網を潜り抜けて『スノークイーン基地』から脱出できるのかを脳神経をフルに回転させて考える。
だが——時間は長くはない。先ほど交戦した『ドール』の2組がバイジュウ達がいるフロアへと凄まじい速度で向かってきている。
到達するまでに1分。バイジュウ達を捕捉するの2分もあれば十分な速さだ。残された時間は多くて後3分しかなく、それをバイジュウとミルクは理解する。
しかも、その『ドール』の一人は監視カメラから感じるバイジュウ達の視線に気づいた様子で血塗れになった隊員の靴を持ち上げ、挑発と宣誓混じりに「次はお前だ」と言わんばかりの笑みを浮かべた。
「くっそ……畜生がッッッ!!」
「落ち着いて、冷静に」
バイジュウはミルクの肩を軽く叩いて平常心を取り戻すように促す。
ミルクは一度息を整えると、脳内で基地の立体構造図と監視カメラの構造から見える『ドール』の数、そして自分達の現在地と武器から最良の案を導こうと試みる。
俗に言うトランス状態という表情でミルクは演算を始めるが、その答えがどうなるかなんて過去と今のバイジュウだって理解してしまう。
——この状況下で理想案を見つけるなど、不可能であると。
その瞬間、記憶にノイズが奔った——。
『えっ——?』
それは観測するバイジュウには身に覚えがない。
記憶のどこかに綻びがあるとか、空白があるという感覚ではない。むしろ記憶に重くのし掛かる感覚は『不純物』と言った方が正しい。
なんだ——。この得体の知れない感覚は——。
「…………バイジュウちゃん〜〜。私達が最初に出会った時のこと……おぼ、え……て……っ!!?」
ミルクが決死の判断を決めて振り返った時、その表情は一転して驚愕に染まる。そしてそれはバイジュウも同じことだった。
いつのまにか電気制御室に『影』としか呼べない存在が侵入してきていた。大きさは3mくらいであり、形だけなら『OS事件』で相手した『異形』と似てなくもない。
『なに、これ……っ!? こんなの私の記憶には……っ!?』
「クッソ! もう追手が来ていた!」
「でも今までの敵とも違う……っ!! これはいったい……!?」
刹那、観測者のバイジュウだけは理解した。この『異形の影』がどういう存在かを。
これはファビオラが口にしていた『蜘蛛』と同等の存在だ。過去にレンがファビオラの記憶に入った時も、通常の記憶とは別に『蜘蛛』が襲撃してきたことをバイジュウは聞いている。
記憶に宿る防衛本能みたいなもの。魔力そのものに宿った意志みたいな存在。それが形になったのが『異形の影』だ。
宿主であるヴィラクス、もしくは記憶の持ち主であるバイジュウかミルクが元々宿していた魔力の防衛本能。記憶を覗こうとする不届き者を排除するために、今こうして立ちはだかっているのだ。
「こいつ銃弾が効かない! 擦り抜けてる!」
「斬撃さえも効かない……っ! 一体どうすれば……!」
ミルクとバイジュウは届くはずがない。それもそうであり、これは『観測者』を排除するための記憶の本能が施したものだ。
記憶の住人が何とかできるような存在ではなく、現にファビオラの時だって最後まで『蜘蛛』は排除することはできず、現実のファビオラが覚醒することでようやく停止するようになるほどだ。
ならば——。こいつの相手は私がするしかない。
記憶の住人ではなく、記憶の観測者を排除するために出てきたというになら、望み通り相手になってやろうじゃないか。
『怖がらないで、私がいるから——』
いつぞやにミルクが口にした温もりという言葉を、今度はバイジュウから届けるために。
届くはずがないと分かっているのに、バイジュウはその言葉を過去のミルクに口にして人知れず『異形の影』の前へと対峙した。