世界は『均衡』によって成り立っている。
光があれば、影があるように。
右があれば、左があるように、
男があれば、女があるように。
物事にはすべてにおいて『天秤』のようにバランスを保とうする意思がある。
それは人の意思もあれば、生物の本能でもあれば、世界が予め持たされたプログラムかもしれない。人はその概念的なプログラムとも言える存在を時として『調和』と呼ぶときもある。
何であれ、一つの物事が動くときは単純にそれだけが動く単純な仕組みではない。
対となる存在や概念も同時に動き出すのが世の常というものだ。人はそれを時として『対価』と呼ぶこともあるほどに。
世界の『均衡』を保つには『調和』が必要であり、『調和』のためには『対価』が伴う。それが世界の根本的な仕組みだ。それは自然から離れた人間社会でも同じと言える。
だからこそ傾いた際の代償が大きければ大きいほどに、天秤もまた大きく動く。そしてその天秤は元の状態に戻そうと何度も何度も秤を右へ左へと動かし、振り子のように揺れ動いた末に止まる。そこまでしてようやく天秤はあるべき姿へと落ち着いていく。
問題はその天秤がどれほどの規模で何を生み出すのか。
それは良いことも悪いことの両方だ。だからこそ天秤であり、そうでもしなければ均衡は保たれない。世界という物は基本的に等価交換で成り立っているのだから。
しかし、ここでほんの少しだけ微かな疑問が沸くであろう。
……それは『天秤そのもの』は均衡として成り立っているのか、という疑問だ。
天秤が世界を測る物だと説明した。だが、そもそもその天秤そのものが『傾いている』のが『正常』という在り方であればどうする? 世界は不平等や不均衡といったアンバランスさこそが『天秤にとっては正しい』ということになってしまう。
そしてそれは仮に天秤自身に意思や思考といった人間的な一面があるとすれば、その歪なあり様に『天秤自身』が気づくことはできるだろうか?
いや、それは知性を持った時点で気づくことはできないだろう.知識とはいわば観測者の都合のいい記憶などを保管するだけの代物だ。自分自身を中心としてしまう人間としての性がある以上、その天秤の傾きは自分自身で気づくのは不可能であろう。人間は根本的な部分を変えることができるほど器用な生命ではないのだから。
だとしたら、その天秤のあり様を指摘するには、そこには天秤そのものを観測する『絶対的な存在』がいないと成り立ちはしないだろう。
そもそも『光』とは『闇』という概念を誰が決めた。
正しければ『光』なのか『正義』なのか。そんなことは歪な天秤が決めることなどできはしない。
ならば、そこには。
必ずあらゆることをしても『光』や『闇』などの概念にさえ傾くことさえない『絶対的な存在』がいるに違いないだろう。