『イスラフィール』——。
それはニューモリダスでスクルドを死に至らせた異質物武器だ。
その効力は強力無比で特殊性が高い。使用者以外の一定範囲にいる生命の『魂を焼き尽くす』という性質がある。
物理的な手段で防ぐのは不可能であり、存在するだけで人の心を焦土へと変える。ある意味では麒麟が使用していた異質物武器である『陰陽五行』よりもタチが悪いといえる。
それを何故スクルドは持っているのか——。
イスラフィールはニューモリダスの情報機関であるパランティアの手で厳重に封印されている。これは絶対に絶対だ。
しかしファビオラは揺さぶられようと、特別驚くような表情は見せない。ハッキリ言ってしまえば『最悪を考えて予測していた』のだ。
なにせ過去の事件で武器が出現すること自体はあったのだ。
敵対しているスクルドの『鍵』と『翼』がレンに力を貸したのもそうだし、遡ればマサダブルクでエミリオがアズライールを振るった時も、スカイホテルでベアトリーチェがラファエルのエメラルドを剣に変換した時も——。
もっと言えば『OS事件』で、過去に破棄されていたはずのバイジュウの『氷結稜鏡』でさえも幻出された——。
理屈や理由などは今のファビオラに判断を決定する要素はないが、想像することできる。
『縁』とでもいうべきか、そういう物があれば例え自分を殺した物であろうとも幻出できるのではないかと。かの過去の英雄同士が聖杯を求めて闘う作品で出てくる必殺技のように。
だが、考えたところで答えなんて出るはずがない。
受け止めるべきは事実はただ一つ。本物であろうと幻であろうと、イスラフィールは今確実にスクルドの手にあって、現在進行形でファビオラの魂を燃焼している。吐き出す酸素が熱気にでも変化したのかと息苦しく、血管という血管がウイルスに感染したかのように熱くて痛い。
幸いにもファビオラには『火の魔法』が使えることとパランティア時代の訓練で、そういう熱さに耐える忍耐力と慣れはあるが、それでも保つのは数分が限界だ。
しかも翼は左右5枚ずつの10枚となっており、鍵の形状も切るや突くよりも『削る』と言わんばかりに刃が木々の枝のように刃先が無尽蔵に広がっている。
何をしてくるか——。
そう考える時、本能が断続的に叫んだ。『全力 かわせ』と。
「——ッ!?」
周囲に漂う『火の螺旋』が空気の微細に動きを検知し、それに反応してファビオラは後ろに大きく跳んで、さらに跳んで、跳び続けた。
直後、頭上から世界を埋め尽くすような夥しい黄金色の羽が、床という床を抉りに抉った。
瞬間、ファビオラは理解する。冷静に考えなくても分かることを。むしろ判断と理解が遅すぎるくらいだと。
『翼』は10枚になったのだ。先ほどまでは2枚でも雨のように羽を降り注がせていたのだから、単純計算で『5倍』は降り注ぐのが当然だと何故思わなかった。
そして結果を受け入れ、予測を飛躍させないといけない。
今まで2枚でも亜高速の突進をしてきたのだから、10枚になればいったいどうなってしまうのか。
亜高速の攻撃速度が5倍になるか——?
亜高速の突進攻撃をしつつ、残る8枚で羽を降り注がせるのか——?
もしくは8枚の翼で動きの制御を行うことで直線的から曲線的な突進を可能にするのか——?
むしろ2枚ずつ断続に使用することで、亜高速の突進を5連続で行うことができるのか——?
あるいは全部か——?
判断は許されない。思考の時点で愚策。
スクルドの亜光速が再びファビオラを目掛けて空間を『跳躍』——いや跳ぶという表現では形容できない。
形容するなら『超躍』——という方が正しいだろう。
「がっ——!?」
辛うじて直撃は避けたが、余波の威力が比ではない。スクルドが成長する前の衝撃が突風だとすれば、今のスクルドは『嵐』だ。近づくだけで四肢を捻じ切るような神風の刃と圧が襲いかかってくる。
それに僅かだが認識できた。あまりの速さと衝撃に『空間そのものが歪んだ』ことを。まるでそこにあった物質がすべて『削り取られた』のではないかというほどに空間が丸々と捻りこみ、修正しようとする世界の意志を感じとった。
本能的な恐怖を刺激される——。超常は人の思考を止めてしまう。
ダメだ、思考を止めるな。動き続けろ。恐怖を糧に逃げるようにしてでも動き続けろ。
幾たびも戦場を超えた条件反射が本能を乗りこなす。とにかく動き続けるしかない。例え魂が焼き尽くすほどに熱かろうと止まることだけは許されない。
照準さえも合わさずに発砲。後に『炎の螺旋』を利用して弾道を調整。狙うはスクルドの『目』だ。
ドールと言っても所詮人間の感覚を使用している以上は外界の情報を得るのは五感頼りだ。人間は情報を得るのに『視覚』が8割と言われるほどに依存しており、それが機能しなくなれば動くことが困難になる。
だが同様に照準という視覚的な情報を合わせていないファビオラだってスクルドの目など狙えるはずがない。だから視界を塞ぐのは弾丸自身ではない。『炎』をカーテンのように舞わせるだけ視覚妨害として十分なのだ。
なにせ亜光速の突撃だ。触れれば絶命、擦れば重傷となる能力。それは決して使用している本人だって例外ではないだろう。
現にスクルドは一度たりとも壁や床に衝突はしていない。礼拝堂に置かれている小物や椅子だって、あくまで亜光速の突進から生み出される衝撃によって砕け散ったにすぎない。
裏を返せば『壁や床に衝突してしまう』とスクルド自身も挽き肉になりかねないハイリスクハイリターンの能力なのだ。ファビオラが長椅子を壁にして射撃していた時でさえ、スクルドは『翼』ではなく『羽』での攻撃を行っていたことが確証をさらに深める。生半可な状態で使用できるほど、あれは安全というわけでもないのだ。
そりゃそうだ。亜光速の速さに人間の身体がついていくことは物理的に不可能なのだ。
自殺方法の候補に挙がる『高所落下』でさえも音速に届くには『高度約39km(39,000m)』という成層圏からの自由落下でないといけない。東京スカイツリーでも『高さ634m』しかなく、それどころか地上『20~25m』からの自由落下でコンクリートに打ち付けると人間は即死するというのだから、音速を超える亜光速では例えスライム状の物体に突っ込んでも結果は変わらないだろう。
ならばどうやって干渉してきているのか。空気でさえも凶器に成りうる亜光速の世界。だというのにスクルド自身には反動というものが一切見られない。
だとすれば、どうにかして無力化しているのが自然だ。何かしらの方法————その思考にたどり着けば答えはもう簡単だった。
そうか——。その役割を担ってるのが『鍵』なんだ——。
あの『鍵』こそが亜高速の事象と世界の事象を繋ぐ文字通りの鍵なのだ。鍵が接触した部分だけが亜光速と、この世界の事象を無理矢理にでも縫い付けてる。
逆にスクルド本体は亜光速の世界から干渉を断つことで、始まりと終わり以外はこの世界からのあらゆる干渉を無視する——。
鍵が変化したのは手段を特化するため。『空間を削る』ことに秀でることでファビオラの回避行動さえも叩き潰す威力を齎す。
翼の枚数は手数を増やすため。羽による殺人的豪雨もそうだが、弾丸で翼が潰されても過剰な枚数という力押しで封じ込めるために。
イスラフィールを利用するのは、自身の能力で発生せざる終えない弱点に気づかせる時間を削るためだ。
そしてその弱点にファビオラは既に気づいている。
スクルドの弱点は、皮肉なことに『未来予知』そのものだ。より正確に言うならばスクルドの動きを『予測』することが弱点となる。
亜光速ゆえに動きが直線的にならざる終えない。となればファビオラの真正面に障害物を置いておけば、少なくとも直撃だけは避けることができる。
だが、そうなれば今までのように掠めるだけで発生する衝撃で嬲るほうに回ればいいだけのこと。ならばそれさえも見通したうえで立ち回り、スクルドを覆すことも超えることも不可能な状況に陥れれば打倒することができる。
——スクルドの『死』を齎すような運命を選ばせないといけない戦法を取ることでしか勝てないなんて。皮肉なんてものじゃない。
そんなこと——できるわけがないじゃないか。
年上として、メイドとして、家族として——。
ちょっとおいたをしてしまった子供を正すためだけに、殺さないといけないなんて——。
でもそれ以外ならできる——。だから————。
ちょっとだけ、痛いのは我慢してくださいよ——。
————痛いのは、私も一緒ですから。
ファビオラは決意する——。この選択を導いてくれたスクルドのすべてに——。
ファビオラは背中に抱えていた自分の身の丈ほどの棒状の物体を取り出す。青を基調とし、先端はイソギンチャクのように枝分かれした綿の塊——とどのつまり『モップ』と呼ばれるものだ。
別にふざけているわけではない。これこそがファビオラがセレファイスで見つけた最後の武器だ。
魔法の性質を閉じ込める技術と物質があることをファビオラは知った。それを利用して銃を擬似再現したが、元よりファビオラの戦闘スタイルは小細工なし、最大火力を最高効率で叩き込もうとするものであり『火砕サージ』に変わる決定力がどうしても必要であった。
結果として生まれたのがこのモップだ。形状に関しては、付与した魔力の兼ね合いもあってモップにするのが最適だったからそうしたまでのこと。
名称は『翡翠裳羽』——。
セレファイスを巡る中で、ノーデンスの魔力を込めてもらった武器だ——。
初めてノーデンスが現れた時のように『水を渡る能力』と、単純に『水を生み出す』という能力を込めた物であり、それ以上でもそれ以下でもない。
しかしそれだけで十分だ。今のファビオラには『火』と『水』を使用できるだけでも大きな価値がある。
雨に濡れた大地だと人が滑りやすくなるように、ファビオラは翡翠裳羽の上に乗って水を噴出。その噴出した反動を推進力として移動していく。
ファビオラだって人間だ。しかも軍人の訓練は受けているとはいえドールではない。体力も運動能力も常人より遥かに上なだけで、オリンピックに出場するような一流選手に及ぶことは決してない。
故にこうしてセグウェイのように乗って、移動するような物は非常にありがたい。魔力とは精神力と直結してる以上、エネルギーとしては非常に長持ちする。イスラフィールの影響下でも数分動き続けられるだけでも有意義だ。
それに対しての速さも上出来だ。時速25kmほどであり、ファビオラが走るよりも二倍以上は早い。それだけでもスクルドを翻弄するには十分と言える。
さらに水と火を合わせれれば、気化現象によって『霧』も発生させることができる。濃厚ではないが、それでも視認性が下がるのだから、こうなればファビオラの動きを目視するのは困難だ。
ただそうなれば当然スクルドだって亜光速攻撃を避けてくる。視界不良で自爆しては元も子もないのだから。
となれば狙うは羽による殲滅攻撃。天から降り注ぐ物がすべてを滅ぼさんとする。
物量が多すぎて遮蔽物で何とかなる問題じゃない。例えこれが殺傷力のないただの羽だとしても、溺れ死ぬほどに量が多い。
炎でカーテンを張り、羽を接近した傍から炭にしていく。そして距離を取って機会を伺い続ける。スクルドを打倒するチャンスを。
だが持久戦になればイスラフィールの影響でファビオラの魂のほうが先に燃え尽きてしまう。悠長にチャンスを待つことはできない。待ちながら攻めるしかない、というのが今のファビオラの状況だ。
それでも待つしかない——。着実に、堅実に、迅速に、精彩に、入念に。
霧の中で羽を迎撃しながら必要な物を集めていく。この礼拝堂で一番衝撃に耐えうる物体を。ファビオラが求める作戦を可能とする条件下を。
待つ、待ち続ける——。確実に、正確に、俊敏に、慎重に、大胆に。
そして——ファビオラの限界が訪れた。
ドクン——。ドクン——。と少しずつ心臓の鼓動が弱まっていく。脈動に入る酸素が薄くなっていく。躍動するための活力が失っていく。
辛うじて翡翠裳羽から手は離さずにいるため動きを止めることはないが、もう視界の端が萎みつつある。虫食いの状態で視界がチラついていき、周囲の状況さえまともに判断できない。自分で出した霧も相まってまともにスクルドの動向を追うことも不可能だ。
「————ッ!」
必然、自分が蒔いた種で不利を被ることになる。炎の隙間を搔い潜って、羽が一枚ファビオラの眼球に直撃した。
もう悲鳴を上げる余裕さえない。夥しい血が噴出し、視界の立体感も定まらなくなる。
続けて二枚。一枚は頬を抉り、もう一枚は腹部へと深々と突き刺さった。ファビオラの『炎の螺旋』と同様に、羽は軌道を安定させるために回転を施しており、臓器を搔き乱さんと荒れ狂う。
三度、羽が突き刺さる。心臓と、腕と、そしてもう一つの眼球と、ファビオラの視界はすべて鮮血に染まりに染まった。
意識も少しずつ霞んでいく。間近に迫る『死』という体験——。
もう正常な思考も肉体も機能しない。少しずつ体が硬直していくのが分かる。体中から力が抜けていくのに、体中を巡る力が固まっていく。どんなに力んでも解けない肉の塊になろうとしていく。
心も体も熱を失っていく——。死は目前へと迫る——。
ファビオラは何も成せず、ここで無様に死ぬしかないのか。
…………
……
「だったら単純な質問。この世界から抜け出す方法は?」
「簡単だね。出口を見つけるか、それとも死ぬか。ここは精神を中心としてる世界だから、元の世界に戻ろうとするなら自殺でもどんな手段でも死ねば戻れるよ」
……
…………
——本当に、スクルドお嬢様を優しいですよね。
——この一言で、私は迷いなくこの瞬間を待つことができた。
否、断じて否——。
成すのはここから。無様に死ぬのはそうだが、死を超えた先にファビオラが目指すべき目的がある。
心にある覚悟を炎に、信念を水として錬成する。灰となる魂なんてこの際何の価値もない。スクルドお嬢様を止められない私の魂なんて生きていようが、死んでるのと同義だ。
今一度、体に熱を灯す。体内に魔力の水を流し込む。それら二つが死した肉体を再起動させる。
温度と気圧を利用したポンプ式で無理矢理心臓の鼓動を刻んでいく。僅かながらの延命処置に過ぎないが、この死と生の境目が重要なのだ。
——何せ知っているのだ。『ドール』という存在は『死体には一切反応しない』ということを。
ゾンビも同然となってファビオラは霧の中からスクルドへと接近していく。驚くほどに何の迎撃もなく、ファビオラは懐へと飛び込むことに成功した。
これが人格がある状態のスクルド——いや、スクルドでなくともこんな素直に近づかせたりしないだろう。これこそが『ドール』として致命的な欠陥なのだ。
何も『ドール』が『人間』のすべてを超越してるということは決してない。
確かに五感も運動能力も地球生命体の頂点に達しているだろう。しかし人間の強さというのは、五感でも運動能力でもない。そんなもので食物連鎖の頂点に立って、地球という惑星において傲慢で我儘な知的生命体の代表ですという顔で君臨できたりしない。
人間が生物の頂点に立てたのは『思考』ができるからだ。二本足で立つことで知能が飛躍的に向上して文明を生み出した。それこそが人間としての最大限の武器なのだ。
だからある意味では『ドール』というのは人間としての『退化』ともいえる。
きっと遠い昔ではそういう変化をした人間の形を生命もいたのだろう。しかしそれは人間の進化という枝木の歴史では淘汰されたからこそ、現代においては存在できていない。
スクルドの表情には何も浮かばない。ただ漠然と迫るファビオラの存在に焦点を定めて反射的な防衛を行う。今のスクルドにとってファビオラは礼拝堂に落ちる柱の残骸と同等であり、ただ『鍵』を薙ぎ払うことで迎撃を終えようとする。
この瞬間——この瞬間だけがファビオラにとって好機となる。
限界の先にある限界——。死力を持って魂の一滴まで魔力へと変換し、スクルドに最後の抵抗を試みる。
鍵とイスラフィールを掴み取り、全身全霊を込めて奪い取る。『ドール』になったといっても、元はエクスロッドの大事な一人娘だ。それは過去・現在・未来において不変することがない事実だ。いきなりボクシング選手や関取みたいに筋肉が詰まった肉体に変貌なんてするわけがない。根本的な筋肉が出来上がってない以上、筋力だけなら『ドール』相手でもファビオラは上回ることができる。
こうなればスクルドの攻撃手段はどうなるか。羽による殲滅攻撃しかないが、今のスクルドとファビオラは零距離による組み合いをしている状態だ。羽での攻撃は自身にも被弾をする恐れがあるから普通はしないだろう。痛みを感じないドール以外は。
翼を広げ、天使の刃が降り注ぐ。互いの身体に深々と羽が患部という患部に突き刺さっていく。
だが痛みを感じないのはファビオラも同条件だ。既に死体も同然であり、痛みも出血も死も恐れることはない。ここで死んでもドリームランドから抜け出せるだけで、現実世界での命は繋がっているのだから死という材料を天秤に乗せるのは遥かに楽だ。
ああ、死というのはこんなにも冷たくて、暗くて、寂しい物なんですね——。
ごめんなさい。今までこんなところにスクルドお嬢様を放っておいてしまって——。
こうなれば意地の張り合いだ。互いに決め手などあるはずがない。ただただ時間を無駄に刻んでいくしかない。
だがこれでいい——。目的はスクルドを無力化することなのだから。
勝とうが負けようが、スクルドという存在をファビオラの前から離れさせるのが一番の愚策だ。根本的に『契約者』という存在は『時空移送波動』に戻ってしまえば、あらゆる時間・空間から隔絶されることになる。つまりは情報の連続性をなくすということでもある。
となれば目を離した時点で、スクルドはレンに追撃を行う可能性だって十二分にあるわけだ。どれだけ離れていようと亜光速の機動力の前ではどこにいようと同じことだ。
今この場において、スクルドを何とかするには彼女を観測し続けるこの『停滞』という状況こそが最も効果的となるのだ。
未来も、過去も、現在もない。ただただ二人は傷つけあって時の忘れ物となる——。
これこそがファビオラの選んだ道。
これにて二人の戦いは終焉となる。
もう離れることはありません——。ずっと傍にいますから——。