「勢いで月まで来たのはいいんだけどさぁ……」
「どうしましたの?」
「月ってこんな広いの!? しかも見渡す限りなんもないし!?」
ガレー船を全速で飛ばしてきたのはいいものの、いざ到着してみれば、レン高原を遥かに超える灰色の大地に度肝を抜かれてしまう。そんな光景を見て、俺は授業で習った地球と月の関係を思い出していた。
月——それは地球の周りに浮かぶ『衛星』だ。地球は『惑星』であり、太陽は『恒星』と呼ばれているが、今はその件については大きく関係しないので割愛しておく。つまり『恒星』『惑星』『衛星』という順に星の大きさが小さくなっていき、その性質も変わるとも言っておく。
だけど『大きさが小さくなる』といっても星は星だ。人間と比べるまでもないし、国や大陸と比べてもそれでも大きい。
なにせ『月』は『直径3,474.8km』だ。地球はその約4倍で『直径12,742km』で、太陽はさらに100倍以上もある『直径1,392,700km』だ。ちなみに水星は『直径4,879.4km』だ。水星って大きいのね。こっちじゃ全然わからないや。
とはいっても、それは星の球体としての大きさだ。表面積となればもっと大きくなり、月はなんと『約3,793万平方km』と、第五学園都市である新豊州の『約43平方km』の百万倍近いとかいう俺の尺度では測りきれないほどに大きいのだ。
ただでさえ新豊州の入り組んでバラエティ豊富なテナントがあって目が回りそうな時もあるのに、ここまで広がって何もない土地に来てしまえば……『何をしていいかさえ分からない』という事態に陥ってしまうのだ。
「ソヤ~~? お前の鼻でなんとかならない?」
「私はトナカイさんじゃありませんわよ? どうにもなりませんわ」
『まあムーンビーストを探せば住処も見つかるだろうけど……』
『残念ながら我でも管轄外だな。ニャルラトホテプなどを知ってる奴はろくでなしの中のろくでなしぐらいで、所在を図ることなんてできん』
くそ、せっかくスクルドの助言で月にまで遥々とやってきたというのにドン詰まりかよ。
ドンブラコッコ、ドンブラコッコ。ガレー船は月の海を流れのままに進んでいく。
……しばらくは進展なさそうだし、今のうちに武器とか持ち物を見直しておくか。
…………
……
『——ふん。スクルドめ、役目を果たせなかったか』
「はっ! ざまぁないわね、あの方様さん?」
暗黒の世界の只中。ミルクはわざとらしい敬称でヨグ=ソトースを小馬鹿にする。
無論、超常の存在にミルクの煽りなんて微塵も触ることはない。ただ己が使命を果たそうと思考を駆け巡らせるのみ。
暗闇の世界で時間は概念はあるのかどうか怪しいものだが、ミルクからすれば体感数分ほど経ったのちに、ヨグ=ソトースは重い声を轟かせた。
『仕方がない。聞こえているか?』
『……聞こえている』
声だけが闇の中から響いてくる。その声はミルクには聞き覚えがなくても、バイジュウには聞き覚えがあった。
忘れることなんてできるはずがない。人を馬鹿にするかのような、泥よりも穢らわしい性根から腐敗してる声色。
サモントンを滅茶苦茶にした張本人——『ニャルラトホテプ』の声だ。
『お前が根城とするドリームランドの月に、あの小娘が向かっている。退けろ』
『無理に決まってるだろ。オレはミカエルにつけられた傷の影響で、そんじゃそこらの下等生物に負けかけないほど弱っている。アイツ、どこでクトゥグアの炎を手に入れてきたんだ……?』
『知ったことか。直接聞けばいいだろう』
『アハハ! それこそ無理って問題だ。オレとアイツは根本的な部分が相容れない者同士。何かの間違いさえも起きないほどにねぇ!』
何が面白いのか。ニャルラトホテプの心にもない笑いが暗闇に木霊する。
だがこれだけはミルクは理解している。こいつらの会話なんて百害あって一利もないことくらいは。
『だったらヨグちゃん、オレのところに来てくれない? 同胞だろ?』
『そうしたいところだが、私の力はあの小娘に対して効力が薄い。下手すれば私もお前も共倒れだ』
『そりゃ困った。本当に困るなぁ』
「しかしヨグ様ぁ? 私とバイジュウちゃんを殺し合いさせなくていいのかなぁ?」
ミルクとしては様付けするのは大変不本意ではあるが、これは『契約者』である以上避けることはできない。元々隷属すること自体は生前から慣れてはいるので不快感はないが、こんなやつに跪く関係であることをバイジュウに見られるのは我慢ならない。
しかし今だけは感謝しなければならない状況でもある。
ヨグ=ソトースはミルクの操ることをやめて、バイジュウ共々自由の身にしている。精神的な世界だから助かったものの、可愛いバイジュウちゃんの顔が傷だらけになってしまい、ミルクは心の中で「ごめんね」と謝り続ける。
だけどそんな弱気な部分を見せてもいけない。
ヨグ=ソトースは人の心が弱ったところに漬け込むのが得意でもあるのだから。
『お前たちはこれ以上やるだけ無駄だと分かった。そういうのを人間は絆というのだろう』
「私とバイジュウちゃんは絆だけで括れるほど浅い関係じゃないんだよ〜〜!!」
『そうか。素晴らしいな』
「お褒めに預かり光栄です〜〜、けっ!」
『ならば、その関係を利用させてもらおうか』
途端、ミルクの首筋が締め付けられて宙に浮く。ヨグ=ソトースの艶めかしい触手によるものであり、こうされては抵抗しようにも抵抗できない。少しだけ触手の力から抜け出そうと足掻くくらいなものだ。
『どんなに虚勢を張ろうと、お前は私の従者だ。時間も運命も、その全ては私の手にある』
「だ、だけど……私がいないとバイジュウちゃんをお誘いできないよ?」
『ああ。だから不必要なんだ。お前との契約を破棄させてもらおう』
それはバイジュウにとって思いもよらぬ提案であり、最も望んでいるものであった。
ミルクが守護者——契約者から解放されれば、20年の凍てついた時間を取り戻すことができる。またあの頃のように他愛もない日常を送ることができる。
だが違う——。ミルクにとっては違う——。
それはミルクからすれば『死刑宣告』なのだ——。
『ミルクとやら。お前は私との契約がなくなったらどうなるか分かっているだろう?』
「っ……。それを今ここで言うなっ!」
「ミルク……?」
『ギンの時は手こずったが、契約者は本来肉体と精神共々に私の空間にて管理される。スクルドは偶発的に発生した方法ゆえに例外となったが例外は例外だ。その他にイレギュラーなど発生するわけがない』
「やめろっ!」
『聡いお前なら理解できるだろう。バイジュウよ、今ここでこの女の契約を破棄すればどうなると思う?』
「ミルクとの契約を……?」
そこでバイジュウはやっと理解した。ヨグ=ソトースを何を言おうとしているのかを。ギンの過去をSIDで又聞きしてるからこそ、今のミルクの状況がどうなっているのかを。
つまりミルクには『現世にも時空位相波動にも肉体がない』から、今ここで契約を破棄すれば『魂だけが現世に帰ってしまう』のだ。
肉体がないまま現世に行けば、どうなってしまうかなんて考えるまでもない。本当の意味での『死』を意味している。
そんなことをバイジュウが良しとするかなんて、答えるまでもない。
『友は大事であろう。わざわざ見殺しにするのは、二度は嫌だろう』
ヨグ=ソトースの言葉に、バイジュウは憎しみと怒りの表情を浮かべながら、ぎこちない人形のように首を固く頷いた。
「……あれだけ一方的な殺し合いをさせて失敗しておきながら、バイジュウちゃんをたぶらかそうとするなんて面の皮が厚いなんてもんじゃないね」
『あらあら失敗しちゃったの、ヨグちゃ〜〜ん?』
『失敗したな。だがそれがどうした。バイジュウさえ引き込めば過程などどうでもいいだろう』
『は〜〜っ。人間なら煽られたらもっと良い反応してくれるのにね〜〜。本当にお前はつまんね』
『なんとでも言え』
ヨグ=ソトースはニャルラトホテプの言葉には必要以上に関心を向けはしない。それが一番適切な距離感であることを知っているからだ。
『バイジュウよ、もちろん褒美はやる。その女の従属をお前に一任させてやる。好きなように愛でて、好きなように過ごせばいい。お前だけのドールにしてやる』
「ダメだよ、バイジュウちゃん。こんな奴らの提案なんて旨味なんてないんだから」
「……分かってます」
だけど放棄したらミルクの魂が消えてしまう。今までの歩みの先にある物が消えてしまう。
人は目的地のない旅路を続けることはできない。暗闇の荒野を進めるほど強くない。バイジュウが今まで惨めも恥も晒して、19年間の眠りの末に世界を見てきたのはすべてミルクのためだ。
そのミルクが消えてしまえば、私の今までは何もかもなくなってしまう——。
19年という凍てついた時間は砕け散り、歩んできた旅路の意味をなくしてしまう。
——だったらどうすればいい。
『ヨグちゃ~~ん。もう一つの可能性を示してあげようよ』
『意見があるなら言え』
『じゃあ遠慮なく言わせてもらうよ。ねぇ、バイジュウちゃ~~ん♪』
「おいっ! 軽々しくちゃん付けをするな!」
『そりゃ失礼。独占欲が強いこって、ミルクちゃんさん』
こいつ、トコトン人を馬鹿にした態度を取ってくれる——。
ミルクは理解した。誰とも仲良くなれる私でも、こいつとは絶対に合わないと言うことを。
『バイジュウ。レンと戦ってくれるかな? オレのために』
——その提案はバイジュウでも意味と経緯を理解することができなかった。
『オレはね、レンの身体と精神が欲しいんだよ。そのためにサモントンで一波乱を起こしたんだが……知っての通り、計画は失敗してオレはご隠居さ。今じゃあ手を出そうにも手を出せない』
『だからさ』とニャルラトホテプは嘲笑混じりに話を続ける。
『オレの代わりにレンと一戦を交え、それでレンを倒してくれたら君とミルクを解放してやる。面白い条件だろう?』
「……そんな言葉には乗りません。それにミルクの肉体があっちにない以上、ミルクを解放したところで……」
『それができちゃうんだなぁ。君は知らないだろうけど、レンは取り込んだロス・ゴールドの影響もあって『生命を一から作り出す能力』があるんだよ』
「……なんですか、それ」
『嘘じゃない、本当さ。現に君が目覚める前にあった新豊州にあるスカイホテルで起きた事件……。そこで君も知る仲間の一人ベアトリーチェは再誕したのさ』
「再誕……。『因果の狭間』からの解放じゃなくて?」
『ああ。だから君がレンを倒し、それに乗じてオレがレンを乗っ取る。そうすればレンの身体を自由に使えるわけだから、ミルクの身体を一から生みだすことができる。そしたら君もミルクも現世に戻れて万々歳。君にとっては喜ばしいことだろう?』
「そ、れは……」
揺らがないわけがない。薄情かもしれないが、バイジュウからすればミルクとレン、どっちのほうが大事かと聞かれれば迷わずにミルクと応えられるし、例え自分の命と引き換えだとしてもミルクを選べる。それほどまでにバイジュウにとってミルクの存在は大きく、眩しく、尊いのだ。
けれどその選択は絶対にミルクは受け入れてくれないだろう。選択の果てにミルクの笑顔はない。あの太陽のように輝く、あらゆる暗い内面を優しく抱擁してくれる明るい笑顔は。
バイジュウの嗚咽さえも吐き出さずに泣き崩れる姿が答えだった。
その選択にミルクは「偉いね」と優しく笑ってくれた。その選択が意味する残酷さと無情さは、本人が一番分かっているというのに。
『……つまらない答えになったか』
「ごめん……っ! ごめんね……っ!」
「いいよ♪ 元々ボーナスタイムみたいなもんなんだから♪」
いつものと変わらないミルクの明るい声。
それはバイジュウにとって救いでもあり報酬でもあり、同時に罪であり罰でもある。
『では聞かせてもらおうか』
「沈黙が答え。バイジュウちゃんの涙を見れば分かるでしょ?」
バイジュウの代わりにミルクが応える。それもまた彼女なりの優しさだった。
『よろしい。ならば望み通り、お前ら2人をこの世界から返してやろう——』
…………
……
「その選択は間違いじゃないよ——バイジュウ」
観星台——。
水晶、タロット、占星術という、占いのバーゲンセールのように乱雑に並ぶ空間にてグレイスは、ここにはいないはずの少女に向けて呟く。
「それだけが唯一の正解。みんなが助かる貴方が打てる最良の一手」
グレイスはタロットを一枚捲る。捲られたのは小アルカナの『カップ』——つまりは『聖杯』だ。
カップは愛情をテーマとするカード。意味は他者との心の繋がりや、慈愛心、過去など——。
そして既に捲られているもう一枚のタロットカード。それは大アルカナの『運命の輪』——。向きは正位置。意味するのは『タイミングを逃さない』『運命の出会い』だ。
「ここからはギンとクラウディアの仕事。そのためには……私もできるだけ助力しないと」
グレイスは今でも全く見ない携帯電話を手に一つの連絡を入れる。
ワンコールで電話先の人物は呑気に『へい、らっしゃい』と気さくを超えて不真面目な声が響く。電話先にいる人物はイナーラだ。
「イナーラ。バックアップはお願いね」
『りょ。注文追加だから割増のマシマシね』
「分かってる。ソヤとファビオラの安全を確保したら『塔』の皆と一緒に協力して、できるだけ『無形の扉』のエージェントに、ギンと麒麟の戦いに介入させないようにして」
『はいは~い』
そう言ってイナーラは電話を切る。グレイスは一呼吸おいて水晶を眺める。
そこに映るのは反射された観星台の内装ではない。水晶そのものが宇宙でもあるのかように、小さな星の光が瞬き、瞬き——そして、一つずつ消えていく。星の命が、宇宙の命が消えていく。
「『■■■■■』——。あなたはいったい、どんな夢を見ているの——」