ここドリームランドは因果の狭間と同じで、あちらでの一時間と同様とは限らない。
長い航海を始めて体感的には24時間以上は経過しただろうか。
操られたスクルドの追撃がないことから、ファビオラは上手く退けたのだろう。おかげでこっちは安全かつ確実に月面の捜索でニャルラトホテプがいるであろう場所を見つけることができた。
月面のクレーターに確かにある人工的な建造物が一つ。
それは近代未来の結晶とでもいうべきか。文明なんて存在しないはずの衛星である月。そのクレーターの中心には庭と表現するのが一番近いように、小さくも確かな緑の土地といくつかの塔と箱型の建物で建造された施設があった。
連なるムーンビーストの数は目視する範囲だと十数体。警備のために配置されているが生体としての性質が合ってないのか、表情なんて分からないのに「つまらない」と言いたげに体から覇気が見えない。
あいつらの強さは一回交えているから分かっている。ハッキリ言って大きさから来る単純な力としては脅威だが、それ以外は『ドール』よりも劣るということを。
アイツは手足を切断すれば無力化できる。下手に知性や理性というものがあるから、痛みに怯んでしまうんだ。そういう意味では兵隊の斥候としてどれだけ『ドール』が優秀か。ゲームにおいて無限沸きや死なない兵隊ほど脅威になるものはないと思うように。
「いくぞっ、ソヤ!」
「ひと暴れ行きますわっ!」
俺とソヤは一緒にガレー船から飛び降りて強襲を決め込む。そこそこな高度からの落下ではあるが、月の重力は地球の6分の1であり、この程度の落下速度なら着地さえしっかりすれば怪我なんて追うことはない。
着地と同時に一閃。続けて二閃、三閃とムーンビーストを霧吟の魂を武器とした『流星丸』で両断していく。かたやソヤもお手製チェーンソーで引き裂いてく。手作り故に回転数も刃の性能も優れたものではないが、そこはソヤの戦闘経験で補い、慣性を利用して無理矢理にでも実行するのだから末恐ろしい。あの小さな体のどこにそんな力があるのか。
「んんんんんん~~♡ 歪ゆえにスプラッター感もマシマシですわ~~♡」
……あと、その変わった趣味嗜好もどこで学んだろうね。
生まれついての物なら、きっとエルガノも苦労したに違いない。
なんてことを思考の片隅で思いながらも本拠地に突入していく。
電光石火の快進撃。エルガノが用意してくれた装備である『月光百合』のおかげで、多少の擦り傷ならすぐに治療されて問題ない。『月の光を吸収して栄養素に変換する』と言っていたが、月面上ならその影響が強いということだろうか。活力がドンドン漲ってきて、今なら多少の強敵でも退けられそうな気もしてしまうほどに。
『我が臣下の道を阻むでないわっ!』
殿として付いてくるノーデンスも力も非常にありがたい。こちらが前に進むだけに切り払った残りの戦力をノーデンスが持つ無尽蔵の魔力で押しつぶすのだから、おかげでこちらも無駄に力も時間も使う必要がない。最短で最小限に効率よく突き進んでいく。
「しかし、このままニャルラトホテプまで行ったとしてもどうやって倒しますの? あいつの強さはサモントンの時に知っておりますが……いくらノーデンスとフレイムさんがいようと、これだけでは不可能なのでは?」
『気にする必要はないわよ。私だって火の情報生命体……『クトゥグア』と同等の存在よ?』
「ところでそのクトゥグアってなに? スクルドの時にも出てきたけど」
『クリフォト側の私と対極でセフィロト側の炎の化身よ。アイツの炎はニャルラトホテプにとって天敵中の天敵。サモントンでの『パーペチュアル・フレイム』に両断されただけで、ニャルラトホテプは一気に瀕死にまで追い込まれたでしょ? その理由ってアレがクトゥグアの属性を保有していたからなのよ』
『だから同様に私の炎もアイツにとって致命傷ってわけ』ってフレイムは得意気に答えてくれた。
……スクルドとの一件で、どうも信用すべきかどうかの感覚はあるが、それは今は後回しでいいだろう。今はとにかくニャルラトホテプの打倒が第一だ。
だけどアイツにそんな特攻武器があっただなんてな……。それなら余裕かもしれない。
「あれ? だったら俺達が警戒すべき敵って実はいない?」
『そういうことになるね。従者も信者もこのドリームランドには多くはいないし……だからこそスクルドをこの世界に呼んだんでしょうし』
なんか意外と拍子抜けというか、思ったよりニャルラトホテプって強くないのか? 策を弄するタイプで、こういう奇襲とか純粋な力押しには弱いというか。
「だったら他の契約者が呼ばれる可能性ってありますの?」
『まあ十二分にあるんじゃない? けれど地属性は知っての通り、ハインリッヒとギン。火属性はスクルドとファビオラ。水属性はバイジュウとミルク。残るは風とエーテルの合計四人だけど……』
「恐らく一人はラファエルさんですわよね? でないとサモントンであんな異様な暴走はしないと思いますし」
『その予想は大正解。となると貴方たちが知らない契約者は残り三人ってことになる』
「その三人が立ちはだかる可能性があると……」
『いや、その可能性はないだろう』
そこでノーデンスが話に割り込んできた。
『エーテルの属性は特殊な役割と契約を与えられている。よぽどのイレギュラーでも発生しない限り、派遣されることはない』
「なら風は?」
『あれは『ハスター』の管轄だ。アイツは他とは違い、理性を持つが故に孤高だ。おいそれと自分の属性を貸し出すような輩でもない』
また知らん名前が出てきたな……。しかしそういうことなら信頼してもいいかも。
結果や経緯としてはどうあれ、ラファエルも一度は風の力を覚醒させてニャルラトホテプに牙を向けたわけだし。
「だとしたら本格的にニャルラトホテプを守ろうとするのは、ムーンビーストとかシャンタク鳥あたりしかいないってわけか」
『地球の重力ならいざ知らず。月の重力なら単純計算で6倍高く跳べるんだから、シャンタク鳥なんて脅威じゃないわね』
「そんな簡単に跳べないって!!」
なにせ重力が弱いから蹴る力も弱まってしまい、実際に6倍も高く跳ぶことはできない。精々2~3倍が限度だ。
あと仮に6倍跳んだところで、着地するまでの滞空時間も単純計算で6倍になってしまうのだから、空中で動くすべを持たない人間では空中にいる間は完全な無防備状態になってしまう。そうなってしまえば空中を自由に駆けるシャンタク鳥の餌食なんだから本末転倒だ。
それに今いる場所は屋内だ。天井の高さは5mほどで制空権が及ぼす絶対的なアドバンテージはないし、そもそもムーンビーストとシャンタク鳥共々に大きさがあるから、この天井の高さではむしろあっち側のほうが機動力を損なわれている。根本的に跳ぶ必要なんてないからこそ、ここまで簡単に押しとおることができるんだ。
故に問題なく深く、鋭く、早く、止まることを知らずに進んでいく。敵対する存在など何するものぞ。
「よおよおよお。やあやあやあ。随分と早い到着なこって」
だからアイツの姿を目にするのに時間は大きく掛からなかった。
身体のほとんどが焼き爛れた人の形を模した何か。眼球もビー玉のような胡散臭い煌めきを持って俺達と視線が合う。
姿形は見たことない。覚えもない。だけど分かる。隠し切れない下郎の匂いがこれでもかと漂ってくる。
一度見たら忘れるはずがない。分からないはずがない。アイツの在り方は悍ましいの一言に尽きるのだから。
「久しぶりだな、ニャルラトホテプ。お前にできた色々な借り……今ここで全部返させてもらうぞ」
「弱いものイジメはんたーい。今のオレは怪我人だぜ~~? 優しくしてくれよぉ~~?」
初めて会った時から何も変わらない。人類すべてを馬鹿にしているお茶らけた態度で会話を繋げる。
ふざけるな。こんな奴に狂わされて壊されたというのか、サモントンは。そのせいで直面している食糧問題なんて我関せずと言わんばかりにケタケタと、ケラケラと笑い続けている。
血液が沸騰しそうだ。怒りだけで右手に握る流星丸が軋みそうなほどに力んでしまう。
その激怒をニャルラトホテプは感じ取ったのだろう。ニヤけた笑い声を一先ず収めると、白旗でも宣言するのように無防備に、そして無力にその両腕を上に晒して「投了だ」と、さも当然かのように何の溜めも躊躇もなく自身の敗北を宣言した。
「残念ながらお前たちの相手をすることなんてできないんだ。できても意図も容易くやられちまう。アイツの炎はそれほど強力だったからな」
「じゃあ無抵抗のまま死んでくれるのか?」
今こうして対峙してハッキリと理解した。投了だけですべてを終えようとする中途半端さに『黒い感情』が泥のように溢れ零れる。こんな感情を持ったのは生まれて初めてだ。
こいつはウリエルを殺し、ヴィラクスを誑かし、ラファエルを傷つけ、スクルドを関節的に殺したという事実を俺は知っている。今までの事件の裏にはこいつが確実に潜んでいた。
それを知った今では、アイツの顔を見るだけで激情という器にガソリンが注ぎ込まれたかのような震えと滾りが心身共に満たしに満たしてくる。
殺したい——という純粋な殺意がこれでもかと。
「そういうことになる……が!」
刹那、俺達の眼前を巨大な歪みが空間を薙ぎ払った。歪曲した次元には裂け目と重力が発生し、付近にする物体どころか空気といった目に見えない物さえも取り込もうとする究極の引力を感じる。
ニャルラトホテプが何かをした様子はない。ただ両腕を上げて降伏を意味してはいる。こちらの狼狽える様子に「それが見たかった」と言わんばかりにご満悦な以外に変わった様子はない。
となると誰だ? いや、なんだ? この攻撃の正体は。超常の中でも飛びぬけている。
だけど知っている。これと似た現象を。ハインリッヒの『フィオーナ・ペリ』が齎す時空間の干渉と似ていることは分かる。
『それは私を退けることができればの話だがな』
その答えはすぐに返ってきた。
空間という空間が塗り替えられる。宇宙空間にでも放り出されたかのように闇の帳の中で星々のような光が瞬く。
そこにソイツはいた。果てのない暗闇の世界。限りない空虚の中心に、まるでブラックホールでも発生したかのように『闇』も『光』も超越した無尽なるものがいた。その在り方はなんと表現すればいいだろうか。
時間と空間を超越するただ一つの窮極かつ永遠。
まだ生まれてもいない未来と呼ぶべき世界の不条理や法外。
人類が夢見る魅惑が尽き果てぬ領域。
太陽系において知られざる囀りや呟きにも似た音。
ただ一つの原始かつ無限。到達不可能な全能。
『一にして全』
『全にして一』
「ヨグ=ソトースッ!!」
そうか……! まだこいつがいた……! もっと根本的な因縁を持ったやつがこいつがいたっ!!
「お久しぶりですわね、ヨグ=ソトースさん?」
『ああ、エンジェルスか。そういえばお前も小娘のせいで取り逃していたな』
そうだ。こいつとの因縁はニャルラトホテプよりも深い。というか、こいつが今の今までの事件の根元に関わっているんだ。
アニーとソヤを因果の狭間に閉じ込めたのもそうだし、ハインリッヒとギンとスクルドを契約者にしたのもそうだ。
この二人……いや、二つの災厄にも等しい超常が今までのすべてに密接に関わってきたんだ。
それが今この場で対峙している? しかも同時に?
そんなの……嬉しさがこみ上げてくる。お前たちを打倒するために、俺は強くなってきたんだから。恐怖なんてものは微塵も湧きでてきやしない。
「——ッ!!」
挨拶なんているもんか。不意打ち常套、先手必勝の一閃。ギン教官直伝の『逆刃斬』だ。俺のは不格好だからまだまだ完成には程遠いが、それでも俺が持つ剣技の中でも一番強力なもの。
ソヤとの会話で隙を見せたヨグ=ソトースにその渾身の一撃を入れる。月光百合との相乗作用で、その一閃は今まで重ねた戦いの中でもどんな一撃よりも早く、鋭く、重いものだ。
決まれば致命傷は不可避。その刃は見事にヨグ=ソトースの身体を引き裂き——。
「————ぁ」
そして人間では見てはいけない内包された『超常の情報』を目にしてしまった。
ヨグ=ソトースの体内にあるのは、人間と違って細胞とか骨とか血液ではない。ミクロにしてマクロの数値化ができない『宇宙』という概念を纏った物だ。
故に引き裂けば当然宇宙の真理を覗き見ることになる。宇宙の深淵までフルハイビジョンで、ノイズもモザイクもなく果ての果てまで目撃することができる。
——だからこそ疑問に思う。その深淵に眠る異質な『何か』を目にしてしまったから。
「な、んだ……あ、れは……?」
「今のは、いったい……」
内包された『何か』を形容するにはどういえばいいのか。
あえて言うなら無限そのもの。宇宙の起源にして終焉。この世の存在する理や法則——。そういうしかない。
その『何か』は絶え間なく不定形なのかも判別が怪しい体をくねらせ、宇宙の中心部で寝返りでも打つように動いている。
——確信した。この『何か』はスクルドが口にしていた『■■■■■』だと。
口にすることさえも難しい無限の象徴こそが『アレ』なんだと。
「あっ……ああっ……!! この匂いは……っ!」
途端、ソヤの様子が変貌した。『何か』に気づいてしまい、その異質さと異様さがどういう意味を持つかを俺以上に察してしまったからだ。
なにせソヤは『共感覚』の持ち主だ。匂いだけで感情とかの機微に気づいてしまう。それに単純にソヤは嗅覚が良いから、宇宙空間に直結したヨグ=ソトースの中身とそれ自身という超常の過剰な匂いに混乱を起こしているのかもしれない。
「こ、これがエルガノが言っていた……神だというのですか……っ!?」
その感覚はソヤにしか分からないだろう。俺ですら見ただけで悍ましい感覚と思考が身体中を巡りに巡っているんだ。ソヤはいったいどれほどの情報が入ってしまったんだろう。あの小さな体にどれほどの夥しい情報が巡っているのだろう。想像するだけでも恐ろしい。
ソヤの呼吸が乱れていく。眼球が充血して汗も滝のように溢れていく。宿した情報を掻き出そうとしてるのか、それとも苦しみを痛みで和らげようとしているのか、綺麗で煌びやかな白髪をこれでも指で搔き乱して悶えている。
だけど症状は落ち着いていく。自分に「落ち着く、落ち着くのです」と言い聞かせると、不安定な呼吸と溢れ止まぬ汗のまま平常心を取り戻した。
「なるほど……確かにこれを知ってしまえば、エルガノみたいに狂信を持ってしまうのも頷けますわね……」
「フレイム。あれがスクルドが言っていたやつだよな」
『ええ。アレこそが『■■■■■』よ』
言葉の認識には相変わらずノイズが掛かったように理解しきれない。ニャルラトホテプやヨグ=ソトースと同じように冒涜的な存在の名前だというのに。
だけどおかげで確信した。フレイムが断言してくれたおかげで。あれが『■■■■■』なんだ。スクルドが口にしていた眠りについてないといけない災害。
『……アレがあやつなのか?』
「どうしたんだよ、ノーデンス?」
『いや、我が知っているころと比べて随分と小さいというか……弱々しいというか……』
「どれくらい前と比べて?」
もしもそれが最近の出来事に近ければ、こいつの覚醒がきっかけで起きた可能性も出てくるんだ。
ニャルラトホテプとヨグ=ソトースが今までの事件に関わってきたんだから。『■■■■■』を理由に何かが起きたなんてことも十二分にある。
『数十世紀以上も前だから気のせいかもしれないが』
「ただの記憶違いの可能性でてきたな……」
ノーデンスさん、威厳ではあるが見た目は爺だからなぁ。それによく考えたら数十世紀単位だと少なくとも千年以上も前だし、時空間が現実とは同様じゃないのだから余り参考にならない。
やがて引き裂かれたヨグ=ソトースの肉体は再生を終えると、ここからが本番だと宣言するように無尽なる肉体を極限にまで膨らませると、世界をすべて塗り潰して告げる。
『さあ来るがいい、小娘共。お前達との因果をあらゆる過去・現在・未来から排除してやろう』