内包された宇宙という概念そのものが敵となる。それがヨグ=ソトースの基本的な攻撃だ。
かの生命を象る球体はそれに触れただけで永久的な痛みと損失を受けることになる。
故に完全回避が大前提であり、被弾は即ち『死』を意味するとフレイムとノーデンスは忠告してくれた。
だけどアドバイス一つで何とかなるなら苦労しない。
攻撃の正体はほとんど掴めない。なにせ広がった世界そのものがヨグ=ソトースであり、前後左右上下の八方から宇宙の法則として襲来してくる。
時としてそれは痛みであり、時としてそれは法則であり、時としてそれは運命である。
——ねぇ、なんで貴方は私を助けないの?
「うるさい……」
——剣聖を助けたのに、私は助けないの?
——錬金術師は解放したのに、私には何もないの?
「うるさい……っ!」
中には感情もあった。その感情の誰の物なのかも即座に理解した。歴代の『ドール』と成り果てた魔女の断末魔だと。狂気に陥る直前に発した理性が発した残響であると。
俺は確かに色んな人達を『因果の狭間』から解放してきた。
アニーを最初に、ハインリッヒ、ソヤ、ギンがそうだ。そして狂気に囚われて異形と化したラファエルも同じと言えるだろう。もしかしたらベアトリーチェもそうかもしれない。
だからこそ思う。誰だって思う。『ドール』であれば、『因果の狭間』に囚われた見知らぬ誰かは、救われる他の魔女を見て俺に対して思うだろう。
——なんで私は助けてくれないの?
——なんで私は見捨てられるの?
——なんで私はここにいないといけないの?
——お前はあいつらを助けたくせに。不公平だ。
そりゃそうだ。皆が皆が最初から俺にとって大切な友人じゃない。
この解放を切っ掛けに繋がった仲であり、始まりは皆平等なんだ。アニーもハインリッヒも、ここで咆哮する魔女達の怨嗟と同じで繋がりなんてない。
じゃあどうしてアニーを助けることができた。偶然だ。偶々だ。
あの全てが変わった朝。俺の目の前にただバットがあったから手に取っただけだ。だからそこからアニーが出てくるなんて思ってなかった。
故にこの始まりは決してアニーである必要性はない。
それこそ今ここで怨嗟を溢すドールの誰かだった可能性だって十二分にあったんだ。彼女らが恨みを溢したくなるのは当然だと言える。
悲しい、苦しい、怖い、妬ましい、悍ましい——。
どんなに形容しても俺の理解では捉え切ることはできない。むしろ理解しきってはいけない。
知ってしまえば永続的な狂気に晒されると本能が警鐘する。その果てが『ドール』なんだ。この感情の発露は確かに同情すべき被害者達の叫びだ。だけど寄り添ってはいけない。残酷に、無情に、彼女たちの声を踏みつけないといけない。
なんて狡猾で悪質な攻撃だろう。藁にも縋りたい人々の気持ちを蹴落とさないと自分が吞み込まれてしまう。
生存を望む声に耳を塞いで知らんぷりをするなんて、まるであの時と同じだ。『七年戦争』の時と同じだ。
ああ、こんな気持ちいつ以来だろう——。あの戦争では人々の『悪意』がこれでもかと蔓延していた。
誰もが今を生きるだけで……いや、死にたくない一心で人々の未来と命を略奪するのが当然だった日々。その先に確約された平穏も安寧もないのだから人や政治への信頼に価値なんてない。今ここで死んだ方がマシなんじゃないかと考えてしまうほどに悪意が満ちに満ちていた。
俺だって幼い頃はそこにいて、人を殺したことはなくても廃被りのパンなどを口にして飢えを凌いでいた。泥水を啜ってむせ返りながら地獄の只中で毎日這っていた。
視界の片隅や耳に聴こえる俺よりも幼い子の呻き声なんて知らんぷりしながら——。
人はみんな歴史に映る戦争の傷跡なんて所詮は映像だけの世界で、頭では理解できても心と本能で理解することができない。したくてもしきれないんだ。
それは俺自身が知っている。俺だって自分が『七年戦争』に巻き込まれるまでは、世界大戦とか原爆被害とかの人的災害を本当の意味で理解できていなかったんだから。
映像資料に残る世界大戦や、自国の戦争映像を見ても怖いとは思いながらも、カッコいいとか凄いとか言いながら興奮していた。ゲームの影響もあって呑気に笑いながら「大日本帝国万歳」とか当時の人からすれば不謹慎であろうことを口にしていた。それぐらい、現代にとって戦争なんて御伽噺の夢物語な印象だったんだ。
だから実際に目にしてこれでもかと絶望した。
お腹が満たされるだけでどれほど幸せか。空に浮かぶ点が、ただの鳥だと気づいた時のどれほど安心感を得たか。こんな当たり前がどれほど掛け替えのないものだったか。それを取り戻すのに、どれほどの時間を有したか。
だけどそんな当たり前に到達する前に死を迎えた人物は大勢いた。
俺より年老いた人物は山ほどいた。俺より年下の人物も山ほどいた。死体の海を。山を越えて、今の学園都市を筆頭に生きている人類はその地獄を目の当たりにしてきた。
当然『七年戦争』に見捨てられた人達は思うだろう。この場で怨嗟する『ドール』と同じように、生者に問い質すだろう。
——なんで私を見捨てて、あの地獄を歩いて行ったの。
——なんで私を見捨てて、その手にある食料をくれなかったの。
——なんで私を見捨てて、生きているの?
——なんで私は死んで、お前は生きているの?
「うるさぁぁああああああああいっ!!」
なんでそれを俺に問うんだよ! こっちは自分だけで精一杯なんだよっ!!
親も友達もどこかに消えて絶望だけが腹と心を満たす寂しい世界の中だと、自分が助かろうとするだけでもおかしいのかよっ!
「なんて傲慢で我儘で屁理屈なのでしょうね、こいつらは」
慟哭する俺の前に一人の少女が立つ。それは考えるまでもなくソヤだ。
今の俺からすれば彼女はどんな女性よりも優しくて美しく見えた。迷える子羊が救いや道標を見出した時はこんな風に見えるのだろう。
「破門された身でもシスターですので、こういう輩に対する処世術は私知っておりますの♡」
そう言いながら彼女は宇宙空間にも等しい暗闇の中、星のように瞬く名も知らぬ魔女達に向けて凛然と告げた。
「逆に聞きましょう、ドール諸君。あなた方はどうして『狂気』に魅入られたのですか?」
ソヤからの問いに応える魔女たちの声はない。言われてみればそうである。確かに俺は魔女達を救わなかった、救えなかった。
けれどもっと単純な考えがある。そもそも何でここにいる魔女達は『魔女』を求めて『ドール』になったのか。それさえなければ根本的に救う必要さえないのだ。
「どうせ『魔導書』の魔法に惹きつけられたからでしょう? 清き死人を腐った生者にしたり、身に余る力を欲したり、叶わぬ恋のために略奪したり」
「まあ中には『生きたい』という純粋な思いでそうせざる終えなかった人もいるでしょうけど」とソヤは溢す。
「でしたら自業自得ですわ。ただ力を求め、その力を制御できずに破滅しただけ。どこにでもある三流の不幸話……貴方がたにレンさんに物申す権利なんてありませんわ」
「それに」とソヤは心底つまらそうに話を続ける。
「触れた時に理解したはず……これは正しい力でも、純粋な力でもない。最終的には破滅、堕落、失墜を招く狂気の力であることくらい」
返答はない。魔女達の怨嗟は少しずつ小さくなっていく。
「その段階で拒むこともできたはずですわ。魔女は『他人から与えられる力』じゃない。魔女は『自分から求める力』ですわ。あのヨグ=ソトースは控えめに言ってゲスのクソ野郎ですが、どんなに悪質な条件下でも他者に拒否権を与えた契約をしますの。その拒否権を使わなかった時点で、貴方がたに何をどうこう言う権利はありませんわ」
それはヨグ=ソトースの『門』を自分の手で閉じた経験があるソヤだけが言える力強さに溢れた言葉だ。そしてそれを魔女達は知っているからこそ何も言えない。今度こそ魔女達の怨嗟はどこかへと消え去っていった。
——でも、それで納得できるわけがない。
——正しいとか正しくないとかじゃない。
——悪いとか悪くないとかじゃない。
——俺自身が納得できないんだ。アニーを助けたキッカケや始まりが小さなことなのだから、同様にその小さなことが彼女達にも向けれたら助けられるかもしれないんだ。
——こんな声を知ったら、俺はどうすればいい?
『ほお。精神面を攻めてみたが耐えてみせたか』
しかし間髪入れずにアイツの声が虚空から轟いてきた。
「随分と小賢しい手を使いますわね? それだけ追い詰められるとでも?」
『なるべく綺麗に保存したいだけだ。貴様らを傀儡にする時、剣聖のような二度手間は無駄だからな』
だから次からは容赦はしない。暗にこいつはそう言っている。
それが見栄でもなんでもない事実であるとソヤは共感覚で理解したのだろう。「気をつけてくださいませ」と告げると同時、気持ちを切り替えて今度こそ戦闘は開始された。
そしてそれは事実となる。瞬きをした瞬間、虚空の宇宙にヨグ=ソトースの極大の触手が隕石のような絶望となって振り落とされる。
前に行けば直撃。横に動けば銀色の球体に触れてしまう。下がれば掠めるだけだが、掠るだけでも致命傷だ。だったらどうするべきか。
いや、ここは宇宙空間だ。『OS事件』の時を思い出せ。あの異形との戦闘で、ミルク等一緒にどういうことをして危機を脱した?
そう——上に跳んだから助かったんだ。だけど今回の場合は違う。下に逃げることが最適解となり、紙一重のところで触手を回避する。
宇宙空間では無重力下である以上は回避行動は三次元にすることになるし、摩擦がないから感性のまま動き続けることになる。これは戦いにおいて非常に重要なことだ。
銃弾などに狙われた際、一番安全なのは遮蔽物に隠れることだが、次に安全なのは動き回ることだ。よく反動で照準がブレるから下手に動かないほうがいいというが、そんなのは絵空事だ。
ことわざに『下手な鉄砲も数撃てば当たる』という言葉があるように、数撃てば当たる以上、そもそも撃ちにくい状況を作るほうが安全で効果的だ。試行回数が少なければ被弾率も激減されるのだから。
故にこの空間では感性さえも利用した三次元的な逃げ方が最も純粋で優れた回避方法となる。当たらなければどうということはない。というか当たれば致命傷なんだから、そうするしかない。
それほどまでにヨグ=ソトースの攻撃は驚異的なのだ。単純な質量からくる触手を振るうだけでも電車が突っ込んでくるのと同様であり肉塊へと変貌する。球体に触れれば触れた部分が腐敗してしまう。
それだけに留まらない。どこからかこちらの動きを止めようと『鎖』を空間に漂っているのだ。
あれには明確な敵意がある。回避行動の最中、擦れ違うだけでただの鎖じゃないことが分かる。あれには熱と概念的な重さがある。あれに捕まったら最後だということが本能的が警鐘する。
というか隙がない。明らかにこちらを弄ぶような余裕さを感じるほどだ。
最初の精神的な攻撃もそうだが、アイツはこちらを極力傷つけないようにしている。一撃で命を刈り取るか、拘束して抵抗できないようにするか。それを可能にするほど力量の差が大きい。
「どうにかならないのか!? 弱点とかないの!?」
『ニャルの野郎はともかく、あいつに弱点とかない!』
『我が魔法でも守るだけで手一杯だ!』
「これじゃあ打つ手ありませんわ!」
ソヤのチェーンソーも、俺の流星丸も当たっても手応えがまるでない。だから二人に頼ってみても、フレイムは実体がないからアドバイスしかできないし、ノーデンスは本人が口にした通り即死級の球体を魔法で触れずに逸らすことで俺達が動きやすいようにしてくれている。
だがそれでもヨグ=ソトースに届くことがない。その理由は明確だ。『巨大すぎて距離感が掴めない』のだ。
ここは事実上の宇宙空間であり、大気というものは存在しない。遠くになればなるほどボヤけるという『空気による光の干渉』が一切ないのだ。同様に空気中の水分がないから、雨の日でよくある遠くが霧が掛かっていて見えにくい現象ということも起きない。
それだけならむしろ見やすいと考えるかもしれないが、日常生活で見る視界というのはこのようなものが当然であり、同時に基準となる。
その基準がなくなってしまえば、いくら遠くが鮮明に見えるようになっても脳の処理が追いつかずに遠近感を錯覚させる。そこにヨグ=ソトースの規格外の巨体も合わされば、今あいつがどこにいるかなんて正確に分かるわけないのだ。
圧倒的で絶対的な力の差をこれでもかと見せつけられている。
前回はギンのおかげで退けることができたが、こうやって対面して真っ向勝負するのは初めてだ。ここまで単純な力の差を見せつけられるだなんて思ってなかった。
アイツまでの距離が分からない。目の前にいるのか無限の彼方にいるのか。たった一つの尺度が消えるだけで漠然としてしまう人間の認識力は、それでもヨグ=ソトースの異質さを少しずつ虫喰いのように脳を侵食していき戦意を削り取っていく。
ダメだ。長時間戦うのもダメだ。こいつは『因果の狭間』を管理することができる超常の中でも頂点に立つ生物だ。時間という概念に属する以上、時間を掛けるだけでこいつの情報が俺たちを蝕んでいく。
じゃあ短期決戦で仕留めようにも不可能だ。それだけ超越した技量も武力も持ち合わせていない。
足りない。何もかも足りない。アイツに届かない。
最低でも『距離を定める軸』と『攻撃を通す技量』がないと拮抗することさえできない。
「ぜぇ——ぁ——」
「大丈夫か、ソヤ!?」
情報を受け取る力は共感覚を持つソヤのほうは優れている。だが今回の場合は逆効果だ。
空間そのものが超常であり、相対するヨグ=ソトースが超常の権化なのだから加速度的に脳を侵食させていく。呼吸するだけで猛毒の情報が身体を駆け巡って侵していく。
こんなのをバイジュウは『理解』したというのか?
セラエノの情報を拡散させて強制進化を促すという『プラネットウィスパー』を受け切ったというのか?
つくづくバイジュウが人間離れした知能と胆力を持っていると絶句しそうだ。
「あっ——」
そして、その時はついに俺にも訪れた。
脳内に酸素が巡らない。異質な情報が五感を狂わせていく。触覚も嗅覚も麻痺して外界の情報が処理できない。視覚が機能を再構築していき『人が理解するには早すぎる次元』の情報が侵食してくる。
人間としての次元と、超常としての次元が齟齬を起こす。まるでホラービデオの演出のように断続的に『■■■ー■』の情報が流れ込んでくる。
理解するな。理解しちゃいけない。
だけどどうやって引き返せばいい。ここには目印となる物なんてない。ただただ情報という名の引力に落とされて、この『■ザ■ー■』へと接近していく。
呑み込まれるな。手を伸ばせ。この『■ザトー■』を理解したら人には戻れない領域に到達してしまう。
伸ばせ、伸ばせ。何でもいいから伸ばし続けろ。
どこに——?
誰に——?
決まっている。この宇宙空間に僅かに明滅する『温かい星』に——。
「——星?」
ここに輝く星はヨグ=ソトースか、魔女達の怨嗟しかない。だから『温かさ』なんてあるはずがない。
だとしたら、あの『星』はなんだ。しかも『二つ』ある。
それは『流れ星』だ。二つの流れ星がこちらに襲来してくる。
あれは——いったい——?
『なぜお前らがここに……』
「おいおい。呼んだのはお前だろう、妖の王よ」
「私はよくわからない付き添いだがな。だが決着をつける意味では悪くない」
「確かにのぉ。ならこうしよう」
そう。その『二人』は『眠りについた』ことで夢の世界への扉を開いた。その事実をレンは知らないが、確かに現実の世界であった出来事である。
「勝負内容はこうだ。どっちが先にアイツを倒すか——」
「シンプルでいい。その勝負乗った——」
ギンと麒麟の二人が、ヨグ=ソトースの宇宙に流れ星となって襲来したのだ。