け
お
め
こ
と
よ
ろ
晴れる。暗闇の宇宙が晴れる。
月の内側で行われた激戦の末に、俺達はニャルラトホテプが待つ場所へと帰還する。
「すばらしいっ! まさかヨグ=ソトースを退けるどころか、討伐するとは!」
「心にもないことを言いやがって……」
「いやいや本気の本当で、本気の嘘さ。流石レンだ。オレが見込んだ器だけのことはある」
ニャルラトホテプは惜しみない賞賛をこちらに向けてくれるが、こいつはどこまでこっちを馬鹿してるのか。
大体ヨグ=ソトースを倒せたのは俺の力だけでは到底不可能だった。軌跡的にこの世界に流れ込んだ麒麟の発想力と、ギンの決死の突撃によるもの影響が大きい。それにこちらを躊躇なく攻めに転じさせてくれたソヤ、ノーデンス、フレイム。そして足りない力を補うために時間を超越して力を貸したスクルドとウリエルの影響もあったりと、皆の力が結束することで辛うじて届いたのだ。それを俺だけ褒められるなんてむず痒くしてしょうがない。
「……って、そうだ!? ギンは……っ!?」
あの戦いでギンの片側が消失した。ドリームランドでの出来事は基本的に現実世界に反映されないとフレイムは言っていたが、ヨグ=ソトースの球体だけは別だ。
あの消失はあらゆる時空間から隔絶させる消失だ。つまりは時間軸における因果に干渉するものであり、触れた時点で過去・未来・現在のどこであろうと消失を余儀なくされる危険なんて言葉が優しく感じるほどの魔法。それを受けたギンが無事であるはずがない。
心配が積もりに積もって視界を動かしてギンを見つける。
そこには予想通り片側の手足を消失し、まともにバランスも取れず、ギンですら腕の力で上半身だけを持ち上げることが限界な痛ましい姿があった。
「……っ!」
「そんな顔するな。恐ろしいほど痛みを感じておらん。どうやら痛覚とかの意識さえも削り取る類の術のようだから安心せえ」
なんて言ってくれるが、左半身の腕と足がないというのは、ギンにとってほとんど死んだも同然だ。
ギンの抜刀術は心身一体の絶技だ。特に片足がなくなってしまっては踏み込みができなくなってしまうというのに。
「しんみりとした顔するのぉ。現代には義手、義足といったものがあるのだろう? それでなんとかしてみせるさ」
「さあ、これにてチェックメイトですわね。こちらには貴方の弱点となる炎に類似したフレイムさんもいますし、抵抗は無駄ですわよ」
「抵抗なんかできるか。オレもヨグ=ソトースと同じように消えるさ」
居た堪れない雰囲気をあえて読まずに、ソヤは本題であるニャルラトホテプに詰めていく。
突きつけられたチェーンソーにニャルラトホテプは対抗する手段を持っておらず、大人しくソヤのチェーンソーに切られようと腕を差し出そうとし——。
「ただ潔くはいかないがな」
その大人しくするという安心感からくる僅かな隙をニャルラトホテプは見逃さなかった。腕を差し出しても、膝をついていたわけではないのだ。
既に走り出す初期動作を終えていたニャルラトホテプはソヤを軽やかに躱し、死に体に鞭を打って一気にこちらに向かってきた。
詰めるスピードは速くはあるけれど万全の状態なら大したことはない。そう、万全の状態なら。
先ほどのヨグ=ソトースとの戦闘で皆が疲労困憊な状況だ。それは手負いとなっているギンと麒麟も例外じゃない。
虚を突かれたこともあって対処しようにも反応が追い付かずに全員が一手遅れてしまう。そしてニャルラトホテプが向かってきた先は俺だった。
「なっ……!? 放せよっ、お前!!」
掴む直前に肥大化させた手で頭を鷲掴みされる。振り払おうにも粘着性があって離れてくれない。切り離そうにも、今の俺の手には流星丸がないからできない。
キリキリと万力が少しずつ締まるようにニャルラトホテプの指が俺の頭部に侵入し、やがて脳味噌に近づいて搔き乱そうと蠢いてくる。
「本当は『オレがお前になって支配する』予定だったが……こうなったら逆でもいい」
「逆……っ!?」
「『お前がオレになって支配する』という話さ。オレの情報、オレの能力。全部託してやるよ」
「そうはさせませんわっ!」
即座にソヤは追い付き、躊躇うことなく俺の頭部を掴むニャルラトホテプの腕を切断する。だが結果は思っていたものとは違うものだった。
「あっ……がっ……!? 離れない……っ!?」
「無駄さぁ! もう既にダウンロードは終わってる! なにせサモントンでの出来事がその工程だったんだからな! あとはインストールするだけでいい!」
だが切断してもニャルラトホテプの手が離れることはない。まるでゾンビ映画のように悍ましく足掻き続ける。
それどころか力をさらに増して、徐々に俺の脳味噌を侵す範囲を増やしていく。
「レン、お前にすべてを任せるよ。そして後悔し、嘆き、歓喜しろ。『この世界が続いてる』ことの奇跡と真実と意味を」
残されたニャルラトホテプの手に当たる部分が、俺の脳幹を貫いて脳味噌をミキサーのようにかき混ぜてくる。
平衡感覚を失い、次第に五感が狂っていく。外部から得られる情報が少しずつ削られていき、必然的にニャルラトホテプから送られてる情報だけに否が応でも集中してしまう。
「あ……ああっ……!?」
ニャルラトホテプが内包する情報がすべて流れ込んでくる——。
人間が理解してはいけない数多の冒涜——。
現代科学を超越した超常的な技術と魔法——。
この世界に眠る嘘と真実の境目——。
賢者が理解してしまえば、世界のすべてが馬鹿らしくなるような情報の数々がここにはある。俺みたいな到底理解できない馬鹿でもそう感じるほどに、ニャルラトホテプの情報は神秘と冒涜と真実と嘘と現実と夢と——とにかく『混沌』という表現しかできない数多が揃っていた。
そこにはこいつによって騙され、成り代わられた人々の声も落ちていた。
いや、落ちていたという情報は正確ではない。醜く溶け切っていて泥の湖というほうが正しい。底なし沼の負の感情が湖には煮詰まっている。
だが本質はそこじゃない。こんなのは入り口に過ぎない。ニャルラトホテプの情報にはまだまだ底がある。この程度は呑み込めないと、真実への断片さえ見えやしない。
溺れる——。溺れ続ける——。
喉に絡む泥を吐き出し、肌に纏わりつく恨みを掻きむしり、心に刻もうとする記憶を追い出して溺れ続ける。
やがて目指すべき底が見えてきた。深淵よりも深いところ——。
世界や宇宙という概念の底の底——『奈落の底』ともいうべき場所には、一つの『種』が植えられる光景が見えた。
「——これは『桜』?」
分からない。なぜ季節外れの『桜』がこの深淵の底にあるのか。何を意味しているのかも分からないまま、その概念的な『桜』は枝分かれを繰り返し、やがては芽吹いて——。
そして『止まった』——。『枯れる』のではなく『止まった』のだ——。
散ることもなく、次なる春を迎えようとする準備もしない。あまりににもその『桜』は異質な存在だった。
いったいこれは何なんだ? 散る花弁の代わりに積もるのは疑問ばかり。
理解不能なほど気持ち悪いものはない。それが普通なら理解できるはずの物を形としてなっているなら尚更だ。手をスコップ代わりにして桜の根元を掘り返す。
当然『根っこ』があった。『桜』の木なのだから根っこがあるのは当然のはずだ。
だけど俺は恐怖を感じた。こんなところに根っこがあるはずがない。何せここは奈落の底。生命どころか概念さえ繁栄するのは難しい虚無空間なのだから。
じゃあこの『根っこ』は『何なのだ』——。
実際に触れてみると、その感触は樹木特有の肌触りではなかった。緑と土の入り混じった匂いもしない。ただ『ブヨブヨとした艶かしい感覚』が手に伝わってくる。
これは根っこに扮した『生物の身体』だ。なら問題は生物の『正体』だ。『桜』に扮してるのか、それとも『桜』の根に寄生するように存在するこいつの正体が気になってしまうのが性というものだ。
恐る恐る掘り返していく。我ながらなんでここまで恐怖を感じながらも探究することを止めることができないのか。これが狂気に魅入られるということなのだろうか。
やがて掘り返し続ける手の先が別の感触が当たった。それは『鼓動』だ。確かな生命の——いや、ここでは『情報』の痕跡がある。
こんなところにあるこいつは何なんだ——。
疑問が押し寄せてくる。疑問を疑問と思うことさえ愚かしくなるほどに掘り進めていく。
そして見えた。観測してしまった。『そいつ』を。
形容不可能なシルエット。不定形の影が常に揺れ動いて形を変え、声なのかどうか判断がつかない忌まわしく呪われた楽器のような音が響いてくる。
全貌は測れない。こいつに大きさはない。重さもない。存在もしていない。だけど存在だけは証明している。他ならぬ俺が観測したのだから。
なんだ——。なんなんだ、こいつは——。
まず人間じゃない。かといって怪物でもない。生命なのかも怪しい。
というか、そもそもこいつは——『生きている』のか——?
『あらあら。見てしまいましたか』
『あらあら。見てしまったね』
突如として掛けられる二つの冷たい声。それは氷柱が心臓を貫かれたような恐怖があった。
振り返るのが怖い。だが振り返らないのはもっと怖い。この正体不明の声の主が何者なのか。それを知らないことの方が怖いんだ。
緊張のあまりに筋肉が全部萎縮して足を翻すことでしか振り向くことができない。
緊張と共に生唾を呑みこみながら振り返ると、そこには二人の女性がいた。
二人とも背格好はほとんど一緒だ。髪の色もコバルトブルーを基調としていて、少しだけ彩度が差がある程度でしかない。
一人は拘束具でも付けてるかのような印象だ。拷問などで見る堅苦して無機質なアイマスク。肌を極力見せない黒を基調としたタイツやブーツなどの服装。表情なんてアイマスクをしてるということを考慮しても希薄で、笑っているのか怒っているのかさえの判断ができないほどに無機質だ。
一人は逆に露出過多なボンテージ姿だ。膝まで届くブーツ履いてるのに肝心の下半身はボンテージがハイレッグカットの構成になっていて、鼠蹊部の重要な部分以外は丸出しの状態だ。そのくせには表情は自信満々に溢れていて恥ずかしさのカケラも見せやしない。まるで女神様だとでも自負するように。
だけど、その二人を俺は知っている。知っているというか、似ている人物を知っている。だって瓜二つなのだ。その二人は。
あの『シンチェン』にとてもよく似ている——。
「君、たち……は……?」
『私は虚無』
『私は無限』
『『主神『アザトース』に仕える生命なり』』
——途端、脳みそが物理的に膨張する感覚が襲ってきた。
それは単純な話だ。今まで耳にしても理解できずにノイズとなって処理された情報が、途端に頭の中に入ってきて脳が追いつかなくなっているんだ。
何で今になって分かった? ニャルラトホテプが俺に入り込んだせいか? だから理解してしまったのか? あの名前を?
スクルドが『■■■■■』と読んでいた『アザトース』を——。
「ああああああああああああああああああああああああああっっ!!!!!!!!」
理解してしまっては最後。脳が沸騰を始めた。
内側から脳味噌の組織が泡を吹き、変遷を余儀なくされる。こいつの情報を知るにはレベルが足りないからだ。知るために強制的な成長と、それに伴う恐竜的進化が促される。
分かる——分かってしまう。今の俺の頭がどうなっているのか。
きっとB級映画で脳改造を受けたマッドサイエンティストみたいに、歪で不恰好に膨れ上がった見た目になっているだろう。
その歪な頭部に適応しようと、眼球も飛び出しかねないほどに爛れ、膨らみ続ける脳みそに酸素を送ろうと、口が常に開きっぱなしで呼吸を高速で行おうとする。
だがその進化は劇的過ぎた。早すぎる情報の促進に、身体の変化が追いつかない。
風船のように醜く膨らむ頭や身体に骨がついて来れずに軋んでいき、やがて骨が内側からの圧力で割れる感覚を覚えた。
——あっ、死んだ。
そう確信できるほどに穏やかにそれを受け入れた。割れた骨の内側から溢れるのは体組織のすべてだ。心臓も脳みそも肺も膨らんで膨らみ続ける。それがずっと続けばどうなるかなんて想像するまでもない。
爆ぜた——。
身体が内側から『爆発』して、臓器という臓器が氾濫を開始し、そこで俺の意識は途絶えた。絶命という形で俺の意識は消えた。
——その瞬間、確かに俺は死んだ。
『あらあら。ここでおしまい』
『けどけど。あなたは繰り返す』
『『さあ、やり直しましょう。あの地獄でもう一度願いましょう』』
『『でも、それで最後。主神アザトートはもう夢を見ない』』
意識が消えかかる直前。二人のシンチェンはそう口にする。
なら願おう。願うしかない。あの地獄で願ったことを。
——仮に……もしも……。
——『神様』が本当に存在していれば……。
——お願いだ……全てを夢に……。
全て、夢であってくれ——。
……
…………
「あっ……がぁああああああ!!」
「レンさんっ! どうしましたかっ!?」
『無形の扉』の一員に『星尘Minus』と『星尘Infinity』の名前を告げられると同時、現実の世界で眠り続けるレンが苦しみと痛みから声を上げてのたうち回る。
突飛な変化と真実の連続にバイジュウですら思考が追いつかない。そもそもこの状況を切り抜けることができるかどうかさえも怪しいというのに。
『おい! 誰かそこにいるかっ!』
「その声はマリル長官!? 聞こえてます!」
『バイジュウか! レンのバイタリティに異常を検知したから、職務を放り出して声をかけたがどうなっている!?』
「こちらでは何も……! 突然苦しみ始めて……!」
当然ありのままの事実をバイジュウは伝えるしかない。ドリームランドでの出来事なんて今のバイジュウ達に知る由がないのだから。
『ちょいちょいちょい!! マリル、まずいって! レンちゃんの脳波に異常を検知! ハッキリ言えば『ドール』に変質しようと孵化し始めてる!』
続け様に急ぎ足で愛衣の余裕を感じぬ声が届いてきた。その内容にマリルはスピーカー越しでも分かるほどに絶句し、息を呑むしかなかった。
それはマリルですらどうしようもないということの裏返しだ。愛衣の焦燥からくる落ち着きのなさも聴き取れることから疑いようのないことだ。
どうする——。どうすればいい——。
私には何もできない。レンさんを救うことができない。それにレンがこのままではミルクの魂をベアトリーチェのように再構成して復活させることもできない。
何でもいい。誰でもいい。
誰か——誰か——。誰か助けて——。
そこでバイジュウは己の弱さと愚かしさに気づいた。気づいてしまった。
こういう時には、いつも何もできない自分がいることに気づいてしまったのだ。
そうだ——。私はいつもそうやって無駄に祈ってばかりだ——。
南極の時も、OS事件の時も、今もそうだ——。
危機に瀕した時に何もできやしない。聡明な思考と能力を持っていても、自分一人の力では何も成せない。それどころか戦いの中ですらロクに自分の価値を示せていない。
OS事件での異形との戦いでも皆の力を借りないと打開できなかった。
サモントンの時でもセラエノの『炸裂エーテル』に成す術もなく遊び同然のようにあしらわれた。
そして麒麟の時も一方的に打ち負けた。愚かにも敵地であるはずのに無警戒に毒物を体内に取り込むし、相手の異質物武器に即座に対処できずにギンとレン任せになった。
得意気な顔で知識と能力を披露しても結果としては何も残せていない。そして困れば祈るしかない。なんて無力で滑稽なのだろう。
そんな自分がこれ以上『何を差し出せる』——。いや『何を差し出せば状況を変えられる』——。
レンは内側から溢れる情報で脳死寸前。ミルクは物体に魂が固定化されそうで、人としての魂を保てる時間は少ない。
その上で敵地の只中ときたものだ。あまりにも分が悪い。逃げようにも戦おうにも今のバイジュウには打つ手がない。
だったら持てる武器は、この頼りにならない知識と口だけだ。この程度でバイジュウにできることいったら——。
そうだ——。決まりきっている——。
私の命を——私の存在を捧げるしかないじゃないか。
「身勝手ながらにお願いがあります」
答えを間違えるな。思考を研ぎ澄ませ。捧げるものは決まっている。問題はどう使うかだ。
覚悟を決めたとかいう話ではない。元々20年前の南極事件で死ぬはずだった命と運命。それなのに復活できたのはレンの力と、それまで身体保存をしてくれた組織のおかげだ。
だったら今更——自分の命や尊厳程度なんて保守的になるだけ贅沢すぎたんだ。
でも、それでも我儘を突き通す。自分以外の利益になるためにわがままを貫き通す。
「貴方がたに私の全てを捧げます」
「捧げる? それは『無形の扉』に身を置いて我らの目的に賛同すると?」
「いえ、それ以上です。異質物実験の材料や非検体にもなりますし、望むなら偶像にもなります」
「……それほどまで覚悟を途端に翻して見せるとは」
「ですので条件があります」
そうだ。確かに麒麟はこう言っていた。
こちらを脅威に知らしめた『陰陽五行』の能力は副産物にしか過ぎない。それどころか不良品であると。
肝心なのは『陰陽』の部分だ——。
その『陰陽』が齎そうとした効果は——。
…………
……
「ええ。人体由来の『陰陽』とは即ち『身体と精神』のことです。そして『身体』か『精神』のどちらかを完全に破壊する。これが『陰陽五行』が目指した開発プロセスなんですよ」
「私たちが欲しいのは、あくまでバイジュウ様の特殊な『身体』だけ。その精神性も目を見張るものがありますが、最悪それは適当な輩の『精神』をバイジュウ様の『身体』に入れてから洗脳やら精神操作やらで矯正すればいいだけのこと。俗に言う『憑依』とか『入れ替わり』が一番近い表現ですかね」
……
…………
「私に『ミルクの魂』と、レンさんが抱える『情報』をすべて移植してください」
それはバイジュウの身体を利用した『魂』や『精神』などの情報を異質物の力で憑依させることだ。そのことをバイジュウは記憶の引き出しから掘り起こす。
自分の命、心、情報——。
それら全てが塗り替えられようとも二人を助けたい一心で——。