第1節 ~深海~
今から簡単な質問をします。あなたは海が何色に見えますか——。
青色——そうですか。水色——そうですか。
海色——詩的です。夏色——詩的です。
青春の色——そろそろ本題に移ります。
本来、海は色とカテゴリされるものではない。そもそも根本的な問題として『色』というもの自体が、概念上『色』と捉えていい存在ではない。
なぜならこの世界には『光』がなければ、あらゆる物を観測できない非常に不出来なものだ。そして『光』があるだけでは『色』は証明できない。観測者の認識を持って初めて『色』は成立する。
もう一度質問をします。あなたは海が何色に見えますか——。
あなたは青色。あなたは水色。
お前は海色。お前は夏色。
青春の色はボッシュート。
同じ物を見ているのに何故答えが変わるのか。それは物理的刺激が同じであろうとも、質的経験の差異によるものが大きい。これをとある思考実験として行われており、実験内容は『逆転クオリア』と呼ばれる。
質的経験とは何なのか。簡単なものだ。
あなたは赤をイメージする時、何が出てきましたか。
あなたは緑をイメージする時、何が出てきましたか。
あなたは青をイメージする時、何が出てきましたか。
赤をイメージしたら炎。緑をイメージしたら森。青をイメージしたら海。と今回はわかりやすく表現させよう。逆もまた然り。
……これは最初の問いの一つの模範であろう。この観点が『逆転クオリア』の一つの例題となる。
だが中にはすべてを『リンゴ』を答える人間は必ず存在するだろう。リンゴは赤いし、『青リンゴ』に至っては緑色に熟れている。
だが同時にここで疑問を覚える。
どうして『青リンゴ』なのに、『緑色』と定義できるのか。歴史的観点から見ればもちろん理由はあるが、問いたいのは哲学的観点によるものだ。
そもそも『色』とは『光』によって認識される。ならば『色』=『光』と言われれば、そうとは言えない。夕陽は赤いし、朝日は白いだろう。だがそれは人間自身が『光』自体を質的経験から、『光』を『色』として変換してるに過ぎないからだ。『光』自体に『色』はない。
だとしたら、根本的な『色』とは。
『光』はあくまで色を観測するために必要な前提でしかない。
『観測者』は質的経験から『光』によって観測される色を判断してるに過ぎない。
必ず『光』を介さない『色』がどこかに存在するのだ。その『記憶』や『記録』が観測者に宿っているからこそ、『観測者』は初めて『質的経験』から『光』を通して色を定められる。
改めて問います。あなたは海が何色に見えますか——?
————。そうですか。
————。そうですか。
————。そうですか。
ようやく本題に移れます。
あぁ、安心してください。これで最後ですよ。
あなたに問います。『光』も届かぬ『海』の底の底。その名は『深海』
光が届かぬ以上、観測はできない。
観測ができない以上、観測者は存在しない。
観測者が存在しない以上、色は定められない。
定められないなら、深海とは『何色』なのか——。
………………。
………………。
ごめんなさい。
最後に『私』の話に付き合ってください。
今から難しい質問をします。銀河とは何色ですか?
答えなくて大丈夫です。先ほどの問いの反証みたいなものですので。
ですから、すぐに本題に入ります。
あなたに問います。『光』がたどり着く『銀河』の果ての果て。その名は『宇宙』
光が届く以上、観測はできる。
観測ができる以上、観測者は存在する。
観測者が存在する以上、色は定められる。
定められるのなら、宇宙とは『何色』なのか——。