「なるほどのぉ……」
『分かってくれたようで何よりです……』
翌日。男は一晩語り合い、霧吟という女性に対して理解を深めた。
神楽一族と暗殺一族の争いを無くすために、暗殺一族が祀る妖刀に眠る『魂』であったという男自身と、神楽一族が祀る社を拠所とする『アメノウズメ』の両方を宿すことになったことを。
そして霧吟が完成された『降霊術』に適した肉体であるということ。その降霊術によって、男の『魂』は現在霧吟という女性の肉体へと入り、共に過ごすことになったことを。
「しかし、だとしたら儂がお主の身体を操っておる? この身体はお前の物であろう」
『そうなのですが、予想以上に貴方の『魂』が深いところにあったので疲労が溜まってしまいまして……今はこうして『魂』で会話するだけで精一杯なのです』
「……だからといって、普通は知りもしない男に自分の厠の世話さえさせるか?」
そして現在、男は少女の身体のまま厠……現代であればトイレに籠ってアレを垂れ流すというかなり酷い構図で話し合っていた。二人からすれば普通に会話をしているだけだが、客観的に見れば独り言であることも酷さが増す。挙句には中腰のまま足を広げていたりと、可愛らしい見た目が急転直下する勢いで台無しする色気の無さだった。
しかし男からすれば大真面目。今日も今日とて霧吟のために済ませた食事の排泄を慣れない手つきで行うのであった。
『まあ、その……あの……私、もう枯れた歳なので……。今更殿方が選り好みできる女ではないので……』
「枯れた? そんな麗しい見た目をしておるのに? お主、今いくつじゃ?」
『16ですね。いとおかしな16歳です』
「………………確かにな」
現代とは違い、医療が発達していない江戸時代においては三十代半ばで死亡することも多い時代、子孫繁栄のために婚約の適正年齢は現代よりも遥かに下回っているのだ。
それでも平均としては18歳前後ではあるのだが、それは一般的な身分であればの話。上流階級ともなれば、許婚ということもあり子作りなどは置いとくとして大体10歳、遅くとも15歳で婚約するのも不思議ではないのだ。
そして悲しきことに、霧吟がいる神楽一族は上流階級の身分であるのだ。
「……まあ、悲観することはなかろう。儂も独り身ゆえな。この話はさっさと流すとするか」
『厠だけにですか』
「……そういう花がない発言が生き遅れの要因の一つとは言っておこう」
『そんなぁ!?』と分かりやすく傷つく霧吟の声を聞くと、男は自然と笑ってしまう。何ともまあ可愛げがある子だろうかと。
親さえ捨て、子供さえ持たなかった老人としては目に入れるだけで痛くて眩い存在だと痛感してしまう。
『…………ところで貴方の名前を教えてくれませんか? いつまでも貴方では失礼ですし』
何度も言うが、厠で中腰で話しているのである。
「生憎と名前も忘れるほどあそこにいての。名乗るべき名がない」
『じゃあ、私から名前を授けます! 私達は一心同体なのですから、貴方のことは今後『ギン』と呼びましょう!』
何度も何度も言うが、厠で側からみれば独り言で話しているのである。
「おい、待て。勝手に付けるな」
『では『ギン爺』とかどうですか?』
「違う、そうじゃない。……が、それでもよかろう」
抗議するだけ無駄そうだし、と男……改めギンは霧吟の身体を拭きながら厠からようやく出るのであった。
『今日から私とギンは家族です! 気軽に姉上とでも、母上とでも呼んでいいですよ!!』
「……儂、今はこうでも老人じゃからな?」
そういう天然で図々しいという、およそ当時の女性として品が無さすぎる性格が婚期を逃したのではないかと思うギンなのであった。
…………
……
さらに日は過ぎていく。ギンが霧吟の身体で過ごすのも慣れ始めた頃、ようやく霧吟自体の回復が済んで今では交代で入れ替わりながら毎日を過ごす。
「……なぜ儂の手で衣装を変えねばならんのか」
『ねむいのですぅ……。まだねさせてくださぁい……』
「起きろ。袴の構造が一癖あるせいで儂には綺麗に結べんのじゃ」
「霧吟、いつまで準備に手間を取っておる。神楽巫女としての責任を知らぬとは言わせんぞ」
「母上っ! 今は爺が動かしてる故、慈悲を恵んでくだされ!」
それは色々と互いに苦労しつつも楽しい日々であった。ギンにとっては生前切り捨てた全てが手に届く中にあり、今度こそは大事にしようと慣れない女の子の生活でも頑張って一から生き直しているのだ。
「剣聖様、稽古の方をお願いします!」
「うむ、日々精進するのは良きことよな。……しかし、どうして儂がこのような扱いを受けるのだ?」
『あの刀、昔色々な妖怪を屠った名刀らしく、そこから鍛治師や大名と渡って曰く付きでして。刃こぼれしないとかで重宝されていたんです』
「……確かに妖怪は斬ってはいたが……」
『まあ、今は私が壊してしまったのですが』
「古い刀だ、気にはせんよ。それはそれとして……」
「剣聖様、大名より召集が掛けられました。お急ぎを」
「……それでも、こんな扱いを受けるか?」
生前の退屈でつまらない物と比べたら、今の生活は極彩色に染まった目紛しさだ。何をするにしても気苦労というものが出てくる。
そんな感覚も、ギンにとっては真新しくて仕方がない。次はあるとすればと色々と考えていたが、まさかこんな形で叶うとは露にも思っていなかったほどに。
「きゅーけーでーす! 疲れましたねぇ〜」
『気持ちは分かるが泥だらけじゃぞ。近くに綺麗な川があるし、一度清めてこい』
「気が乗らないのでお願いしま〜す」
『水浴びくらいは自分でしろ! 何故儂がしなければならんのじゃ!』
神楽一族としての仕事を熟す時には霧吟が、暗殺一族としての仕事を熟す時にはギンが、と二人は互いに支えながら過ごす様は、事情を知る人から見れば仲睦まじい家族にしか見えないほどに二人の関係は良好であった。
『いやぁ……。祀られるだけでは暇ではあるが……こうも有能だと暇でしょうがない』
「すまんのぉ、アメノウズメよ。酒くらいは恵んでやる」
『お前も一応は霧吟ではあるのだから、一族らしく妾を敬え!』
「わはは。…………あげんぞ?」
『…………よこせ』
その『魂』を交換しながら過ごす生活に、神楽一族の主神であるアメノウズメも入っていた。彼女もまた授けられた供物を堪能するために、時たま霧吟の身体を借りては過ごすのである。
「うむ……この舌触り……米から取ったものか。質自体は良いが、深みのなさからしてまだ若い物を使ったか。まあ、これはこれで良いものよ」
『あはは〜〜♪ おはぁけはいいでふっふぅ〜♪』
『……何故飲んでいない霧吟が酔うのだ?』
「妾に聞くな。酒気が身体だけでなく魂にも及ぶと考えておこう」
それが三人にとっての日常。神楽の仕事は豊作を願うために太陽や雨乞い、果てには村の厄災や子宝を願って舞踊を捧げ、暗殺の仕事は都における大名に仇なす存在を陰から始末する執行官であった。時には地域の長として祭り事も行い、村の活性化にも力を入れた。
両方の一族を取り持つために生まれた『霧守一族』の長として霧吟は日夜誰よりも頑張り続けた。
頑張って、頑張って、頑張り続けて……誰から見ても誇れる実績を残しながらも、それでもなお頑張り続けて…………。
『——なに? これから儂に頼みごとがあると?』
「ええ……。身体的な疲労は仕方ありませんが、精神的な疲労なら代わりながら休めば熟せる事がわかりましたし。今後は一族としてではなく……私個人のお仕事も手伝っていただきたいのです」
そして自分だけが成せる使命さえも霧吟が全うしようと奮闘しているのを、この時ギンは初めて知った。生者が眠る丑三つ時、霧吟は休みきれていないか弱い身体に鞭を打って外に出たのだ。
しかし霧吟のいう個人の仕事とは何なのか。飢えや金銭に困るような身分ではない以上は遊女ではない。かといって治安の維持という意味でならギンが暗殺一族の仕事として不備なく行なっている。今更この時間帯に賊が出るようなことはないというのに。
などと霧吟の中で思考に耽るギンであったが、その答えをすぐに知った。ホタルの光だけが照らす砂利道。視界の片隅では、黒い瘴気を纏って呻き続ける何かがあったのだ。
『……亡者か』
生者が眠る中、目覚めるとすればそれは死者しかいない。
後悔と懺悔に満ちた怨嗟を吐き出し、怨恨は月夜に向かって叫び続ける。劈くほど叫び続けても、その声は生者に届くことはないというのに。
「ええ。いわゆる地縛霊というものです」
『……なんて言っているか分かるのか?』
「分かります……。分かるからこそ、私は果たさないといけません」
霧吟は迷う素振りもなければ、警戒する雰囲気もなく無防備に黒い瘴気へと歩みよる。ギンから見れば得体もしれない瘴気だというのに、霧吟は迷子を見つけた大人の様な仕草で優しく話しかけた。
「こんばんは。何をしているんですか?」
《——■■■■■■■!?》
「はい……はい……。そうですか……」
《——■■■■■。■■■■■■■■■■?》
「もちろん、分かっていますよ。奥様にお伝えできなかった遺言を残したいんですよね」
《——■■■■■■■■■■■■■■■……》
「……では伝えましょう。新しい殿方を作って、自分のことを忘れて欲しいと。…………ですから、安心して私の中で眠ってください」
霧吟は怨恨を優しく抱擁すると、まるで涙を流すように瘴気は崩れ落ちて消えた。それは何とも呆気ない物であり余韻なんて物はない。ただ『そこ』にあった物を確かに受け止めて、次へと足を運び凛とした少女がいるだけだ。
「今度は……あちらですね」
『……お前は死者の魂さえも救おうというのか? いったい何のために?』
当然のように突き進む霧吟の姿を見て、ギンは聞くしかなかった。その行いに何の意味があるのかを。
「……じゃあ教えます。とは言っても、始まりはしょうもないですよ」
霧吟は自嘲した笑みを浮かべて「私の体質はそこまで便利じゃないんです」と語りだす。
「類稀で適性が高い……。ありとあらゆる『魂』を宿して、それらが持つ力を完全に引き出す。私を通せば死者は生者となるほどに……」
『……そうだな』
霧吟の言葉にギンは頷く。自分がそのおかげで闇の中から救い出され、今では現世に留まっているのだから。
何を言いたいのか薄々とギンは察するも自分が促した手前、止める理由もなく「だけど」と霧吟の話を聞き続ける。
「……この力は、私は本当は嫌いなんです。だって……だって……!!」
今にも泣き出しそうだが、精一杯押しとどめながら霧吟は胸に抱く思いを吐き出した。
「いつでも聞こえてくる……っ!! どんなに耳を塞いでも、どんなに心を閉ざしても、どんなに意識を無くそうと…………否応なく私の『魂』に響いてくる……っ!!」
吐き出した言葉に、ギンは何も言うことができなかった。
「病で倒れた人の痛みが! 盗賊に襲われて死んだ人の怒りが!! 産まれてくるはずだった子の寂しさがっ!! 世界に見捨てられた無辜なる人々の声が……私の『魂』を蝕んでいくんです……!!」
……どれもギンには理解することは難しかった。
病で死んだことはなかった。盗賊に襲われても返り討ちにできた。生き方はどうあれギンは生まれた末に自らの首を絶った。世界に見捨てれたのではなく、世界を見捨てた側の人間。それはどれもギンの体験がなく、想像はできても真の意味で理解することは到底できない。
それが無理矢理……本人が口にしていた通り否応なく理解させられるとしたら、それはどのような気持ちになるのか。ギンには想像を絶するものだと考えてしまう。
「寝ても覚めても悪夢を見る様な日々の繰り返し……。母も父も理解してはくれずに孤独だった……。生きた心地がしない毎日だった……だけど死ぬことも怖い半端者だった……」
……普通に生きてさえいれば、そもそもとして『生きる』か『死ぬ』かどうかすら死の直前になるまで考えるはずがないのに。それを産まれてからずっと考えてしまっていたのだろう。まだ16である少女が毎日毎日、いついかなる時も。
それこそ死ぬよりも辛い日々だったに違いない。何せ死んだ者達が『死』を嘆き『生』を訴え続けるのだ。例え霧吟自身に向けられた言葉ではなくとも、それは子供からすれば耐え難い苦痛だったであろうに。
『なぜ……儂には教えてくれたのだ?』
だからギンは問う。何故それを自分に言うのかを。理解されて欲しいのなら神様や、それこそ一族が祀りあげているアメノウズメにでも吐き出せばいいのに。
「貴方も同じだったからです。『魂』に触れた時、貴方のこれまでが流れ込んできました……。貴方も誰も理解されずに生涯を終えたのでしょう?」
『……違うな。理解してくれようとしたのに拒んだだけよ。老いぼれの愚直な我儘でな』
「一緒です。自分のせいか、周囲のせいか……。そんなことは些細です。理解されないのは、繋がりを断たれるもの……。そこに原因なんてなくて『そういうものである』と定められた悲しい存在なのです……」
どうしてそんな達観したことが言えるのだろうか。まだ16歳の少女に過ぎないというのに。何が彼女をここまで悟らせてしまったのか。
「そして……理解されないのは『私』や『ギン』だけじゃなかった。……むしろ生きとし生ける者の大半がそうだった。そして……それは『死者』も同じなんです」
『……そうか』
「私にはそれが苦しくて仕方なかった。こんな思いがあるなんて知りたくなかった。でも目を背けることももっとできなかった。だって、それは私が最も嫌うことだったから」
『…………そう、か』
それは、とても生き辛い生き方だった。人間である身であるはずに、神にも近い体質と性格を持っていることは、これ以上にないくらいに残酷でやり切れない気持ちを抱かせる。無力であれば諦めもつくはずなのに、それさえも許さない並外れた才能を宿してしまった。
——きっと悲しくも残酷なことに、霧吟は人間に滅法向いてない有り方で今の今まで生きてきたのだ。とギンは悟ってしまう。
「……だから私は救うと決めました。理解されず、見放された人達をこの手で……この魂で受け止めようと。生者はまだ運命さえ微笑めば巡り会えます。だけど死者はそうはいかない。怨嗟に蝕まれ、成仏さえもできずに魂は縛られて永劫に一人で嘆き続ける……。そんなの我慢する理由も、できる理由なんてなかったら……救うしかないじゃないですか」
『そこに……お前が救われる余地があるのか?』
純粋にギンは疑問を伝える。何せそれは無償の行いだからだ。
死者から生者に与えられる実益は何もない。逆に奪い続ける。その心を時間を。だからこそ死者は忌み嫌われ、生者は次の人生に任せようと輪廻転生という枠組みに収めて無理矢理解消しようとする。死者とこの世の繋がりを一方的に断ち切りながら、優しげで誇らしげで悲しいだけの表情を浮かべて「これで終わった」という安心を得る。
しかし、霧吟は違う。死者からの言葉を手に止めて背負い続ける。ずっとずっと。死者の数は生者よりも遥かに多い。そして死者とは減ることはなく増え続ける一方だ。その重みは……恐らく世界中の何よりも重すぎるはずなのに彼女は背負うことを選んだ、選んでしまった。
ならば、そこには何かしらの理由があるはず。得るものがあるはずなのに————。
「……? 何言ってるんですか? もう私は救われてますよ」
そんな物はないと暗に言うように、気の抜けた表情で霧吟は言う。
「だって、私とギンは一心同体——。もう理解し合える仲じゃないですか! 言いましたよね、運命さえ微笑めば巡り会えると」
——理解し合える仲。
そんな言葉を純粋に言う霧吟の姿を見て、ギンは居た堪れない思いを抱く。
すまない、儂はお前の吐き出した言葉や思いに何一つ報いることができないと——。
理解しようと聞き続けていたが、どんなに聞いてもギンには霧吟の在り方に対して賛同することも肯定することもできるが、理解することはできなかった。
何を思って、そんな不器用な生き方を選んだのか。
環境のせいか? 家庭の問題か? 時代の影響か?
……どれも違う。根本的に霧吟は優しすぎた。人間が持つには有り余る優しさと聡明さを持っていて、さらには恵まれた才覚を否応なしに宿してしまった。その性質の唯一無二さも少女はわかってしまい、この責務を全うできるのは自分だと確信している。
だけど、その心だけは無垢な少女のままで……だからこその生き方を選ばせてしまった覚悟と決意に、ギンは理解する以前に尊敬の念を抱いてしまうのだ。
「ですから、私が救われるのは時間の問題。今日も世界で独りぼっちになってしまった人に、私がいると手を差し伸ばすんです」
ならば、せめてか弱くも強くあろうとする少女に寄り添うぐらいはしよう。理解はできずとも、ギンと霧吟はもう家族なのだから。どんなことがあろうと、この魂が尽きぬ限り霧吟を守り抜こうと。
……そんなこと、妖である魂には不可能だというのに。