「ソヤッ! 聞こえてる!? 要望通り来てやったわよ!」
戦いが終わりソヤの元にラファエル、ウリエル、ヴィラクスの三人が到着した。三人ともラファエルの治療とは別に応急処置用のキットも揃えて来ており、打撲や骨折などの諸症状を患うソヤを看病するために、迅速に添え木とギプスを施していく。
傷だらけで火傷だらけのソヤに対しては、流石のラファエルも普段の天邪鬼な態度は表に出さずに「他に怪我してるところは?」と聞いては、対応する部位に治療魔法を施すのを繰り返すことから、その焦燥がどれほどの物かをソヤは肌身で理解した。
同時にソヤは「この優しさを普段から前面に出してほしいものですわ」と内心思いながらも、何かを聞きたそうに待つウリエルに聞いた。「何か聞きたいことでも?」と。
「……バイジュウとレンはどこだい? 匂いで分かるんだろう?」
ウリエルの問いは単純ながら最優先の物であった。ソヤは元々レンとバイジュウの二人と一緒に、逃走したアレン達を追跡するために行動していた。
そして呼ばれて来てみれば、目に入ったのは一人で傷だらけで地に這い尽くばって満身創痍なソヤと、頭部を殴打された事で口を開いて白眼で気絶するガブリエルの姿だけがあったのだ。
ウリエルからすれば現状の把握するだけでも一苦労だというのに、そこにレンとバイジュウがいないのだ。ソヤに一つや二つ聞きたいことはあるのは当然だろう。
「知りませんわ……。ご覧の通り私はボロボロでして……。匂いを判断する余裕が………いっ!」
苦しみながらウリエルに報告するソヤの姿を見て、ラファエルは「無茶するんじゃないわよ」と安静を促す。
実際、ソヤの身体は『治癒石』である程度回復したとはいえ、下手をすればそのまま命を落としかねないほど重症だったのだ。ラファエルが心配するのも当然だろう。
「ラファエル姉さん。どれぐらいで治せそう?」
「3分もあれば動ける程度にはなるでしょうね。完治なら相応の時間が掛かるわ」
「3分……長いね。こうしてる間に二人も危機に瀕してる可能性もある……。ここは手分けして探そうか」
「それが賢明ね」とラファエルはウリエルの提案を了承する。片隅で静かに見守っていたヴィラクスも「ウリエル様、どう動きますか?」と指示を仰いだ。
「そうだね……。僕とヴィラクスはこのまま進んで、バイジュウやレンを見つけ次第、状況に応じて対応しよう。それまでに見つからず、ソヤの治療を終えたら最初に僕達の匂いを追って合流……再度二人の捜索にしようか」
ウリエルの言葉にラファエルとヴィラクスは頷いた。
「……ウリエル様? 早く行きましょう」
指示のまま捜索に行こうとヴィラクスは動き出そうとしたが、肝心のウリエルは一向に動こうとせずに倒れ伏せるガブリエルを見下ろす。
再度ヴィラクスがウリエルに「行きましょう」と催促すると、ウリエルは「その前に野暮用」と言って、ソヤの懐から『ある物』を取り出しながらガブリエルへと話し始めた。
「兄さん、裏切ったらダメでしょう? だからこんな目に遭うんだ。事情はよく分からないけど反省してくれよ。はい、プシュー」
気を失い倒れるガブリエルに、ウリエルは悪戯をする様に無邪気な笑みを浮かべながら蔑む。
ソヤから借りたSIDエージェント御用達の武装である『エアロゲルスプレー』でガブリエルを拘束するように吹き付けながら、心の底から見下すように——、しかし同時に讃えるという混沌した二つの感情が表情にしながら再度告げた。
「『裏切ったら』ダメだよねぇ——。『裏切ったら』——」
…………
……
「うっし……。これで拘束完了と……っ!」
アレンとの戦いを終えてすぐに、俺は『エアロゲルスプレー』でアレンの四肢を蛹状に包んで抵抗できないように拘束した。こうしてミノムシ状態にしておけば、目覚めたとしても何にもできずにスマートに事情聴取できる。
「お前には色々話してもらうからな。『天命の矛』や『並行世界』……それに今回の『魔導書』を強奪した目的とか……」
意識を覚ました時にどういう質問から入ろうと考えながらも、壁に背を置いて、先頭で負った傷の痛みを引かせようと深呼吸を繰り返す。
……随分と呆気なく勝った、というのが正直な本音だ。
前回みたいに『天命の矛』を用いた異質物武器を使用してこないし、何よりも『方舟基地』を襲撃した際の超人的な技能を見せてもいない。
やったことと言えば、何処かから持ってきたオーガスタの王笏……『ジーガークランツ』を利用してきたことだけ。しかも、それは逆利用されることで今回のアレンの敗北を招いた。
……違和感を抱いて仕方がない。ここまで簡単に終わるはずがないと。
まあ元々が俺なんだし、ここで終わりだとしても、それはそれで納得できなくもないが……いくら俺でももう少し手の入れようがあったはずだ。
だから、まだ予感がする。ここからまだ何かが続くじゃないんかって。よからぬ事が起きる前兆なんじゃないかって。
その前兆を知っているからこそ、アレンはこうして倒れ伏したのではないかと。
——そのために、ワザと『負けた』ように感じるほどに。
「レンさ〜〜ん!!」
不安を抱いて仕方がない俺に、回廊の奥からヴィラクスの声が聞こえて来た。
彼女がここに来るのは別に不思議じゃない。元々対象を見つけ次第、ラファエル達に連絡を入れて来てもらうように待機してもらってんだから。
となると俺は呼んでないし……バイジュウかソヤのどちらかが呼んだということだろう。同時にそれは、少なくとも片方は重傷かどうかは置いとけば無事ということの裏返しにもなる。
「ここにいるぞ〜〜。『魔導書』は無事回収した〜〜」
アレンを拘束する際に、懐に隠してあった『魔導書』は見つけておいた。残念ながら『剛和星晶』については不明のままだが……きっと、それはガブリエルか、もしくはここにいるであろうセラエノのどちらかが持っているに違いない。
「無事で良かったです……。って、これがアレンさんですか……。『魔導書』で見たレンちゃんの『記憶』と瓜二つですね。兄妹とかですか?」
「兄妹ではないかなぁ」
ほぼ同一人物です。性別と世界線が違うだけの同一人物です。というか『記憶』見たんなら、俺が元々はアレンだって分かるだろうに……。
「ところでヴィラクス。他にも誰かと合流しなかった?」
「ソヤさんの要請で来ましたので、彼女とガブリエルとは会えたのですが……バイジュウさんだけは見当たらない状態でして……」
「……どこかで戦ってる様子もないよなぁ」
耳を澄ましてどこかから戦闘の影響によって響く音がないか探ってみるが、そんな音は一向に聞こえずに風や木々が揺れる環境音しか聞こえないほどに静かだ。
……もう既に戦闘は終えているということか? だとしたらバイジュウは無事だろうか。そこが気掛かりでしょうがない。
ヴィラクスの口振りからしてソヤの相手はガブリエルな以上、バイジュウの相手は未知数の塊であるセラエノに違いないのだ。彼女とバイジュウが戦うとしたら……いったいどうなるかなんて想像することもできない。
「……いや、もしかしたら案外仲良く話してるだけとか?」
どちらもクール染みてるけど、個性的で何かどこか抜けた部分あるし……。馬が合ってる可能性もあるよな……。戦わずに相手を無力化できるなら、それはそれで結構なことだし。
「ヴィラクス〜〜、こっちには誰もいなかったよ〜〜……。って、レンじゃないか。しかも見た感じ……無事に『魔導書』を取り返せた感じ?」
「ああ……。傷だらけで、これ以上動くこともできないよ……」
「じゃあ、今すぐ治療しようか。ヴィラクスは応急手当の準備を。僕はレンから服を……脱がす必要ないか。露出度高いから、このまま治療できるか」
露出度高いとか言わんでください。カッコいいと思ってるけど、改めて肌面積の多さを言われると気恥ずかしくなる。
「それじゃあ治療に邪魔な物を預かるよ。とりあえず、その刀とか砕けた王笏とか……あと『魔導書』もね」
…………
……
「まさか……。あの人が『宇宙人』……。いえ、その……人智では計り知れない存在だったなんて……」
一方その頃、バイジュウはセラエノから衝撃の事実を突きつけられて固まるしかなかった。
自分の知識には一切ない『宇宙人』に値する超常的な存在が『ある人物』であったことを。
そいつはセラエノから伝えられた通りなら、地球上の歴史において幾度か名を扮して介入したことがあったともいう。しかもその『扮した名前』の一部は、歴史や神話に残る名であり、バイジュウはその事実を知ったことで、胸の中でどうしようもないほど重苦しい『根源的な恐怖』が宿ってしまう。
「もし……もしもその話が本当だとしたら……今までの神話や逸話などは……」
「もしもじゃなくて確かな話だぞ。知らないならWikipediaとか見ろ。ビバ、インターネット」
バイジュウの胸中なんていざ知らず。セラエノは呑気に言いながら『時止め』を解除してバイジュウを解放した。
もうバイジュウがセラエノに太刀打ちする手段はない。天井も壁も建物が崩壊しない程度とはいえ、壊しに壊したせいでフロア全体は滅茶苦茶になっている。
一歩、前に足を進めるだけで記憶にない瓦礫が当たり、それに躓いたバイジュウは受身も取れずに倒れてしまう。
「だとしたら……早く伝えないと……っ! 早くっ、伝えないといけないのに……」
バイジュウは先の戦いで『視覚』を失ったせいで、周囲の状況を測ることはできない。『魂を認識する能力』でセラエノの位置は把握できても、瓦礫が重なるフロアの現状は『記憶』の姿とは違って間合いを把握することはできない。
これではどこにも行くことができない——。
暗闇の世界は恐怖と不安を駆り立てる。そんな心中を持って手探りで進もうとするバイジュウに、セラエノは何も言わずに持ち上げて一緒に歩き始めた。
「人という字は、支え合っているのだろう。肩ぐらいは貸してやるぞ」
「……それ最近では否定されてます。どこぞの脱法ドラッグ弁護士みたいに、人という字は自分の二本足で立つから人だと……」
「では地球にはこんな諺がある。『昨日の敵は、今日の友』とな。私自身にはお前に敵対する意識はない。元々は時間稼ぎが目的だしな」
肌は冷たくて、言葉も抑揚がなくて感情が薄いのに、バイジュウにはセラエノの好意が温かく感じた。視覚を失っているせいもあってか、肌身で伝わる冷たささえも一種の温かさだと思えてしまうほどに。
バイジュウは確信した。彼女の『魂』は誰よりも純粋で澄んでおり、基本的に無表情ではあるが、その心には確実に人間よりも人間的な優しさがあった。
『宇宙人』が人間より人間的とは、どんな冗談なのかとバイジュウは考えてしまうが、同時にバイジュウは知っている。人間の負の側面を。それによってバイジュウの父はガス爆発という誰かが意図的に起こした事故で殺害されたのだ。
そんな卑しい一面を知っているバイジュウからすれば、どうしてもセラエノの優しさは、彼女が最も親しい人であるミルクとは別の魅力というか、知的好奇心を刺激して考えてさせてしまう。
——『人間』って何だろう、と。
歩き続ける中、バイジュウはふと過去の出来事を思い出した。それはバイジュウの父が記していたノートの単語についてだ。
——『Ningen』計画I類。
何故それを今更思い出したかはバイジュウには分からない。
しかしバイジュウは追憶する。父親は死に際のメッセージにこうも残していた。
《特殊能力を持っているバイジュウは……必ずあの連中の標的になる》
そこでバイジュウは違和感に気づいた。
あの『連中』——? あの『組織』ではなく——? と。
『連中』ということは、父からしても全貌が掴めていない存在ということ。しかも複数形だ。だというのに『組織』と表記していなかったのは、父からすればその『連中』とは組織ではなく不特定多数だったということか。
だったら、何故不明瞭な表記にした? 父ほどの社会的地位がある人物なら個人名を特定することは不可能ではないはず。その中で最も力を持つ『○○を筆頭に』など人名を挙げてメッセージを残せばよかったのに、何故『連中』という表記なのか。
つまり、父は残した『連中』とはそのどれもが該当しない存在。
…………
……
《お前は観察対象として随分良いな。……その体質は生まれつきか。体温変化が極端に起きていない。となると、どこまでが適応できるのか……》
《お前、海に潜ったことはあるか? どこまでの深度にいった? どんな条件下だった? ……もし可能性があるならば、お前は特定の条件さえ満たせば『宇宙空間』で生存が許される希少な人類ということだ。正真正銘『進化した人類』ということだ。人間はここまで成長していたとはな……観測者として、これほど喜ばしい事はない》
《無理もないか。あいつは『貌がない“故に”千の貌を持つ』存在……人間が口にする『神話』や『属性』に這い寄る事で、その存在を巧妙に擬態……あるいは一体化する奴だからな》
《もしもじゃなくて確かな話だぞ。知らないならWikipediaとか見ろ。ビバ、インターネット》
……
…………
セラエノの言葉の節々から、バイジュウの中で推測が組み立てられた。
もしかしたら『連中』とは『人類』ではなく『宇宙人』——。
それも複数の『宇宙人』が歴史の闇の中にいた——。
『複数』の『宇宙人』が前々から活動していた、ということ——。
バイジュウの中で『根源的恐怖』が根強く芽生える。その感覚は奇しくもレンが『OS事件』で音声データを聞いた際に芽生えた物と似たような物だった。
今までの『歴史』そのものが根底から覆される『恐怖』——。
そして、その『恐怖』は着実にレンの目の前に来ている。それをバイジュウは直感し、一刻も早く伝えなければセラエノと共に足早に歩き続ける。
やがて大きな回廊に出た事をバイジュウは肌身で感じた。『魂を認識する能力』で、バイジュウは周囲にいる人物を知る。
そして見つけた。そこにはレンがいる事を。
同時に戦慄した。既にそこには『アイツ』がいた事を。
改めてバイジュウは認識した。その能力でそこにいる人物の『魂』の有り様を。
それはセラエノとは違い、相互理解不可能な人ならざる『魂』があった。博識なバイジュウでさえ、どう表現すればいいのか分からないほどに。
あえて言うなら、それは『邪神』というような、あるいは『堕落した大天使』というような、人を狂わせる魅力があった。
その『魂』は『心』でもあり、一秒一秒で内包されている感情は様変わりしてバイジュウの認識を混乱させる。
——全てを愛してるからこそ愛などなく。
——全てを憎んでるからこそ憎しみなどなく。
——全てを悲しんでるからこそ悲しみなどなく。
——全てを喜んでいるからこそ喜びなどなく。
——全てを楽しんでいるからこそ楽しみなどなく。
全ての感情がその『魂』に『同時』に内包されていた。『混沌』とした恐怖という恐怖を全て蠢かす存在を認識して、バイジュウは膨れ続ける『根源的恐怖』から逃げるように思わず叫んだ。
「——ダメです、レンさんっ!! その『化物』に……………………ウリエルに『魔導書』を触れさせてはいけませんっ!!」
……
…………
「えっ? その声はバイジュウ…………」
回廊の入り口前、バイジュウの声が聞こえて振り返る。
ウリエルに触れさせてはならない——? 『魔導書』を——?
何を意味して言ってるか分からないし、そんな願いは叶うことはない。だってもう既に——。
「もう遅いんだよねぇ……!!」
ウリエルの手に『魔導書』は触れてしまっている——。
すると、突然『魔導書』から禍々しい光が溢れ出し——。
「うっ……ぁっ……!?」
光は『持ち主』であるヴィラクスを苦しめるように蝕み始めた。光は手先から蝕み始め、血管が浮き出て根が張るように枝分かれしてヴィラクスの体内を侵していく。それに比例してヴィラクスの呻き声も大きくなり、その声を楽しむように更に光はヴィラクスを蝕み、やがて根は彼女の首筋にまで到達し、腫れ切った膿の様に身体を青黒く染める。
「ヴィラクス……?」
心配になって声を掛けて彼女に触れようとすると——。
「——ヴァァァアアアッッッ!!」
彼女は獣としか言いようのない絶叫を上げながら悶え苦しんだ。そんな姿を見て、俺は恐怖以上の『何か』を覚えた。
何か、彼女の意思や本能とは関係なく『何か』がヴィラクスの身体を変質させようと暴走している。『人間』の形をした『何か』へと変質……あるいは『進化』でもするように。
眼がもう『人間』じゃなかった。白眼は流血でもしてるんじゃないかと赤黒く染まり、瞳孔は七色に変色して拡大と縮小を繰り返す。
酸素を求めて開けっ放しの口も、顎が外れたのではないかと思うほどに長く伸ばし、黄色に変色した唾液が床に爛れ落ちると、火が付けられた蝋燭のように容易く溶解を始める。
「——アガガガガガガッッ!!?」
肺や脳に酸素が回ってないのか、大口を開けて舌を剥き出しに、眼球を浮かばせ、さらには首筋を深く掻いて血が噴き出す。頬も急激に年老いたように筋肉が硬くなり、さながらそれは名画にある『叫び』のように表情が崩れていく。
それは理性を持つ少女がしてはならない形相だ。本能だけが剥き出しになり、彼女を侵す『何か』に対応するために、人類は歩んだ数千年の進化の歩みさえも超越するほどに加速的に身体を変質させていく。
だけど、俺はこれを知っている。この変質は知らないが、これが齎す結果を知りに知り尽くしている。
だって、それは今の今まで訓練や日常の合間、断続的に発生する超小規模の『時空位相波動』の中で戦ってきた存在と一緒なんだ。
——『ドール』だ。『魔女』となった者の成れの果て。
——彼女は、ヴィラクスは今まさに『ドール』になろうとしている。
——怖い。怖い。怖くてたまらない。
——目の前にいる女の子が、知り合いが、友達が、少しずつだけど急速に『人間』の形をした『何か』へと変貌することが怖くて怖くて堪らない。
だって、それは『死』よりも恐ろしいことだ。
生きながら変貌されるなんて……生命そのものへの冒涜過ぎる。
「ふふっ……本当は『方舟基地』の実験に便乗して潰す気だったんだけどね……。この際、こうなった方が面白いから強行させてもらうよ」
「ウリエル……? いったい何を……?」
だけど何で君は笑っているんだ。君とヴィラクスは、デックスと『位階十席』で繋がった主従関係ながらも大切に思っている同士だろう。なのに、変貌しつつある彼女を見て、どうして満面の笑みを浮かべることができるんだ。
どうして——そんな馬鹿を見るような侮辱の笑みを浮かべるんだ。
「ウリエルぅ〜〜? 誰それぇ?」
返答は正気を疑う物だった。ウリエルの形をした『誰か』は、他人事のように笑みを更に深くしていく。まるでではなく、確実にこの状況を楽しみながら、底なしの心を満たすためにゲロよりも臭くて汚い言葉を吐き出す。
「僕はねぇ、確かにウリエルではある。だけどウリエルでもない。されど『誰か』でもある」
そう言うと、そいつは顔を手で覆う。そいつは何かをしていたわけではない。俺も一切瞬きもしていなかったし、目も離していない。
だというのに——ソイツが顔を見せた時には、知人がいた。だけどそれは冒涜的な存在として『同時』に存在していたんだ。
バイジュウがいた。ラファエルがいた。正確には顔面の『右半分』がバイジュウであり、残りの『左半分』がラファエルだった。
けれど髪色は二人と違って黒ではなく赤色だった。そしてその色合いは俺は誰よりも知っている。この濃い赤色はマリルの髪色なのだ。
「私はバイジュウであり、ラファエルであり、マリルでもある。俺はスクルドであり、アニーであり、エミリオでもある。我は私であり俺であり……同時に誰でもない」
言葉を発するたびにそいつの顔と身体は変貌していく。ある時はイルカとスクルドだったり、エミリオとアニーだったり、ファビオラとヴィラだったり、ベアトリーチェとハインリッヒだったりと組み合わせは無数に、そして無造作に繋げていく。
まるで模した人物を全て馬鹿にするように——。
そいつは俺の学校にいる知人から、どこかで見た芸能人、あるいは歴史の教科書にいる偉人へと化けていく。
「じゃあ……お前は一体……!?」
「そうだねぇ、色々とあるんだよ。人は我を『暗黒のファラオ』『闇をさまようもの』『赤の女王』……あるいは『セト』や『トート』と幅広く呼んでいたが…………あえて名乗るとするなら……」
恐怖が世界諸共俺を縛りつけて離さない。指先一つ動かすこともできず、心は恐怖に染まり切って凍りつく。
怖い、怖い、怖い——。
怖い、怖い、怖い——。
生きるとか死ぬとかそういうもんじゃない。
もっと根本的な……計り知れない『恐怖』としか形容できない『何か』が俺にも蝕んできていたのだ。
「我が名は『ニャルラトホテプ』——。君が喧嘩を売った『ヨグ=ソトース』の同胞さ」