水に飛び込んだ狩人さんは、全身がびしょびしょに濡れる感覚と、高いところから落ちる時にありがちな浮遊感を味わっていました。
彼は水の中に入ったあとも落ち続けたのです。普通湖に向かって飛び降りたら、いつか落下の勢いが消えて、ゆっくりと体が沈むはずですが、そうはなりませんでした。狩人さんの泳ぎが得意で、上手く浮かんできたわけでもありません。不自然に白く光る水の膜を抜けると、その先には空があったのです。
湖に飛び込んだはずの狩人さんは、白い空から落ちていました。夜空の黒色も、輝く月もない空です。一面が雲で覆われたようなどんよりとした白色の空から、狩人さんはどこかへと降っていました。
そして間もなくして彼は着地します。ばしゃっ、という音を立てて、薄く水の張った地面に落ちてきました。結構な高さから落ちてきたように感じましたが、怪我は一つもしていません。
「……もう無茶苦茶だな」
白い空がどこまでも続いています。水の張った地面がどこまでも続いています。他には何もありません。何もない空間が、無限に続いているように見えます。それが、湖に飛び込んだ先にあった世界でした。
異空間……そう呼ぶしかないように思えます。ランタンは無く、出口のような物がどこかにあるとは考えられません。ただ白い空と水面がどこまでも続いているのです。
……けれど、何も無いかと思われたその空間に、一つだけ特別な物がありました。遠くに岩のような物が見えるのです。……そしてよく見るとその岩は、動いているようにも見えるのです。
岩のような物に近付いた狩人さんは、それが何なのかを理解しました。いつものように理解したのです。
「白痴の蜘蛛、ロマ。……これが?」
それはどう考えても、秘密を隠しているという蜘蛛でした。車両のように巨大な、倒すべき敵でした。
けれどその蜘蛛は、蜘蛛らしい見た目をしていません。ゴツゴツとした黒い体は、しかしずんぐりと太っていて芋虫のような形をしています。そしてその体の下に小さな足がいくつも付いていて、背中には白くふさふさとした花のような物が毛のように咲いています。どこを見ても気持ち悪いことには変わりありませんが、蜘蛛というよりは芋虫やダンゴムシなどに近いような気がします。
そしてそんなロマの頭は、白く、石のように硬そうな物になっていました。その文字通りの石頭の中に、蜘蛛らしく……または瞳の苗床と同じように、無数の目玉が散らばっています。ロマの目には黒目しかありませんでした。
「気持ち悪ぅ……」
ロマの姿は、足や目などが無数にあるだとか、それでいて巨大だとか、狩人さんのメンタルを削るポイントには事欠きません。しかしそんな狩人さんにとって嬉しいポイントが一つだけありました。
狩人さんが近付いてもロマはとてもおとなしく、常にほとんど動かないことです。その余りのおとなしさは、まるで狩人さんの接近に気が付いていないかのようでした。
「白痴の蜘蛛か……」
白痴とは、とても頭が悪いという意味です。つまり白痴の蜘蛛ロマとは、お馬鹿な蜘蛛ロマという意味になります。……そうすると、秘密を隠している蜘蛛を狩りに来た狩人さんが近付いて来ているのに、狩られるはずのロマがおとなしい理由として考えられるのは……、
「こいつ、俺が敵だと気付いてないのか……?」
そうとしか考えられませんでした。……だとすれば遠慮なく狩らせてもらうだけです。どうせこの異空間からは、そうすることでしか(それか狩人さんが死ぬことでしか)脱出することが出来なさそうですから。
いかにも硬そうな石頭を避けて、ロマの芋虫のような胴体に回り込んだ狩人さんは、いつもはカウンターを決めた相手に叩き込むような、渾身の一撃を振り抜きました。
声こそ上げないものの、ロマが体を捻って痛がります。……しかしそれだけでした。一撃では倒せなかったようです。
ならば何度でも攻撃してやる。狩人さんが二撃目を繰り出そうとした時、……嫌な音が聞こえました。
ぱしゃ、ばしゃ、ぱしゃっばしゃっばしゃ……。水の張った地面に、大量の何かが落下してきた音です。おそるおそる振り返るとそこには……。
……大量の蜘蛛が狩人さんを取り囲んでいました。
「うおわああああ」
驚いたままの勢いで蜘蛛の間を縫って、狩人さんはその場から離れます。
落ちてきた蜘蛛は、普通の物に比べればあまりにも巨大です。しかし人が乗れてしまいそうなサイズのロマに比べればそれらは小さな物でした。せいぜい大型犬くらいのものでしょうか。
突然現れたその蜘蛛たちは、ロマと同じ白い石頭を持っています。体の質感や色もロマに似ていますが……太っていなければ花も咲いていませんし、何より足が普通の蜘蛛のような形をしています。ただ単純に大きな石頭の蜘蛛たち……それはロマの子蜘蛛と呼ぶのがふさわしいように思えました。
子蜘蛛は親(?)を守ろうとしているのでしょうか? 鋭くとがった八本の脚で狩人さんに襲いかかってきます。当たったとしても一撃や二撃で致命傷となることはないでしょうけれど、無視できないダメージを確実に蓄積されてしまいそうです。
「(そうか、親が無防備な分、こいつらが戦うのか)」
それなりに俊敏な蜘蛛から逃げ回りつつ、狩人さんはぼんやりとそんなことを考えていました。ビルゲンワースに来てからおぞましい生物を目にしすぎて、そろそろ大きな蜘蛛程度になら慣れてきたのかもしれません。
今いる異空間は広く、子蜘蛛たちの足は狩人さんに比べればずっと遅いので、逃げるだけならいつまでも続けられそうです。だんだんと蜘蛛の見た目に慣れてきた狩人さんは、また人形さんのことを考えていました。
もしも家の中に小さな蜘蛛が現れて、人形さんがそれを「殺すのはかわいそう」と言って見逃したとしたら。今蜘蛛に慣れておけばその時も自分は、男らしく余裕な一面を見せることが出来るぞ……と。数々の激闘を経験してきた狩人さんにとって、子蜘蛛たちは妄想しながらでも倒せるような取るに足らない相手に感じられました。
試しに子蜘蛛の一体に攻撃してみます。石頭の部分は避けて胴体へ刃を当てると、それはあっさりと一撃で煙のようになり消えていきました。死んだあとは消え去ってくれることも、狩人さんにとっては良心的なことです。
「よーし!」
子蜘蛛を全て狩ってから、ゆっくりロマにとどめをさそう。そう意気込んだ狩人さんは、囲まれないようにだけ気をつけて、さくさくと子蜘蛛たちを撃破していきました。
そして再びロマと二人きりになってから、また最大の力を込めて胴体部分に刃を振り下ろしたのです。
「えっ」
まともに攻撃を受けたロマは、しかし今度は痛がりませんでした。かわりに顔とお尻がくっつくほど体をねじって、それから、透明になって消えてしまったのです。
……どう考えても、今のがとどめになったとは思えません。まさか消えるとは思っていなかった狩人さんはあわてて周囲を見回します。
すると遠くに岩のような物が見えました。
「なるほどね」
いくらお馬鹿な蜘蛛でも、殺されそうになれば逃げるわけです。そしてロマはあくまでも「馬鹿」なのであって、「弱い」わけではないようです。何せ瞬間移動をすることが出来るような、未知の力を持っているのですから。
無駄な体力を使わないように、狩人さんはゆっくりと歩いてロマの方へ向かっていきます。どうせまた、いくら近付いても逃げようとしないのだろう、と。
しかしある時、狩人さんの顔から余裕は全て失われました。ロマのまわりを取り囲むように、見覚えのある物たちが降ってきたからです。
「またかよ……」
子蜘蛛集団との第二ラウンドに向かう狩人さんの足取りは重いものでした。
とはいえ、負ける要素はないでしょう。同じことを繰り返すだけです。囲まれないように気をつけて、石頭のある正面に立つことも避けて、一匹ずつじっくりと倒していくだけですから。
子蜘蛛たちが狩人さんの接近に気が付き、わらわらと襲いかかってきたのを見て、また狩人さんは一匹ずつ倒すチャンスをうかがうべく走って逃げました。ロマの周りをぐるぐると回るように走っていれば、ロマが壁の役割を果たして蜘蛛たちをばらけさせることが出来るのです。
「ん?」
しかしそうやって走り回っていたある時、ロマが空を見上げたことに狩人さんは気が付きました。どうして急にそんなことを……? 不思議に思った狩人さんがロマと一緒に上を見ると……。
青く光る隕石が、狩人さんに向かっていくつも降り注いで来ていました。
「うおおおおお!?!?!?!?!?」
一秒前とは大違いの全力疾走で、狩人さんはなんとか隕石を回避しました。水の張った地面に落ちてきた青い大きな岩たちは、地面と衝突するなり煙となって消えていきます。
しかしだからといって、あれに当たれば命はない。狩人さんは直感的にそう思いました。そしてロマが馬鹿でよかったと心底思います。瞬間移動だとか隕石落としだとか、そんな技を賢い的に使われていたら勝てる気がしません。
「いてっ!」
ギリギリで隕石を避けて心臓がばっくんばっくん跳ねていた狩人さんの隙を突いて、子蜘蛛の鋭い足による一撃が命中しました。狩人さんのふくらはぎのあたりから、たらー……と血が流れ出ます。
「くそっ!」
とりあえずまた走って逃げていると、再びロマが空を見上げました。
「またかよ!」
猛ダッシュでその場を離れると、やはり隕石が降ってきます。なんと今度はそれらに子蜘蛛たちの何匹かが当たり、しかも無傷でしたが、それが狩人さんにとっての安全を意味しているようにはどうにも思えません。
この悪夢のような世界に、それもビルゲンワースの湖に飛び込んだ先にあった空間に限って、そんな都合のいいハッタリがあるだなんてことは信じられないのです。
それから狩人さんはロマの動きに注意しつつ、なんとか子蜘蛛を一匹ずつやっつけていきました。けれど時々隕石が降ってくるので、その駆除ペースはあまり良い物とは言えません。注意深い観察とちょくちょく強制される全力ダッシュによって、狩人さんにじわじわと疲れが見え始めました。
また、子蜘蛛たちの駆除に時間がかかった結果、奴らはただ脚を振り回して攻撃してくるわけではない……という嬉しくない事実も判明しました。消化液のような物でしょうか? 触ると身の危険を感じるほど熱い白い液体を石頭から吐き出してくることもあれば、大胆にも山なりの大ジャンプを繰り出して、石頭による頭突きを試みるやんちゃな蜘蛛までいます。
それはヤーナムの影と戦った時とほとんど変わらないか、むしろそれよりもひどい集団戦でした。右を見ても左を見ても敵どころか、上を向いたら隕石です。
「うわ、今度はなんだよ……」
突然、ロマがその場にゴロゴロと転がり始めました。猫がくつろぐ時のように、背中を地面にこすりつけています。それはロマがお馬鹿だから行う、意味のない動きなのでしょうか? ……まさかそんなはずがありません。
なんとなく、狩人さんは次に来る攻撃が予測できました。そして予測した瞬間、彼の足元が青く光ったのです。
「ちくしょうやっぱり! うおわぁぁぁ!」
地面から隕石が飛び出してきました。まるで空に向かって落ちていくように、地面から生えた青い隕石がすごいスピードで上へ向かって飛んで行ったのです。
右にも左にも敵、上に隕石と来れば、今度は下だろう。そう予測していた狩人さんはなんとかその隕石も回避しましたが、それでも心臓に悪いことはこの上ありません。
しかしその驚きを落ち着かせている暇もなく、狩人さんは走り出します。子蜘蛛たちがすぐそばに迫っているのです。
「痛ってぇ!」
「熱っつ!」
「うおぉ危ねぇ!!」
その後も、息つく暇もない攻撃の嵐に、狩人さんは阿鼻叫喚。ところどころ避けきれない攻撃があるものの、狩人さんはダメージの蓄積と引き換えに、子蜘蛛たちの数も確実に減らしていきました。
そして狩人さんがぜぇはぁぜぇはぁ……と息を切らす頃、ようやくのことで、なんとか子蜘蛛たちを全て倒したのです。
「や、やっと……やっと一対一……」
ロマの石頭に付いた無数の黒目を見つめても、それを気持ち悪いと思う余裕が今の狩人さんにはありません。白痴の蜘蛛ロマを馬鹿だと見くびる余裕も当然ありません。狩人さんが今立っていられるのは、ほとんど気合いだけによることでした。
未だに、狩人さんがロマに近付いても、ロマは大した動きを見せません。上から下から、隕石を発生させることはしますが、それは狩人さんが子蜘蛛と戦っていた時と同じことです。そして子蜘蛛さえいなくなれば、隕石の回避そのものは難しいものではありませんでした。
今から自分が攻撃されようとしているのに、ロマは必死に抵抗する素振りなんか少しも見せません。時々隕石を発生させることがロマの動きの全てです。……けれどそれはいつまで続くのでしょうか?
次の一撃で、本当にロマを仕留められるのか。もしも次の攻撃でロマを倒しきれなければ、また瞬間移動で逃げられて、そしたら……そしたらまた、無数の子蜘蛛たちが降ってくるのではないか。そうなってしまっては、もはや体力がもちません。……だから狩人さんは怖気づきました。
また隕石が降ってきます。避けられたそれは、地面にぶつかって青い煙となり消えていきました。……その煙が、まるで爆煙のようだと、狩人さんは感じました。
「あっ……!」
その時彼はようやく、自分の持ち物についてを思い出したのです。狩人さんが持っている物は、ノコギリと銃と火炎瓶……だけではありません!
狩人さんは、ビルゲンワースに来てから様々なことがありすぎて忘れていたのです。あの時買った……パイルハンマーのことを。
ノコギリを片付けて、代わりに右手にパイルハンマーを持った狩人さんは、その先端にあるとがった鉄の塊を、複雑怪奇な仕掛けの施された本体の中に装填しました。そしてロマの真横へと移動して、パワーをチャージし始めるのです。
「(白痴は俺の方だ。最初の一撃からこれを使っていれば、こんなに苦労することはなかったかもしれないのに……)」
ギュインギュインギュイン……と、パイルハンマー本体の中で機械的な、そして巨大なパワーが溜まっていく音がします。力を溜めている間、ちょうどいい的として目の前で待っていてくれる敵が、まさに今ここにいるのです。
そしてロマが再び空を見上げた時、必要な溜めは全て完了しました。
「うおおおおおおおおおおお!!!! パァァァァァァァァイル……!! ハンマァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!!」
狩人さんがフルパワーのパイルハンマーをロマの胴体に向けて打ち付けます! 仕掛けにより本体から発射された鉄塊は、流星を凌駕する速度で敵の体をえぐりました。瞬間、爆音と火花が舞い、満身創痍だった狩人さんの体は反動に耐えきれず吹き飛ばされました。
しかし吹き飛ばされながらも、狩人さんはその破壊力を確かに見届けました。車両を連想させられるほど大きかったロマの体が吹き飛び、ゴロンゴロンと二~三回転ほど転がっていった様を見たのです。逆さまになったロマはそのまま煙となって消えました。瞬間移動ではありません。死んだのです。
水の張った地面に仰向けに寝転がったまま動けなくなった狩人さんは、ロマを倒した達成感や感動に打ち震えるというよりは、やや呆然としていました。
「(い、威力がありすぎる……)」
最大チャージのパイルハンマー。それはもはや武器ではなく、兵器と呼ぶべき物でした。溜めている間目の前で待っていてくれるような敵がほとんどいないことは、実はこの武器の一番の問題点ではなかったのです。一番の問題は、ほとんどの敵に対して、パイルハンマーの威力の方がどう考えても過剰すぎることにありました。
もうこの武器を使う機会は二度と来ないだろう。けれど、この時のためにパイルハンマーを買っておいてよかった。……少し落ち着きを取り戻し、満足気にそう思った狩人さんの頭の中に、どこからともなく声が聞こえてきます。
つまらない物は、それだけで良い武器とは呼べない。
……狩人さんは、その言葉が誰の物なのかを理解することが出来ました。本当は知らないはずなのに、なぜか分かってしまうのです。
その言葉は、パイルハンマーや、それから銃槍といった奇抜な武器を作った人たち……「火薬庫」と呼ばれる職人たちの残した言葉でした。
「確かに、どう考えてもつまらなくはないな」
右手のパイルハンマーを見つめながら、狩人さんは呟きました。
すると突然、彼は眩しさを感じます。今までどんよりとした白に染まっていた空から、赤い光が降り注いでいるように感じたのです。
何事だろうと思い、仰向けに伸びたまま空を見上げると……そこには赤い月がありました。
ビルゲンワースの月と同じくらい大きすぎる赤い月が、不気味に、不吉に、この異空間を照らしています。あまりにも巨大なその月は、今にもここへ向かって落ちてきそうです。
……そして幻聴でしょうか? 狩人さんは、赤ん坊の泣き声を聞きました。おぎゃあ、おぎゃあ……と、どこかで赤ん坊が泣いています。
まるでその泣き声は、赤い月から聞こえてくるかのようでした。
「(疲れすぎたか……)」
狩人さんは、そのまま意識を失いました。眠気に逆らわず目を閉じるように、ゆったりとした気持ちで意識を手放したのです。