私は自分のベッドに座り、腰掛ける少女の長い黒い髪を梳く。
その髪は絡まること無く水のように流れ、淀む事は無く。
その黒は虚無ではなく、黒という色で彩られていた。
黒曜石、これはきっと陽の下よりも月明かりの下で美しい輝きを放つ。
切っ掛けは、繰り返した言葉"女の子なら髪にもう少し気を遣ったら?"と水分をまだ多く含んだ髪をつい摘んだ時のことだった。
彼女は唇を強く閉じ、合わせていた視線を逸らせた。突然その足がバスルームに向かい、扉が閉まる。私は慌てて軽率だったと扉越しに声を掛けた。二つ三つの呼吸のあと扉が開けば、そこには白い歯を見せ、控えること無く力強く笑う鈴の、僅かに恥じらった笑顔があった。
「なら、宜しく♪」
目の前にはドライヤーと櫛があった。
始めは痛い、雑、不器用、散々言われた。それでも鈴は止める事は無かった。
「アンタが上手くなればアタシが楽♪」
鈴はそう言ったが実際はどうだったのだろうか。今ならば、恐らく本心で無いと分かる。最後の一歩でその足を止める、そう言う少女だった。
瞬く間に過ぎた一ヶ月だった。最後の一梳くい、私は黄色の結い布を右に一つ左に一つ結ぶ。私は出来たと言った。
「手抜きじゃないでしょうねー」
「完璧。可愛いぞ、鈴」
「バカ」
そこには初めて会った時のようにぶっきらぼうに口を開く鈴が居た。何時もの肩に切れ目のある制服姿、短めのスカートにトレッキングブーツ。何度も見たその出で立ち、今日は少し違って見えた。僅かに遠い。
「なんて顔してるのよ、明日どころか夕飯でまた会うでしょ」
「そんな顔してる?」
「してる」
「みっともないか?」
鈴は答え無く立ち上がった。ボストンバック一つを肩に掛け、扉に向かうその後ろ姿をゆっくりと追う。
今日、鈴がこの部屋を出る。窓から見える空は紅く少し雲で陰っていた。
山田先生はそれじゃ行きましょうと、涙ぐんでいた。私は大袈裟なと思ったが、彼女が泣かなかったら私も少なからず涙ぐんでいたかもしれない、少なからずだ。
「もう同室の娘と喧嘩するんじゃないぞ」
「やーねーもうしないわよ、格好いい女は同じ過ちを繰り返さないのよ」
「言っておくけど、戻ってこれないようにベッドは片付けるからな」
「そう言うのって普通逆じゃ無い?」
1組副担任の女性は大粒の涙を溢れさせ、ぐすぐす言っている。鈴と眼が合うと思わず頬を緩ませた。踵を返すと、その二つの長い房を緩やかに揺らした。
「ねぇ」
「なに?」
「……引き留めないの?」
それは鈴にできる最大の譲歩であり、願いだったと思う。敷居の前で立ち止まる鈴の後ろ姿を見て、私はこう言った。それは私に出来る最大の強がりだった。
「過去ってのは大切な物もあるけどさ、厄介な物もあるよな」
「……」
「俺は思うんだ、手放せる過去は手放してはいけない。それはきっと大切な物だから」
辛い過去は否が応でも追ってくる。忘れる事など許してはくれない。もし大切な過去が無くなれば、辛さだけが残る。だから、
「鈴のその思い出、大切にするといい」
振り向いた鈴はあの夜と同じように笑っていた。
「アンタ、魚逃がしたわよ。大きな魚を」
「あぁ、その魚の大きさはよく知ってる。一夏よりもね」
鈴は黙ってその右の手を私に差し出した。私はその手に応え、贈る私の言葉は鈴の唇で塞がれた。腕を引かれた、と気づいたのは暫く経ってからの事だった。この時の事は良く覚えていない、ただ唇の感触だけが全てだった。
「やっとその顔見れた。じゃぁね、優しいお兄さん」
あの夜よりも魅力的な笑顔を見せると鈴は背を向けた。徐々に小さくなる、階段を下りる足音だけが耳に残った。まったく、最初から最後まで引っかき回されっぱなしだった。
山田先生は「私もこんな青春送りたかった……」と力無く出て行った。私はそっちですか、と苦笑した。
私にとって鈴はどのような存在だったのだろうか。恋人でも無く、友人とも違う。姉のようでもあった、妹にもなった。他人だけれども一緒に暮らし、泣いて笑った、これだけは確かだった。
扉を閉めて、ココアを入れる。廊下側のベッドに腰を下ろし、枕を背もたれに書物を取った。窓側のベッドにはもう誰も居ない。
不意によぎった二つの文字。それは人と人の関係を表わす言葉。思わず頭を掻いた。それは終わってから気づくという意味だ。私はそう言う人間らしい。
口に含んだココアは何故か塩気があった。
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夜の帳が降りて上がる。空虚な朝の空気の中、私はのそりと起き上がり、顔を洗った。タオルの隙間から覗くその部屋の、窓側のベッドに朝日が差し込んでいた。私は暫く立ち尽くすと、腹の虫がぐぅと鳴るのを聞いた。だから、灰色のスウェットのまま扉を開けた。
かちゃり。その扉を開ける音が何故か二つ聞こえた。「あ」と言うのは同じ色のスウェット姿、髪を下ろした少女だった。黄色の結い布がうなじで揺れている。思わず目があった。バツが悪そうに少し歪に開いた口から八重歯が覗いている。そしてその握る扉には711と書かれていた。私の握る扉には712と書かれていた。そう言う事か、思わず半眼で鈴を睨んだ。
「いや、ほら。空気読んだのよ、あの空気で実は隣って言えないじゃ無い?」
「……」
「私も成長したわよねーあははー」
「……」
「な、なにか言いなさいよ……」
廊下を歩く数名の少女たちがちらちらと視線を投げる。やはり引っかき回されっぱなしだ。私は緩んだ身体に力を込めて力一杯叫んだ。
「俺の感傷返せ! この台風娘!」
「何よ! 隣に居てあげるんだから感謝しなさいよね!」
鈴の背後から聞き慣れたもう1人の声が聞こえる。鈴の同室者は本音だった。そして静寐は箒と。私にとってこれ以上望ましい事は無い、心からそう思った。
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フランス娘の登場はもう1本外伝(+日常編?)挟んでの予定です。
今しばらくお待ち下さい