やんややんやの大喝采、天井桟敷の隅から隅まで、揃いも揃って爛々と、期待に満ちて熱気は上々。蜃気楼も立ちそうなほどの高座に涼しい顔で現れて、すっと言葉を放つ。
「えー、毎度いっぱいのお運びで――」
有楽亭の二つ目が二人会をやると耳にして駆け付けた鈴々舎小三治は、この小さな箱に「寄席」を感じていた。浅草がどうの、新宿がどうのという話ではない。ここが「寄席」なのだ。客が笑い、驚き、固唾を飲み、また笑う。落語の空間が成立している。
そして、それを一瞬にして作り上げたのが菊比古だ。七代目有楽亭八雲の直弟子であり、まだ世に名が売れていない若手。同じく直弟子の二代目有楽亭助六を絶賛する声が多い一方、菊比古の名を耳にすることは少ない。
しかし、どうだ。この空気は。
「ちょっと寄ってっておくれよ! なんて女郎に言われますと、わかっているのにわからないふりをしまして、わざと捕まるわけです。引っ張んな、引っ張んなよ、なんていいながら押したりなどする」
くすくすと上がる笑いの音。
菊は顔がいいだけの青二才だ、七代目八雲とできているのではないか、などと下らない陰口を叩いていた弟弟子を殴りつけて病院送りにした咎で、小三治はしばらく師匠の屋敷の門をくぐれない。しかし、後悔はなかった。よいものをよいと見れないなら鈴々舎なんざ畳んじまったらどうです、などと見栄を切ったのは余計だったかもしれないが。
とにかく、菊比古の芸は小三治の心を揺さぶった。
「お染さん、しっかりするんだよ、いいかい、山の御前が五十両持ってきたんだ。金ができたんだよ! 間に合ってよかった、本当によかった」
菊比古の顔がいいのは確かだ。小三治はいつぞや彼が洋食屋で給仕をやっているのを見かけたが、女性客に大変人気な様子で、少々羨ましくなったのを覚えている。菊比古はその武器を存分に活かし、ごまんといる醜男の噺家には出せない色気を纏った。
菊比古には学がある。算数がどうの、漢字がどうのという話ではない。芸の肥やしを蓄えているのだ。三味線がやれる、小唄がやれる、踊りがやれる。楽屋には本を持ち込むし、いつも小脇に新聞を抱えている。そしてすべてが芸に籠められ、しかも嫌味でない。
小三治は肌で感じていた。菊比古は落語の歴史を背負う。八雲を襲名するのはこの男だ。
「お前は立派だなあおい、情けない声も上げねえ、飛び上がりもしねえ。偉いもんだよ、男ってのはそうじゃなきゃ。――いや、とっくに腰が抜けております」
サゲで沸騰した笑いがぐつぐつと拍手を立ち上げる。見事なものだった。このあとは有楽亭助六が高座に立つ段取りだが、小三治は挨拶せずに芝居小屋を出た。
助六の落語を好かないわけではない。喜怒哀楽が賑やかで動きもよく、声が張って聞こえのいい、見事な落語をする男だということは小三治も承知している。しかし、今日の小三治は菊比古の落語を見に来たのだ。水炊きの舌ができあがったときにすき焼きを食べてもうまくない。
夕暮れの銀座は肌寒く、秋も終わりが見えている。小三治はマフラーを巻きなおして、指に絡んだほつれ糸を払った。
水炊きやらすき焼きやらと余計なことを考えたせいで腹が苦情を訴えている。大通りで噺家が腹を鳴らしているのはどうにも情けない。幸いにして今日は財布の中に金がある。小三治は馴染みの料亭に向かった。
どこもかしこも繁盛している。料亭は繁盛していてくれたほうが小三治にとっても都合がいい。人手が足りなければツケの支払いを迫られることもないのだ。
「はいはい、いらっしゃい。あら、小三治兄さんじゃないの」
「おう、今日は一段と賑やかだな」
「団体さんがふたっつばかしお出ででね。ゆきちゃん、おひとり様、二階にご案内してー!」
馴染みの女中に挨拶して、通された座敷に落ち着くと、空腹の実感が一層増してくる。頼まずとも水炊きと熱燗が出てくるのは都合がいいが、頼んでもいないのに酌をしながらツケの話を匂わされるのは都合が悪い。
「小三治兄さんは独演会なさらないの? 切符売りのお手伝いするわよ?」
「馬鹿言っちゃいけねえや。俺の独演会じゃ弁当だって売れねえ」
「あら、でも小三治兄さんより若い子の二人会、客入りよかったんでしょ? なんでしたっけ、有楽亭の」
「助六と菊比古だ。あいつらには実力がある。俺にはない。そういうこった。……ほれ、売れない噺家にもう一本つけてくれよ」
やあねえ兄さんったら調子いいんだから、と笑いながら酒を取りに下りる女中を見送って、小三治は震えていた手をぐっと握りしめた。
鈴々舎小三治はどっちつかず。二つ目に昇格した際、評論家が新聞の片隅にそう記した。繊細な芸、豪快な芸、どちらもこなせることを小三治は誇りに思っていた。ところがどうだ、繊細さでは菊比古に追い抜かれ、豪快さでは助六に敗れる。経験の差も埋まりつつあり、小三治は年長者面するのが恥ずかしくてしばらく二人と顔を合わせていない。
悔しい。その一言を発する勇気も小三治にはない。
勝ちたいなどと馬鹿げたことは考えていない。落語は勝ち負けではない。問題は、小三治が今の若手で最も評価している菊比古、その実力を理解する者がいないことだ。
小三治は打ちのめされて、しかし、小三治を打ちのめしている存在の大きさを誰も知らない。
「――どうしたの、兄さん。ひどい顔」
「……ちいと歯が痛んでな。悪い、今日はここらへんで。お代、置いとくぜ」
「あ、ちょっと、小三治兄さん!」
背にかかる声を無視して、小三治は早足で料亭を後にした。
どうにも腹がむかついてならない。愛人の家に転がり込んで横になったが、化粧の色香に眠れず、結局小三治は身を起こした。こうなった噺家が考えることと言ったら落語だ。
今日の二人会で菊比古がかけた演目は品川心中。入用な金を工面できずになじみの客を巻き込んで心中を図る女中の顛末だが、これがなかなかに滑稽話としてよくできている。
しかし、小三治の見立てによれば、菊比古の本領はもっと湿った噺でこそ発揮される。艶笑、廓、もしくは怪談。
一度だけ、菊比古がやる死神を見たことがある。死神は怪談噺のなかでも滑稽に振った部類だ。死神を追い払うまじないが特に人気で、子どもでも笑える。ところが菊比古の死神ときたら、鳥肌が立つほどだった。サゲで菊比古がばたりと倒れ、最初に上がったのは子供の泣き声だ。
「――あら、さんちゃん、来てたの」
声に上体だけを振り向けば、化粧もまだ落としていない愛人が帰ってきたところだった。彼女が仕事から帰ってきたということは、もう朝のようだ。
「今日はお仕事って言ってあったのに、寝るとこなかったの?」
「まあ、な」
「かっこつけちゃって。お化粧落としたら朝ご飯作ってあげるから、お行儀よくしてて頂戴ね」
「俺ぁガキか。……なあ、お春」
どうしたの、と化粧を落としながら返す愛人の背に、問うでもなく問いかけた。
「俺の落語は好きか」
「そりゃそうよ、じゃなきゃ上がらせてないもの」
「そうかい」
「なに、噺家やめちゃうの?」
「いやあ、やめやしねえさ。ちょいと考えがあってな。有楽亭菊比古って知ってるか」
「んー、知らない。最近お仕事多くて寄席に行けてないのよ」
「そうかい」
小さく息を吸って、吐いた。ここで言葉にしてしまえば後には引けない。
「……菊比古にな、二人会の話を持っていこうかと思ってんだ」
「へえ。いいんじゃない?」
「そうかね」
「うん。だって、さんちゃんが一緒にやろうって言うからには、いい落語をするんでしょ? 私、絶対に行くから」
気風のいい女だ。自分にはもったいない、と小三治は胸が詰まるような思いだった。
昨日の二人会で小三治は確信した。世間が菊比古を助六の引き立て役と扱うなら、菊比古を引き立ててやればいい。ただの添え物ではないと知らしめる機会が必要なのだ。
朝食を済ませ、愛人の熟れた体を貪って、昼まで一緒の布団で寝て過ごした。
日が傾きはじめるころ、ようやく小三治は愛人の家を出て銭湯に向かった。垢を落とし、大きな湯船に浸かる。心の洗濯とはよく言ったもので、小三治の頭にかかった靄はさっぱり晴れていた。鼻歌などぶちかましたくなるほどだ。
気分がいいうちに、と小三治は菊比古の働いている洋食屋を覗いた。幸いにして客はいないようで、どこか憂いの色が差した顔でテーブルを磨いている。
「おう、菊」
「……小三治師匠、困ります」
小三治はこの男に名前を覚えられていたことに少しだけ驚きを感じた。名前が出てこない申し訳なさと恥ずかしさを期待していたのかもしれない。自分の性格の悪さを誤魔化すように笑って、小三治は小さく頷いた。
「わかってら、すぐ出るさ。お前さん、今日は何時に上がりだ」
「あと半刻ほど後です」
「そうかい、そりゃいい。ちょいといい話がある。上がったら向かい筋のそば屋に寄ってくれ。天丼くらいなら奢ってやるよ」
「それは……どうも」
小三治はひらひらと手を振って洋食屋を後にした。
遅めの昼食に月見そばを啜って、片付いてからは蕎麦湯をちびちびと飲むふりをして粘る。待ち合わせをそば屋にしたのは失敗だった。長く居座る場所ではない。
だから、菊比古が姿を現したときは安心して胸をなでおろすような心地だった。
「おう、来たか。まあ座んな。なににするよ」
「では……かけそばを」
「食わねえとそのうち倒れるぞ、お前。油ものは苦手か?」
「ええ、まあ、さっぱりしたもののほうが舌に合います」
「そうかい。大将、にしんそば!」
菊比古は少し困ったように眉根を寄せていたが、出されたものは食べる主義のようだった。そばひとつ食べるにも気品がある。粋というよりは雅。粗暴者で通る小三治は彼のこういうところが羨ましくてならなかった。
「それで、話とは」
「ああ、その前にだな。二人会お疲れさん。俺も覗いたが、見事なもんだったよ」
「いらしてたんですか。すみません、ご挨拶もできず」
「いやあ、楽屋に顔出す暇もなくてな、俺こそすまなんだ。んで、話っつうのはだな……俺ともひとつ、二人会をやらねえか」
菊比古の箸が止まった。
当然だろう。芸歴では小三治が数年先を行く。親子会のような師弟が揃い踏みの会ならともかく、半端に差のある相手とやるようなものではないのだ。
「からかうのはよしてください」
「からかってるわけじゃねえよ。……いつぞや、鹿芝居をやっただろ。あれからお前さん、いい落語をするようになった。繊細で色っぽい、情緒のある芸だ」
ここが口説きどころとわかっているからこそ、小三治の舌はうまく回らなかった。これで噺家などと名乗るのも烏滸がましい話だ。
菊比古の目には困惑が浮かんでいる。小三治はその理由を少しだけ知っていた。彼はまだ落語で称賛されていない。
「次に勉強会で何をかける?」
「……死神をやるつもりでした。今ならもっといいものがやれると思うので」
「そうかい。俺もそう思うね。ところが、今の若手に怪談噺をやるやつは多くない。当然、客も怪談噺の舌にならない」
わかるだろ、と小三治が言うまでもなく、菊比古は頷いた。
「そこで、だ。こんななりだが、少しは怪談噺の心得がある。怪談噺御膳ってわけだ。小屋は俺が押さえる、切符の売り子にもあてがある。どうだい」
しばらく黙りこくってそばつゆに視線を落としていた菊比古が、ぽつりとこぼすように返事をした。
「わかりません」
「おう、何がだよ」
「小三治師匠に一文の得もありゃしないじゃありませんか」
「俺に? そうさな……俺ぁな、いいもんをいいとわからねえ連中が大嫌いなんだ。だから、いいもんをやろうじゃねえか」
小三治は笑った。愉快でならなかった。これほど心地よいのはいつぶりだろうか。
やがて、菊比古が承諾の意を示した。
「よろしくお願いします」
「おう、こちらこそってやつだ。……今日は疲れてるだろ、また今度段取りの話をしようや。大将、お代ここに置いとくぜ」
菊比古は背中を丸めて、まるで泣く子のようだった。小三治はそこに声をかけることはしない。それはここにいない助六の仕事だ。
一か月と経たずに段取りが決まり、切符も完売。芝居小屋は熱気に満ちていた。小三治は愛人が差し入れてくれた饅頭を茶で流し込んで、一発己の頬を張った。
今日、小三治がかける演目は牡丹灯籠。幽霊との逢瀬を重ねた男の話だ。湿っぽさと少しの色気を帯びた怪談噺。本来ならまさに菊比古のような噺家がやる演目で、だからこそ小三治はこれを選んだ。
もののわかる人間なら、小三治の牡丹灯籠が物足りないと分かる。そして、菊比古に牡丹灯籠が合うとわかる。そこから菊比古の落語がよいとわかる。
「……あーあ、すっかり取り憑かれちまったもんだ」
師匠にも、弟弟子にも、招待のはがきを送りつけてある。来なければ来ないでよし。鈴々舎一門が後に恥をかくだけだ。
思いきりやって、しかし必ず菊比古は小三治を上回る。小三治は確信していた。これが鈴々舎小三治最後の高座になる。
「えー、この寒い中よく皆様おいでで、この中に風邪っぴきが一人でもおりましょうものなら明日にはここら一帯流行り病でございましょうが、なに、落語も言ってしまえば流行り病のようなものでございますからご安心いただいて――」