李が征士郎と初めて会ったのは更生プログラムを終え、正式に九鬼で働き始めて2日目であった。
その日、李は鍛錬場で待機するように言われ待っていると、クラウディオが征士郎と揚羽の2人を連れてきたのだ。こんなに早く会うことになるとは思ってもみなかった彼女は硬直した。
九鬼揚羽(くき・あげは)。九鬼家の長女であり第一子である。紋白同様、美しい銀髪は今のように長くなく肩にふれない程度で切り揃えられていた。前髪はカチューシャで留められているため、額のバツ印もしっかり見えている。可愛さも残っているが、どちらかというと美しく活発な印象があった。さらに闘気が満ち溢れており、気を抜けば圧倒されそうなほどである。
その隣にいた征士郎は局似の中性的な顔立ちであり、成長期に入ったとはいえ揚羽よりも背が低いため、ともすると姉妹のようにも見えた。
クラウディオが固まっている李を2人に紹介する。
「こちらが李静初でございます」
「初めまして……李静初です。よろしくお願いします」
何とか基本の挨拶は行えたものの、変な間が空いてしまい沈黙。
もう少し意気込みやら何やら語った方がよかったかもと心の中では後悔したが、元々饒舌ではないためどうすることもできなかった。
すると、じっと観察していた揚羽が口を開く。
「ふむ、確かにクラウディオの言う通り腕がたちそうだな。李よ、我と少し手合わせをしよう。武器は好きなものを使って良い」
構えをとる揚羽に対して、征士郎は鍛錬場の壁の位置まで下がって行った。
ヒュームの弟子にあたる揚羽は、九鬼の従者と言えども容易にのしてしまう程に実力をつけており、真っ向からの手合わせでは終始李が圧倒され続けた。
暗殺でこそ本領発揮できるとはいえ、クラウディオに続き揚羽にもこの様である。決して驕っていたわけではないが、世界の広さというものを見せつけられた気がした。
そして、手合わせが終わると揚羽が李を抱擁する。ここでもまたいきなりのことに体を硬直させた彼女であったが、不思議と受け入れられたという思いが強かった。
「これからはその力、九鬼のために役立ててくれ。お前の力に期待しているぞ!」
後から聞いた話では、揚羽は新しく入って来る女従者に対してこのように抱擁することにしているとのことだった。それを真似するようになったのがもう一人の弟の英雄であり、彼は男従者をそのようにして歓迎するようになっていく。
征士郎はその一部始終を見守っているだけであり、去り際に一言。
「あまり気を落とすことはないぞ。姉さんの実力はこの九鬼においても群を抜いている。これから大変だろうがよろしく頼む。李静初」
これが李と征士郎の出会いだった。
◇
それからというもの、李は征士郎の世話をやくことが多くなった。それは征士郎自身が専属を決めていなかったことなどが原因である。
しかし、もっとも大きな理由は征士郎自身が李を自分の目で確かめたかったからだ。
帝の命を狙ったことは既に帝自身が不問しているため、征士郎がとやかく言えることではなかったし、何よりクラウディオが弟子にした者というのが興味を惹かれるところだった。他にも注目していた人物はヒュームの引っ張ってきたステイシー、ゾズマが育てるシェイラなどである。
これは決して女だからという理由ではない。次代を担う候補たちを確かめておく必要があると考えていたからだ。もちろん若手の中で実力のある連中は色々とチェックしていた。
ジョナサン、チェ、ソフィア、レナート、桐山、ウィリアム、陳などなど、時には局の意見なども聞きながら同時に専属選びも兼ねていた。
その中で李の真面目さ、周囲に対する配慮、何でもこなせる器用さ他、彼女がその有能ぶりを発揮し、それゆえに征士郎が徐々に重用し始めたのも必然だったのかもしれない。
そして、征士郎が李を専属に決める出来事が起きた。
□
征士郎が座学を終えたときのことだった。李は彼の様子に微かな違和感を感じ、そのことについて尋ねてみたのだ。
そのときの征士郎は一瞬驚きの表情を見せ、ついで笑顔をみせた。
「心配させてしまったか……ときどきな、痛むのだ。とっくに失くした腕なのにおかしなものだ。しかし家族や一部の従者を除いて、俺の様子に気づいたのはお前が初めてだぞ」
さすが観察眼に優れている。そう言って征士郎は服の上から労わるように左腕をそっと撫でた。左手には黒の手袋をはめていた。わざわざ見せびらかせるものでもないからだ。
征士郎の受けている痛みは所謂幻肢痛と呼ばれるもので、腕や足などを切断したにも関わらず、なくした部分に痛みを感じることである。
征士郎が腕を失くしているのは、従者の間では周知の事実であった。李自身も英雄に仕えるあずみよりその事を聞いて既に知っている。
海外でのパーティへ出かけたときに起きたテロ事件。生きているのが奇跡とまで言われた大惨事は、当時連日のように世間を騒がせた。そのビルにいた人間のほぼ全員が死亡。少なくとも100人はいた中で生き残ったのは片手で数えられる程度――当然その中に征士郎と英雄の名があった。しかし、彼らについていた従者たちの名はなかった。
ひどいもんだったと語るあずみはその現場に居合わせた人間であり、彼女の語るときの表情がそれを物語っていた。
征士郎の腕は英雄とその彼が守っていた子供をかばった時に失った。
「気休めにしかならないかもしれませんが、こちらを」
李は緑茶を湯のみに注ぎ差し出した。征士郎が自分の淹れるお茶を好んでいたからだ。同時にこれくらいのことしかできないことを恨めしく思った。
それでも征士郎は礼を述べながら、笑って受け取ってくれた。
◇
そして、その日は突然やってきた。
「私を……征士郎様の専属従者に、ですか?」
李は、目の前に立つ征士郎に対してそう聞き返した。
「ああ。俺もそろそろ専属を決めようと思ってな。だからお前を指名する」
「す、少しお待ちくださいませ! 私は……私には、征士郎様の専属になる資格などありません。依頼であったとはいえ、貴方様のお父上である帝様のお命を狙ったのです。それに何より……私の手は汚れております。そんな私が征士郎様のお傍にいては、征士郎様の品格が問われてしまいます。征士郎様にはもっとふさわしい方がいるかと」
こうして声をおかけ下さっただけで私には十分です。李が感謝を示すために、頭を下げた。暗殺者時代から伸ばしていた長い黒髪がさらりと流れる。
静まりかえる部屋。今ここには彼ら2人しかいない。
李は、征士郎から声がかかるまで頭をあげる気配がない。
「俺の専属は嫌か?」
「そのようなことは決して!!」
李は慌てて頭をあげ返答した。征士郎の凛々しい瞳と目があう。
「ならば良いだろう?」
真っ直ぐとした瞳に李はたじろぎ視線をはずす。
闇の中にどっぷりと浸かっていた自分とはあまりに違う。そして、そんな自分に自信がもてないでいた。
九鬼に推薦してくれたクラウディオのため、持てる力を尽くしてきた。それはこんな自分をも評価してくれた感謝からだった。
そして手に入れた普通の生活。憧れていた生活は忙しくも充実したものだった。
厳しくも面倒みの良い上司であるあずみ。陽気で何かと気にかけてくれる同僚のステイシー。優しく見守ってくれる師のクラウディオ。加えて、目の前にいる主の一人である征士郎。
才能だけでなく、その性格もぶっ飛んだ者が多い九鬼一族において比較的落ち着いており、それが逆に彼を目立たせているとも言えた。領土を広げるが如く巨大企業へと成長させていった帝が乱世の王であるならば、征士郎はそれをよく治めさらに富ませる治世の王となると期待されている。
しかし、将来のことなどわからないと李は自身の経験から思う。そして同時に、そんな中で彼を支えていくのが、自分たち従者の役割なのだと認識していた。
期待してしまうという気持ちも李にはよくわかる。征士郎の成長を近くで見ていると、期待せずにはいられないのだ。言葉では表しづらいが、引き寄せられ巻き込まれるような、しかしそれが決して不快ではない。むしろ力になりたいと思わせる何かが彼にはあった。
そんな征士郎に初めて褒めてもらったのは、緊張しながら入れたお茶である。そのときのことを今でもよく覚えている。真剣な表情がふっと緩み「旨い」と笑みを浮かべてくれたのだ。
これ以上を望むなどおこがましい――。
彼の専属になりたいと思っている者は多いだろう。その実力を兼ね備えた者もまた――多い。
あずみが英雄を燦然と輝く太陽だと称えていたが、征士郎もまた同じ。
あの凄惨な日々の中よく空を見上げたことがあった。路地裏のビルの隙間からでも青空は見え、時折太陽の光が目にしみた。
温かい光。
そのときだけは全てを忘れられた。そして、また前方の闇へと視線を戻す。以前よりも濃い闇が目の前に広がっている気がするのは、ただの身体の反応であるのか。
怖いのかもしれない。李はふと思った。眩しすぎるこの人を見ているのが。
『どうせ九鬼が合わなくなる』
同業者の別れ際の言葉だった。呪いのように今も心の片隅に残り耳の奥で響く。
心のどこかでまた自分はあの場所へ戻ってしまうのではないか。だから、これ以上光のあたるところへ進むのをためらっているのでは。
クラウディオに説得されたあの日、全てを割りきれたと思っていたが、心はそう簡単なものではないらしい。
「征士郎様は帝様のお命を狙った私が憎くはないのですか?」
李は以前から気になっていたことを聞いてみた。
「憎くはある……お前にそのような依頼をした人間がな。そして、父の命を狙ったのは許せないことだ。だが、父は存命でその父はお前を許している。だから俺はこの目でお前を判断することにした」
征士郎の言葉は続く。
「結果、信ずるに値すると判断した。それに少し興味があった。クラウディオの罠に嵌ったとはいえ、父の眼前まで迫った李静初という凄腕の持ち主に。……綺麗な瞳を持っていると思ったよ。あとは氷のようだとも。だが感情が死んでいるわけではない」
征士郎は李へ一歩近づいた。成長期に差しかかっている彼は、彼女とほぼ同じ身長である。
今度は、李は征士郎から目を離すことができなかった。
「民を幸せにしてこその九鬼。なればこそ、そこに仕える者たちもまた幸せでなければならん。俺について来い、李静初。これまで見られなかった分も合わせて、お前に見たこともない素晴らしい景色を見せてやる」
踏み出すことを躊躇う自分にこうして手を差し伸べてくれる方がいる。命を狙ったというのに、彼にとって大切な人の。自分がその立場であったら、今のような行動をとれるだろうか。無理だろう――少なくとも幸せにしてやろうなどとは思えない。
感情が死んでいるわけではない、その証拠に心が揺れた。見てみたいと。この方が創る世界の景色を。
一度そのような思いが湧きでると、止めることなどできようはずもなく溢れるがまま。
どうして断ることができようか。いや最初から心は決まっていたのだろう。他の者達がそう思うのと同じように、自分自身もできれば――このお方の。
李がゆっくりと口を開く。緊張のためか喉が渇いていた。
「私は無愛想です……」
「構わん。俺が笑顔にしてみせよう」
「元、暗殺者です……」
「傭兵、忍者、用心棒、果てはどこかの闇闘技場の王者もいる九鬼だ。今さら、そんなもの気にはせん」
「望んでも、よいのでしょうか……?」
「俺が許してやろう。好きにするがいい」
尊大な物言い、しかし堂に入っている。
李は征士郎の前に片膝をつき、頭を垂れた。さながらそれは王に忠誠を誓う騎士だ。
「九鬼征士郎様の専属、ありがたく承ります」
「うむ。よろしく頼むぞ、李静初」
◇
「ふむ? 髪を切るのか?」
征士郎は、専属従者の言葉に疑問をもった。その視線は李の長髪へ向かっている。
「はい。厚かましい申し出だと思いますが、ぜひ征士郎様の手によって、切っていただきたいのです」
李なりの過去に対するけじめでもあった。彼女は膝をついたまま、恭しく両手で短刀を差し出した。
征士郎はそれを察したのか短刀を受け取る。だいぶ使いこまれているため、持ち手の木材部分が独特の風合いを醸している。しかし、刃の部分は磨きあげられ照明の光をギラリと反射していた。
「よかろう。お前が俺の専属となる日だ。儀式めいているのも面白い」
征士郎はその短刀をクルクルと弄ぶと、右手でしっかりと握った。そして、李の正面から頭を抱え込むようにして左手で彼女の後ろ髪を束にする。
「李静初、今日この日を持ってお前を我が専属とする。お前の働きには大いに期待しているぞ。俺に尽くせ」
その言葉は、左耳からすぅっと入り心に留まり、そこから全身に染み渡るようだった。
刃が一際煌めき、黒髪が宙を舞った。
李の昔の容姿は、原作と変えています。このときに、初めて原作の髪型となりました。
6.22 修正