征士郎は項羽を視界に入れながらも、考えていることといえば先ほどの静初との事であった。専属の気持ち一つ察することができなかったことを不甲斐なく思う一方、別の感情が湧きあがってくるのを感じてもいる。それは喜びであった。
自分ではない誰か――他人から好意を向けられて喜ばない人間はいないだろう。それも美しい女性とあらばなおさらである。
ツヤめく黒髪に透き通った白い肌。まるで水晶を思わせる冷たさと美しさを孕んだ瞳。その佇まいは凛としており、そこから醸し出されるは清らかな雰囲気。そして時折見せるようになった微笑みは見る者を虜にするほどである。征士郎にとっても静初は自慢のメイドであり、その美しさを褒められることも珍しくない。
また他の人間には見せない一面――小さな事にムキになったり、自然とギャグを挟み様子を盗み見たり、恥ずかしさから顔を赤く染めたりと可愛さを覗かせることも多い。
(俺はそんな静初のことをどう思っているのか)
大和との噂に心を乱された自分。その彼に対してなんら含むところがなかったことに安堵した自分。そして今素直に喜んでいる自分。
突然のことに対処できなかったことも少し時間がたつと冷静になり、色々と見えなかったものが見えてくる。加えてクラウディオや英雄の言葉が思い出された。
『気が付いたらしてしまっているのではないでしょうか?』
『この我ですらコントロールがきかんのです。他の男と楽しそうに話をしている姿を見たくない。我の隣で微笑んでいてほしいと思わずにいられない……あの方と共に歩めたならと考えてしまいます』
征士郎はそこで一つの答えへと辿りつく。
(つまり……俺は、恋をしていた?)
未だ確信を得たわけではない。疑問符がつくのも体験したことがないからである。
静初のことは専属だから誰よりも大事にしてきた。征士郎はずっとそう思っていた。しかしそれは違ったのかもしれない。いつからかは分からないが、ただの専属というだけでなく一人の異性としても彼女を見ていたのだ。心を許せる相手故、彼女がより近づきたいと思い始めたのと同様に征士郎もまた彼女を手に入れたいと無意識に考えていた。だから大和との話がでてきたとき、どうにもならない感情が征士郎の中に生まれたのではないか。
(俺は静初を他の男に渡したくなかったのか)
単純なことだった。今まで征士郎と静初の関係を脅かす人間がおらず、それ故征士郎は自然と彼女を独占できていた。つまり手に入れていたと勘違いして満足している状態にあったのである。そして時が経つにつれ、そうあることがさも当然であるかのように思いこんでいた。しかしそれは所詮仮初であり、彼らの関係はただの主従であると今回の件で思い知らされたのだ。
この主従という関係は薄い膜のように存在し、彼らを必要以上に離れさせもしなければその逆にある一定以上彼らを近づけることもなかった。しかしそれは外部からの影響で皹が入り、最終的には粉々に砕け散った。最早彼らを遮っていたものは何も存在しない。
(これが恋なのかはわからない。が、静初を他の誰かに渡すことは到底許容できん)
一時は自分を納得させようと試みたが、今となってはどう転んでも受け入れることはできない。それこそ静初から拒絶されない限り、この思いにけじめをつけることもできないだろう。
はっきりさせなければならない。征士郎は自分がどうしたいのかようやく分かった。
「清楚、悪いが俺は行く所ができた。話はまた明日聞く」
征士郎はそう告げて席を立つ。それに対して項羽は何か言いたげであったが、以前のように騒ぐことはなく「わかった」と一言述べわざとらしくため息をついた。
「何か決心がついたんだな。全く……覇王である俺の話を上の空で聞くなど無礼にもほどがあるぞ。お詫びに明日は茶菓子くらい用意しとけ」
征士郎はその意外な態度に驚き、項羽はそんな彼にドヤ顔をしながら少し胸を張った。
「俺は自分のことばかりで人を見ていなかった。それが今回の模擬戦でよく分かった。故に許そう。どうやら俺が訪れたときは間が悪かったようだしな」
「お前……本当にあの項羽か?」
征士郎が疑いたくなる気持ちも分かる。それほどに項羽はあの一戦より多くを学んだということなのだろう。
「ふふん。俺とて日々成長しているのだ。征士郎を追い抜く日も近いぞ」
「楽しみにしていよう」
征士郎はそう言って項羽の頭を撫でた。その姿は夢を語る子供を見守る親のようであ
る。
「その余裕を見せていられるのも今の内だからな! ……というかッ、覇王の頭を気安く撫でるな! 俺は覇王なんだぞ! 偉いんだぞ!」
「うむうむ、そうだな」
「くそっ! 何を言い返しても今のコイツには通じる気がせん……」
項羽は埒が明かないと見て自分から征士郎と距離をとった。そしてそのまま部屋をあとにしようとする。その背中に向かって征士郎が声をかけた。
「清楚、先ほど言っていた静初の話だが広めるようなことはするな。静初は直江とできてなどいない」
「なんだ、ちゃんと話を聞いていたのか? しかし小十郎が大声で話していたぞ?」
「小十郎までもか……とにかくそれは間違いだ。静初に聞いてみてもいいが――」
征士郎はそこまで口にしたが、もし静初本人に問いかけ彼女がその話の発信源が小十郎だと知ったらまずいと思った。同じ従者同士、共に過ごした年月も長い分互いに遠慮も少ないだろう。つまり静初もあまりブレーキをかけない可能性が高いのだ。
「いや静初に聞くより直江に聞いてみろ。きっと面白い反応を返してくれるはずだ」
もう既にその耳に入っているかもしれないが、入っているならいるで火消しにも人一倍頑張ってくれているはずである。
征士郎は項羽に続いて部屋を出ると、静初がいそうな場所を予想して歩き出した。
◇
その頃、大和はシェイラよりある話を聞いて危うく卒倒するところであった。
曰く、李静初は直江大和に気がある。
曰く、いつも朝を起こしてもらうほどの仲である。
曰く、密かに交際を始めている。
このほかにも小さなものから到底信じられないような大きなものまで尾ひれ背びれのついた噂が出回っていた。その中には事実も含まれているため性質が悪い。
まずははしゃぐシェイラの誤解を解く事に専念し、そのあとはすぐに噂を消すため行動を開始する。
「おい、大和。これも李と話していた策の一つなのか!?」
廊下を早足で歩いていた大和の背後からあずみの声が飛んでくる。バーで飲んで以来、大和はあずみや静初の恋を応援することにしており、数度の飲み会を「従者の恋を応援する会」と称して開催していた。会員は大和、あずみ、静初、ステイシーの4名である。
「あずみさん、良い所に! やっぱり噂聞いたんですか!?」
「その様子だと寝耳に水だったようだな。ああ、アタイの耳にもいくつか入って来ている」
静初に近しい人間だっただけに噂が入って来るまでタイムロスが生じていたらしい。
さらにその話題の中心が若手筆頭である静初と新人の大和というのも良くなかった。特に大和などは紋白からの抜擢によって九鬼へ招かれた人間として、タイムリーで話題にのぼっていたのである。その話題が冷めやらぬ内にこの噂であり、従者間で爆発的に広まったのも頷けるというもの。もしこれが一介の従者同士であればここまでの広がり方を見せなかったはずである。
そこへ勢いよく乱入してきた従者が一人。ステイシーは大和の脇腹へ笑顔で膝を入れた。
「ヘイ! 大和―! なんでお前が李と恋仲になってるなんて噂が出回ってんだ?」
ステイシーも噂を聞いた一人であり、間違いだと皆に伝えている途中に大和を見つけたのだった。出会いがしらに彼の脇腹に一発入れたのも厄介事を起こした罰らしい。もっとも彼も好きで起こしたわけではないのだが、ステイシーには関係なかった。
「そ、それは……俺が聞きたいくらいです」
大和は涙目になりながら答えた。そこへさらなる登場人物が現れる。
「あれー? 今話題の直江君じゃないか!」
「久信さん……」
久信は相変わらず平和そうな笑顔を浮かべながら3人の下へと歩み寄って来た。そして近づくや否や興味津津といった態度を隠そうともせず、大和へとすり寄った。
「そろそろ本当のところ聞きたいんだけど……その、どうなの? 李さんとはもうやっちゃったり?」
メイドとはいえ他の女性がいる前で、久信は躊躇うことなくそう口にした。一応大和の耳元で囁いてはいるが、あずみやステイシーにとってこの距離での内緒話など筒抜けである。ステイシーなどは良く見ると青筋がうっすらと浮いていた。
大和は目敏くそれを発見し、久信を彼女らから遠ざけ事情を説明する。久信も最初はニヤニヤしていたのだが、話が進むにつれ真顔になり遂には顔面蒼白となった。ここでようやく全てが勘違いであったことに気付いたようだった。
話していた大和もさすがに久信の態度がおかしすぎたため問い詰める。
「もう驚くことはないですから……久信さんも何を言ったのかあるいは聞いたのか全て話してくれませんか?」
大和は事態の収拾に向けて全力で取り組むことを決意していた。万が一、これが静初の思い人である征士郎の耳にまで入っていたら事である。その前に食い止めるしかない。
「そうかい? いやー……僕、てっきり直江君が李さんと付き合ってると思って征士郎様に自信満々に伝えちゃったんだよね」
目論見はほんの1秒で崩れ去った。てへへと笑顔で誤魔化そうとする久信を前にして、大和は一瞬目の前が真っ暗となり両手両膝を床につけ、あずみとステイシーはその久信の首を持って締め上げる。メイド2人から締め上げられる作業服の男、傍から見るとギョッとする光景であった。
あずみがすぐ横にいるステイシーへと話しかける。
「とりあえずステイシーは李の所へこのことを伝えに行け。征士郎様のお耳に入っているなら李も何らかの行動をとるより他はねえ」
「了解。ああ、くっそ……おら、大和さっさと立て! 起こっちまったことはしょうがねえ。今はこのファックな事態を納めるだけだ」
ステイシーは大和を励ましその場から姿を消した。その後を追って彼も走りだす。
場に残ったのはあずみと白目を剥いた久信だけ。あずみは冷たい視線を久信へ向け、今までに見せたことがないほど盛大なため息をついた。
□
知られてしまった――。
静初は慌てて部屋の扉を閉めるとすぐに鍵をかけた。そのまま扉に背を預けずるずると腰を下ろす。どうしようという単語が頭の中でグルグルと円を描き、それは1秒ごとに増加していった。
未だ顔の火照りはやんでいない。心臓も落ち着いていない。頭の中も整理ができていない。今の静初はないない尽くしであった。
「あ、征士郎様に断りもなく出てきてしまいました……」
それでもこんなことをすぐに考える辺りがいかにも静初らしい。
作業後のお茶も出していない。あずみ汁の準備もしていない。おやすみの挨拶も交わしていない。
さらに項羽が訪ねてきたのにお茶の一つも用意していない。もしかしたら征士郎にその準備をさせてしまっているかもしれない。茶菓子はキッチンの上の戸棚にいくつか入っている物があるから大丈夫なはず。冷蔵庫にもいくつか冷菓が入っている。
「って、征士郎様に用意させること自体駄目じゃないですか!」
自分にツッコミを入れてさらに凹む。
しかし今更どんな顔をして征士郎に会いに行けばよいのかわからない。ああもうと一人唸る静初の姿がそこにはあった。
目に見えない速度で準備だけして去る。そんなことを本気で考える始末であった。
「申し訳ありません、征士郎様。私は駄目なメイドです……」
静初は体育座りのまま顔を足に埋める。それから石のように固まっていたが、何を思ったか再度部屋から出ていってしまった。
その後間を置かずしてステイシーが部屋を訪れたが、静初が不在と知るや否やすぐにその場をあとにした。
◇
静初が向かった先は征士郎の部屋であった。近づくにつれまた心臓の高鳴りを抑えられずにいたが、彼がいないことを知ってほっとすると同時にこれからの指針を失ってしまっていた。
とりあえず部屋へ入ってあずみ汁の準備だけ行っておくことにした。誰もいないことは分かっているが、一応「失礼致します」と断りを入れてから入室する。これは何年も続けてきた行為であり、この部屋に一人でいることも慣れている――はずだったが、今は妙に落ち着かない気分であった。
入ってすぐ横の壁に目がいく。そこで征士郎に手首を掴まれ問いかけられたのがつい先ほどのこと。
少し強く握られた程度で決して痛みなどはないはずなのに、そこがじんわりと熱を持っているように感じられた。
「あのまま……清楚が来なければ」
自分はどう答えていたのだろう。いや言葉にすることができたのだろうか。征士郎様はどんな言葉をかけてくれたのだろう。喜んでくれたのだろうか。それともただ驚くだけだっただろうか。もしくは拒絶されただろうか。
「それでも期待せずにいられない私は馬鹿ですね……」
本当はぎゅっと抱きしめて欲しかった。彼の温もりを全身で受け止めたかった。そんな思いを捨てられずにいる。答えを知りたいけど知りたくない。会いたいけど会いたくない。矛盾するこの気持ちをどう処理してよいのか分からなかった。
静初はキッチンで手早くあずみ汁を作り終えるとそれを冷蔵庫へと冷やしておく。そこで一つの冷菓に目がいく。それは今日一緒に食べようと冷やしておいた物があった。
「一緒に食べられないことは残念ですが」
静初はデスクの上のメモ帳に短く言伝を残しておいた。それからベッドシーツにヨレがないか、夜着の準備が整っているかなどを確認して部屋をあとにする。
「それにしても……どこへ行かれたんでしょう」
顔を合わすことがなくほっとしていたはずが、いざその姿が見えないと不安になる。
「全く、我ながらどうしようもありません」
好きだから仕方ない。静初は自分の中でそう開き直っていた。そして、征士郎様を少し探してみようかと思い立つ。結果を聞くのは怖いが、このままでは夜一睡もできぬまま過ごしてしまいそうでもあったからだ。
「こっちでしょうか」
静初もまた征士郎の寄りそうな場所を推測して歩き出した。
□
征士郎は結局静初を見つけることなく自室へと戻っていた。
「こういうとき父さんなら一発で母さんを探し当てたりするんだが……」
自身の気持ちを知り、その相手を即座に見つけ告白する。そんなプランを立てていたのだが、現実は勘に頼るまま歩き回って時間を浪費しただけであった。珍しくカッコのつかない事態へと陥っている。
そこで先ほど静初が残していった書置きを見つけた。
(ということはついさっきまでここにいたのか)
征士郎はその書置き通りあずみ汁や冷菓の存在を確認すると再度部屋を出た。
「顔ぐらい見せればいいものを……」
そうすれば気持ちを伝えることもできるのだ。そのとき静初はどんな顔をするだろうか。そう考えると逸る気持ちを抑えらない。とにかく一刻も早く会いたかった。
(なるほど……確かに離れている時間がもどかしく感じるな)
その気持ちに気付いたのはちょっと前であるのに、それだけのことで征士郎の中の色々が変わっていた。それは確かに厄介な物に違いなかった。以前ならどんと構えて待っていることもできたはずなのに、今はそれができずにいる。愚かになったのだろうか。しかしそれを楽しんでいる自分もいた。
もうすっかり世界が変わっていた。征士郎にとってこの何気ない時間でさえ新鮮に感じるのだ。
「見た事もない景色を見せるはずが逆に見せられてしまうとは……」
征士郎はこみ上げ来る笑みを抑える事ができなかった。彼は来た道とは逆方向へと歩を進める。その足取りは力強くまた楽しげであった。
◇
ある意味似た者同士というべきか、主従は互いに相手を求めて彷徨う。
「うーん、本当にどこにおられるのでしょう?」
静初はエントランスで首を傾げる。
「ここでもないか……」
征士郎は鍛錬場の扉を閉めた。
「征士郎様―?」
静初は積み上げられていた段ボールの一つを開けた。そこには細々とした部品が入っている。
「ふむ……こういうときは本部が広すぎて困るな」
征士郎は吹き抜けになっている場所で一息ついた。
「もうそろそろお部屋に戻られているでしょうか」
静初は屋上から空を見上げた。
「探せば探すほど見つからんな。簡単に見つかると思っていたが甘く見過ぎた」
征士郎はようやく自力では無理だと悟って呼び出しをかけた。静初ならば1分とかからずやって来るだろう。その間、征士郎は備え付けのソファへと腰を下ろした。後ろはガラス張りとなっており、街明かりが煌めいている風景を一望できる。
(いやしかし、今から告白しようという相手を1分以内に来るよう呼び出すというのも変な感じだな)
そしてまもなく30秒をきるというところで静初は姿を現した。夏の夜はまだ続く。
李さんが本気になれば征士郎も簡単に探し出せたけど、今回はそんな切羽詰まった状況でもなかったのですれ違いが起こりました。
あと決して引き延ばしたわけじゃない!! 書きたいシーンを書いていたらこうなっただけだから。これも李さんが可愛すぎるからいけないんや。
そして項羽がますますクリ吉化しているような……まぁいい、愛でよう。