静初は征士郎の姿を確認して胸を撫で下ろすと同時に、この場に2人きりであるという現状を理解し固まった。周りには人気がなく、横をみればガラス張りの窓から輝く夜景が目に飛び込んでくる。心なしか雰囲気もいつもと違う気がするのは彼女の気のせいだろうか。
「探したぞ静初」
征士郎はそう言ってソファから立ち上がった。
しかし静初にはその言葉の意味が正しく把握できなかった。なぜなら彼が静初を探し回っていたことを知らないからだ。
「もしかして、私を探すために部屋を出られていたのですか?」
「ああ。先ほどの答えを伝えておこうと思ってな」
静初はその言葉に体をさらに固くした。いざそのときが来るとどうしても緊張せずにはいられない。「もしかしたら」という淡い期待と「いややっぱり」という否定がせめぎ合う。
征士郎は柔らかく微笑み静初を手招いた。
「もっと近くに来い」
その言葉に静初の体がぴくりと反応し、先ほどまで固まっていた体がスムーズに前へと動き出す。彼の命令には素直に反応する体。自分の言う事を聞かないのにと静初は苦笑せざる得ない。一歩二歩と進んでいき征士郎の前に立った。
そのとき一瞬視線が交錯するも静初は恥ずかしさからそらしてしまう。
「もっとだ」
静初はさらに一歩前へ進み、手を伸ばせば征士郎に触れられる距離まで近づいた。
征士郎は満足げに頷き、合わせて彼の右手が静初の左手を優しく握った。彼はそのまま静初の手を引き寄せていく。静初はその引かれるがままの手を見送るばかりで反応をとることができない。そして腕が完全に伸びきってもまだ彼の引き寄せる力は止まない。
とうとう静初の体まで征士郎の方へと傾いて行く。さすがにぶつかると思ったのか静初は半歩前に出た右足に力を込めたが、彼がそれに構うことはなかった。
「あ、あの征――」
静初は慌てて呼びかけようとするが、それよりも早く征士郎の体とぶつかる。いや正確に言うならば、ぶつかったのではなく彼によって抱きとめられたというべきだろう。
静初の顔はぽふりと征士郎の胸元に埋まり、彼女のつながれていない右手は申し訳程度に彼の胸へと添えられている。
一方、征士郎はつないだ手はそのままに空いている左腕は静初の背中へと回されていた。
抱きしめられている。その事実を認識した瞬間、静初は息を吸うのも忘れてしまう。彼女の心はまずこれまでにない驚きを感じ、次に嬉しくなり、最後にどうしたらという困惑へと至った。
征士郎の胸に添えていた右手がとくんとくんと鼓動を感じ取っていることに気づき、このまま置いておいていいのか、それとも同じように背中へと回したほうがよいのか迷ってしまう。しかしそれも些細な問題、なぜならその手はおろか指先一本に至るまで動かせそうになかったからだった。
「嫌なら……突き放してくれて良い」
耳元から聞こえてくる征士郎の囁き声。これまで共に生活をしてきた中でこれほど密着して声を掛けられた事はなかった。そして、何といってもその声色に違いがあった。それは全校生徒を前にして凛々しく放っていた声とも、各々の生徒や従者に語りかける声とも、からかい混じりの楽しげな声とも違う。今までに聞いたことすらない甘く蕩けてしまいそうな声だった。
主はこんな声を出す事もできたのかと思う一方、もう他の誰にもこれを聞かせなくないと思わずにはいられなかった。なぜなら、それを独占したいという気持ちと誰彼構わずやられて主に落とされてはたまらないという危機感を抱いたからだ。
男は目で恋をし、女は耳で恋におちる――。
世間にも広く知られている名言だが、確かにそうかもしれないと静初は納得した。ただでさえ主の声には人を惹きつける力があるのだ。それをこんな耳元でただ一人のために想いを込めて囁かれてはどうしようもない。もっとも静初の場合、既に恋に落ちているためさらなる深みへと落ちていくといったところだろう。
これを振りほどくことができる人間などこの世に存在するだろうか。本気でそう思えるほどだった。
さらにショート寸前まで追い込まれていた静初の脳は、これを切っ掛けにポンと音を立てて壊れた。征士郎に抱きしめられているため、顔を見られる事がないのは不幸中の幸いである。その顔は真っ赤に染め上げられていた。
「あの、え……えっと、そ、その……」
静初は何か喋ろうとしているようだが、出てくるのはぶつ切りにされた言葉ばかり。 九鬼従者随一の才媛とまで呼ばれた彼女も今はその面影を一片も残してはいない。
それを遮って征士郎がゆっくりと話しだす。
「一生俺の傍にいろ……体育祭のとき俺がそう言ったのを覚えているか?」
忘れるはずがないと静初は心の中で思いながら強く頷いた。征士郎との思い出はその全てを記憶していると言っても過言ではなかった。それにドキリとさせられた言葉だけに忘れようにも忘れることができない。
「今一度言おう。これは専属としてという意味だけではない。一人の女性として――」
征士郎は静初から体を離し、両手を彼女の両肩へと持っていく。必然、2人は向き合う形となり視線が重なり合った。ここまで聞けば、いくら鈍感な人間であろうとこの後に続く言葉に気づくことができるだろう。
静初もそれを予想して胸が苦しくなった。湧き上がる歓喜を抑える事などできようはずがない。
「李静初、一生俺の傍にいろ。俺がお前を幸せにする」
「それはつまり……」
「その先を言うな。お前が先に気持ちを示してくれたのだ。だからせめて言葉にするのは俺に先を譲ってくれないか? 男としても面目を保ちたい」
静初はぽうっと熱に浮かされたような顔であったが黙っていた。征士郎もそれを了承ととり言葉を続ける。
お前が好きだ――。
静初は確かにその言葉を聞いた。しかし心のどこかでは「これは夢ではないか」と思ってもいた。いつかこうなれば良いと思い続けていた自分が見せる夢あるいは幻想。でなければ夜景の見渡せる絶好のロケーションで、ずっと慕い続けていた主から一番欲しかった言葉を贈られるなどあるはずがない。
キラキラと輝いて見える征士郎を中心とした光景が瞳には映っている。
頬を抓ってみようかとも思ったが、夢の中とは言えさすがに面と向かっているこの状態で行うのは恥ずかしいため手の甲をこっそりと抓る。痛みがある。
「夢じゃ、ないです……」
「そうだ、これは夢ではない」
独り言を拾われた静初はあっという顔をしたが既に遅く、征士郎は苦笑でそう答えた。
胸の苦しみは翡翠色の瞳を潤わせていきやがて眦へと溜まっていく。
「私などで良いのですか?」
「お前が良いのだ」
征士郎はそう言って穏やかな笑みを浮かべ、静初の瞳から零れそうになった涙を指で優しく拭う。
「暗殺者だったんです……」
「知っている。その業、俺も背負おう」
「望んでも、よいのでしょうか……」
征士郎は再度静初を抱き寄せた。静初の手は依然としてどこへやろうか迷いがあり、それは今の彼女の気持ちを表しているかのようだった。
征士郎はそれに何となく気づいたらしい。
「何を迷っている。お前は……どうしたいのだ? 過去や自分の置かれている状況などそういうものを全てとっぱらった李静初はどうなりたいのだ?」
征士郎の胸の中で一粒の水滴が静かに頬をつたう。光の糸を曳くそれははっとするほど美しい。
「征士郎様と共に歩きたいです。これからもずっと……お傍に在りたい。好きです、征士郎様のことが。もう他に何もいらないと思えるほどに」
「その言葉が聞きたかった」
静初は素直な気持ちを伝えたことで、片隅にあった不安についても吐露していた。
「私は……怖いのです。私の過去が征士郎様にいつ襲いかかるかと考えると」
静初は初めて征士郎の背へと腕を回しぎゅっと力を込めた。彼の温かさが安らぎを与えてくれるような、勇気を与えてくれるような気がしたからだった。
静初の名は裏の世界で有名になりすぎた。「龍」は生きている。彼女が引き継いだ暗殺集団は九鬼襲撃失敗とともに解散となったが、その団員たちは今も闇で生きている者もいるだろう。その彼らが何らかの接触を図って来ないとは言い切れないのだ。自分に向かってくるのならまだいいが、それが征士郎へと向かうことに静初は耐えられそうになかった。
「過去に縛られ続けるな。危険が潜んでいるなど九鬼にとっては既に日常だ。お前の過去に関係なく襲いかかって来る敵はいる。そして降りかかる火の粉は払うのみ。今更その火の粉が少し増えるくらいどうということはない。心配いらん」
「はい……」
静初はそう答えると同時にクスリと笑みをこぼした。そして征士郎の胸に頬を寄せる。直に響いてくる鼓動は力強く安心感を与えてくれる。
征士郎はそれに応えるかのように静初を優しく包み込んだ。
「征士郎様らしいです」
いつだって威風堂々としておりその態度を崩すことがない。それは周りへと伝播して、こちらまで大丈夫だと自信が持ててしまう。
「そういうお前こそな。結局は俺の身を案じている」
「当然です。私は征士郎様の専属で――」
静初はそこで一旦間をとり、
「……こ、恋人……ですので……」
今にも消え入りそうな声でそう呟いた。静初は全ての気持ちを告白したことで少し大胆になっているようだ。しかし言ったあとでその台詞に恥ずかしさがこみ上げ、その顔を見られまいとしていたが赤くなった耳を隠す事までは意識がいっていなかった。
「うむ。改めてよろしく頼むぞ」
「はい」
静初はようやく平静を取り戻してきたようで、征士郎へと顔を向ける。
「というか、征士郎様は全然態度がお変わりになりませんね」
その言い方にはなぜ自分ばかりアタフタしているのかといった不平が混じっていた。
征士郎は涙の跡に気づいてハンカチで消してやる。
「静初がコロコロと表情を変えるのでな。俺はそれを見るのに忙しかったのだ。お前は本当に変わったな」
「少し……皮肉に聞こえます」
「ははっ可愛くなったと言っているのだ」
その何気ない一言がまたもや静初の心を揺さぶり、それが顔へと表れる。
もう嫌だ。静初は自分の振り回され具合に呆れてしまう。感情が表へと出るようになったはいいが、今でこれではこれから先が思いやられるというもの。自分の方がいくらか年上でもあるのにという思いもある。同時にへこたれてはいけないと決意を新たにしていたりもした。
◇
2人が仲を深めていた頃、同じ階には捜索を続けていたステイシーと大和の姿があった。しかし彼らはその現場を覗いてもいなければ聞いてもいない。
その階に辿りついたステイシーは征士郎と静初の気配をすぐに感じ取り、これ以上近づいては駄目だと大和を制止したのだった。そこで何が起こっているかは分からないが邪魔をしていい雰囲気ではないだろうという推測からである。
それに大和も納得する。しかし内心気が気ではない。
「ステイシーさん……短い間でしたけど、ありがとうございました」
「なんでそこまで悲観的になってんだよ。元気だせって! 噂の中には李のせいのものもあるんだし、お前が悪いってわけじゃねえだろ? 相談にのってやってたってのも事実なんだし」
「でもあの噂のせいで、李さんが会長に振られでもしたら……」
「会長じゃなくて征士郎様な。他の奴らに聞かれたら学園気分が抜けてねえって言われかねないぞ。ま、今は客人待遇だから平気だと思うけどよ」
ステイシーは腕組みをすると壁に背を預ける。そしてちょうどこの階を訪れた関係者に今は通行禁止だと伝えた。
「すいません……」
「んな落ち込むなって。松永のおっさんはまぁどうなるかわからんけど、お前のことはちゃんと私の方からも説明してやるからよ」
「ステイシーさん……姉御とお呼びしても?」
「全っ然嬉しくねえからやめろ。というか案外余裕あるじゃねえか」
意地悪な笑みを浮かべるステイシーは大和をいじりながら時間を潰していた。
□
場面はまた征士郎と静初のところへと戻る。彼らは既にステイシーらの元に向かって歩き出していた。というのも静初が2人の気配をここにきてようやく察知したからである。
それを聞いた征士郎はとりあえず2人のもとへ向かうことを決定し、そのあと自室へ戻るから共に来いと伝えた。しかし、静初は何を勘違いしたのか急に慌てだす。
「せ、征士郎様っ! それはまだ早いのでは!?」
「ん? 早いとは何がだ?」
静初は征士郎の隣を歩きながら早口でまくしたてる。
「その、私達は確かに恋人同士となりましたがその初日からというのは私も心の準備ができていないと言いますか女には色々と準備が必要と言いますかもちろん嫌というわけではないんですむしろ嬉しいくらいで……ってちょっと待って下さい。私何を」
征士郎はテンパる静初とその言動で何を想像したのかわかったようだ。
「ああ、もちろんお前を頂くが今日のところは風呂の供をしろ」
その一言も静初をさらなる混乱に陥らせるには十分であった。
「え、あ……お風呂…………ですか?」
「うむ」
「お背中を流すということですよね?」
「そうだ」
「か、かしこまりました」
「おい、大丈夫か? 声が裏返ってるぞ」
「じぇ、全然平気です」
「噛んだな?」
「噛んでません。ええ、噛むわけありません」
和やかに会話を交わす2人のもとへ大和が走ってきた。どうやら征士郎らの姿が見えるや否や全速力を出したらしい。その後ろからステイシーがやれやれといった態度でゆっくり追ってきた。
「李さん、ごめんなさい!!」
大和は2人の前へ立つなり、体を直角に折り曲げそう叫んだ。頭を下げる大和を前にして彼らは顔を見合わせる。そして事情を察した静初が口を開いた。
「大和、頭を上げてください。噂のことでしたら貴方のせいではありません。それにもう解決しましたから」
大和は体を折り曲げたまま顔だけ上にあげた。なんとも間抜けな格好であるが、今の彼にそれを気にしている余裕はないらしい。その表情は真剣そのものであった。
その後ろで弁解しようとしていたステイシーだが静初の顔を見て何か気付いたようで、普段のようにニシシと笑うと黙って次の言葉を待つ。
静初は一度征士郎をチラリと見た。言ってもいいですよね。その視線にはそんな意味合いが含まれていた。彼が頷くのを確認し一つ咳払い。ここにステイシー、相棒がいるのも運が良いと思いながら伝える。一番に知らせたい相手でもあったからだった。
「征士郎様とお付き合いすることになりました」
静初は気に掛けてくれた2人に向かってペコリと頭を下げた。
それを聞いた大和はへっと気の抜けた表情をつくり、ステイシーは相棒の幸せにニヤニヤするのみ。征士郎は静初の言葉を裏付けるかのように笑顔を見せ、彼女の頭にぽんと手をのせた。
大和はしばらくその光景をぼーっと見ていたが、全てを理解した瞬間安堵からしゃがみこんで「よかった」を連呼する。
その夜、征士郎と静初の交際は瞬く間に九鬼全体へと伝わり多くの者に衝撃を与えることとなる。
原作で大和は迎える形をとったが、征士郎様は引っ張りこむスタイル!!
こうすれば逃げられないでしょ。ということでヒロインは李静初です。皆さん既にお分かりだったでしょうが一応。
なんか李さんが暴走気味のような気もするんですが大丈夫かな? 清楚なイメージ壊れてない?
そして次回「紋様のブラコン発動! 李さんの身や如何に!?」多分。
あ、お風呂シーンはR指定と戦いながら上手く書ければいれます。