静初は落ち着けと念を込めるようにして右手を心臓の上に置く。その鼓動はまるで体が震えているのかと思えるほどの激しさだった。
場所は浴室につながる脱衣所。右を見ればその浴室に入るための扉があり、曇りガラスには浴室からのボヤけた光を見ることができた。既に明かりがついていることからも分かるようにそこには先客がいる。言わずもがな征士郎である。
「こ、こういうときは人という字を……」
静初は掌に人という字を3回書いて飲み込んだ。しかし所詮はどこで仕入れたか分からない言い伝え。劇的な効果どころか微々たるものすら発揮することなく、依然として鼓動は早鐘を打っている。
大和が紋白と入浴していると聞いたとき羨ましいと思っていたが、いざ自分がその立場に立つと嬉しい気持ちより緊張の度合いが大きく、まだ風呂へ入る前ですらこんなにも苦労していた。
しかし先に入っている征士郎をあまり待たせることもできず、ここで手間取っている時間もない。とりあえず簡単に脱げるものからとっていくことにして、頭に付けているブリムをはずしフリルのエプロンの結び目を解く。
(は、恥ずかしすぎます……)
大和は紋白の前で裸体を晒すことに躊躇はなかったのだろうか。それともやはり男女では意識に違いがあるのだろうか。もしくは裸を見せる事に喜びを覚え――。
自らの羞恥を掻き消そうと色々なことに考えをめぐらす。その中には若干大和に対する失礼なものも含まれていたが、それもこれも九鬼入り初日の着替えの時わざわざ全裸になったことが原因であった。
もちろん静初はすぐに瞳を閉じ有無を言わせぬ物言いで大和に服を着るよう命じたが、随伴していたステイシーは彼の体を興味深く観察していた。
(もし大和に露出癖があるなら、先輩としても矯正してあげなければ……)
あとからステイシーに聞いたところ、大和の体の一部は自己主張をしていたとのこと。そういう類の人間が多馬大橋にも出現しており、彼の将来が不安になる。
そんなどうでもいい事を考えている内に下着姿にまで辿りついたが、最後の装甲をはずすことに手こずる。これをはずせば生まれたままの、ありままの自分を見せることになる。ゆっくりとブラのホックへと手が伸び、それが一度止まりまた伸びる。早くしなければと思いながらもそれは遅々として進まない。
(覚悟を決めるのです、李静初)
ふうっと大きく息を吐く。どれだけ時間を先に延ばそうと意味はないのだ。それどころか主を待たせる時間が延びるのは非常にまずい。
背中に伸びた両手は最後の距離を詰めるとホックを外すことに成功する。
いつか触ってほしいと思っていた肌もケアを怠ったことはないため、滑らかさの中に果実のような瑞々しさを保っており、黒の下着はそのきめ細やかさを表すかのようにその上をスルスルと滑り落ちていった。
静初の裸体が鏡越しに映っている。それは溶けてしまいそうな白い肌であった。触れてしまえば消えてしまうのではと心配になるが、触れてみたいという思いを抱かずにいられない。あわよくば自らの色に染め上げてやりたいと思わせるような無垢な白さ。
その肢体からは傷跡なども見当たらず、激しい戦闘、訓練を潜りぬけてきたとは思えない。
掌から少しはみ出るかどうかといった乳房は均等美を保ち、その頂きは肌の白さを混ぜ合わせた桜色に色づきツンと優しく尖りながら上向いていた。
引き締まった腹は肉食獣を思わせるしなやかさを保ち、それでいて女性らしさを失っていない。そしてくびれた腰から足にかけて美しい流線を描き、最後はきゅっとした足首にて締めくくられている。
彼女は気づいているだろうか。ただ立っているだけ、それだけで男の情欲をそそる色香を醸しているということに。
しかしそれも一枚のバスタオルによって隠されてしまう。いやむしろその姿によって恥じらいがプラスされたと言うべきか。隠されているからこそ感じられる美というものもある。
(そう言えばタオルを巻けば大丈夫でした)
たった一枚の布切れが今はとても頼もしく思えた。タオルは短くかろうじて全てを隠してくれてはいるものの、油断すればチラリと覗きかねない危うさもある。
静初は鏡を視界に入れると半ば反射的に前髪を弄る。これから風呂に入るというのに弄っても仕方がないのだが、そこはどんな場所であろうと美しく見てもらいたいという女心の表れであった。
その一本一本が絹ような光沢を放っている黒髪は、静初の手が動く度にサラサラと揺れる。さらに鏡を見ている内に細かいところも気になってきたようで、眉や睫毛にも軽く触れる。最後に人よりも少し薄い唇を撫でた。
そこまでしてようやく決戦の場へ赴く意思が固まったようだった。
「失礼致します」
中から征士郎の声が聞こえ、静初は扉へと手をかけた。
◇
扉を開けると中からムワリとした湯気が静初の方へと漂ってきた。
じゃばじゃばと絶え間なく聞こえる水音は川神の土地から湧き出る温泉をわざわざ引っ張って来ているもので、これは『日本と言えば温泉。家にいるときぐらい好きなときに浸かりてえ』と帝の好みがそのまま反映されている。征士郎たちはその恩恵に与っているのであった。
征士郎は既にその湯船の中におり、両腕を縁にのせ顔だけ静初の方へと向ける。
「お前も浸かるといい」
いつもと髪型が違う。静初はそう思いながら返事した。征士郎はたっぷりと水気を含んだ前髪が鬱陶しかったのか、髪をかき上げオールバックのようにしている。そうしていると額にあるバツ印がよく目立ち、髪型と相まって男らしさが倍増していた。そんな普段見られない主の姿に小さな喜びを覚える。これも恋人にならなければ見ることが叶わなかったかもしれないからだ。
静初は征士郎へと一歩近づくごとに緊張が高まっているように感じた。どんどん主の背中が大きくなっていく。
縁近くにしゃがみこんだ静初は断りをいれて桶に湯をすくう。その際も片足を引いてゆっくりと膝をつき、その足に揃えるようにしてもう片方の足を引き両膝を合わせた。背筋も曲がる事のない凛とした姿勢を保ったままである。その座る仕草一つとっても美しく、それを眺めていた征士郎もほうと感嘆の声をもらす。
しかし、静初はまた勘違いを発動したらしく、
「あ、あの征士郎様……やはりバスタオルを巻いたままではいけませんか?」
湯船にタオルをつけるのは御法度。これはよく温泉などで見かけるものであるが、主もそれが気になっていると思ったらしい。
しかし征士郎が少し首を傾げたことで静初もすぐに違ったと気付いた。
「いや、確かに公共の場では気を付けた方が良いかもしれんがここは個人の場。気にすることはない」
静初はその言葉を聞いて安堵した。もちろん外せと言われれば外したのだが、そのときの恥ずかしさに耐えられるかどうか自分でも分からなかったのだ。このあとに征士郎の体を洗うことも考えると余計な所で気を遣っていてはいけない。主が無事気持ちよく風呂を上がるところまで見届けてからでないと倒れることは許されないのだ。
(いえ倒れたら倒れたで征士郎様にご迷惑がかかるのですから、自室に戻るまで力尽きてはいけません)
使命を無事果たすまでは。そんな強い思いを新たにしていた。
その静初は征士郎の右隣にそろそろと腰を下ろしていく。征士郎ら家族の風呂は当然従者達より広めの造りとなっており、何より温泉をそのまま引いているので気持ち良さがより一層大きい。2人で浸かっていても十分な広さがあり、足を伸ばしても反対側の壁につくことがない。また滝を連想させるが如く木霊する水音もリラックスに一役買っている。
「父さんは色々と俺達を振りまわすが、この温泉に関しては感謝せねばならん」
征士郎はそう言ってカラカラと笑う。
「確かにいつまでも浸かっていたくなりますね」
「だろう? ついでに言うとここは大理石で造られているが、父さんの使うところは檜でできている。しかしほとんどここにいないため、そこを使うのは専ら母さんだ。もっともだからこそ有難みが身に沁みると父さんは言っていたけどな」
それも多分負け惜しみである。その代わり、帝は世界中の珍しい温泉を制覇していたりする。それでも檜風呂はまた格別らしい。
「檜風呂ですか……そんなにいい物なのですか?」
「俺はそこまでこだわりはないがいい物だとは思う。祖母などはもう檜風呂でないと入らんというほどに入れ込んでいるしな。機会があれば今度入ってみるか?」
「よろしいのですか?」
「俺と一緒なら入れんこともない……というか、もう少し近くに来たらどうだ?」
2人の間には微妙な距離が空いていた。それを指摘された静初は口ごもる。
「その、これ以上……近づくと、征士郎様の…………が見えてしまいます、から」
水音に掻き消された部分もあったが、静初が何を言いたいのかは把握することができた。
「別に見られて減るものではないし、隠すほど恥ずかしいものでもないと思っている。近くに来い」
どこまでも堂々とした姿である。そして来いと言われれば断ることもできず、静初は頬を上気させつつ出来る限りそちらへ目を向けないようにして傍へ寄った。
しかしその努力もむなしく、肩が触れ合うほど近くに隣合うと視界の下にチラチラと映るのである。それが大きいのか小さいのか判断基準を静初は持っていなかったが、目測でも両手では収まらないのは確かであった。そしていつの間にかそちらを凝視してしまっていたらしい。
征士郎に名を呼ばれ、自分が行っていたことに気が付いた。
「も、申し訳ありません!」
静初は湯のせいで赤くなった顔をさらに紅潮させた。はしたないことをしてしまったと思ったのだ。
「いや別に構わん。俺もお前の体に興味がないと言えば嘘になるからな」
征士郎は苦笑し静初の肩を引き寄せた。
突然のことに身を固くした静初であったが、ゆるりと撫でられる肩から腕にかけてゾクリと快感が走り抜けたことですぐほぐれた。
「本当に滑らかなだな。雪のように白く……白磁のように繊細だ。できることならずっと触っていたいほどに」
丁寧に、まるで舌の上で食材を味わうかのように、征士郎は静初の肌を優しく撫でる。そのまま二の腕を通り過ぎ、前腕を持ち上げながら滑らせていく。
このまま溶けて湯気になるのでは。静初はその手を見つめたままとろりと熱い感情に身を任せていた。
肩から回されていた腕は撫でられていくうちに静初の脇に差し込まれ、彼女は自然と征士郎の胸元へと頭を預ける格好をとる。
「手を……」
征士郎がそう呟くより早く、静初は彼の手に自分の手を重ね合わせていた。征士郎のくすりといった笑いが静初の耳をくすぐる。
征士郎は静初の手、さらには一本一本の指に至るまで丹念に感触を確かめていった。その逆に静初もまた彼の手を通して男と女の違いを知る。
「征士郎様の手はゴツゴツしています」
血流が良くなっているため、骨ばった手の甲の上を静脈がぐりぐりとしている。
「それに……大きいです」
征士郎の存在を表すかのような大きな手。そこには包み込まれる安心感がある。
「爪は細くて長い。手入れされていないですよね?」
「ああ。そういうお前も綺麗な指先だ」
互いの戯れが終わると2人の指は再度絡み合い、最後に隙間なくギュッと固く繋がれた。繋がれた手は湯の中へと沈んでいくが離されることはない。
どちらともなくそのまま口を閉じ、浴室には水の賑やかな音だけが反響する。互いにその心を確かめ合い晴れて恋人となり、他の邪魔が入らない風呂にて密な触れ合いをする。このような状況となって雰囲気が変わらないはずもなく、外の世界はとっくの昔に切り離され2人だけの世界へとなっていた。もし、そこに立ちこめる空気を色で見る事ができたなら淡いピンク色であっただろう。
これは癖になってしまいそう。静初は征士郎と肌を合わせている部分、湯とは違う柔らかな温度を強く意識していた。まさかこんな風に密着し肌を重ね合わせることができるとは夢にも思わなかったのだ。主の指先すらも愛おしい。
「静初……」
繋いでいた手を離した征士郎は名を呼び、再び静初の肩に手をやって彼女をこちらに振り向かせた。離された手を名残惜しむ余裕すら与えない。
顔を合わせ、征士郎の左手が静初の顎を撫でた。それに従い彼女の顔が少し上を向く。
距離が詰まってくるところで静初も何が行われようとしているか思い当たった。
「ま、待って下さい、征士郎様!」
静初は浴室一杯に響き渡る音量で叫ぶと征士郎の口に片手をあてた。さらに矢継ぎ早に言葉を続ける。
「すいませんッ! 今ここでやってしまうと私はのぼせてしまいそうで……そうなるとお役目を果たすことなく無様な姿を晒してしまいます。ですので、これはあがってからに預けてもらえないでしょうか!?」
征士郎にしてみればそういう姿を見せてくれても一向に構わなかったが、それでは静初の気が収まらない。従者としての自分と恋人としての自分。前者は上下関係にあるが後者は対等。今のような状況ではその境が曖昧であり、彼女としては先に与えられた役目をしっかりと果たしたいと考えてしまうようだ。
真面目な従者であるが、そう言う所も征士郎は気に入っている。顎に当てていた手をそのままに静初の濡れた唇を親指で慈しむように撫でた。
「わかった」
静初自身も残念で仕方がないと思っていた。あのまま感情が赴くままに唇を重ねたいという情意もあったからだ。気分を害していないだろうか。すぐにそんな不安が一気に膨れ上がって来る。
しかしその心配も無用であった。
「ならばそのときを楽しみにしておく。お前の好きなタイミングでしてくれるか?」
征士郎はそう口にしてにやりと笑った。
一方で静初はその言葉を飲み込むのに多少時間を要した。
「それはつまり……私から行うということでしょうか?」
「うむ。理解が早くて助かる。楽しみにしているぞ」
「え……ええぇっ!!」
「年上として俺をリードしたくもあるだろう?」
「これはリードしているとは言わない気が……」
征士郎は静初の文句を受け付けるつもりがないようで、さっさと湯船から出てしまう。
「さ、背を流してくれないか? あとの楽しみもできたことだしな」
普段あまり聞かない情けない声で主の名を呼ぶ静初であったが、どうやらこの決定が覆ることはないようだった。
◇
タイムリミットが一刻一刻と迫っていた。風呂をあがり軽い談笑をしたのち、マッサージを軽く行っている最中である。
そしてマッサージでも最後の仕上げとして肩中心に揉みほぐす行程に入った。
静初は征士郎を前に座らせ彼の肩に手をやる。
(じ、静初です。もうすぐ征士郎様がおやすみになる時間なのですが、タイミングがイマイチ掴めていません)
いくら役目があったとはいえ、こんなことならやはりあのとき流れのままにしておけばよかった。今更ながら後悔の念が大きくなる。
しかし救いは征士郎よりいつでもして良いと言われていること。つまり決定権は自分にあるのだ。ということは無理に今日やろうとしなくともいいのではないか。そんな弱腰な思いが頭をもたげる。
静初は軽く頭を振ってその思考を外へと追い出した。ここで逃げてはこれから先も逃げてしまう可能性がある。逃げて逃げて逃げて、その先には幸せな2人の姿があるだろうか。
(いえ、あるはずがありません)
徐々に冷たい態度を取り始める主。最初は微々たるものだったが、それが露骨なものへと変わり始め遂にはその肌に触れることすら許されなくなる。固まる自分を横目に新しく入ったばかりのメイドがクスリと笑いながら主へとしな垂れかかる。
恋人であるはずの自分を前にして、主はその行為を見咎めもしない。恋は冷めてしまった。そのときになって自分はようやくそのことに気づくのだ。
静初はそこまで妄想して決意を固めた。
「せ、征士郎様!」
その声に征士郎が首をひねる。それに合わせて、女は度胸とばかりに静初は身を乗り出した。
その瞬間、征士郎の瞳に飛び込んできたのはツヤめく黒髪だった。
1秒にも満たない口づけ。離れた途端に忘れてしまいそうなほど儚い感触。されどそれは脳の奥底、一番深いところに焼きつけられるほど熱かった。
やってやったと満足気な静初だが、女から迫るということに対する恥じらいの色が顔に溢れていた。
「もう少ししてみないと分からんな」
征士郎はそう言うと静初を引き寄せてその唇を奪い、2人は短いキスを幾度となく繰り返した。
その後就寝時間がきたため2人は別れの言葉を交わしたのだが、その別れ際に静初が少し背伸びをして征士郎の唇を奪い返してみせた。
「おやすみなさいませ、征士郎様。良い夢を」
静初は特に何かを意図して行ったわけではなく、ただそうしたかったからしただけ。しかし、征士郎の心はそんな何気ない行動一つでぐらりと揺さぶられていた。
主従の恋は最初から飛ばし気味であったが、それこそ彼らにお似合いにも思える。
静初は下手したら飛んで行ってしまうのでと思うほど軽い足取りで自室へと向かっていた。そんな彼女の頭には明日の学園でどんなことが待ち受けているのか一ミリたりとも想像できていない。その頭の全てを埋め尽くすのは最愛の主であり、他のことに気を回す余裕がなかった。
□
一方、場所は変わって紋白の部屋。専属である大和も部屋を去ったあとであるため、彼女は一人であった。
しかし紋白は携帯を片手に楽しげな声で誰かと話しこんでいた。
「聞いて驚くな。なんと……我が兄上に恋人ができたのだ! 相手は誰だと思う?」
『――ッ!』
電話越しの相手も大層驚いているようだった。
ガールズトークに花が咲く。いつの時代もコイバナほど盛り上がるものもないらしい。
◇
静初はベッドの横に飾ってある一枚の写真を見て微笑んだ。
サイドテーブルに飾られていたのは、フォーク持って笑っている征士郎の写真であった。どうやら彼のバースデーを祝っているときのもののようだ。後ろには人の身長より遥かに高いケーキが映っている。
灯りを消して瞳を閉じる。今日は今まで生きてきた中で最高の心地で眠れそうだった。
そして明日を過ごしたのち思うことになる。嵐の前の静けさとはああいうものをいうのだと。
むずい。李さんの美しさを言葉にしきれない。でもできる限り頑張ったつもり。まさかお風呂回でほぼ一話丸々できると思わなかった。
というか征士郎様が手慣れ過ぎているような……これでもまだヨンパチと同じクラス(すなわちDT)だから。
次回はなんか久々の学園をお送りします。