征士郎と静初が表へと出るとそこには既に車が準備されていた。ビル内ではある程度遮断されていた蝉の鳴き声も、外に出れば遮るものがないため騒がしい。しかし、夏特有の暑さについては朝ということもあってかさほど気にならなかった。
征士郎は入口の両側に立っていた従者とも挨拶を交わし車へと近づいていく。
今日の運転手を務めるのはステイシーらしく、後部座席の扉を開いて待っていた。
「おはようございます、征士郎様」
「おはよう。調子はどうだ?」
「絶好調です。そういえば、先ほど帝様がお帰りになられていました。征士郎様をお探しのご様子でしたが……」
「ああ。無事会えたよ。どうやら静初とのことを聞きつけたらしい」
征士郎とは反対のドアから乗り込む静初を見ながら苦笑した。
ステイシーは「なるほど」と相槌をうち笑った。そのときの様子が容易に想像できたのだろう。
3人を乗せた車が門の前を通り抜け、その傍で警備についている従者の頭を下げる姿が後ろへと流れていく。
「面白いことにはすぐに飛びつかれますからね」
「その点については世界中にアンテナをはりめぐらしているからな。もし時間があったら、根掘り葉掘り聞いていじられるところだった」
「帝様なりの祝福じゃないですか?」
「嫌な祝福のされ方だな」
征士郎はふうとため息をもらし、それがわかったステイシーが静初に声をかける。
「ヘイ、李! 我らが主様のテンションが下がってる! ここはお前のギャグの出番だ!」
「任せてください……んんっ」
静初はギャグのフリに対して即座に反応できるらしい。
征士郎はバックミラー越しにステイシーと目があった。その瞳にはからかいの色が見て取れる。彼女はまた少し笑みを深くして、いたずらがばれた子供のような表情であった。結果がどうなるかわかっていながらふっているのだ。
このやり取りは数えきれないほどされており、そのたびに静初は若手芸人のようにこのチャンスを喜んで受け入れている。しかもその一回一回が真剣である。
その様子がおかして、征士郎は口元が緩みそうになりそれを右手でさっと隠した。
そのタイミングがちょうど静初がギャグを言い終わったときと重なったため、彼女の顔がぱあっと明るくなる。
「ステイシー! 征士郎様が私のギャグで笑顔になりました!」
「おいおい……いくら私が見てないからって嘘はダメだろ?」
「本当です! 私のギャグが征士郎様に通じました!」
征士郎はキラキラと目を輝かせる静初と目を見開いたステイシーを交互に見て、笑い声も少しもれる。そうなると隠しようがなく、静初はますます舞い上がり、逆にステイシーは「まじかよ……」と理解不能といった様子であった。
静初は得意げな顔で相棒へ言い放つ。
「ステイシーには今のギャグの面白さがわからないんです」
「お前……征士郎様が笑ったからって調子のりすぎだろ」
「これはクラウ爺にも報告しなければなりません」
「人の話を聞けや! おーい!」
征士郎はそんなやり取りを続ける2人の声をBGMに外へと視線を移した。今更、静初の喜びに水を差すのも悪いと思ったのだ。もしここでギャグで笑ったのではないと否定したら、彼女はかなり落ち込むだろう。それはステイシーのよくやる「上げてから落とす」という手法と似ている。
そして静初は勘違いして喜んでいた自分を恥じるはず。それならば、征士郎が笑ったということにしておいて構わない。これによってステイシーや級友たちにギャグを挟む頻度が増えるかもしれないがそれも一時的なもの。そのうち、やっぱりウケないということを再確認するだろう。
それに千回に一回くらい報われても罰は当たらない。
「このギャグは一生忘れません……」
「お前が言うと冗談に聞こえねえよ」
「今日は調子がいいのかもしれません」
「いや、それはただ調子にのってるだけだから」
「ステイシー、私の相棒ならここは応援すべきでは?」
「だから相棒として、これ以上他に被害がでないように食い止めようとしてんだよ!」
ステイシー頑張ってくれ。征士郎は他人事のように心の中で応援しつつ、流れていく朝の風景を楽しんでいた。
◇
学園についた2人はステイシーと別れて下駄箱に向かう。
その途中で目に入る校庭には、空いている観客席を求めて多くの人であふれていた。試合を重ねるごとに爆発的な勢いで知名度をあげていった模擬戦。その戦いを直に見ようとする観客も予想以上の人数となっており、その中には日本人だけではなく海外からの客も混じっている。
さらに学長らが座る特別席にも外国人が10人程度、それぞれ国籍が違う人々が座っていた。年齢もバラバラでほとんどの人がラフな格好をしている。一見すると観光客と見間違えそうな彼らだが、その特別席を囲うように黒服のいかつい人間が立っており、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
その中の数人は征士郎も面識のある人物であり、今回の模擬戦を気に入り、さらに大規模な戦いを行えるよう大金を出してくれた富豪たちである。
そして校庭の中央では第1試合を戦う福本軍と源氏軍の姿があった。試合開始まではまだ余裕があり、各自ウォームアップに励んでいるようだった。時折、義経や弁慶に太い声援がとび、それに気づいた義経が律儀に頭を下げて歓声があがっている。
征士郎は最後にざっと見渡して校舎の中へと入っていった。
◇
静初は征士郎が席をはずしている間、燕や清楚、マルギッテらと世間話をしていた。そのとき、急速に接近してくる気に皆が一瞬身を固くしたが、それが誰だかわかった途端力を抜いた。
「せーーーーぃーーーしろぉーーーーー!!」
遠くから近づいてくる征士郎を呼ぶ声。その声の主は校庭に一旦足をつけて、静初らのいる教室めがけて飛び込んでくる。そして、そのまま天井すれすれでくるりと体を回転して降り立った。特徴のある長い黒髪がばさりと揺れ、その姿はまるで猛禽類が羽を広げたときのようである。
「征士郎! お前聞いたぞ!」
百代は教室を見渡しながら叫んだ。その手には脱いだ靴がしっかりと握られている。
校庭では鉄心が頭に手をやっており、観客は突如、空から降ってきた武神にどよめきたっていた。富豪も予想外の現れた方に目を丸くして感嘆の声をもらしている。
しかし、百代にはそんなことどうでもよく、目的の人物がいないとわかるともう一人の当事者を直撃する。
「李さん! 征士郎と付き合い始めたって本当か!?」
その一言で今度は教室の中がざわめいた。何人かの男子生徒は顔を覆い隠し、女子生徒は友達とのおしゃべりを止めている。教室にいる全員が静初と百代の会話に聞き耳を立てていた。それは傍にいた燕らも例外ではなく、清楚は既に知っているためニコニコしたままだが、燕とマルギッテは好奇心を大いに掻き立てられたらしい。
征士郎と静初は阿吽の呼吸を見せてきた主従であったが、付き合っているという話は一度として出たことはなかった。中には疑っている者たちもいたが、日が経つにつれそんな雰囲気を微塵もみせない割り切った2人の間柄に関心をよせることもなくなっていった。
そして、関心がなくなるのと反比例して静初へと好意をよせる男子生徒も現れ始めた。真面目で気が利き、クールな態度の合間にみせる微笑み。誰に対しても丁寧な姿勢であり、男にしてみればちょっとしたきっかけから恋に落ちてしまう。
しかし、相手は世界に名だたる財閥の御曹司に仕える専属メイド。
恋をした生徒にとって、静初の傍にいる征士郎の存在がどうしても比較対象となってしまうのだ。そこで気後れしてしまうものが大半。行動に移そうとしても甲斐甲斐しく征士郎へ尽くす姿が心を折りにかかってくる。そして勝手にふるいにかけられた結果、生き残った猛者もわずかに存在したが、告白は成功することなく敗れていったのだ。
ふられた者たちはそのときの静初の対応から「やっぱり」と疑惑を確信へと変えていった者もいた。そのうちの一人がSクラスにも在籍しており、彼は友達と言葉を2,3交わして笑った。そこにはわずかな悔しさがにじんでいるようにも見える。
しかし、行動を起こしていない他の男たちはただ淡い期待だけを心に残すことになっていた。何もしなければふられることもないが、先に進むこともできない。そうして時間だけが経ち、この日を迎えてしまっていた。両手で覆われた下の顔はどんな表情をしているのか。
周りの注目が集まる中、静初がゆっくりと口を開く。
「はい。征士郎様とお付き合いしています」
静初は改めて発表することに若干の照れがあった。小さめの声ではあったが、静かになっていた教室ではそれで十分だった。
まず反応したのは女子生徒たち。わっと歓声をあげて、静初に詰め寄って祝福の言葉をかける。次に少し遅れて男子生徒たち。情けない声を口から漏らして脱力した。
燕らもそれに続いて、静初の恋の成就を喜んだ。
そして百代はというと静初の言葉を聞いて深く息を吐いた。しかし、それは落胆を表したものではないことが彼女の笑顔からもわかった。
「そっか……そっかぁ。よかったな、李さん。おめでとう、ようやく思いが通じたんだ。よかったぁ」
いつもは静初を渡さないと征士郎に張り合う百代は心底安心したといった風であり、静初は予想と違った反応を見せる百代に一瞬戸惑った。しかし、百代のやさしさも3年間を通してよく知っていた静初はすぐに納得する。
しかし、それと同時に一つの疑問が湧いて来た。「ようやく思いが通じた」という言葉。これではまるで百代が自分の気持ちを知っていたかのようではないか。
静初は百代に感謝を述べながら問いかける。
「百代、ようやくというのは……もしや私の気持ちを知っていたんですか?」
「そりゃまぁ、学園の中で一番李さんと接してきた私が気づかないわけないじゃないか!」
百代はなぜか男前な表情を作った。いつも女の子とデートしているときの顔である。
ここに後輩の子たちがいれば黄色い歓声をあげたかもしれないが、あいにく彼女たちはおらず、静初にもその効き目はなかった。
しかし、静初はそれとは別のことで顔を赤らめる。征士郎への想いがばれていたことに恥ずかしくなったのだった。
「お、表には出していないつもりでしたが……そうでしたか……」
「照れる李さんもかわゆいなぁ」
百代は静初を抱きしめるといつものくせで頬ずりをした。
ちなみに百代が征士郎と静初のことを知ったのは、共に山籠もりをしていた揚羽からの情報であった。昨日の時点でそれを知った揚羽は、百代にもそれを伝えて喜びをわかちあった。そしてそれを聞いた百代は居ても立っても居られなくなり、一日だけという条件付きで川神へと帰ってきていたのだ。もちろん揚羽も一緒である。
その揚羽はというと教室の外で征士郎に会ってから、紋白の所へと足をのばしていた。
祝福ムード漂う教室がさらなる人物の登場でより盛り上がった。百代と静初は視界にその人物をいれずとも誰なのかすぐにわかった。クラスメイトたちが口々に名を呼びながら祝っていたからだ。
百代は静初を抱きしめたまま近づいてくる人の方へと向き直る。
「征士郎、やっぱり李さんは私がもらっていく!」
「誰がやるか、阿呆」
「あー! アホって言ったアホって! アホって言うほうがアホなんですぅ!」
「お前は子供か……」
そこへ外からもでかい叫び声が聞こえてきた。皆がその声の正体を突き止めようと窓へと駈け寄る。どうやら福本軍が騒いでいるらしい。団子状態になって全身で悲しみを表している。
「李さんが……あの可憐な美人メイドさんに……恋人、だと!?」
「嘘だッ!! 李さんに彼氏……しかも相手は会長……勝ち目ねえじゃん!!」
「なんて日だッ!!」
「士郎先輩!! おめでとうございます!! 紋様のことはお任せください!!」
「こ、これは源氏軍の策略だ! 俺たちの心を揺さぶってきやがったんだ!!」
「な、なるほど! 良い子ちゃん集団かと思いきや、きたねえぞ! おら! 策略だろ!!」
「そうだ! でもなぁ俺たちは? 男友達とつるんでるほうが楽しいし? ほら女って金かかるだけじゃん? 全然、ぜんっぜん羨ましくないし!」
「童帝の言う通りだッ! 全然羨ましくねぇな! 女なんて面倒なだけだ!」
「源氏軍の策略は俺らにきかねえ! 策略なんだろ!? なぁおい! ウソでもいいから策略だって、このひと時だけでもいいから策略だって言ってくれよぉ!!」
「会長―! いや征士郎様―! 俺様にどうか従者部隊の美人さんを紹介してくださぁーい!! 俺様死ぬ気で働きますからぁー!!」
「おい、島津ずりぃぞ!! そんときは合コン開いてみんなにチャンスを与えるべきだろ!!」
「俺盛り上げ役とかチョー得意だから! 俺を呼んで損はさせないぜ!?」
校庭で騒ぐ福本軍を見下ろす百代は大きくため息を吐いた。
「征士郎……川神学園の恥部が公に晒されているぞ」
「多様な人材が集まってこそ学園。格式ばっていないというアピールにもなるだろう」
「お前すごいポジティブだな」
「ところでそろそろ静初を離せ」
「いーやー。李さんは嫌がってないもーん」
征士郎はまたすりすりと頬ずりする百代に頭を悩ますが、そこにさらなる頭痛の種が生まれる。
「ももちゃんだけ、ずるーい。私も私も!」
そう言ってくっついたのは燕だった。百代の反対側から抱き付いてころころと笑う。
「おい……燕?」
「何かな、征士郎君?」
「俺の言葉を聞いていなかったのか?」
「聞いてたよん」
そのやりとりの外では百代が清楚を誘っており、清楚がどうしようかと悩んでいる。
征士郎はそれを目ざとく見つけ、清楚に声をかけようとしたときには時既に遅し。遠慮がちに静初へとくっついてしまった。そんなミノムシ状態になった美少女たちに、他の男たちは目の保養と傷ついた心を癒そうとしている。
一人残ったマルギッテはさすがに混ざることはなかったが、微笑ましい表情で見守っていた。
その中心、3人の抱き枕と化した静初はその間で少し眉を下げて征士郎を見た。どうしましょうと問いかけるような瞳である。
校庭は九鬼征士郎の恋人発覚を知った観客まで盛り上がっている。これは川神市内の人間が多いからだろう。校舎内も校舎外も模擬戦が始まる前だというのに、既にお祭り騒ぎである。
その後、第2試合に出場するため征士郎と静初が校庭に現れると、割れんばかりの盛大な拍手で迎えられることとなった。
◇
黒塗りの車を夕日が照らし出している。お抱え運転手である西条は、人通りのほとんどなくなった学園の校門を見たまま、微動だにせず主の登場を待った。それから数分後、真っ白化粧を施した小柄な男の姿が見えた。
西条はそれを確認するなり、後部座席の扉を開き迎える準備をする。それから主が車に乗り込むまでの間、ずっと頭を下げていた。
乗り込んだことを確認し後部座席の扉を閉めたのち、自らも運転席に乗り込んだ。そうして密室となった車内で、すぐに主の小言が聞こえてきた。
「あの野蛮な成金の息子のどこがいいのか、の」
西条はアクセルを踏みながら思った。またかと。西条の仕えている主――綾小路麻呂はいつも車に乗るたび、最低1個は誰かの悪態をつく。それは生徒のことであったり、同僚のことであったり、時には理事長すらも罵る。そして、ここ数年一番罵っているのが成金の息子、九鬼征士郎のことであった。
西条はバックミラーを通して麻呂を見た。これはかなり機嫌が悪いとすぐにわかった。お付きの運転手を始めて6年。麻呂の顔色をうかがうことなど造作もなくなっていた。
しかし、なぜそこまで機嫌を悪くしているのか聞いたりはしない。西条にとって麻呂の心情など知ったことではないのだ。
麻呂が出かけるときの足になるのが西条の仕事。話かけられれば必要最低限のことは答えるが、わざわざ危険を冒して首を突っ込むこともない。そういうご機嫌取りは権力に群がる蟻たちが勝手にやるだろう。特にイライラしているときの麻呂はどこに地雷が潜んでいるのか分からない。
西条の前に運転手を務めていた男は、口が災いして綾小路から姿を消したとも聞いていた。それが新人を脅すための冗談だったのか、あるいは本当だったのかはわからないが、これまでの経験を踏まえて考えると十分にありえる話だった。
「九鬼の小僧に恋人? なぜあの小僧にできて麻呂にできんのか、の?」
西条の耳に飛び込んできた麻呂の疑問。
これはまずい。西条はハンドルを強く握りしめた。麻呂は先日見合いを断られたばかりなのだ。相手は北陸の名家だったが、親同士が乗り気だっただけで相手の女性が嫌がったらしい。それでも麻呂好みの女性ということもあって、半ば強引に見合いの日取りが決められかけたが、相手方の親が川神に来たとき一転して断りを入れてきたとのこと。当然、麻呂は怒り心頭だったが、この世で唯一頭の上がらない存在である父の言葉には逆らうことができず泣き寝入りとなった。
しかもその相手の年齢が中学生だったという。それを聞いたときは西条も驚かずにはいられなかった。いくら平安時代に憧れているからといってもそれはないだろうと。
麻呂は早く身を固めたいとずっと思っているようだが、そんな気持ちとは裏腹に結婚は中々決まらない。そのイライラもあるのか、部下に恋人や婚約者ができることを許さない。その噂を聞きつけると必ず裏をとって露骨にいびり始めるのだ。
綾小路家のNo.2に目を付けられれば即アウト。大麻呂は家を空けている日が多いので実質No.1のようなものだった。そして、いくら気骨のある人間でも最後は綾小路家を去っていくのだ。さらに悪いのが、このことを大麻呂に知られることがないように手を回していることだった。それは麻呂自身が行っているのではなく、周りに侍るイエスマンたちが勝手にやっているのだ。要するに麻呂に対する点数稼ぎ。彼らは麻呂の印象をよくするためなら大抵のことはやってのける。綾小路に迎えられるだけの才覚を持った者たちだが、それが悪い方向へと使われていた。
苦言を呈することができるといえば大麻呂の側近たちだが、麻呂は話だけは聞くものの決して従ったりはしない。側近といえども身分は下だと判断しているからだ。それに加えて大麻呂の甘やかしもあり、手の付けられない状態である。
それは学園でも言えることだった。綾小路の燦然と輝く看板を振りかざし、生徒たちを従えようとする。
しかし、それが九鬼征士郎の登場で揺らいだ。彼が生徒たちを統べる存在となったからだ。しかも生徒たちはそれを嫌がるどころか歓迎さえしていた。明るく挨拶を交わし笑顔を見せる。そんな対応の違いがますます憎く思えたのだろう。だが、それを今までのように綾小路の名によって押さえつけることができない。なぜなら、九鬼という存在を彼の後ろに見てしまうからだ。
いくら嫌っていようと九鬼がどれほどの力を持っているのか、麻呂もわかっているのだ。
しかしそうなると麻呂のストレスは溜まる一方である。なんせ今まで自分の思い通りにできていたところに、どうすることもできない存在が現れたのだ。
九鬼征士郎はのびのびと学園生活を過ごし、麻呂は隅へと追いやられる。この事実を麻呂は認めることができないのだ。
そこにきて、この恋人の話題である。今日はいつもに増して機嫌をとるのが難しくなるだろう。
西条はそう考えていたが意外にも麻呂は理性的だった。
「ま、その恋人は薄暗い過去を持つ女よ。両手を血で汚した女などあの小僧にはピッタリな相手だ、の」
麻呂はくつくつ笑い声をあげ、西条はその異様な様子に寒気を感じた。さらに麻呂は珍しく西条へと声をかけてきた。
「西条。お主は暗殺を生業としていた女を伴侶にしたいと思うか、の?」
「いえ……無理でしょう」
「うむうむ、それが普通の反応でおじゃる! 人殺しを行っていた女など生きている価値さえない、の! もし生きるとしても、表ではなく裏でひっそりと売女でもしているのがせいぜいでおじゃる。まったく汚らわしい」
そこまでは言っていない。西条は心の中だけで否定した。麻呂に逆らうなど百害あって一利なし。たてついた人間の悲惨な末路は噂でいくつも耳に届いている。その数々が部下たちを怯えさせ、麻呂に従順な人形を作っていくのだ。
自分もその一体かもしれないと西条は自嘲した。
麻呂は賛同を得られただけで満足らしく、饒舌に語りだす。
「しかし体つきだけは悪くないから、の。あの小僧はそれに惹かれたのやもしれぬ。もしくは既に身ごもっておるかもしれないでおじゃる。それならば何と幸運な売女であることか。今頃、ほくそ笑んでおるかもしれないでおじゃる。怖い怖い、ほほほほ」
西条はただ黙って麻呂の笑い声を聞くだけ。
「成り上がりには相応の相手だ、の。雅な麻呂には理解できぬ……さすがは九鬼、鬼の文字を冠するだけあって野卑でおじゃる。九鬼の当主はなんとも思わないのか、の? ああ、当主も当主で粗野な男ゆえ気にもせんでおじゃるな。ほほほほ」
麻呂はどうしようもない人間だが、このときだけ我慢すれば高給をもらえるのだ。日本でここよりいい条件をだせる雇用先などそれこそ九鬼ぐらいだろうが、九鬼は実力主義ゆえ怠慢は許されない。西条は自身がそこまでの向上心を持ち合わせていないと理解していた。
「雑多な血筋はこれだから困る、の。綾小路が作り上げてきた日の本の印象が悪くなってしまうでおじゃる。のう西条?」
「仰る通りです」
西条はお決まりのセリフを返し、麻呂はそれに大きく頷きまた声を出して笑った。
自宅付近にまで帰ってきたことに気づいた西条はほっとしていた。これの続きは麻呂に気に入られたい連中が喜んで引き継いでくれるはずだ。
綾小路の将来はどうなるのか。西条はふと思った。九鬼征士郎への憎悪は溜まる一方であり、今回のことでさらに悪化するだろう。そのせいで、そう遠くないうちに九鬼に対する越えてはいけない一線を見誤ってしまうのではないか。たとえ今はなんとか我慢できても、麻呂が綾小路の全権を手に入れたら、それが一気に噴出し取り返しのつかないことを犯してしまうのではないか。それとも、それすらも闇に葬ってしまえるのだろうか。
西条はもう一度ミラー越しに麻呂を見た。そのとき、麻呂の線を引いたような細い目と視線がぶつかった。冷笑的な薄笑いのせいでさらに目が細くなっており、それが白塗りの顔と合わさって本当の能面のようである。
ぞっとした西条は言葉を発さずすぐに目線をはずした。幸い、麻呂から声をかけられることはなかったが、西条は彼が車を降りていくまでうまく呼吸ができなかった。
麻呂を好きな人がいたらごめんなさい(棒読み