入学式から数日が経過した。
その日、授業が終わった征士郎はその足で学長室を訪れていた。なんでも学長から話しておきたいことがあるらしい。
何度か訪れたことがある学長室は落ち着いた重厚ある雰囲気が保たれている。扉を開けてまず目に入るのが、奥に鎮座しているずっしりとした机と黒の革張りの椅子。その背後には大きな窓。そしてその窓の右手にある置時計である。反対側には本棚があった。
壁には学長直筆で「切磋琢磨」の力強い文字が飾られている。応接のために設けられたテーブルと4つの一人掛けソファは扉から一番手前――つまり征士郎らが入ってすぐのところにあった。
征士郎はその一つに腰掛け対面には学長が座る。李はお茶の準備を進め、それが出来次第彼らの前へと差し出した。
「儂にも李ちゃんみたいなメイドさんが欲しいのう」
川神鉄心(かわかみ・てっしん)。この川神学園の学長であり川神流総代として世界に名を轟かす人物。袴につるりとした頭。シワの入った目元。ふっさりとした白い顎髭とその姿は好々爺そのものであるが、かつてはヒュームのライバルであり、現役を退いた今でもそこいらの武人100人程度なら軽く一捻りできる実力を有する。そして言動からも察することができるように百代の祖父にあたる。
鉄心は茶を用意してくれた李に礼を述べると早速口をつけた。その彼女も準備が終わると征士郎の隣へと腰を下ろす。鉄心が座るように促し征士郎もそれに同意したからである。
「学長にはルー先生がおられるのでは?」
ルー・イー。川神流師範代で鉄心が信頼をよせる中国拳法の使い手である。七三分けにジャージ着用。いつも変なポーズをとっており、それによってなんでも気の流れがよくなるらしい。川神学園では体育を担当している。
「征士郎よ。儂は美人なメイドさんが良いのじゃ」
どこかで同じやりとりを行った気がする。
「そういうことはあまり生徒の前では言われない方がよろしいかと。学長の威厳が損なわれます」
「大丈夫じゃ。儂クラスになるとむしろ己を曝け出さんと皆が畏れるばかりになる」
鉄心は気づいているだろうか。女生徒の大半がエロ爺と思っていることを。
いやむしろ鉄心の思惑通り、それは身近な存在として認識されているということなのだろうか。例えそれが悪い方向であったとしてもだ。
征士郎はドヤ顔で語る鉄心に頷く。
「ならば、私から言うことは何もありません」
「うむ。で、なんじゃが……」
鉄心は征士郎から李へと視線を移す。
「メイドさんはやっぱりガーターベルトとか付けるのかの?」
学長室の空気が凍る。征士郎の瞳は細くなり盛大なため息を吐いた。言葉は何も発さないがそれが余計に恐ろしくもある。
置時計の時を刻む音がやけに大きく響く。
(血は争えないというやつか)
この質問は既に百代がしたことあるのだ。しかし彼女はまだ女性だから許されよう。
そして、その隣では李がこれは答えるべきなのかどうなのか迷っていたりする。全く真面目な専属であった。
征士郎も思わず「おいジジイ」と言いかけるところだったが、寸前でその言葉を飲みこんだ。
「学長……」
「じ、冗談じゃ。学長ジョーク、じゃからそのゴミを見るような目つきはやめてくれんか?」
「ならば私が次に言いたいこともお分かりになりますね?」
ちなみに李はガーターも着けている。ロングスカートのため中は見えないが、黒のストッキングも履いているのでそれがずれないようにだ。そして下着もそれに合わせて色は統一してある。
その色は「決して征士郎が好んで着用するとある色に合わせているわけではない」というのが、ステイシーにからかわれたときの本人の言であった。真実は闇の中である。
征士郎は茶で喉を潤すと、呼び出された用件について尋ねた。
「それなんじゃが3週間後くらいに転入生が一人入って来る予定でな。その親御さんが今日学園に来るんじゃ」
「転入生ですか……入学式に合わせればよかったものを、というのはこの学園で言っても仕方がありませんね。わかりました。それで私はどうすれば?」
「いや、その親御さんが学園をまとめるお主にも会っておきたいと言ってきての。こうしてお主を招いたわけじゃ」
そこで李が「席を外した方がよいか」と問いかけた。
鉄心が首を横にふる。
「いや、李ちゃんはおっても良いぞい。というか、この場所に男3人だけとか儂耐えられんし」
征士郎からも「好きにしていい」と言われた李は立ち上がり、彼の後ろへとたった。
「では従者としてお傍に控えております」
「メイドさんいいのう」と呟いた鉄心を征士郎は無視した。
その後ヒュームの様子や百代のこと、既に2カ月をきったクローン組の転入などについて会話を交わす。
それから10分と経たずして学長室の扉がノックされる。
◇
ルーが連れてきたのは2人のドイツ人であった。前を歩く男性は勲章のついた軍服に身を包んでおり、厳めしい顔つきにメガネをかけている。厳格な雰囲気はいかにも軍人らしいものである。
その後ろに付き従う女性もまた似たような空気を持っていた。血を連想させる深紅の髪に瞳。その左目には黒の眼帯を付けている。軍服こそ地味だが元の容姿が彼女を際立たせていた。
征士郎は彼らの容姿を見てすぐに誰なのか予想がついた。
男の名をフランク・フリードリヒ。ドイツ軍中将にして稀代の名将とも謳われるその人。
女の名をマルギッテ・エーベルバッハ。欧州の神童または猟犬の異名を持つ軍人。
そのマルギッテだが、征士郎の後ろに立っている李を見た瞬間、瞳を一瞬鋭くさせる。
(随分好戦的な性格をしているな)
征士郎はその様子を見て思った。あれは百代が時折覗かせる感情であると。
互いに自己紹介を済ませ席についた。
まず口火をきったのはフランクであった。
「活気があって良い学園ですね。入って来る情報でも分かってはいましたが、実際に生徒たちの目を見てそれがよくわかりました。ここなら娘のクリスも十分満足するでしょう」
鉄心がそれに答える。
「気に入ってもらえたようで良かったわい。中でもこの1年は例年とはまた一味違った年になるからの。娘さんはこの時期に来れてラッキーじゃったと思うぞい」
武神である川神百代。九鬼財閥後継である九鬼征士郎。この2人を筆頭に2年1年と生徒の質から言っても文句なしに高い。互いを磨き合うには絶好の機会でもあった。
さらにクローン組の転入もあり、それに伴って征士郎からの提案により模擬戦が行われる予定となっている。しかし、今はまだ鉄心の心の内に留められていた。
その鉄心の力強い言葉に全貌を知らないフランクではあったが、娘の成長につながることを喜んでいるようだった。
その後征士郎自身の話題にもいくつか触れたが、生徒をあまり拘束するのも悪いとフランクが発言し、最後にマルギッテを少し案内してやってもらえないかと頼んできた。
征士郎を自身の目で確かめておきたかったというのが本音だったのだろう。
そして解放された3人だが、学長室から離れたところで征士郎が口を開く。
「そうギラついた目をするな、マルギッテ・エーベルバッハ。そんなに李が気になるか?」
「かなり腕がたつと見ました。私と勝負しなさい、李静初」
立ち止ったマルギッテと征士郎らとの間に距離ができる。窓からは夕日が差し込み彼らの横顔を照らした。
やる気十分のマルギッテだが、李はそれに応える様子はない。
「マルギッテ様と勝負する理由がありません」
「逃げるのですか? 九鬼従者の名が泣きますよ?」
「どう捉えていただいても構いません。ただしそれは九鬼従者ではなく、私個人のことですので」
「ならば……」
マルギッテはそれだけ呟くと右足に力を込めた。
そこで待ったをかけたのは征士郎であった。相手は九鬼従者とはいえ、一方的に攻撃をしかけるというのは九鬼に弓引く行為と同じ。その場合こちらもそれ相応の態度を示すことになると。
しかし、マルギッテの戦闘衝動は収まらないようだった。事情は理解したが、これをぶつけることができないことに酷く不快感を抱いているらしい。
「合意があれば構わんのだ。李、お前の力を俺に見せてくれないか? 序列も上げさらに強くなったと聞いている。どうだ?」
李はすぐさま了承した。今なお磨き続けている武は、全て征士郎という御身を守るためのもの。九鬼には序列という分かりやすい指標があるが、戦闘以外のものによってもその評価が変わるため、自身が強くなっているという証明にはなりにくい。
しかし、目の前にいるマルギッテは猟犬の名が示す通り数々の戦場を駆け抜けてきた強者である。加えて、李はあずみからその名を聞いたことがあった。
自らの武を進んで誇示しようとは思わないが、主に評価されるならこれ以上の幸福はない。
(少し自分を試してみたい)
そういう気持ちがないと言えば嘘になる。九鬼従者部隊における高みはまだまだ上だ。その頂点に立つのはヒュームであるのだから当然であるが、自分が今どの辺りにいるのか。どれほど通用するのか。主を守り切るだけの力がついたのか。確かめてみたかった。
「お相手致しましょう」
李は左足を前へ出すと半身になった。
◇
征士郎は目の前で繰り広げられる戦いに感心していた。自身の専属が負けることなど微塵も考えなかったが、まさか圧倒するほどとは思わなかったのである。
鈍い音が数度征士郎の耳に届く。李の放った突きがマルギッテに刺さっていた。
両者が再び距離をとったとき、マルギッテが一瞬顔をしかめた。それとは対照的に李は普段通りの涼しい顔のまま。しかしその双眸は相手の一挙手一投足を見逃すまいと見つめたままである。
マルギッテが激しく吠える。
「ふざけているのですか!? 貴様の動きを見れば分かる。獲物を使うのでしょう! なぜ使わない!?」
「それはあなたもでしょう? その腕に仕込まれたトンファー。使いたければ存分にどうぞ」
「Hasen Jagd!!」
再び吠えるマルギッテは両腕からトンファーを取り出しその柄を握った。低い姿勢から接近する彼女はまるで赤い蛇のよう。そして、その鋭い牙を相手に突き刺そうと大口を開ける。
フェイントを挟み、それゆえに彼女の髪が大きくうねる。李はピクリとも動かない。
とった。マルギッテがそう感じた瞬間であった。左腕を振り切り、李の首元にトンファーが入ったはずだったのだ。避けることなどできない距離。そのはずだった。
まるで亡霊――。
数えきれない人数を沈めてきたトンファーは、李の体をすり抜け空を切る。その威力を物語るように風切り音がうなった。だがそれははずしたという何よりの証拠。
マルギッテの瞳が大きく見開かれた。何が起こったのかと。目の前にいたはずの李は既に消え去り、跡形もなくなっている。その気配さえ感じられない。
そんなマルギッテの左耳に李の静かな声が届く。
「私の武器は大っぴらに使うものではありませんので……」
そのときになってようやく李の存在を再認識できた。彼女の手にあるのは匕首。
一瞬だった。そこから李は突きだされたマルギッテの左腕を背中へとねじり上げ、同時にそれを首元へと押しあてたのだ。このまま滑らせればそこに血のシャワーを降らせることができる。勝敗は決した。
硬直する2人。いや、この場合マルギッテが硬直せずにはいられなかったという方が正しい。
「見事だ、李!!」
征士郎の声が響くやいなや、李は暗器をしまいマルギッテの拘束を解いた。彼は言葉を続ける。
「そしてマルギッテよ……これで少しは満足できたか? ちょうどお迎えも来たらしい。いつから覗いておられたのか……まぁいい。もう会うこともないかもしれんがさらばだ」
「失礼致します、マルギッテ様」
2人はそう言い残しマルギッテに背を向ける。彼らは歩きながらも先の戦いに対する褒美について話していた。征士郎が「何が良いか」と問い、李は「お褒めの言葉だけ十分です」と返している。主従関係は至って良さそうである。
結局、征士郎に押し切られた李は小声で何やらお願いしていたが、彼は怪訝な表情を見せ「そんなことで良いのか」と聞き直していた。「十分です」と答えた彼女の頬は少し赤みを帯びていたようだが、マルギッテに見えるはずもなく、また征士郎でも夕日のせいでそれが分からなかった。
「お見苦しいところを見せてしまいました。申し訳ありません」
マルギッテは現れたフランクに向かって謝罪した。
「勝敗は兵家の常という。これも一つの経験だ、マルギッテ。君ならこれを糧にさらなる成長を遂げてくれると私は信じているよ」
「ありがとうございます。必ずや!」
マルギッテ自身かなりの負けず嫌いである。必ずリベンジを果たすと心に誓っていた。
「しかし相手も強かったな。李静初……だったか?」
「はい。さらに中将閣下もお気づきであると思われますが、あの者の本領が発揮されるのは暗殺でしょう。しかしこの私と真正面から拳を合わせてきた……こちらもかなりの修練を積んできたと思われます」
マルギッテの予測通り、李は専属となった頃よりたびたびヒュームの下で近接格闘における実戦経験を積みあげてきたのだ。数年かけて取り入れられるもの全てを吸収すると言わんばかりの集中は、確実に実を結び始めていた。それを可能にしたのは李の才能と呼べる異常なまでの集中力と器用さであった。
加えて、そんな相棒の姿を見てステイシーが触発されないはずがない。負けていられないと対抗心を燃やして日々鍛錬に励んでおり、ヒュームもそれを歓迎しているとのことだった。以上、余談である。
果たして暗殺を仕掛けられたとき、自身はそれを防ぐことができるのか。マルギッテはそう考えたとき背筋に冷たいものが走る。それと同時にふつふつとマグマのように湧きあがって来る何か。
(李静初、貴方を認めましょう)
マルギッテには分かる。李がどうしてあそこまで力を伸ばすことができたのか。自身にも必ずや守り通すと決めた人がいるからだ。それが彼女にとっては九鬼征士郎なのだろう。
どういう経緯を辿ったのかは知らないが彼女もまた良い主に巡り合えたということだ。
(李静初、その主の九鬼征士郎……そして川神学園か)
マルギッテは再度征士郎らが姿を消した廊下の先へと目を向ける。それを見ていたフランクは何か考え込んでいるようだった。
それから2日後、学長の口より「転入生は1人から2人になった」と征士郎は聞かされることとなる。
原作とは色々変えています。
7.6 修正