マルギッテと別れた後、征士郎らを校門近くで待っていたのはステイシーであった。
「おかえりなさいませ、征士郎様。少しお時間がかかったみたいですけど何かあったんですか?」
ステイシーが後部座席の扉を開きながら問いかけてきた。
転入生の親がフランク中将であったこと。その付き添いに欧州の猟犬がいたこと。そして李が彼女と手合わせをしたこと。征士郎はそれらをかいつまんで説明した。
運転席に乗り込んだステイシーはエンジンをかけるためキーを回す。
「へぇー猟犬ですか。その名前をここで聞くとは思いませんでした。……で、李はきっちり勝ってきたんだろうな?」
「征士郎様の前で無様を晒すなどありえません」
きっぱりと言い切った李の言葉に、ステイシーは笑みをこぼす。やはり相棒の勝利は嬉しいらしい。
「へへっ、それでこそ私の相棒だぜ。でもこれから大変かもな。猟犬は執念深いことでも有名だ。再戦申し込まれるかもしれないぜ?」
「どうでしょう? こちらは日本、あちらはドイツ。今回は付き添いで来られただけのようですし会う機会もそうないのでは?」
李が首をかしげた。それに対してステイシーは数度舌を打ち、首を横に振る。
「甘いな、李。まるで炭酸の抜けたコーラのように甘いぜ。フランク中将と言えば親バカでも有名なんだよ。なんせ娘の誕生日に軍を動かして祝うようなクレイジーっぷりだ。その何よりも大切にしている娘を日本に一人置く……放っておくと思うか?」
「なるほど」
「さらにだ、猟犬もそれに影響されてか知らないがその娘を宝のように扱ってる」
もしかしたら猟犬をそのまま一緒に転入させてきたりしてな。ステイシーはそう言ってニシシと笑う。征士郎はそれを中々面白い予想だと褒め、李はまさかという表情を作っていたが結局軽い冗談だとして流していた。
話はそこからフランクの強さへと及び、彼の率いる部隊のことにまで至った。
フランクに関係する話が一段落ついたところで征士郎はあることを思い出す。
「そういえば、李は最近マープルにも教えを請うているらしいな」
「はい。マープル様の知識や経験は有用なものが多いですから。計画が露見してから数名ではありますが、若手従者との交流もされるようになりました。そのときに私からお願いを」
それを聞いたステイシーは、「よくやるぜ」と呟いた。彼女にとっては、老人達の中でも頭脳派であるマープルとは特に馬が合わないらしい。
「それならまだヒュームの爺と殴り合う方が数倍マシだ」
征士郎がその言葉に感心する。
「あれだけ絞られながらもまだヒュームの方がマシか。頼もしい奴だ。ヒュームがそれを聞いたら喜ぶぞ」
「あのー征士郎様……今の聞かなかったことにしてくれません?」
それに答えたのは李であり「では毎日ギャグ10個聞いてください」と対価を示した。
「てめぇには頼んでないだろ!! しかもギャグ10個って……笑えねえギャグを聞くこっちの身にもなれや!」
「今度のものは自信があります」
「李、その言葉……私に言ったの何回目か覚えてるか?」
「覚えてません」
「そうだろうな! それくらい何回も言ってんだよ! その度にお前は打ちのめされてきたってのに……」
「めげない所も私の良い所だと征士郎様は褒めてくださいました」
えへんと李は少し胸を張る。もっともその姿はステイシーには見えていなかったが。
「征士郎様ぁー!! 言っちゃなんですけど余計なこと言わないでくださいよー!! 被害受けるの大概私なんですから!」
うがーっと吠えるステイシー。そして征士郎へと助けを求める。
征士郎は苦笑しながらもそれに応えてやることにした。
「李、ここで一つギャグを言って俺かステイシー……どちらかを笑わせたら、そうだな、俺も毎日聞いてやろう。その代わりに駄目だったら今回は諦めろ」
あっさりと頷いた李は本当に自信があるようで既に準備は万端だった。対するステイシーは何がなんでも笑うつもりはないのだろう。「よし、こい!」と気合十分である。ハンドルを握る手も力が入っていた。
(面白い従者たちだ)
征士郎自身、従者の中でもこの2人を特に気に入っていた。なんだかんだ言いつつ仲の良い2人であるため、見ているだけでも楽しくまた癒されるのだ。
李は咳払いを一つして「いきます」と真剣な顔を作る。先のマルギッテとの戦いを彷彿とさせるような緊迫した空気が車内を包む。
「今日はビールをあびーるほど飲みましょう」
ビールをチョイスしたのはドイツつながりだからだろう。
遠くからパトカーのサイレン音が聞こえた。どこかで事件が起こったのかもしれない。
ステイシーが「この街で警察官見た事ありますか」と征士郎に問う。彼は「存在は聞いたことがある」と答えた。先の張り詰めた空気はどこへやら、いつの間にか日常会話へと移行していた。
李も辛抱強く笑いを待っていたが、そのときが訪れることはないと悟りしゅんとしていた。
今回の件、見送りが決まった瞬間であった。
◇
その夜、征士郎が書類を片づけて部屋を出ると声がかかった。
「兄上、ただいま戻りました!」
その声は可愛いものではなく低い男のもの。
「おかえり、英雄」
征士郎の振り向いた先には弟が立っていた。
九鬼英雄(くき・ひでお)。逆立てた短い銀髪に力強い瞳。額にバツ印があるのはもちろんだが、彼は他の兄妹に比べ肌が日焼けしており黒い。おそらく常時日光のあたる場所にいるからだろう。
征士郎はちょうど夕食をとるところであったため英雄を誘う。
「おお、いいですな! 兄上とともに夕食など久しぶりです」
「そういえばそうだったな。お前は練習漬け。俺は俺でご飯時が不規則だからな」
中学で全国制覇をも成し遂げたスーパールーキーは、強豪校からの誘いがあったにも関わらず「一から甲子園を制覇してくれる」と豪語し、兄のいるこの川神学園へと入学してきたのだ。武道で知られている川神学園だが、スポーツ関連の部活動もそれなりに結果を残している。しかし野球部に関して言えばお世辞にも強いとは言えなかった。
そこへ乗り込んできた英雄は、当然1年生ながら投手で4番を務め、その夏、地区大会の準決勝まで駒を進める立役者となった。もちろんそれは英雄の力だけではない。彼の女房役である山田、熱血漢で怪力自慢の荒木、俊足のお調子者である丸井といった小学あるいは中学からの仲間が、彼のもとへと集ったことも大きな原因であった。
1年生の多くが活躍し地区大会に旋風を巻き起こしたことで、川神は一時期大いに湧き地方紙でも取り上げられたほどである。
そして今年、春季大会への出場キップを手に入れた川神学園は、学園創設以来初めてとなる甲子園出場を果たし優勝を狙いに行くところであった。
もちろん全てが順風満帆だったわけではない。部内でも問題が起こったこともあった。
しかしここ川神学園には、他の学校にはない決闘というシステムがあったことが幸いした。
文句があるなら野球において勝負する。敗者に文句を言う資格はないということであった。これによって先輩後輩の対立など一気に解消し、納得のいかない者はそのまま去っていった――こういう具合である。
実力を示せば認められる。それにしても英雄などは彼の個性とも言える超絶俺様主義がさく裂していたが、そこは昔からの仲間もフォローがあり、何より勝利という結果を出し続けたのが大きかった。
加えて英雄のカリスマ性もあったのだろう。時に鼓舞し時に叱咤し、常にチームの先頭をきる彼の姿に惹かれるものがあったと思われる。
そんな英雄の下に残ったメンバーたちは、今年の夏に本気で全国制覇を目指している。
征士郎と英雄は隣同士に座り、あずみと李がそれぞれの主へと配膳していく。
「やはり、こうやって家族と夕食を囲むというのは良いものですな」
英雄の表情は明るい。征士郎も似たように柔らかい表情をつくっている。
2人とも育ちざかりの高校生のため、夕食もどんどん平らげていった。
「父さん、母さん、姉さんは忙しいし、俺も時間が中々合わないからな。紋も一緒に食べられるとよかったのだが……」
「今頃は京都でしょうか」
「多分な。ところで英雄はどうなんだ? 気の早い新入生などは練習に参加していると聞くが?」
「はい。即戦力となりそうな者が2人ほど、あとの者も鍛えれば十分に戦力となりうるかと。選抜も近いです。我は今からまだ見ぬ強者との戦いに胸が躍るばかりですぞ、兄上!」
浮かれてケガしないようにしろ。征士郎は爛々とした瞳で語る英雄を諌めた。
力強く返事をした英雄が問いかける。
「兄上のほうはいかがです? 腕のお加減は?」
英雄は時々こうやって征士郎の体に気を遣う。いや気を遣わないことなどできるはずもないのだろう。英雄らを守った代償が征士郎の片腕であったのだから。
もちろん征士郎は英雄に言った。気を遣う必要はないと。
そしてそれは紛れもなく本心であった。なぜなら征士郎は成長した今になって思う事があったからだ。それは腕を失くしたことで、大切なことに気づくことができたということだった。
征士郎に腕を授けてくれた海経。その腕の製作に関わった数十人に及ぶ技術者。見守ってくれた家族。支えてくれた従者。命を繋いでくれた医師。病室での看護を行ってくれた看護師。何度も見舞いに来てくれた友。果てはリハビリ中応援してくれた老婆など。
多くの人間が征士郎に関わり、それによって生かされているということ。
事件が起きる前までは、ただ漠然と将来九鬼を継ぐのだと征士郎は思っていた。彼自身、それでいいと思っていたし多くの従者を連れて歩く父の姿をカッコイイと憧れていたからだ。そのまま成長していてもその地位は与えられたかもしれない。
しかし征士郎はその気付きを経て、自らの意思で九鬼の後継となることを決意した。
今度は自身が多くの人間と関わりその者達を活かしていく。
そのことが何か違いを生むのかどうかわからない。評価できる者がいるとしたら、子や孫またはその子孫たちだろう。
腕一本で英雄と幼子の命。そしてその決意を手にすることができたのだ。
(安いものだ)
だから、征士郎はいつものように笑って答えることができる。
「問題ないよ」
英雄はその言葉に大きく頷いた。
普段より賑やかな食事が続く。
◇
英雄は鏡の前でフォームのチェックを行っていた。
片足を上げ、軸足一本でしっかりと姿勢を正し、腕を振り抜くときは腕を引きすぎないように注意する。そして踏み出した足と同時にスムーズに前方へと体重を移動させ、その間に腕を振り抜く。
利き腕に握られたタオルがパンッと乾いた音を鳴らした。最後までフォームを崩さないよう意識を集中させる。
基本に忠実に――それを何度も何度も繰り返す。
(まずは春の選抜。……見ていてください、兄上)
自分はプロへと進みメジャーを制する。
幼い頃、英雄は自身の夢を征士郎へ話したことがあった。兄である彼は笑ってその夢を応援し――。
そして文字通り身を挺して、それを守ってくれたのだった。
感謝している英雄だったが一つ知ってしまったことがある。それは征士郎が自身の腕を失くしたことで、英雄を野球へと縛ってしまっているのではないかと不安を抱いていることだった。
『英雄は楽しんで野球ができているかな? 俺のせいでやりたい事がやらなければならない事になっていないかな?』
入院中の征士郎が、局と会話している中でポツリと呟いた言葉である。征士郎がそのことを口にしたのはたった一度きりである。英雄はそれを偶然聞いてしまったに過ぎない。
征士郎に言わせれば、英雄には他にも無数の道が開かれており、それこそ九鬼を背負い繁栄に導く未来も可能性もあった。だが不幸にも、あの事件が英雄の道を一本に絞ってしまったのではないか。
征士郎は助けられたことを安堵しながらも、心の片隅にはそんな後悔があった。
それを聞いた局は優しく諭すように「英雄は心から楽しんで野球をやっている。母の言葉を信じ、今まで通りあの子の夢を応援してあげなさい」と元気づけた。
そのときに飛びだして気持ちを伝えておけばよかったが、英雄は兄がそんなことを考えていたなんて知らなかったためその場に固まってしまったのだ。
自分のことよりも他を気にかける。大変なのは腕を失ってしまった征士郎のはずなのに、この期に及んでも弟である英雄の心配である。
それ以来、英雄の心にはそのことがまるで小さな棘のように刺さったままだった。
(テロが起こったあの日、兄上が身を挺してくれなければ、我はこの場にいなかったかもしれない)
英雄はタオルの握られている右手を見つめる。あの日征士郎が抱いた気持ちも助かった今だからこそ考えられることだった。
英雄はあの地獄を今でも鮮明に覚えている。いや忘れようにも忘れられない。そして忘れるわけにはいかなった。
炎があちこちで燃え上がり、息を吸い込もうにも煙が邪魔をして上手に呼吸ができない。揺れる足元に、自身の腕の中で泣き震える幼子。そして倒れ伏し身じろぎ一つしない人々。華やかなパーティ会場は一瞬にして様変わりしていた。
英雄は爆風で吹き飛ばされあちこちに擦り傷を負っていた。傍についていた従者の姿は見えない。そして何より気がかりだったのは、自分のために料理を取りに行ってくれた兄の安否であった。
大丈夫だ。英雄が幼子に繰り返すその言葉は自身に言い聞かせ、さらには奮い立たそうとするために呟いていたのかもしれない。
そして運命の瞬間が訪れた。天井の崩落である。無傷であった征士郎はそれにいち早く気づき駈け出していた。彼もまた英雄を探していたのだ。
英雄が兄の声を聞いたとき、彼は既に突き飛ばされていた。英雄の瞳に映ったのは兄のほっとした笑顔。だが、その笑顔が一瞬にして灰色に塗りつぶされた。
征士郎が助けに入らずとも英雄と幼子は無傷であったかもしれない。父譲りの豪運があるのだから。
もしくは英雄自身が身を挺して幼子を守りきったかもしれない。たとえ何かを犠牲にしてでも。
しかし、これらは全て仮定の話である。
あの瞬間、征士郎は2人を突き飛ばし、その結果彼の左腕の上に天井の分厚いコンクリートの塊とともに吊り下げられていたシャンデリアが落下した。
たった数センチ。その数センチずれていたら征士郎の命はその場で消えていた。この辺り、九鬼の豪運とも呼べるものが作用したのかもしれない。
しかしそれでも、うめき声をあげる征士郎は重体であった。生々しいどす黒い血が床を染め上げ、あちこちで燻ぶる炎が照明となりテラテラとそれを妖しく反射させる。
このままでは兄が死ぬ。そう思った瞬間、英雄の体は動きだしていた。自身で助けることができるのはせいぜい抱えている幼子のみ。非力だった。助けを呼ぶ以外に方法がない。
それも仕方がないだろう。なぜなら英雄もまた未だ子供といって差し支えない年齢だったのだから。
意識のある者はいないか。大声を出す英雄は、せめて生存者がいないかを確かめながら歩を進める。
その声も無人と化した空間の中に空しく響くだけだった。さらに声を張り上げようと息を吸い込めば、たちまち煙が喉へと張り付き咳き込んでしまう。しかし声をあげるのをやめない。
気を抜けばぼやける視界。耳に届くのはパチパチと爆ぜる音。腕に感じるものは生命の重み。
この子と兄を助けられるのは自分のみ。
ともするとそこへ座り込み休みたくなる。そんな自分を叱咤し、声をあげ意識を保とうとした。
今になって思えば、出口へと辿りつく頃にはほぼ意識がなくなりかけていたようだ。ただ眩い光が灯る方向へ足を進めていた。そこに希望がある、なんとかなると信じて。
そして、最後に見た光景は黒い人影。
「我は無事である。兄上を……そして民や部下を助けてやってくれ!」
それだけ伝えると英雄の意識は闇へと落ちていった。
次に英雄が気がついたのは病院のベッドの上。飛び起きると同時に傍にいた人間に兄のいる病室を聞き、すぐさま駆けだした。起きてすぐの全力疾走ですぐに息があがるがそれに構っている暇はない。
辿りついた病室の前には局と揚羽が座っており、そのドアには面会謝絶の立て札がかかっている。英雄の心臓は酸素を巡らそうと大きく跳ねあがり、息は荒々しくなっていた。そんな彼に息が整うのを待つ余裕はない。一刻も早く兄の姿が見たかった、その笑顔が。一度唾を飲み込みドアへと手をかける。後ろから母の声が聞こえたが無視をした。
心のどこかではわかっていた。立て札を見た瞬間にも尋常ならざる事態なんだと。しかし、どうしても希望を捨て切れなかった。自慢の兄は憧れであり無敵だと信じていたから。
それら全てを打ち砕くかのように、その扉の向こうには無数の管につながれた兄の姿があった。
手術は成功したが予断は許さず、あとは本人の気力次第。背後から掛けられる姉の言葉がどこか遠くに聞こえていた。
病室の中が暗い。今は夜なのだと英雄はそのとき初めて気がついた。ひんやりとした感触が足元から感じられる。スリッパを履いていないせいであった。乱れていた呼吸が次第に静まって来る。
後ろを振り返れば、うろたえた姿を見せたことがない母が両手で顔を覆っている。湧き上がる感情をどうしても押しとどめることができないのだろう。すすり泣く声が漏れていた。
周囲に広がる暗闇はまるで英雄らの心を表しているかのようである。
「我の兄上がこの程度死んでたまるか!! 兄上は死などに屈さぬ!!」
英雄は叫んだ。叫ばずにはいられなかった。纏わりつく不安を吹き飛ばしたかったのだ。
静まりかえった病室。そして廊下へと英雄の声が響き渡る。だが無情にも、それすら闇が吸い込んでしまったかのようにまた静寂が場を支配した。
「ああ……ああ。その通りだとも。征士郎は……必ず勝つ。我の自慢の弟だ」
英雄の背がふいに温かくなった。姉が自分を抱きしめているのだと思った。その声は震えていた。
英雄は拳を強く握りしめ、唇を噛んだ。そうでもしないと瞳からこぼれおちそうだったから。もう戻って来てくれないと思う気持ちを認めてしまいそうだったから。ただの意地だ。
「フハハハッ! 我は……信じておりますぞ!! 再びお元気な姿を見せてくださると!! だから母上泣かれるな!! 兄上なら大丈夫ですぞ!!」
英雄は母に向かって無理矢理つくった笑顔をみせる。
いつの間にこんなに人が集まっていたのか。集まった従者たちで廊下が埋め尽くされていた。彼らの多くは顔を歪ませ、中には涙する者もいる。
愛する者達を置いて行ってしまうような人ではない。英雄はその光景を見てより強く思う。
「皆の者も心配するな! そのような顔をしていては兄上に笑われるぞ!」
後で聞いた話だが、父である帝は征士郎と英雄の病室を見舞ったあと、その事件の首謀者であったテログループの掃討にとりかかっていたらしい。
それに随伴した従者が語る。「あのような帝様は初めて見た。味方であるはずの自分ですら背筋が凍ったようだった」と。
(それから2週間後、兄上が目を覚まされた……)
専属となったあずみからの報告を聞いて急いで病院へと向かった。征士郎は山場を越え病状が安定したところで、日本の葵紋病院へと移送されていたのだ。
病室の前に待機していたヒュームが、英雄の姿を見るなりゆっくりと扉を開ける。彼の耳に懐かしい笑い声が届く。たった2週間、されど久々に聞こえたその声に心底安堵した。
日の光が差し込む病室のベッドの上で、征士郎が微笑んでいた。傍には揚羽と局の姿がある。皆が笑顔であった。
「おう、英雄。無事でよかった」
それはこちらの台詞だ。英雄はそう怒鳴りたかったが言葉にならなかった。
2週間――これほど時を長く感じたことはない。医者の言葉を信じていないわけではなかったが、日々なんの変化も見せない兄。その隣に設置されたバイタルサインだけが、正常だと、生きていると示している状態だったのだ。
「兄上も……ご無事で何より!」
英雄は笑いながら泣いた。成長してからこのかた涙を流したことなどなかった彼が。
そんな英雄に局が慌てて駆け寄り、揚羽はいつものように豪快に笑う。
それから間を置かず帝が余裕綽々といった様子で訪ねてきた。しかし、その額には汗が浮かんでいた。
皆が集まったところで征士郎のなくなった腕について話し合われる。そして、それについてはすぐに決着がついた。
「いい機会ですから義手の開発を海経に頼みたいと思います。クッキーの改良にも役立つでしょうし、俺が付ければフィードバックも容易いです」
帝は征士郎の提案を許可した。義手の開発が進めば低コストでの実現も可能となるだろう。ひいては手足を失った人々にも提供しやすくなる。
嬉しそうに笑う帝が少し乱暴に征士郎の頭を撫で、局がそれを注意する。
英雄は改めて征士郎へと感謝を告げた。もっとも征士郎は――。
(弟を守るのは当然だと一笑されてしまったが)
自身がどれだけ感謝しているか。
(示してみせます……)
自身が好きな野球をやれて今どれだけ幸せか。
(そのためにまず優勝旗をこの手に)
そして優勝旗を手にした上で兄に伝えたいのだ。
(我が好きな野球を続けられたのは……ここに今立てているのは兄上のおかげだと)
あの日のことを知らない征士郎はきっと大げさだと笑うだろう。お前が頑張ったからこそ、そこに立つことができたのだと。
それでいい。だが有り余るほどの感謝を伝えておきたいのだ。尊敬する兄へ。命を救ってくれた恩人である兄へ。どこまでも優しい兄へ。それこそ全国放送、さらには世界中の放送を通して。これはただの自己満足。
プロそしてメジャーを目指し、末は野球を含めスポーツ振興に尽力していく。
英雄が野球へとのめり込んだのは打者との真剣勝負、勝つことの楽しさ、負けることの悔しさ、優勝旗を手にしたときの達成感などいろいろあるが、何より自身のプレーが笑顔を生むことができると知ったからだ。
小学生の頃、草野球での試合。兄と姉が応援に来てくれたその日、英雄は初めてノーヒットノーランを達成し、2人が弾けるような笑顔をして自身を褒めてくれたことがあった。他の観客も湧いていたが、英雄の覚えていたのはその多くが笑顔だったことである。
(兄上が守って下さった夢を通して、民を笑顔にしていく)
英雄の夢は続いている。
高校球児、九鬼英雄。
ひとまずの通過点は甲子園優勝。
7.12 修正