「よし、終わった」
征士郎はパソコンに打ち込む手を止めるとぐっと背伸びをした。そして、なんとか日付が変わる前に終わらせることができたことに安堵する。気の緩みからか小さな欠伸が出た。
「休憩はこちらでなさいますか?」
李はお盆にのせた湯のみを持ったまま征士郎に問いかけた。こちらというのはソファのことだ。
征士郎はそれに頷くとソファへと移動し、豪快に座り込んだ。それを優しく受け止めるソファは黒の革張りであり、照明の光を受けてツヤめいている。その手前にはガラステーブルがあり汚れどころか指紋ひとつ付いていない。下には少しの毛の長いグレーのラグが敷いてある。
征士郎の部屋は、九鬼本部に設けられている客室に良く似たモダンな雰囲気でまとめられていた。しかし、そこよりかは幾分広い造りとなっている。
壁に掛けられたテレビの右上に時計。それらの下には収納棚がある。寝室はまた別に区切られているためこの場所からベッドなどは見えない。当然、風呂やキッチン、トイレなども完備されている。
ぐでっとしただらしない姿の征士郎は、李から湯のみを受け取りずずっと啜る。このように一息つく彼の姿を見られるのは家族を除けば李だけであった。
24時間365日気を抜かないでいられる人間など存在しない。そういう意味では、リラックスした表情を気兼ねなく見せてくれる主を李は嬉しく思っている。
「お茶がこぼれてしまいますよ?」
しかし一応注意もしておく。それを聞いた征士郎が左手に湯のみを持つ。すると間をおかずして手首から先――つまり湯のみを持っている部分のみが伸びた。それは機械の左腕だからこそ行える芸当である。
きっと初めて見た者がいればぎょっとするに違いない光景。しかし李はそれに小さくため息を吐いただけであった。それだけ何度も目にしたシーンであるということだった。
「改良が進むにつれて、俺がどんどんダメ人間になっていく可能性を孕んでいるな」
テーブルに湯のみを置いたところで、征士郎はむむっと眉を顰めるとそんなことを言った。
「そのときは私が責任をもって矯正いたします」
「頼もしいな、李」
「お任せください。そういう類の道具も扱えますので」
「さすがだな……そして、それらをどう使うのか怖くて聞けん」
征士郎は体を起こすと湯のみを掴むために右腕を伸ばす。次は横着をしない。
「大丈夫です。痛みもなくそのときのことも覚えてはいないでしょうから」
「横着をしないよう、今から俺に脅しをかけているのか?」
「まさか。これも征士郎様のためを思えばこそ……決して高性能な左腕を怠けるために使うなんて、などと考えたりしていません」
「後半本音だな。だがそんな毒あるセリフを吐けるくらいお前と俺の距離は近いということだ。悪くない」
征士郎は嬉しそうに笑った。それに対して李は困った顔をする。どう反応してよいかわからなかったからだ。
征士郎はそこで李のお願いがあったことを思い出し立ち上がった。彼女は突然立ち上がった主に「どうかされましたか」と問う。
「お前の願い事を叶えておこうと思ってな。あやうく忘れるところだった」
その言葉を聞いた李はあっと声を出す。本人もその事を言われて思い出したらしい。
「このタイミングで、ですか?」
「うむ。別に変ではなかろう?」
「確かに……そうですが。やはり改めてしてもらうというのはなんだか気恥かしいというか」
正面に立った征士郎を前に李はソワソワし始める。そんな従者の気持ちを無視して、彼は願いを叶えるため動いた。
李は再度あっと声を漏らす。それと同時に硬直し目の前で微笑む征士郎をじっと見つめた。
「今日は見事だったぞ。さすが俺の専属。それに随分実力をあげたのだな。並大抵のことじゃなかったはずだ。俺のため、と少し自惚れているがこれからも我が身を頼む」
征士郎はじっと見つめてくる李の視線から目を外すことなくそう伝えた。彼の右手は彼女の頭にあり慈しむように撫でる。
李の願い。それはいつか何の気なしに征士郎が彼女の頭を撫でたことがあった。それをもう一度してほしいと言ったのだ。あのとき急かされたため、パッと思いついたのがこれであった。
もう少しなにかあったのでは。同時に、李は自身が口走った言葉で羞恥の念にかられた。しかし、今となってはそんなことどうでも良くなっている。
しばらくぼーっとしていた李だが、征士郎の呼びかけによって意識が覚醒した。
李は征士郎から一歩離れ「すいません」と慌てて頭を下げる。そのスピードたるや残像を残さんとするほどだった。そして顔は赤く染まっていたようだ。鏡で確認したわけではないが頬に火照りを感じる。いつからそうなっていたのか自身でもわからない。
昔、英雄に褒められたあずみを見て、どうしてあんなに喜べるんだろうと不思議に思っていたが、今の自身を思い返せば到底他人のことを言えた義理ではない。
(さすがに、きゃるーん……とは言いませんが)
突然李がこの単語を口にすれば征士郎は一体どんな反応をするだろうか。見てみたくもあったが、反応が予想できないだけに怖くてやれない。
芸人としては勇気が足りないと言ったところでしょうか。李は内心悔んだ。
火照りが治まったところで李が頭をあげる。
「わざわざ願いを叶えてくださってありがとうございます」
そして李はまた頭を下げようとしたが、それを征士郎に制止される。
「そんなに頭を下げるな。これくらい容易いものだ。というかこれで本当によかったのか?」
「十分です……」
「そうか。しかし、李は頭が撫でられるのが好きだったのか。また一つお前のことが知れたぞ」
ふふんと満足げな征士郎。李は再度恥ずかしさがこみ上げてきたのか、湯のみを片づけると言って彼に背をむけた。
キッチンへ向かう足取りが軽かったのはただの気のせいだろうか。
穏やかな夜がゆっくりと更けていく。
◇
2人の従者が九鬼本部の廊下を歩いていた。
前を行く男従者はコーンロウと呼ばれる髪を編みあげた珍しいヘアスタイルに、黒い肌をしている。身長は185センチと高く、その風貌はそこにいるだけで周りの人間を威圧しそうであった。
そしてその後ろを歩く女従者は男従者以上に目立つ姿をしていた。それは目立つというより浮いているといっても過言ではない。まるでどこぞの喫茶店からそのまま抜け出してきたような格好である。
丈の短いスカート。どこから出ているのかわからないピンクの尻尾。猫耳を模したような髪型。その髪色もピンクと派手である。そして胸元には大き目のリボン。靴も専用にカスタムしているようで羽の飾りがついている。従者としてそのようなファッションは咎められそうなものであるが、誰も注意することがないところを見るに上から許可がおりているのだろう。
女従者は男のあとを追いながらも本部内をキョロキョロと見まわしていた。
そして2人は鍛錬場へと行き着いた。扉を開いた男従者が中にいた人間に向かって声をかける。
「俺達が最後のようだな」
その姿を横目で確認したヒュームが答える。
「もうすぐ征士郎様がお戻りになられる。さっさと用件をすませるぞ、ゾズマ」
男の名をゾズマ・ベルフェゴール。九鬼従者部隊序列4位にして、アフリカの指揮を任せられている従者部隊の中でも屈指の実力者だ。
「わかっている。シェイラ、そちらへ並べ」
女の名をシェイラ・コロンボ。九鬼従者部隊序列184位。彼女はゾズマが見出した若手の一人である。
シェイラは「はーい」と軽い返事をしながら、他にも集まっていた若い従者たちの横へと移動した。彼らの表情は固い。緊張しているのだろう。
ヒュームはそんな彼らを鼻で笑う。
「お前たちがここ、九鬼極東本部に召集されたのはその働きが認められかつ将来性を買われたからだ。喜べ赤子共栄転だぞ」
それにゾズマが続く。
「ここにはお前たち以外にも若手が多くいる。その者達と共に切磋琢磨しろ、ということだ。既に知っているだろうがこれは征士郎様のご意向だ。つまりお前たちに期待を寄せているということ……その意味がわかるな?」
期待を裏切るような真似をするなよ。そう忠告しているのだ。
従者たちがごくりと唾を呑む。期待されているということは裏を返せば相当なプレッシャーでもあった。しかしそこは選ばれた者たち、望むところだと言わんばかりの瞳をしている。
そこへ再度扉の開く音が響いた。両側の扉を開いたのは李とステイシー。
奥から征士郎が姿を現した。
「久しぶりだな、ゾズマ。しばらくこちらにいると聞いた。またアフリカの話を聞かせてくれ。奥方の話は程々でいいからな」
「お久しぶりです、征士郎様。前にお会いした時よりもさらに成長なされたご様子……何よりです。加えてアフリカでの話をするならば、ワイフの存在は欠かせません。存分にお聞かせしましょう」
ニヤリと笑うゾズマに、征士郎は苦笑する。重苦しい空気も既に霧散していた。
征士郎は並んでいる従者たち一人一人に声をかける。元気にしていたか。北欧はどうだったか。こちらではやっていけそうか等々。彼らの名前を呼び、2,3の会話をしていく。そしてシェイラの番となる。
「お前のパフォーマンスみせてもらった。歌って踊れるメイドとは中々斬新で面白い。父が気に入るわけだ。これからも九鬼を盛り上げてくれ」
「はーい! シェイラにズバッとお任せあれ、です!」
ちなみに征士郎がその動画を見る機会を作ったのは父である帝だった。
ネットにあげられているそれは1位にランキングされるほどのものであり、面白いものや新しいもの好きな帝がそれをほっとくわけもなかったというわけだ。
それ以前にも学園の級友に「これって九鬼の従者の制服?」と聞かれたこともあった。
そして征士郎は全ての従者に声をかけ終わると、最後に若手をぐるりと見渡し、皆よろしく頼むと激励の言葉を送った。
□
ゾズマとシェイラはまた2人で元来た道を歩いていた。
「どうだった? 久々に会った憎き相手は?」
先を歩くゾズマがそう切り出した。シェイラにとっての憎き相手とはステイシーのことを指す。シェイラもステイシー同様昔は傭兵をやっており、敵同士でかちあったとき背中をナイフで刺されたという屈辱を味わっていた。彼女は今でもその事を根にもっており、その恨みを晴らしたいと思っているのだ。
しかしそれは危害を加えるなどでなく、序列を上げステイシーをこき使ってやろうというもの。
九鬼も因縁のある者同士をぶつからせるわけにもいかないため、シェイラにはステイシーに危害を加えないという念書を書かせ、それを破った場合どうなるかをきちんと体に教え込んでいた。
先の場でそのシェイラがステイシーに絡まなかったのは征士郎の存在があったからだろう。
そのシェイラはゾズマの言葉に唸った。
「久々に会いましたけど強くなっていますね。噂では聞いていましたけど風格? みたいなものがあったというか」
「あれも若手の筆頭候補だ。相棒の李に触発されたのか、鍛錬に対する意欲も中々だ。フラッシュバックも徐々にではあるが治まりを見せているからな。李を始めステイシーと桐山、この3人は良い従者となるだろう」
ステイシーのフラッシュバックは従者の間でも有名である。それが彼女の評価を下げている要因でもあったが、時をかけ徐々にマシになってきていた。
しかしその原因は詳しくわかっていない。傍についていた李やあずみの存在が大きかったとも言われているし、ステイシー自身が受け入れ乗り越える力をもっていたのだと主張する者もいた。または、そんなステイシーを必要とした征士郎の存在があったからだと九鬼に心酔する者の言もある。
だが未だ完治したとは言えないため、フラッシュバックが起きたときは従者の業務から離れることもあった。
ゾズマがこのような発言をしたのは、シェイラを煽りさらに成長させようと目論んでいるからだろう。
そんな思惑を知ってか知らずか、シェイラはふふっと笑い「やってやりますよ」と息まいている。
「俺もしばらくはお前の面倒をみることができる。良い機会だ。みっちりと鍛え上げ征士郎様の期待に応えられる従者にしてやろう」
それを聞いたシェイラが先の意気込みをどこへやったのか、へっと素っ頓狂な声を出す。そして口早に言葉を紡ぎ出した。
「い、いえいえいえいえ! ゾズマさんもお忙しいんですから、たまに……たまーに私の面倒を見てくれれば十分です。ほら、ここって若手も多いとのことですし、私はその方たちと磨き合おうかなぁなんて……」
「遠慮することはない。ステイシーも今頃ヒュームにぼろ雑巾の如く絞られているだろう。このままでは差を開けられる一方だぞ」
鍛錬場に集まったとき、ステイシーが顔をゆがめたのはヒュームがそこにいたからである。シェイラは今納得がいった。
そして、今現在も時折感じるこの僅かな振動の意味も同時に悟った。
(零番、まじハンパねえです……)
加えて、目の前にいる人物も零番に負けず劣らず武力に突出した男である。
シェイラは右手で拳をつくり左の掌にぽんとのっける。
「あ! 忘れてました。私、今から次の動画の撮影しとかな――」
「ならば、ほんの2時間程度にしといてやる。征士郎様がその動画をご覧になる可能性もあるからな。下手なものをお見せするわけにはいかん」
ゾズマは既にシェイラの首根っこを掴んでいた。おかしい。目の前にいたはずの人間がいつ間にか背後へ回っていた。そのままズルズルと引っ張られていく。
「ゾズマさん、やだなぁ。日本語の使い方がおかしいですよ? ほんのって言ってるのに2時間って……あははは。冗談ですよね?」
「どれほど腕をあげたのか。それによって多少の時間の延長も考慮しておかねばなるまい。だが安心しろ……伸びた分は別の日に振り替えで休みをとれるよう取り計らってやる」
「なんかもう伸びること前提でお話が進んじゃってますよね!?」
ゾズマは大きな笑い声をあげながらずんずんと廊下を進む。
この日、2人の若手従者の叫び声が鍛錬場から響いてくることとなる。しかし、他の若手たちはその扉の奥を見る勇気がなかった。開けたら最後、立って帰って来ることは不可能だとわかっているのだ。
その頃李は、
「抜群のマイクパフォーマンス……シェイラ、侮れません」
シェイラの動画を繰り返し再生し、改めて彼女の恐ろしさを認識していた。
九鬼極東本部は更なる若手の加入により一層活気が増すこととなる。
シェイラもいいキャラしてて好きです。
むしろ、九鬼従者部隊の全容を知りたい!
学園の話に辿りつけない。
7.28 修正