コムギが弟子でなくなってから、四ヶ月。
あれから彼女とは、一度も会っていない。
だから、今日は久しぶりの再会ということになる。
「元気そうじゃないか。すこし、大きくなったか?」
「はい。大きくなりますた」
東ゴルトー代表選考トーナメント、その決勝戦。
彼女は、当然のように勝ち上がってきた。
互いに、国内戦全勝。
この一局は、必然といえる。
「じゃあ、始めようか」
「はい」
交わした言葉は、これだけ。
近況など報告する必要も無い。打てば分かる。
互いに、この一局のため奥の手を山ほど用意してきたはずだ。
意識を盤上へと向ける。
敵の初期配置は、槍が三本。弓も砲も分散している。守りは薄い。守備より速度を優先した、変幻自在の構え。彼女が持つ読みの深さを活かした陣形だ。
対するこちらは、変則的な片矢倉。守りに重点は置いていない。陣を固めると攻めに集中できる利点はあるが、陣形の変更に時間がかかるというデメリットも存在する。変幻自在に攻めてくるであろうコムギを相手に、そのデメリットは致命的。ゆえに選択した戦法。
「6-6-1、忍」
まずは、コムギの先手。彼女は時間を使わずに打ってきた。
軍儀は、最初の一手に最も時間を掛けるのがセオリーだ。自陣内であれば自由な配置で始められる軍儀においては、初手こそが最重要。最初に敵の陣営を見て戦略を練る所から始まる。
それが無かったと言うことは。
「3-4-1、兵」
こちらも、時間を使わずに初手を打つ。
初期配置は、互いに予想通りのものだという事。
それをどう攻略するかは、既に検討済みだ。
序盤は、淡々と進んだ。
答え合わせをするかのように、次々と手を打つのみ。
予想を超える一手が飛び出すまで、この状況は変わらない。
こうして打ってみて、ひしひしと感じる。
この数ヶ月で、コムギは見違えるほどに成長した。
先が読めすぎるからこその弱点を抱えていた彼女だが、今はもうその穴もない。プロになってたった一年足らずで、王者の風格すら漂わせている。王者は、まだ私だが。
やがて勝負は、中盤に差し掛かった。
私は気を引き締める。小競り合いが盤面全てに広がり、駒の行き場が無い。陣取り合戦は終わりだ。ここから、本格的な衝突が始まる。
先に仕掛けてくるのはコムギだろう。陣容が軽い分、彼女の方が早い。
「……5-4-2。中将
そら来た。
一見、無謀にも思える手。
中将が移動したことにより、弓の陣地が丸裸となる。
さてさて? せっかく作った陣地を差し出して得られる利益とは、いったい何だ?
私は、この先の展開を脳内でシミュレートする。
陣を差し出して、コムギが得られる利益。それは。
「──そうか。この大筒が邪魔か、コムギ」
砲の前に兵を置く。これで、砲を排除するのに余分な一手が必要となった。それで十分。敵の方が早いが、それでも相手が連続で二手打てるわけでは無い。最速で攻められなかった場合、打ち負けるのはコムギだ。コムギより厚い陣を敷いた私とまともにぶつかれば、敗北は必定。
「……やっぱり強いですね、師匠」
「私はもう、師匠じゃないぞ」
「いえ、あなたはワダすの師匠です」
「そうか。勝手にしろ」
「はい、勝手にするます──6-4-1、大筒」
さらに踏み込む一手。
二連続で予想外の手を打つとは。
「楽をさせてはくれないな」
「普通に戦ってしまっては、勝てません」
「それもそうか! ……ん?」
意図せず声が弾んで、私は少し驚いた。
自覚はなかったが、もしかするとこれは。
(──少し、楽しい?)
久しぶりに味わう感情だ。
私はずっと、私たちの強さを証明するために打ってきた。
彼女の居場所を失わないために打ってきた。
打つのが楽しいだなんて、思っていなかったはずなのに。
『──ねぇ、一緒にやろう?』
幻聴。
かつて聞いた、スイの言葉。それが私の頭に響いてくる。
『──きっと楽しいから。面白いのよ、軍儀は』
ああ、確かに。
スイと打つのは、楽しかった。
懐かしい。
スイは、強かった。コムギも、スイと同じ領域にまで達している。
ここにいるのが、私ではなくスイだったらよかったのに。
二人だったら、きっと──
電子音が聞こえて、私はビクリと体を震わせた。
対局時計のカウント音。五分に一度、鳴るように設定してある。
おかしい。私は今、何をしていた? 意識が微睡む。時計の音が無ければ、そのまま眠っていたのではないかと思えるほどの隙。異常だ。今まで、こんな油断をすることなど無かった。
集中できていない。これでは、最高の勝負にならない。
私は気を引き締めて、盤面に目を向けた。
次は、弓が前進してくるはずだ。騎馬で踏み潰すか、それとも横に回り込むか。
呼吸を整える。
集中しろ。かつてない程の強敵。全力を出さねば失礼だ。盤面の全てを読み取れ。
私なら、見えるはずだ。コムギの狙いが。
私の得意とするのは、相手の駒同士の連携を断ち切り、陣地まるごと息の根を止める戦い方。
圧殺。一度喰らえば、相手は恐怖で戦意喪失することすらあった。
コムギの駒を見る。
一見、完璧な連携が取れているように見える。が、そんなはずはない。一手ずつ駒を動かす以上、綻びは避けられない。特に今は、大胆な仕掛けを見せた直後だ。弱点は、必ずある。
私なら、見つけられるはず──
考える前に、未来が見えた。
いや、未来というより、光だろうか?
盤上の駒が、光で繋がっている。まるで、手を繋いでいるような。
そしてその光が、新しく伸びようとしている箇所がある。
そこに道を作ろうというのか。
それは……駄目だろう?
「──邪魔だな、この
次の手を打つ。
光を断ち切る一手。一気に複数の輝きが失われ、右辺に闇が侵食していく。
コムギが息を呑むのが聞こえた。たった五分の持ち時間消費で、痛恨の一手を打たれたのだ。自分の戦術が、早々に読み切られたと考えるのが普通だろう。実のところ、考えるまでもなく"見えた"だけなのだが。
意識が冴え渡っている。余計な情報は削ぎ落とされ、認識すらできない。思考の海に落ちてしまいそうになる感覚。時間の感覚がおかしい。考える前に、考えた結果が溢れてくるかのような。先ほど眠りかけたと勘違いしたのも、この状態の副作用か。
余計なことを考えないよう、私は盤面に視線を固定する。
今の一手で、右辺の形勢は傾いた。
何の対処もしなければ、次の一手で完全に闇へと落ちるだろう。
「8-4-1、騎馬!」
コムギの一手で、右辺の輝きが蘇った。
なるほど、いい手だ。
だが、予想通りでもある。
「8-3-3、砦」
再び、闇が右辺を覆う。
コムギが打てば、光が。
私が打てば、闇が増す。
まるで溺れた者が必死に水面へ顔を出そうとするかのように、盤上の駒が生きようと足掻いている。
「7-6-2、侍」
だが、無駄だ。
沈め。
沈め、沈め、沈め。そのまま沈んでしまえ。
お前に生きる道などない。
盤面はもう終盤に差し掛かろうとしている。ここで押し切れば、右辺は私のもの。そうなれば、逆転はほぼ不可能。仮に右辺が生き残ったとしても、それは多大な犠牲を払った上での事。圧倒的に、私が有利だ。
コムギは手を止め、長考の構えに入った。
ここが分水嶺。運命の分かれ目。次の一手が勝負だ。
さぁ。どうする、コムギ。
持ち時間は、あと三十分。
その時間で、この状況を打破できるか?
──砲で守りを固める? いいや、砲では遅すぎる。
──忍を差し出して、その隙に騎馬で固める? いいや、後ろに回り込まれるだけだ。
──守りを捨てて、少将を上げる? いいや、後ろが死ねば将が孤立するのみ。攻めるにも早さが足りない。
──兵も将も捨てて、王を逃がす? いいや、王一人逃がしたところで意味は無い。
逆転の目は無い。
この状況を覆すには、神にも迫る一手が必要だろう。
逆転は、不可能──
私が、そう判断した瞬間。
コムギの体が、輝き始めた。
触れてすらいないのに、盤上の駒へと光が伸びる。
それを見た私は、どういうわけか恐怖を感じた。
軍儀中、光を見ることはあった。それは自分の体に現れることもあったし、対戦相手から溢れることもあった。今日も、コムギの駒の輝きを見ている。だが、これほどの圧を感じたのは初めてだ。
息を呑む。汗が噴き出る。恐ろしい。何故? わからない。腕で体を抱きしめるが、震えが止まらない。
コムギ。お前は一体、どこまで。
「──4-3-2、忍」
盤上に光が溢れる。
盤上の駒の全てが、輝きを放っていた。
圧力を感じて、思わず私は気圧される。
死んだはずの将も、戦場が移動し働きを失っていた兵も。途切れたはずの路が、すべて繋がった。
それどころか、私の駒にまで光の路が浸食してくる。
敵の動きを阻害するために置いたはずの砦は、むしろこちらの自由を縛る置物となっていた。
砦を移動させようにも、周りの兵が邪魔となる。
盤上の全てを支配する一手。
最初に中将で攻め込んだのも。弓の陣地を崩したのも。左辺で死んだ侍も、中央に食い込んだ騎馬も。初手からの全てが、この局面へと繋げるための布石。
これまでの盤面。その攻防は、すべて。
この、一手を完成させるためにあった──!
(……このままでは、私の
「3-2-1、兵!」
私の
代わりに、
苦し紛れの一手だ。
コムギは、兵を踏み潰して前進してきた。
自陣の守りを崩しての攻め。詰みは無いと読み切っているのか。それとも、自分が死ぬ前に私を殺せると判断したのか。
「3-2-1、忍」
忍がコムギの中将と差し違える。
直後、再び敵が前進。また、互いの守りが薄くなった。これで、敵の
つまり。コムギは、このまま私を押し潰すつもりらしい。
もう止まらない。
私が死ぬのが先か、殺しきれずにコムギが死ぬか。その二択。
ただで死んでやるつもりは無い。
攻守は逆転したが、敵陣の守りは無いに等しい。
一手。たった一手でも敵の攻めが途切れれば、即座に私の刃がコムギの急所に届く。
「3-4-2、少将」
「3-2-2、侍」
「2-3-1、謀」
「1-1-3、帥」
次々と迫る敵の進軍を、私は必死に防ぐ。
両者ともに、もはや持ち時間はなく。息を
互いに、たった一手。相手より早く打てれば、詰ませることができる。
だが、それがあまりにも遠い。
コムギが、苦しそうに胸を押さえている。
気づけば、私も同じように胸を押さえていた。
呼吸が苦しい。酸素が足りない。
思えば、私は最初から最強だった。
最強のあの子を模倣し、対戦相手をすべてひねり潰してきた。
だから、知らなかった。全力を尽くすというのが、こんなに苦しいことだったなんて。
コムギの体に、再び光が集う。
またか。何をする気だ。
また。私の想像の、はるか上を行く一手を打つのか……?
「──6-3-1、弓」
光が、私の
コムギの一手は、主戦場からやや離れたところの弓兵を、たった一歩横にずらしただけ。
忍の道が空いたため王手が途切れたわけではないが、防ぐのも容易。一見すると、ぬるい一手。
だが、これは──
「……終わりだな」
「はい。次の3-4-2騎馬から、十九手で詰むです」
息を吐く。
体から熱が抜けていく。
これは、私とあの子が望んだことだ。
ようやく叶ったか、という思いと。そして、まだやれるという思い。その両方がある。
あの子が最強であると、示し続けたかった。
だが、思いだけで生きていけるほど、人間の体は強くない。
周囲に目を向ける。
今まで、気にもしていなかった。だが、これで最後だと思うと、急に名残惜しくなった。
畳を撫で、その感触を楽しむ。冷たい。火照った体を、預けてしまいたくなる。
幾度となく、相手を屠ってきた対局部屋。
重要な手合いでのみ使われる部屋だが、私の対局はいつだって重要だった。ここで戦ったのは、百? それとも、二百か?
続いて、コムギに目を向ける。
やはり、大きくなった。強くなった。
もう、私の手には負えないだろう。
彼女は、私を超えたのだ。
だから、言わないと。
「──」
声を出すのに失敗した。
言えば、終わる。もう終わっているのだけれど、それでも口に出すのは、怖い。
息を吸う。
先ほどよりも、体に力を込めた。
今度こそ、失敗しないように。
「──負けました」
その一言を発した瞬間、体から力が抜けていく。
長くは持たない。私は、私たちは。元々、死んでいたのだ。
八年。夢というには、あまりに長い時間だった。
私が取り込んだスイの欠片が、溶けて消えていく。
──スイ。
私は、彼女に声を掛ける。
ようやく、終わりました。
貴方より強い打ち手。最強の怪物が、ここにいます。
と、いっても。貴方があのまま成長していたのなら。きっと、コムギですら完膚無きまでに叩きのめしていたと、信じていますが。
でも、そうはなりませんでした。私も貴方も、あそこで止まってしまった。
いつか来る敗北。それが、ようやく。
コムギに手を伸ばす。
彼女は、動かない。
頬に手を添える。
やけに静かだと思ったら、気を失っていた。私の敗北宣言を聞いて、気が抜けたのか。
全身全霊を絞り出してしまったらしい。これでは、最後の挨拶もできないが。
まぁ、いい。
別れの言葉なんて、恥ずかしいだけだ。
私の
「……私たちに勝ったんだ。誰にも負けるなよ、コムギ」
それだけ言って。
私は、その場から姿を消した。