静寂が、辺りを包み込む。
聞こえるのは、私が動かす車椅子の軋みだけ。
キコキコと、寂しげな音だけが耳に入る。
かつて、私たちが過ごした孤児院。
誰もいない。既に廃墟と化している。あんなに広大に思えた監獄が、今は酷くちっぽけに感じた。
廊下の突き当たりに辿り着く。
地面に廃材が転がっていたため、車椅子で進むのは少々骨だった。私は息を切らせながらも、部屋の扉に手を掛ける。
扉が倒れた。轟音が静寂を切り裂く。どうやら、蝶番が錆び付いていたらしい。
少し、ビックリしてしまった。心臓が止まってしまうのでは、と思えるぐらいには。
部屋へと入る。
ろくな家具も無かった部屋。いま部屋の中に見えるのは、ベッド。砕け散ったコンピュータの残骸。それと、床に僅かに残った血の跡のみ。私と、彼女の痕跡だ。
私に残されたのは、僅かな時間。
少々不安だったが、間に合った。
最後を迎えるなら、ここが良いと思った。
私と彼女。二人が過ごした、この部屋が。
「……スイ」
車椅子から降りて、床を撫でる。
あの日、あの時。あの瞬間。そこから私の時間は、止まってしまった。
もし、私がもっと早く、力を手に入れていれば。
スイを守れたかも知れない。
いや、力なんて無くてもいい。
もし、私があの時目覚めていたのなら。無作法者の存在を感知し、スイに警告できていたのなら。
たったそれだけで、彼女は死ななかったのではないか。
あの男の
後悔ばかりだ。
後悔ばかりで、せめてもの手向けをと思って、今まで生きてきた。
私の八年は、彼女の慰めになっただろうか?
わからない。あの時喰らった彼女の残り火は、ずっと沈黙を続けている。
「よい、しょっと……」
車椅子に取り付けられた革袋から、盤を取り出す。
携帯用の簡素なものだが、ずっしりとした重みを感じた。
駒の配置は、今日の一局。
コムギと打った、私の最後の一戦。
スイに、ぜひとも見せたかった戦い。
「本来、軍儀は陣を固めるのがセオリーなんですけどね」
並べ終えてから、苦笑する。
私もスイも。そしてコムギも、セオリーなどガン無視だ。
駒を重ねられる軍儀は、将棋やチェスなどと違って、陣を徹底的に固めることができる。が、逆に言えば、移動に手数が掛かるということ。戦場と離れた場所に戦力を集中させても意味が無いし、いかに陣を固めても、うまく動けなければ徐々に削られる。私とコムギの一戦は、いかに有利な場所で相手に戦いを強要できるか、というものだった。
「ここの場面とか、陣地を何度入れ替えるんだって話ですよ。即席の一夜城だらけです」
私はスイに話しかけながら、ゆっくりと、一手ずつ。
彼女に伝えるために、駒を進めていく。
相手の退路を断つため、あちこちに小規模の陣地ができている。
弓で牽制しつつ、騎馬でこじ開け、中将を置く。戦いになると見れば、忍で攪乱し砲で圧殺する。
「……貴方が得意とした戦法です。コムギも、この攻勢には手を焼いていました」
思い出す。
初めての軍儀。スイと私の初対戦で、私の陣地は全て彼女に占領されてしまった。初心者相手に何をしているんだと思ったが、今ではいい思い出だ。
彼女の本気を幾度となく見てきた自分だから、ここまで強くなれた。スイなら、どう打つか。どう打たれるのが嫌か。手加減されていたら、一生わからないままだっただろう。
「ここです。コムギの打った一手。4-3-2、忍。これはヤバいですね痺れますねこれは……この手から、押し切られてしまいました。貴方なら、どう返しますか?」
兵で防ぐしかない。
そう思うが、実際の所はどうだろう。
あの時の私には、焦りがあった。
完璧に彼女を模倣したつもりだったが、それは冷静でいられる間だけのことではないのか。
彼女は、どんな舞台でも華やかに舞うことを選んだ。コムギの手を見せられた彼女が、はたしてこんな平凡な手を打つだろうか。
「──そうですか。貴方なら、こう打つのですね。なるほど、面白い」
こちらと相手。二人の王の中間に、砦。
これは、壁だ。相手を圧殺するための城壁。
進めば相手の王を殺し、戻ればこちらの王を救うことができる。
盤面は決して有利とは言えないが、戦場が一気に広がり、予想の出来ない戦局へと突入していく。
「貴方は、あくまで派手な戦いを選ぶのですね」
読みの深さは、コムギの方が上。
コムギの舞台に踏み込めば、おそらくは負ける。
だが、スイが敗北を恐れることなど、ありえない。
私は、最後の最後で自分の弱さを見せた。少しだけ、悔いが残る。
駒を握る手を止めて。
手持ち無沙汰になった私は、昔話を始めた。
自分が生まれたときのこと。
初めてスイと遊戯で戦い、負け続けたこと。
ムキになった私が、何度も戦いを挑んだこと。
あの頃の私が、どれだけ楽しかったか。
私がどれだけ、スイのことを愛していたか。
スイを失った私が、どれだけ悲しかったか。
スイを模倣してから、どのように生きたか。
世界中を探しても強者が見つからず、どれだけ落胆したか。
コムギを見つけたときの感動と、実際のコムギを見た瞬間の落差に驚いたこと。
最後の一局。そこで初めて、恐怖という感情を知ったこと。
「まぁ、おおむね良くやったと言えるんじゃないですかねこれは……」
最後まで話を終えて、満足してしまったのか。
体から、急速に力が抜けていくのを感じる。
もう、腕を上げることすらできない。
とくん、とくんと。
心臓の鼓動を感じる。
あまりに弱い。甘い物が食べたい。脳に、糖も酸素も足りていない。
寒い。体温が下がっているのか。
体が凍り付いたように動かない。
動かない、が。
「……少しだけ、暖かい」
私が胸に抱いた、スイの残り火。
それが、まだ消えていない。
最後まで守ると誓った思い出だ。
この灯火だけは。私が死ぬまで、決して消えることがない。
温もりが、ほんの少しだけ広がる。
凍り付いた体を溶かして、私の腕を動かした。
私が無意識に動かしたのか。
それとも、スイの意識でも残っているのか。
わからない。わからないが、きっと彼女だ。
朦朧とする意識の中で、私はそう願った。
床に広げた盤へと、指が伸びる。
いったい、何をしようというのか。
もう、終わったはずの局面。
たしかに砦を打つのは面白かったが、これでは勝てない──
「──ああ、なるほど。こんな手が」
敵陣の中央。
そこに、弓を配置する。
敵が動けば、一瞬で討ち取られるのは間違いない。
だが、弓を取りに移動すれば、砦への対処が難しくなる。
かといって、放置もできない。
相手は、不利な選択を強いられる。弓を殺して砦に押し潰されるか、砦を防いで背後から射殺されるか。
「これなら。まだ、戦える」
ああ、もう一度打ちたい。
こんな風に思うなんて、思っていなかった。
彼女への土産話さえ出来たのなら、いつ死んでもいいと思っていたはずなのに。
だが、もう終わりだ。
望む望まざるに関わらず、スイの体はもう限界。
必死に繋ぎ止めているが、少しでも気を抜けば臓器が死に、肉体の維持に際限なく力を吸い取られる。
よくもまぁ、これだけ持ったものだと褒めて貰ってもいいぐらいだ。
とくん、とくんと。
徐々に弱く、ゆっくりとしたものへと変わっていくが。耳を傾ければ、まだ心臓の鼓動が聞こえる。
──そうだ。あの世にいったら、スイに褒めて貰おう。
うん、それがいい。それぐらい、許されるはず。
耳を傾ける。
とくん、と。
一つだけ、心音が聞こえた。
続くはずの、次の音は聞こえない。
──しまった。あの世でスイに会った時の事を考えていなかった。
とっておきの話を、残しておくべきだった。
とくん、と。
また、一つだけ鼓動が聞こえた。
だがそれは、いままでの物とは少し違う。
──ああ、これは。もう。
目の前が暗くなる。
血が回りきっていないのだろう。
もう、上下の感覚すらもわからない。
やがて、視界が閉じ。体の感覚も無くなって。
心臓が止まり。
呼吸が止まり。
思考が止まり。
記憶が千切れて、バラバラになる。
こうして。
私は、死を迎えた。