†08† アタランテ・サングィス
各地から集まった腕に覚えのある冒険者達が次々と高みを目指す。ある者は【ランクアップ】し、ある者は道半ばで挫折する。
悲喜こもごもの様相を描く迷宮都市『オラリオ』――
世界の中心にして人類の最後の砦。しかし、全ての者が世界平和を目的としているわけではなく、それぞれの思惑で動く者が居る。
光りがあるところに闇があるように。
【キュベレー・ファミリア】の団員アタランテ・ミリアは【ランクアップ】を果たしてからも以前と変わらぬ仕事に従事していた。
月の半分は狩り。もう半分はダンジョン攻略。それ以外の娯楽を知らず。
実直な眷族に女神キュベレーは面白みを見いだせず、度々癇癪を起して当たり散らす。しかし、アタランテは反論を見せない。
まるで自分を殺して神の意に沿う以外の術を知らないかのよう――
実際そうなのだろう。
(……少しくらい反抗の意志でも見せてくれればいいのに)
見目麗しい娘アタランテに足りないのは愛想である、と女神は思っている。
【ファミリア】に入ってから仕事一筋に働いてくれているのはありがたいのだが。
団長アルテミス・タウロポロスとオリオンの方がまだ見ていて飽きない。
無機質な顔をしているアルテミスは神々の中では割合人気がある。素っ気無い態度。けれども、オリオンを決して手放さない。二人の行動に秘かな期待が込められていた。
(……あんまり追い詰めるのも良くないんだっけ? んー、面倒くさい)
前に楽しみはなんだと尋ねた時、アタランテは神の寵愛を頂戴する事と答えた。
自分を殺してでもキュベレーの為に粉骨砕身する事が自分の楽しみである、と――まるで殉教者の様な答えに思わず
いくら我儘な女神だとしても眷族の命を軽く見たことは無い。短命だからとて見捨てる気もさらさらない。
言葉に出来ないもどかしさが時折癇癪として出てしまう。もちろん、人知れず猛省する。――それが今ではキュベレーの日課のようになってしまっていた。
レベル3へ至った
遠距離型の戦士にとって長いダンジョン攻略は物資の枯渇が頭痛の種になっている。弓矢は荷物の重さと数の関係から得策ではない事も理解している。
「……では行ってきます」
「しっかり稼いでこいよ」
狩りだけでは【ファミリア】の運営はままならない。ここしばらくキュベレーはアタランテにダンジョンに潜って金を稼いでこいと命令していた。
狩りは【アルテミス・ファミリア】などがやっているのでキュベレー達がやらなくても問題は無い。元々、それほど仕事の依頼も無かったので。
中層域にも行けるようになった彼女に団長達もついていくように命令している。場合によれば他の【ファミリア】とも交渉して単独での探索をしないように、とも。
深く潜る程に危険度が増す。単なる金策ならば協力者が居た方が安全だ。
(内はそこまで武闘派ではないから安全に潜っていいんだぞ。みんなその辺り分かっているのかな?)
あまりうるさく言っても彼らの為にならない。キュベレーはいつもの威厳がある態度で眷族を送り出す。胸の
新しい眷族の追加も無く少人数で過ごしてきたが、そろそろ新しい団員が欲しいとも思っていた。
冒険者は危険な仕事だ。長生きできる保証はない。
「……アルテミス」
「……はい」
目元を布で隠した無機質な雰囲気の団長を呼び止める。水色を帯びた長い白銀の髪の毛を
レベル5の団長に団員の様子を見て、危険ならすぐに撤退するようにと言い含めておく。
毎日変わらない日常を送っていると不作の事態に対処しにくくなる。
(【ランクアップ】する度に人間性が薄れているような気がする。……この
それと三人共、
主神の心配をよそに三人はよく戦い、しっかりと稼いでくる。
高いレベルも相まって安定収入が見込まれている感じだ。
勢いに乗る冒険者は急な事態に対処しにくい。それが第一級冒険者であっても。
億に届く貯えが出来るころ、ダンジョン内で発生した
普段から心配癖のあった彼女はまず懇意にしている【アルテミス・ファミリア】の主神に縋る。
アタランテに何かと目をかけていた女神アルテミスは眷属を排した部屋でキュベレーを慰め続けた。
「……
「真面目なアタランテはこのままだと脱退するかもしれない」
「……さすがに私の【ファミリア】が引き取るのは……裏がありそうと勘ぐられる。だからといって何か出来る訳も無し……」
狩猟と貞潔を司る女神アルテミス。少なからず狩人としてのアタランテを好いていたのは事実だ。だが、だからといって『
彼女の団員からは
実際、キュベレーと取り合うところまでに至ったのは事実。そして、最終的に決断を下したのはアタランテ。
アルテミスは見守る役に徹すると決めた。――少し過保護だったのは認めるところ。
よその団員を可愛がるのはアルテミスだけではない。気に入った眷族の取り合いはオラリオでは日常茶飯事だ。時には大規模な抗争に発展する事もある。
数日後、
自慢の俊足と弓を持つ手と美貌――冒険者生命すらも失った。
(レベル3でもこうなるのか)
共にダンジョン攻略していたアルテミスとオリオンは比較的軽傷だ。
地下で何があったのか聞いた方がいいのか、それとも温かく出迎えるだけでいいのか迷う。
彼女の治療費は相当かかったらしいがキュベレーにとってはどうでもいいことだった。とにかく、生きて戻ってきてくれたことを喜ぼう、と。
戦士として生き恥を晒したくない、とでも言ってくれた方が気が楽だったのかもしれない。アタランテを見る前まではそんな覚悟を決めていた。しかし、物静かに佇む彼女が何を考えているのか、キュベレーは分からなかったし、知りたくなかった。
(何も言わないんだな、この子は。そうやって内に貯めるのか。自分の責任として……。主神に泣きついてくれないのは……、寂しいな。……ああ、私は今、とても寂しい)
役立たずになった眷族を追い出すのは簡単だ。出ていけと言えばいい。
我儘な女神だと思われているから命令すればおそらく素直に聞いてくれるはずだ。
――本音は残っていてほしい。アルテミス達の稼ぎがあるから、なんて言えたらどんなに楽だったか。
「……変わり果てた姿になってしまった今、貰い手など無いだろう。……誰かと逢引する機会を失ったお前は殆ど無価値になった。それで、どうするつもりだ?」
「……神の
ままならない、というより自害を禁止させたのだから仕方が無い。
早まるな。それを言うのがキュベレーにとって精一杯の望みであった。
アタランテが冒険者としての役割が出来なくなって数日が過ぎた。
日々の飲食に関して【ファミリア】の財政は潤沢で数十年程度は今のままでも問題が無いほど。
アルテミスとオリオンまで何かあっては困るので思い切った命令が出来なくなったのは事実だ。
(怪我を負った我はアルテミス様に見限られたようだ。……狩人ではなくなったアタランテはもはや無価値……。義手義足を用意すると【ファミリア】の財政が一気に悪化する。それだけは阻止しなければ)
美貌に関して気にした事が無いけれど、怪我はどうとでもなる。余計な虫が来なくて行動しやすいくらいだ。
問題があるとすれば仕事だ。自分でも分かっている。何もできない事を。
「……逢引か」
獲物を仕留める事しか考えてこなかった。
戦士として戦う以外の方法を彼女は学ばなかった。
【キュベレー・ファミリア】の眷族として。主神の為に命を投げ出す覚悟まで決めて。
生き恥を晒すこの身が憎い。ならばどうなろうと知った事ではない。
鬱屈した生活が始まり、気持ち的にも暗いものが溜まっていく。出されるご飯の味が分からなくなる程に。
朝起きて飯を食い、昼から何をするでもなく外を眺めて晩になったら寝る。その繰り返しの人生を送ることを思うと虚しくなる。
(【アルテミス・ファミリア】は狩猟と貞潔を司る。もし、そちらの団員であればとっくの昔に追い出されていた。……その方が楽だったのか。キュベレー様は厳しいお方だが私を見捨てなかった)
神の考えは眷族には理解できない。分かる事も少ない。
キュベレーは今のところアタランテに何も言わないし、何もするなととも言わない。
ただこの【ファミリア】に居るだけでいい、と言われているような気がする。それが優しさなのか、罰なのか判断できない。
ある程度の感情を見せる主神とは裏腹に全くの無感動な団長アルテミスは無機質なまでに命令に従順だ。
当初は戦士としての憧れを抱いた。無駄なことをしない。無駄なことを言わない冷静沈着な
――今は本当に
ここまで無感動な戦士を他の【ファミリア】で見た記憶が無い。
オリオンはそんなアルテミスの事を好いているようだが――
(……改宗は拒否された。脱退も許されていない。……もし、【アルテミス・ファミリア】だったなら……)
役に立たなくなったアタランテがもし、誰かと逢引し貞潔を破れば即座に脱退宣告してくれただろう。その方がどれだけ気が楽か。
そう思い始めていた。日を追うごとにそんな暗い気持ちが強くなる。
ある日、久しぶりに神アルテミスを見かけた。
以前と変わらぬ凛々しい立ち居振る舞い。対するキュベレーは
神としての威厳か、それこそが『
「ぶしつけで申し訳ないが少しいいだろうか?」
杖を突きながらたどたどしい足取りで神アルテミスに近寄る。すると即座に周りに居た眷族が武器を構えて威嚇する。それをアルテミスが手で制する。
知らぬ仲ではないがよその【ファミリア】だ。安易に交流を持たないのがオラリオの不文律である。
「なんだ?
いつも優しく声をかけてくれた神が
いや、これこそが本来の形だ、とアタランテは納得する。
神アルテミスも【ファミリア】の主神だ。判断基準に沿わぬ者に優しく接するはずがない。
「……もし、そちらの団員であったなら……。今の私であればどう処分する?」
「決まっておろう。即退団だ。……と、言いたいところだが私とて迎え入れた眷族を安易に追い出したいとは思っておらんぞ」
夜色の長く青い髪の毛を軽く手で撫でつける。
世間の評価では厳しく凛々しい狩猟の女神だが愛する心が無いわけではない。
(……それにしても見違えたな。ここまで酷い姿になっておったとは……。狩人の命ともいうべき腕と足の喪失はとても大きかろうに……)
もし、自分の眷族が同じ目に遭えば泣く自信がある。
今までアタランテに会わなかったのは神でありながら怖かったから。今もそうだが――
厳しい意見しか言えない不器用な自分と会わない方が彼女の為ではないか、と。
今回は眷族に催促されて自然な振る舞いでアタランテの側に来た。話しをしようとまでは思っていなかったけれど。
(……ああ、それにしても私は厳しい言葉しか出てこない。処女神だからか? 貞潔を司っているからか?)
出来る事なら抱きしめてやりたい。それは確かに女神アルテミスの純粋なる気持ちであった。
相手に触れてはいけない規則がそもそも無いけれど、今のアタランテは触れると壊れそうな危うさがあった。
歳若いアタランテに伴侶でも、と言えたらいいのに処女神ゆえに言えなかった。代わりとして団長レトゥーサに意見を出すように命じる。
都合の悪い時は眷族に頼るべし、と様々な神が言っていた。まさか自分がそれをするとは思いもよらなかったが――それもこれも気心の知れたアタランテだからこそ、だ。
「お前は【ファミリア】から出ていきたいのか?」
年齢的にもアタランテの方が年上だが団長としての気構えの様なものでレトゥーサは言った。
ダンジョンに潜らないためか、各団員のレベルは低いまま。いずれなんとかしなければ、と主神は思っている――思っているだけで実行にはまだ至っていない。
「……そうなるだろうか。出て行けと言われたいのか……。分からない」
「自害以外なら方法が無い事も無いぞ」
そう言い始めたレトゥーサにアルテミスは目蓋を思い切り開いて驚いた。そして、軽く彼女の頭を叩く。
何を言っているのか、と言おうとしたが別の団員に口を塞がれた。
突然のやり取りに驚きつつもアタランテはレトゥーサに続けてくれ、と言った。
「男を見つけろ。いつか子供でもできれば主神が激怒して追い出してくれるかもしれない。アルテミス様なら確実だ。何せ、処女神だからな。男女の逢瀬は頑なに禁止されている」
「……キュベレー様は処女神ではないのだが……。そんなので怒らせるのもどうかと思うが……。あと、神を怒らせる気は無いぞ」
(ひとえに放逐を願っていたが……。……そうか、私は女だ。子を産める。内臓の一部が欠損しているが人の営みは……出来るのだったな)
戦士としての生き方しか知らないアタランテにとって男女の逢瀬は言葉でしか知らない。
生まれた時から戦ってばかりだった気がする。だからこそ、何も出来なくなって、未来が見えなくなって――とても寂しい気持ちになっていた。
寂しければこうして他の【ファミリア】に会えばいい。今まではそれが普通だと思っていた。
眷属でなくなった後は『普通』は無くなる。戦士ではない生き方をしなければならない。
男と女という枠組みの生活を知らないアタランテにとって未知の概念だ。
「……神アルテミス」
「んっ?」
「……もし、私があなたに頼みごとをしたら……、聞き入れてくれるだろうか?」
「頼みならばキュベレーにすればよかろう」
そう言うとレトゥーサ達が肘で突いてきた。
この場合は聞き入れるべきです、などという小声が届く。
聞き入れる気が無いならどうしてアタランテと対話するんだ、などと抗議を受けてしまった。――そう言われては女神としても言い返せない。
不満を滲ませつつ内容次第だ、と答えた。
時が流れ、冒険者でも狩人でもなくなったアタランテ・ミリアは背中に刻まれた『
麗しいと評された美貌は既に無く、幽鬼のごとき足取りの彼女に近づく男は居なくなった。――居ないなら捕まえればいい。
緑がかった前髪と短く切り揃えられた黄金色の長髪――それが今では半分近くが白髪になっている。
鏡の前で見る自分の酷い容貌に涙が出るほど嘆いたのは記憶に新しい。
これでもまだ
(……馬鹿な計画を立てて一年と少し経った、のか。オリオンには感謝のしようもない。団長も表情には出さないが……。いや、あれは主神の命に従っているだけか)
下腹部に手を当てる。
つい先日までここに命が宿っていた。それが今はもう無い。
胸は小振りのまま。
貞潔を司る主神であれば用済みとして追い出されている。
籍こそ【キュベレー・ファミリア】だが殆ど脱退したも同然だ。
見ず知らずの
ここに居るのは麗容なる女狩人などではなく、雄の味を覚えた一匹の獣。
(……何もかも無くした。なんと、惨めで無様な事だろう)
迷宮都市オラリオから出て、かつての【ファミリア】の
冒険者の仕事を辞めたものの買い出しに度々往復する事がある。それも随分と長く続けてきた。
これからも続くのか、新しい土地に移り住むのか、という選択があるが決め兼ねている。
狩りと冒険以外の仕事を知らなかった。母としての生活も殆どやってこなかった。
何も出来ない事を知った。その上で何が出来るのか。
(……料理を作る事も出ない。……私はただ生きているだけの肉の塊……。ああ? この先に何があるんだ? 私は……、何を無くした?)
時間の感覚が分からなくなり、既に数か月も過ぎたような気がする。いや、何年もかも。
歳も存在もあやふやなまま気が付けば草原に居ることに気が付いた。
野を駆ける事が好きで、狩りの仕事以外は時間を忘れて走り回っていた子供時代が自分にはあった。
幼い自分を幻視する。きっと
親に捨てられたアタランテは我が子を山に捨てた。
不要と判断したからではない。自分の子供だからこそだ。
それが彼女の系譜の始まりであり、終わりを意味する。
見慣れていた筈の草原をゆっくりとした足取りで歩いていたら――見覚えのない風景が辺りを満たした。
何も考えず、ただ前だけ見ていたらまるで道に迷ったかのように。
そんな筈は無いのだが、後ろを振り返っても見知らぬ風景になっていて戸惑う。
(……なんだここは。……いや、いつから……。どこに迷い込んでしまったのだ?)
薄曇りの天気。霧の様な靄が立ち込めている。けれども、遠くは見渡せる。
どこまでも尽きる事のない草の絨毯以外に見えるものが無い。
獣の姿も鳴き声も無く、獣道すら見当たらない。
「……ヴゥオオ」
不意に獣の咆哮が聞こえて、思わず護身用の武器を確認した。
野草や果物を採集する為のナイフが二本と小剣が一本だけ。
鳴き声はいつも狩っていたバトルボアのもの。姿は無いが他にも動物が居るらしい。
数は多くないが遠くの方、という事しか分からない。
(……迷ったのか。……狩人としての勘も無くしたらしいな。だが、こんな綺麗な草原で果てるのも……それほど悪くないのかもしれない)
戦士として戦いの中で死ぬことが誉れだ、というのは男社会では比較的多く言われているがアタランテも少なからず同調していた節がある。
実際には命は惜しい。いくら神の命令があったとしても自害に至れる自信など毛ほどにも無い。
ただ、言うは易し。意外と自分は臆病だ。――そう、単なる強がりだった。
内面の弱みを認めると気持ちが少し楽になったような気がした。
「……後悔しているのか。……満足しているわけではないのだけは分かる」
枷がなくなった獣は自由ではあるが誰かに狩られる危険性があり、常に怯えている。
その観点から言えば自分はどちらの立場なのだろうか、と。
前も後ろも敵だらけ。
それがアタランテが辿ってきた人生の正体。
こんな状態で何を選べるのか。
(生き足掻いて……、最後に死す。野獣の人生は常に猛進以外に無し)
であれば呑気に歩かず走ればよい、と誰かが言う。それは過去の自分のか。
昔ほど速く駆けることが出来なくなったが今でも気持ちは狩人だ。
獲物を前に武器を構える。
麗しき女狩人アタランテ・ミリア。その足跡は確かにあった。
歩き回ったアタランテも体力が落ちたのか、荒い呼吸を繰り返すようになった。
【ステイタス】の恩恵があるにもかかわらず、思っていたよりも息が上がるのが早いな、と。
それと景色が全く変わらない。
すでに何時間も歩き続けている筈なのに――
(案外、ここが黄泉の国だったりしてな。好きなだけ歩け。お前は既に死んでいる、と……)
もし、それが事実でも今更である。
託す言葉も無く、残す物も置いてきた。
取りに帰るようなものは持っていない。
「……神様と仲間達。ここでお別れのようです。……我が子よ。お前に父も母も無い。獣のように生きるが良い」
一つ息をつき歩き始める。
別れの挨拶をするほど自分の精神は随分と摩耗してしまった、と苦笑を滲ませる。
実際、限界だった。強くあろうとすることが。
(……果てのない草原……。野垂れ死ぬ事も許されない刑罰のよう……)
無為な移動を強いられている。そんな気がした。
捜索隊が来てくれる訳でもなく、仲間や懇意にしている冒険者の気配も声も姿も無い。
ここは本当に不思議なところだった。
疲労こそ蓄積しているが飢えは感じていない。腹も空いていないようだ。
【ランクアップ】する毎に食事量が増えていた筈なのに、すっかり食が細くなった。
そんな取り留めのないことを考えながら歩き続けていると不意に獣の唸り声が聞こえて来た。
遠くの方で獣の鳴き声や移動音があったけれど、それらは決してアタランテの近くに姿を現さなかった。
今回のものは比較的近くで聞こえた。
見晴らしがいいはずなのに何も見えない。そんな不思議な空間で。
辺りを見回すと唐突に
距離にして五〇
「……グゥウウウ」
唸り声を発しているのは黒い人物のようだ。
ゆっくりとした足取りで近寄るも逃げるそぶりを見せない。
更に進んで二〇
薄紫の前髪に白銀の長い髪。右肩に大きな黒い猪の頭部を乗せた女性。
獣耳と二本の白い尾を持つ
黒い毛皮をまとっているがほぼ半裸状態。唸り声をあげて威嚇する顔は確かに野獣のようだが、どことなく可愛らしさが残っている。
背丈はほぼアタランテと同じくらい。
「汝は……何者だ?」
「はっ! 負け猫風情が。生き恥を晒して恥ずかしくないのか」
敵意を振りまくように黒い獣の彼女が言い返してきた。その声は酷く自分に似ていた。
アタランテは何となく理解できた。
目の前の人物はきっと――自分を殺す為に遣わされた御使いなのだ、と。
だからなのか、怖いと思わなかった。
もう恐怖は無い。自分は既に道を見失った。
(……ああ、だからいつまでも迷い続けていたのか)
もう帰る道も思い出せないほどに。
であればここが終着点だ。アタランテの全てがここで終わる。
そう思った瞬間には黒い獣が襲い掛かってきた。それに対してアタランテは――何もしなかった。
黒い毛皮に覆われた爪の一撃で首を斬りつけられた。
一瞬だけ血飛沫が出た。思わず痛みで顔を顰める。痛みまで無くしたわけでは無いようで、心臓が激しく鼓動するのが分かった。
黙って受け入れるにしても攻撃を受ければ怖いし、痛い。現実はそう簡単にはいかないと痛みに耐えながら思った。
「……正しく獣だな。剣でも使えば一刀で済んだものを」
「まだ楽に死なせはしない。だが、安心しろ。貴様の血肉は獣の餌にしてやる。我が慟哭は激しき怒りと憎しみ。……【喰らえ、喰らえ。一片たりとも取り
体内から膨大な魔力を膨らませ、超長文詠唱しながら首を斬りつけてくる。
相手の速度は全盛期のアタランテに匹敵する。だからこそ、その動きが
見えていても避けられない。
一思いの斬撃ではなく、まるで――
その予想が真実かは分からないが即死を避けた攻撃によって辺りが血に染まっていく。それから詠唱が終わったのか、アタランテの無事な方の腕を掴んで顔を近づけてきた。
野性味を帯びた彼女の顔は確かに自分によく似ていた。鏡で見慣れた自分の顔だからこそ、そう思えた幻なのかもしれないけれど、その時だけは相手が
「【
静かに紡がれた魔法。
彼女の開いている拳に魔力が集約し、はっきりと視認できるオーラとして噴出した。だが、それを呑気に観察できる時間は無く、気が付けばその拳で強く顎を殴打されていた。
肉が裂け、筋肉が裂け、血管が千切れる音を聞いたような気がした。それから――強引に骨が外れたあたりから身体が軽くなり、浮遊感に満たされる。
単なる打撃で人体から首は離れないものだ。精々、顎を砕くまで。
どんな屈強な戦士でも打撃を打ち込めば大抵は後ろに倒れ伏す。自然の摂理のように。
――けれども、獣の彼女の攻撃は違った。
致死を避けた攻撃で首に切れ込みを入れ、魔力をまとわせた拳によって本当に首を、首だけを人体から解放せしめた。
空に舞うのはアタランテの頭部。身体は地に倒れようとしていた。
そんな状態にもかかわらず、頭部にはまだ意識が残っており、生きていた。
自由の利かない身となりつつも滞空しながら周りの風景を呑気に見ている。数刻もすれば意識が消失する。それでもなお、アタランテは泣き叫ばず、命乞いもしない。ただただ、現状を見ていた。
(……空。天界に送還される神はこんな気持ちを抱くのか……。あと少しで死ぬのになんて……気分がいいんだろう。……あの者は……これからどう……する……のだろう……)
地上に待機する黒い獣は空に舞う首を眺めていた。
地に落ちる時までの僅かな間、
激しい怒りも憎しみも無く、役目を終えたので関心が無くなった、かのように。
疑問を抱いていたアタランテの意識は地に落ちた瞬間に消えた。もはや物言わぬ屍だ。
残された胴体はまだ少し動いていた。たくさんの血を流しながら心臓が止まるまできっと動き続ける。
「……獣は獣に還るのが道理……。いや、その前に
携帯食以外にあるものと言えば方に乗せている黒い猪と地面に落ちている死体だ。
倒れたままになっているアタランテの身体に近寄り、胸元を隠す
心臓は魔力の元。一番のごちそうと言われているが――別のものにしようと思った。
(……肝臓か? 手足は私同様に薄くて美味くはなさそう……。吸血の趣味は無いから血も論外か……。意外と食える部分が無いのは情けない……)
失望は相手に対するものと自分自身にも当てはまるという意味で。
同族を食らう事に抵抗を覚えない。これは獣としての本能による獲物を食らう行為だからだ。
弱い者は強い者の糧になる。それが自然の掟であり
四つん這いで徘徊しながら食べられる部分を探す様は正しく獣そのもの。
(……自分の身体がどうなるのか見たいとは思わないか。こんな機会、中々味わえないぞ。……とうに死んでいる汝にそんな事を言うのは無駄か)
離れた位置に転がる頭部を胴体の近くに置き直し、改めて物色する。早くしないと腐敗が始まって味が落ちてしまう。
物言わぬアタランテの頭部に早々興味を無くした黒い獣の女性は小さく唸りながら徘徊を開始した。
腹が減ったと彼女は言ったが気分的なもので無理に食べなければならないわけではない。
それと必要なのは『魔力』の
強力な魔法を行使した後は軽い飢餓に陥る。獣らしい感覚だが忌避は感じていない。
獣の本能に従った純然たる行為だと思っている。
(……純潔を散らした女の肉は不味そうだが……。だからこそ味わえる部分もある。……獣性にとって一番のご馳走は何か。……それはやはり肝の部分に他ならない)
通常時であれば同じ姿を持つ生物を食べようとは思わない。オラリオで生活する
神々でさえ禁忌と宣うに違いないが彼女にとっては関係ない。
ここに居るのは一匹の獣だけ。仕留めた獲物をどうしようが誰にも文句は言わせない。
肉を裂くのに身に着けているガントレットを使うのは手間だと判断した彼女は死体の持ち物を物色する。
獣の様な振る舞いをしていても武器の扱いは出来る。早速見つけたナイフを自身の毛皮に擦りつけて汚れを落とす。
(ひ弱そうでも冒険者だ。死しても『
子を産んだ彼女の乳房は小振りだが目についたので乳輪周りを切り取る。すると血に混じって僅かな母乳が確認できた。
切り取った肉片を何のためらいもなく口に入れ、人が肉を食らうのと同じように咀嚼していく。
味に関しては同じ種族だからか、美味いとは感じない。一般の獣人ならば嫌悪感が先に来て吐き気を催すところ。しかし、彼女は違う。
何の感情も見せず、肉を食べた後、ついでとばかりに穴が開いた乳房に吸い付き体液を啜る。
(……食べても腹が空くのは何故だろう。これが満たされない飢餓というものか。……ああ、そうだな。獣は常に飢えている。生きている限り喰らい続けるもの)
次に狙いを付けたのは下半身。
もし、異性であれば真っ先に食いつくところ。だが、獣の彼女も性別で言えば
発情には至らない。――そうなる筈だが仕留めた興奮が残っている為か、気持ち的には高揚していた。まして、今は獲物を喰らっているから気分がいい。
誰かが見ていれば口角を釣り上げた世にも美しき邪悪な猛獣の姿が拝めただろう。
(……自分を喰らう。万と背徳的な行為だろうか。……本当に、本当に獣の本性とは実に浅ましくて抗い難い)
止めに入る者は無し。神も無く、ここに人界の法も無い。
無秩序にして本能の赴くままに。
原始獣性淫都。
ただひたすらに欲望を剥き出す。これこそがこの世の在り様であり、
熱い吐息を吐きながら屍と化したアタランテの下着を剥ぎ取る。
死を受け入れた肢体はだらしなく体液に汚れ、鼻を衝く異臭を放つ。けれども獣の女性にとって気にするほどのものは無く、邪魔な体毛をどうしようかと頭を悩ませる以外に障害は無い。
性器の周りを丁寧に切り裂いて取り出せばもはや歪な肉片にしか見えない。
死後硬直が始まる前に処理しなければならないとはいえ、ついつい見入ってしまう。
(……既に
股間から血を流す様を見ながら肉片を喰らう。味についてはもはや他と変わらない。
美味くもなければ不味くもない。苦い鉄の味だ。
煮たり焼いたりしない巣のまま肉だから仕方が無いのかもしれないけれど、調味料であれば少しは違ったのかも、と思わないでもない。
だが、獣は生肉を喰らう。都合のいい料理など今の自分には必要ない。
大きな穴が開いた股間に手を無造作に突っ込み、小便が溜まっている膀胱を引きずり出して投げ捨てる。さすがに小便や排泄物を食おうとは思わない。
次に狙うのは子宮。死人には不要の長物だ。
一つずつ体内に収めていくうちにアタランテの血肉が自分のものとして還元される気持ちを抱く。
(……ちゃんと見ているか。……あ? 声が出ない……。ああ、そうか。あまり長く居られないのか。……残念だ。……次代の英雄が生まれる為には未練を断ち切らなければならない。私は
手を血塗れにして子宮と思われる器官を引きずり出し、余計な血管などをナイフで断ち切る。
卵状の卵巣を一つずつ食いちぎり、乱暴に咀嚼する。
胎児を形成させる子宮もほぼ丸かじりだ。
(……生きたままであれば色々聞けたのかもしれないが……。
死肉を喰らう事に虚しさを覚えた以上は無駄なことをやめる事にした。
元よりこれは
アタランテという冒険者が死んだ。その事実だけ、この世に残ればいい。
古い身体を脱ぎ捨てて新しき者を迎える。
世の中はそういうもので回っていく。
獣の女性は最後に残った頭部に顔を向ける。
お互い似た顔――似ているとはもう言えないか。
もう一人のアタランテともいうべき存在が古い身体を貪り喰らう。
(持ち帰る為にはあまり損傷させてはいけない。なら、その目と舌を頂こう)
頭部を持ち上げ、既に濁った物言わぬ瞳を指でほじくり出し、碧玉の瞳を観察した後、口に放り込む。
ある程度舌で嘗めまわした後、かみ砕いた。
もう片方はそのままにする。成すがまま。抵抗の意志は無い。
死人は何も出来ない。いずれ自分もそうなる、と思いつつ彼女の唇と自分の唇を合わせる。
熱い接吻を交わす。相手の口の中に舌を潜り込ませ、死人の味を堪能する。
最後は相手の舌に噛み付き、引きずり出し、乱暴に引き千切る。
アタランテの茫洋とした顔を凝視したまま咀嚼する様子を見せつけて、最後に嚥下する。
(ご馳走様でした)
最後の仕上げとして己の右肩に付随していた巨大な猪の頭部を引き剥がす。
単なる装飾ではなく、首だけの獣もまた生きていた。それをアタランテの首に当てると癒着が始まった。それに伴い欠損していた内臓や手足の肉が盛り上がり再生していく。
激しく痙攣する胴体を眺めつつ黒い獣の女性は息をつく。
落ち着きを取り戻した彼女に獣性は無く、見ようによればアタランテと遜色ない顔立ちになっているのが分かる。
「ヴゥ、ヴォオ……」
(そなたは自由だ。どこへなりとも行くがいい)
猪がアタランテの死体を掌握する毎に――身体にも――変化が生まれる。
黒い猪に興味を無くした少女は反対方向に歩み出す。すると彼女の白銀の髪の毛がゆっくりと別の色味を帯びていく。
アタランテの頭部に顔を向けて彼女の死に様をしばし眺めた後、首を脇に抱える。
(身体が安定するまで喋れないようだが……。この世界に現界した以上、働かなければな。そうして世界は循環していく。誰かの血肉を受け継ぎ、次代の戦士へと……)
黒い猪はいずこかへ去り、獣だった女性は新たなアタランテとして歩み出す。
目的地は【キュベレー・ファミリア】だ。元眷属の頭を届けなければ悔いが残る。それを避けなければならない、という何者かの意志により彼女は進む。
それからしばし時が過ぎ、貞潔と狩猟を司る神は山で赤子を見つけた。発見は偶然ではなく、眷族達が見張っていたので余計な襲撃を防いでいた為に安全に
アラタンテの遺児、とは言わない。何者かが捨てた獣人の赤子だ。
両親を知らずに神の手の中で小さく泣く。
「……確かに受け取ったぞ。……ああ、なんて可愛らしい……。今日から私がお前の育ての親だ。……色々と苦労させるかもしれないが……。その前に名前を考えないとな……」
処女神アルテミスは
約定を違えるわけにはいかない。神が交わした約束は天界に送還されるまで有効である。
神だから傲岸不遜な態度を取ればいいものを、と団長以下に言われてしまうが――気持ちはそう簡単には変えられない。
(……やはり……。いや、そうではないな。これがいい。他に浮かばない)
「今日からお前はランテと名乗るがいい。我が【アルテミス・ファミリア】はお前を祝福する」
「……苦労しそうな名前ですね」
「そうかもしれぬが……。分かち合える仲間がここに居るではないか」
「……世間では『責任転嫁』……と、言うそうですよ」
そう団長レトゥーサが指摘すると女神アルテミスは口を尖らせて不満を表した。
神の決定は時に我儘だ。そして、それを止めることが出来る眷族は居ない。
だが、ここで団長は懸念を伝えた。
「処女神の【ファミリア】なので母乳は誰も与えられませんよ」
「乳が出る牛でよかろう。我々が飲めるものならば安全だ」
「……そのまま飲ませたら腹を壊します。……誰か、調べに行ってくれ」
レトゥーサの命令に団員達が苦笑しながら駆け回る。
今日をもって【アルテミス・ファミリア】に一人の団員候補が受け入れられた。
時を同じくして【キュベレー・ファミリア】にも団員希望者が――アタランテの頭部を持参して――訪れていた。
口回りを血で汚した二本の尾を持つかの者はこう名乗った。
我は狩猟を