洋琴を奏でる少女の鬼   作:本好きの海

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アルビノ体質の人って視力が弱いらしいです。個人差はあるそうですが。歳を重ねるごとに目が見えなくなる人もいるんですって。


Sol . 『あたし』の記憶

流石に冗談にも程があると思う。まだ初めて使う鍵盤楽器を来月の開店当日までに調律したり、練習したり、西洋の洒落た曲を調べたり、他にもいっぱい準備しなきゃいけない。若旦那ったらおせっかちところがあるのね。

まあそれはそれ、これはこれ。来月までに腕前を完成させる自信はある。母もそれに関してはあまり心配していないらしく、どちらかと言うと娘の晴れ舞台に着せて行く服を選んで頭を悩ませていた。実際に本番で弾く曲が決まったらそれに合うものを選んでもらうつもりだ。

楽譜に関しても、家にもともと置いてあった物の他、父の知り合いに連絡を取って急ぎで買い取る所存である。提琴用の譜面とはまた違うようで、洋琴は両手を使った豊かな和音が特徴らしい。既にある譜面で何曲か練習して弾いてみたが、中々良い手応えだ。

 

しかし、何か違和感を感じる。

 

私はずっと前にピアノを弾いたことがある気がする。いつだろう。

あれ、そもそも『ぴあの』ってなんだ。

おかしい。今私は洋琴のことをそう呼んだのか。聞いたこともない単語のはずなのに妙に耳馴染みがいい。

思い当たる外つ国の言葉で言うなら”piano”だろうか。提琴の譜面にもよく使われる単語で、『小さな音』という意味がある。

それとも『ピアノソナタ』の『ピアノ』? しかし私はこの単語の意味は知らない。

何故。何故私はピアノをピアノと呼んだ。

いや、ピアノはピアノだ。そう呼んで何がおかしい。

 

思考がぐるぐると回っている。

こんなに物事が分からないのは初めてだ。私は一度教えてもらえば大概のことは分かってしまうので、初めての『分からない』感覚に少しの恐怖と興味が湧いた。

考えすぎたせいだろうか。

なんだか頭が痛いし気分も悪い。

こんな時は楽器を触るに限る。

そうだ、丁度いいところにピアノがあるじゃないか。弾こう。

 

***

 

あのでかい荷物が届いて三日。妹は飽きずに部屋に篭りっきりで洋琴を奏で続けている。

以前に妹が読んでいた音楽史の本を一度齧ったことがあるので有名どころの曲は俺もいくつか知っている。今妹が弾いている曲はピアノソナタの『月光』と言う名前らしい。ある時に外つ国出身の知り合いがくれた楽譜にあったもので、当時は勢いよく食いついた妹が提琴で練習していた。妹が初見で楽譜を読んで演奏した時、その第三楽章に一目惚れならぬ一耳惚れしたのだと話していたのを覚えている。もともとその曲は提琴用に作曲されたものではないらしい。でも一番のお気に入りだと言ってよく奏でていた。今頃は実際に洋琴で弾けるという事実に小躍りしていることだろう。

しかしそんなことを考えていた矢先、先刻まで聴こえていたその月光が急に不自然に途切れた。単純に弾き間違えたというわけでもなさそうだ。ずっと聴いていたが、さっきは完璧に弾けていたはずの箇所だった。

ここ数日で聴き慣れた音色がピタリと聴こえなくなったことになんだか気分が落ち着かなくなる。

…よし、先日来た商談の件にも丁度目処が立ったところだ。少し様子を見てみるか。

そう思いたって書斎の席を立つと、今度は唐突に聞いたことのない曲が流れ始めた。

 

なんだ、これは。

 

曲調が今までのものとは全く以って異質だ。理由はわからない。ただ、胸騒ぎがする。

心臓が早鐘を打つ。

自然と俺は妹の部屋へと向かっていた。妖しげな音色が徐々に大きくなるたびに、部屋に向かう足は速くなる。部屋の前に着く頃にはもうほとんど駆け足だった。

 

バンッ

 

大きな音をたてて俺が扉を開くのと、妹がゆっくりと倒れて行くのは同時だった。椅子から崩れ落ちる妹を反射的に抱き止め、慌てて脈を測る。息が荒い。肌が全体的に赤みがかって頬が熱っている。熱があることは一目瞭然で、急いで抱き上げ寝室に連れて行く。額に自分の額を合わせてみれば、茹ってしまうのではないかと思うくらいの熱を感じた。これはまずい。

行儀が悪いが、時間が惜しい。大声を張り上げて母を呼ぶ。水桶と布を用意して額に当ててやるが、依然として苦しそうだ。

妹は滅多に風邪を引かない。普段から丈夫な子供そのもので、こんなことは初めてだ。熱中し過ぎて体調管理を怠ったくらいでこんな高熱を出すとは思えない。

その後、何事かと駆けつけた母に様子を見てもらい、俺は原因を考えたが、これと言ったものは出てこなかった。ただの知恵熱ならいいのだが、それにしても酷い熱だ。

 

***

 

夢を見る。

 

母の遺影を見つめていた。

それは穏やかな春の夜のこと。

空にまあるい花を見つけたんだ。

 

ああ、そうか。

 

これは『あたし』にまだ光があった頃の夢だ。

 

お母さんは体が弱かった。あたしを産み落とすと同時に花が散るようにこの世を去ってしまったそうだ。お父さんは幼い病弱なあたしを男手ひとつで一生懸命育ててくれた。

決して豊かとは言えない、慎ましく、でも幸せな生活だった。

 

十六の冬、お父さんが倒れた。

 

過労だったそうだ。

呼吸器を当て、ひっそりとした病室で一人細い息をするお父さんを見た。お父さんの顔を見れたのはそれが最後だった。

 

あたしは生まれつき色素が薄かった。

お父さんもお母さんも黒い髪に黒い瞳を持っていたのに。

 

雪のような冷たい色の頭髪は周囲の人を気味悪がらせた。

血の通っていることを疑うほど白いその肌は太陽に嫌われていた。

紅く濁る木槿色の瞳は朧げにしか光を通さなかった。

 

年月を経るごとに光を失っていくのが怖かった。

 

お父さんの顔が見たかった。

 

***

 

夢を見る。

 

あたしには何でも話せる友人がいた。

彼女はあたしの異質な見た目を気味悪がらずに接してくれた。お父さんが倒れて身寄りのなくなったあたしを友人一家は引き取ってくれた。

 

友人の家は代々音楽に携わる家だったそうだ。初めて見た時はその豪邸のような家に目を白黒させたものだ。

友人の歌を聞くのが好きだった。あたしは肺が弱くて声をあまり張り上げられなかったから、その綺麗な歌声が羨ましくもあった。

友人に教えてもらって色んな曲を聴かせてもらった。

 

『目が見えなくなっても、音楽は聞こえるんだよ。素敵でしょ?』

 

すっかり光を通さなくなった目に悲観していたあたしは、音を通して新しい世界を知った。

 

そしてあたしは、運命の出会いを果たした。

舞台の上には目を閉じたピアニスト。

周囲のスポットライトは一点を向いて、切なげな一身を照らしていた。それはさながら、曲の名と同じく月光のようで、静謐なホールに響く彼のピアノはあたしの心を揺さぶった。

 

彼は生まれつきの病で目が不自由だったそうだ。不幸なことにも似通ったこの境遇に感謝したのは初めてだ。あたしも彼のような人の心を動かすピアノを弾きたいと思った。

 

 

 

思っていた。

 

 

夢を見る。

 

 

熱い

 

熱い

 

熱い

 

燃える、焼ける、

 

熱い熱い熱い

 

どうして、やめて

 

あたしにはこれしか残ってないのに

 

見えない、声が出ない

 

あたしは…

 

 

 

 

***

 

熱にうなされて目が覚めた。

長い夢を見ていた気がした。

額にはまだ冷たい布が濡らして当てられている。『私』はあまり風邪をひいたことがないので慣れない状況に暫し困惑した。まだ体は熱っぽいが、対照的に頭は寝る前よりすっきりとしている気がする。

 

あれはきっと前の私だ。

ポツリポツリと空いた記憶のピースが音を立ててハマっていく。

思い出深い品であるピアノを弾いたことで記憶が掘り起こされたのだろうか。

生憎オカルトの類はあまり信じていないが、そうとしか説明のつかないこの現象に少しの畏れと爆発的な好奇心が湧く。

急に起き上がった私に驚いた母が制止するのにも気づかず、ふらふらとした足取りでピアノのある部屋に向かった。

慣れた手つきで蓋をあけ、中の鍵盤に慈しむように触れる。普段はよく見える『私』の目が熱に浮かされてぼやけた。

でも問題ない。

私は目を閉じていても鍵盤の場所がわかる。『あたし』がそうだった。

 

———穏やかな春の夜の空に、まあるい花を見つける夢を見た少女の曲

 

最初はゆっくりと始まる曲調。穏やかで上品な空気を醸し出す。少しずつ、少しずつ、そして一際緩やかになったテンポはさながら嵐の前の静けさ。直後には華やかに兎が踊り出す。鍵盤を走る指に合わせて私は駆けた。空に咲くまあるい花を求めて。

 

静かな春の夜のことだった。

 

 




ピアノソナタ『月光』といえば辻井伸行さんですよね。尊敬します。
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