洋琴を奏でる少女の鬼   作:本好きの海

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余裕がなく、夢中で必死な様子を『鬼のような形相で』と表現できますね。鬼はいったい誰なのでしょう。



La . 魅了の奏者

書きものをする手の影が伸びる。見辛くなった手元に鬱陶しさを感じた。

 赤みがかってきた空を窓越しに見上げて俺はため息をつく。

 屋敷の東側に位置するこの角部屋は、日が沈むと暗くなるのが早いので、それが余計に時間の流れを感じさせるのだ。近頃は秋も終わりに差し掛かり日も短くなってきていた。

 

 一日経っても妹の熱は下がらず、もう夕刻になってしまった。

 

 昨夜も俺は妹を心配して看病を申し出たのだが、『明日も面会の予定があるでしょう』と言う母に早く寝るように言われてしまった。

 今も母がつきっきりで面倒を見ている。

 昨夜は心配で心配で中々寝付けなかった上、今日の仕事も集中できずカリカリとしてしまった。

 診療所関連で訪ねてきていた隠さんには申し訳ないことをしたと思っている。

 

 この商家と自分の事業の両立で俺はいつでもは多忙にしているため、同じ家に住んでいるというのになかなか会いに行けない。今だって片付いていない案件は腐るほどある。

 夕餉の席にも顔を出せないであろう妹を思い、再び溜息をついた。その時だった。

 

 ポロンパラン

 

 

「———ッ!」

 

 

 忘れもしない。あの時と同じ、異質な曲調。

 それは決して大きな音ではないはずなのに屋敷全体を静かに震わせるように響いている。

 

 まさか。

 

 夢中になりすぎて体を崩したというのに。本当にどうしようもない奴め。

 

 無駄に広い洋館の廊下を駆け抜け、妹の部屋に向かった。既視感を感じながらも勢いよく扉を開く。

 大きな音を立てて開いたはずの扉はしかし、奏でられる音たちの前には騒音にすらなり得なかった。

 

 一瞬にも永劫にも感じられたその時間。

 己の体全体が、それこそ生毛に至るまで、紡がれる一つ一つの音色に支配されてゆくのを感じた。

 世界から孤立されたその空間を支配するのはたった一人の少女。

 小さな世界の主は柔らかな西日がさす部屋の中央にいた。

 

 こちらに気づくそぶりもなく洋琴を奏で続ける妹。

 その横顔を覗き込んだ途端、俺は息を呑んだ。

 

 誰だ。

 

 違和感は一瞬。もう一度瞬きをすればその感情を忘れてしまった。

 

 ただ、ひとつだけ、

 

 

 ———伏せた瞳に、仄かに煌めいた紅色を俺は見逃さなかった。

 

 

 ***

 

 

 感情任せに紡がれてゆく音に俺はただただ圧倒された。

 妹が狂おしく洋琴を奏でている姿に俺も母も唖然とする。

 その必死な様は普段の彼女とは別人のようだった。

 踊るように駆け抜けるような、華やかでいて上品なそれは、鼓膜を打ち心を揺さぶる。

 鼓動すら拍子を合わせて打ち始めるのではと錯覚するぐらい、聴けば聴くほど溺れていく。

 

 一瞬、眼前に踊るように駆ける兎を幻視した気がした。

 

 その場の全員が漸く我に返ったのは音が止んだ頃だった。

 どれくらいの時間彼女がそれを奏で続けていたのかはわからない。

 曲が終わるまで誰一人その場から動けなかった。

 妹もようやく正気に戻ったのか、上記した顔で黒い目を見開き、肩で息をしていた。

 

 突如として訪れた静寂。

 

 俺も、母も妹も、誰も言葉を発そうとはしなかった。

 

 言葉で表せない出来事が起きていた。

 言葉で表せない感情が湧いて出た。

 

 理解の範疇を超えたそれを処理する術を俺は知り得なかった。

 

 それでも、当て嵌まる言葉を探すとするならば…

 

 

 

 

 俺たちは彼女の奏でる音に『魅了』されたのだろう。

 

 

 

 

 ***

 

 

 時の止まったような空間で最初に動いたのは母だった。

 

 我に返った母に大目玉を食らった妹に渡された宣告は『一日楽器禁止令』。

 一日と言うあたりまだ甘い気がするが、妹の楽器好きを舐めてはいけない。

 数時間も取り上げれば干からびた干物のように変貌することだろう。あれはそういう生き物だ。

 

 先程までの様子が嘘のようにぶーたれる妹とそれを叱る母。

 その様子を横目に見ながら俺は拭きれない不安を感じていた。理由はわからない。

 

 ただ、妹に何か普通では起こり得ないことが起きているのは確かだ。

 思考の海に沈んだ俺のそこからの記憶は曖昧だった。俺に何やら声をかけてくる母に生返事を返し、ぼんやりとした頭で自室に戻る。

 

 その日はなかなか寝付けなかった。妹が心配だったのもあるがそれだけではない。

 目蓋を閉じると頭の中をあの曲が否応なしに駆け巡るのだ。それを無我夢中で狂ったように奏で続ける少女の姿が瞼に焼きついていて、それが余計に俺の不安を煽っていた。

 

 そんな俺の心配など知りもしないとばかりに、一晩もすれば昨日のことが嘘だったかのように妹はけろりとしている。

 

 なんてことだ。俺の睡眠時間を返せ。

 何にせよ回復したことには一安心だが、こんなことは一生勘弁してほしいと思った。

 

 それとなく昨日のことを尋ねてみても慌てたようにはぐらかしてくる。その狼狽えた様子を見るにあまり話したくないのだろう。

 相変わらず動揺を微塵も隠せない妹に苦笑し、なんとなく気になって妹の目を覗き込む。

 

 なぜだろう。

 

 いつもと変わらぬ黒い瞳にどうしようもなく安堵する俺がいた。

 

 

 

 




そういえば、正気を失った人のことを『目の色を変えて』と表す慣用句がありますよね
これも帰結というものでしょうか。
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