洋琴を奏でる少女の鬼 作:本好きの海
この物語は主人公が鬼になってからが本番です。
薄暗く、人気のない静かな路地裏。
人の多い都会であるからこそ生まれる建物の影を一人の男が歩いていた。足音も気配も消した歩みは彼が只者ではないことを物語る。
(あの屋敷か…)
建物の隙間からわずかに見える立派な洋館を流し見て男は道を引き返した。これは下見だ。
男が街に出ていたのは商いや観光のためではない。幾分後ろ暗い用件である。
彼は人を殺しにきたのである。
男の家は代々忍をしてきた家系であった。
今の時代、昔と比べ衰退はしているものの忍は存在する。
彼には姉弟が九人いたが、そのうちの七人が既にこの世を去っていた。
一族が衰退していく焦りからか、彼の父親は取り憑かれたように厳しい訓練を子らに強いた。生き残ったのは彼と二つ下の弟のみ。そして弟は父親の生き写しの考え方を持っていた。
部下は駒。妻は跡継ぎを産むためなら死んでもいい。本人の意思は尊重せず、只管に無機質。
彼はそんな人間になりたくはなかった。
だが引き返すには人を殺しすぎていた。
そして彼は今日も人を殺す。
忍の全てである任務で。
態々忍に依頼してくる案件がまともなものであるはずもなく、内容はとある一家の暗殺だった。
『任務は絶対』
彼にとってそれは生まれた時から当たり前のこと。
だが彼はたとえ任務であっても人の命を奪うという行為に疑問を覚えた。
今まで数知れずと罪のない人を殺めてきた彼だが、罪の意識が麻痺することはなく、寧ろ次第に大きくなってきていた。日々任務で人を殺すたび、背に纏う屍が彼を苛むようになっていたのだ。
(嗚呼、それでも俺は…)
一歩が踏み出せない。
命は賭けて当然。全てのことは出来て当然。
なによりも任務を優先し、矛盾や葛藤を抱える者は愚かな弱者。
幼い頃からそれが当たり前で生きてきたのだ。
今日も人を殺す己に何ができよう。
***
「うぅううぅぅぅ…干からびる…」
「そんな声をあげても楽器は渡しませんよ?少しは反省なさい」
「イエスマム」
私の意味不明な返答に母が首を傾げるのを見ながら私は昨日の出来事に思いを馳せた。
あまりにも荒唐無稽な記憶だ。
私には前の生があって、こことは全然違う暮らしをしていた、そんな記憶。
まだはっきりとは思い出せない。まるで直前まで覚えていたはずの夢を思い出そうと頭を捻っているような感覚。
思い出そうとすれば思い出そうとするほど雲をつかまされるような…。
しかも、こんな状況、創作の物語でしか見たことがない。やっぱり夢か何かなのだろうか。でも、だとしたら初めて触ったはずのピアノを覚えているだなんておかしい。
生まれて初めての超常的な経験にワクワクしながら、思い当たることを紙に書き出していく。ありえない仮説は後から消していき…
「もしかして神様って本当にいらっしゃるのかしら」
「突然何を言ってるの?御加減が優れないならもう少し寝てなさいな」
唐突に突拍子もないことを言い出したせいでため息混じりに正気を疑われた。解せぬ。
でも神の存在を考えてしまうくらいには不可思議な出来事がこの身に起きているのだ。
なんというか、自分が特別な存在なのではないかとゾクゾクしてしまう。
「母上、もしかしたら私は選ばれし者なのかもしれません!」
「何がどんな風に?」
「実は秘められし何かを持っていたり…」
「訳のわからないことを言わないで頂戴。父上に言いつけますよ?」
「それは私の凛々しい佇まいをお伝えくださるということでしょうか?」
「小魚も食べられない娘っ子に凛々しいも何もあったものじゃないわよ…」
「だ、だってあれは苦いのです!」
「…まったく」
頭は良くても振る舞いは子供のそれだ。母はそんな娘を温かい目で見ながらも心を鬼にして喝を入れる。
「とにかく、どんな言い訳をつけても駄目。今日一日楽器を触らないこと。わかりましたね?」
「イエスマム!」
だからその号令はなんなのだ。母はそんなことを思いながら作業に戻っていった。
私はというと、楽器を禁止されてしまった悲しみに暮れながらも禁止令が解ける明日までに部屋に散乱する数多の楽譜の研究と整理を進めようと気持ちを新たにする。
そうして作業を進めるうち、これまた私は奇妙なことに気がついた。
昨日感情の赴くままに奏でたあの曲はなんの曲だ?
どの楽譜にも載っていない。類似した旋律の曲すら見当たらない。思い返してみれば今まで弾いた曲の中であの曲だけが異質だった。
頭に残るメロディーを白紙の譜面に書き起こす。
やっぱりそうだ。
こんな楽譜は見たことがない。
うんうんと頭を捻らせた末、私は一つの考えに行き着いた。
「もしや私って作曲の才能あるのでは??」
ムフフとだらしない笑いをしてしまう頬を抑えて被りを振る。
いけないいけない。真面目に考えなくては。
よく頭を整理してみればわかる。
これはおそらく前の私、『あたし』が弾いていた曲なのだろう。大好きなピアノを弾いたことをトリガーに記憶の蓋が開きかけたのだとしたら辻褄が合う。
そう考えると、もしかしたらピアノを弾けば弾くほど前の生を思い出せるかもしれない。
知りたいなぁ。
前の私は一体どんな人でどんな人生を歩んだんだろう。
そしてどんな風に死んだのでしょうね。