俺がお悩み相談兼生徒指導を任されている場所は、中庭を囲んで見事に四角くなっている校舎の、教室棟の反対側にそびえた特別棟にあるなんとも思い出深い一室であった。殆ど誰も来ない教室で、4割は文学作品、6割はライトでポップでキャッチーなノベルを、生徒にバレないようにブックカバーをしっかりとつけて嗜んでいる。
とは言え、それも常ではなく、大半は残された仕事に追われているのであり、他の教師や生徒たちにこれもまたバレないように、そこはかとなく授業の準備を行っているのだ。
と言っても、まあそもそも活動をしていない時間の方が圧倒的に多いからここに来るのも稀なんですけどね。
お悩み相談兼生徒指導(毎回会うのも面倒くさいので以降は奉仕活動とする)をしていると言えど、大々的に大衆に向けてコマーシャルをしているわけでもなく、自分から気にかけるような生徒がいた時だとか、他の先生が面倒になって俺に放り投げた時だけ、珍しく教師として任された職務を全うしていた。俺なんかが、正直な話、平塚先生のような素晴らしい先生になれたのかはわからない。わからないなりに、答えを出すべく言葉にして形にして、少しずつ日々を埋め尽くしていた。
件の平塚先生とは、教師になった今だからこそ連絡を取るようになり「若造め、教師になってたかが数年なんだから、いきなり答えを掴めると思うなよ。そもそもこの職業に答えなどあるか分からないというのに」というありがたい言葉をいただいては、確かに今や先生にとって、俺は完全に若造であるなと思ったものの決して口にすることはない。流石に本気でかわいそう。
ちなみに、いまだに独身である。
本当に、なぜ誰も貰ってくれないのか。雪乃と付き合ってなかったら、俺が引き取ってたかもしれない。え? そんなこと言ってると、平塚先生が本気にしてしまう? まさか。流石に、元教え子の二人が付き合って未だに仲良くやっているというのに、その間に割って入るつもりは無いだろ。無いよね?
今日は珍しく仕事が殆ど溜まっていなかった。例の生徒に、ここの場所を教えていなければ今頃周りの教師たちの帰宅させぬという同調圧力の熱い視線を颯爽と交わしながら、愛しの恋人と楽しく優雅にディナーと洒落込んでいたところだ。
いかんせん生徒に格好をつけてこの活動をしていると教えてしまった手前、帰るわけにもいかない。
傾き始めた日差しを受けて、俺は太宰治の『斜陽』を読んでいた。あの時初めて雪ノ下雪乃と出会ったときの、世界が終わったあとも続きそうな、絵画のような光景と、そのタイトルと重ね合っているのだと俺は感じていた。
しかし、今やもうその作品のような、破滅を感じさせる危うさと滅びの中にある美学というものとは到底縁がない。──惚気てしまえば、雪乃とはぶつかり合ったり少し離れたりを繰り返しながらも、順風満帆な付き合いをしていた。そもそもちょっとした言い合いは昔から俺が負けて終わるだけだからね。千葉の球団でももうちょい勝率高いよ。
だが、そんな関係ももう直ぐで終わる。
正確には新しい一歩を踏み出す、という表現が正しいのかもしれない。
さて、そんな事はどうでも良くて。果たして百合ヶ丘百合はこの教室に訪れるのだろうか。
今日はそのことだけがずっと心がかりであった。
来なくても良い、といえば嘘になる。正直な話、ここに顔を出してくれれば嬉しいとすら感じる。平塚先生が、手のかかりそうな生徒を一箇所にかき集めて、手に届く範囲で見守っていたいといつか言っていたが、教師になった今だからこそ、その思いに痛く共感する。
百合ヶ丘百合のその表情に、違和感を感じた。
などと言うのは、格好つけ過ぎだろうか。
例えばそれは、体と心が乖離されているようで。心がどんなに痛くとも、どんなに傷ついていても、表面的に現れることが大半の場合はないのと同じだ。体と心は一体であると言うのにも関わらずに、あっけなく分断されている。そんな様子に見えるのだ。
俺もかつて、表面上では「青春とは嘘であり悪である」と嘯きつつも、本物の青春を焦がれていた。そのくせ自分さえも騙して、それを求めないでいた。
理性の仮面と本能の素顔を誤謬して、被っていたペルソナを自己保身のためにそれこそが自分の本心だと偽っていたのだ。素顔だと錯覚していた理性の仮面を被ってる時の俺の腐った表情と、百合ヶ丘百合の、笑顔としての本質を失った張り付けられた能面のような笑顔が、どことなく似ていたのだ。
安心すべきは、彼女の場合は目が腐っていなかったと言う事だろうか。
あーもうだめだ。タバコが吸いたい。
今や喫煙者は肩身の狭い存在であり、圧倒的な少数派だ。辞めたって構わないのだが、脳裏に焼き付いた恩師のカッコいい姿がすぐにでも思い浮かぶ。
喫煙者の大半は格好つけで初めて、いつのまにかニコチン無しでは生きられなくなるのだ。ソースは俺。
俺はそっと席を立ち、タバコを吸いに行くため教室を後にしようと引き戸に手をかける。しかし、力を入れる前に扉は勝手に開き始めた。少しの驚きとともに変な呻き声が溢れると、ガラガラと音を立てながら扉は開き、目の前には黒髪ポニテ美少女が居た。
カエルの呻き声のように変な驚き方をした後に、かなりの美少女が目の前に現れたのだから、恥ずかしいことこの上無い。学校の先生だって1人の人間なのだ。
子供にとっては先生は身近でありながら別の生き物にも感じられるかもしれないが俺のようなアンチ労働タイプの教師は、殊更1人の人間としての感性や価値観が強いのだ。前時代の産業革命期的な労働スタイルは苦手である。
けれども、教師として大安売りされているくらいの安っいプライドも少しは持ち合わせており、生徒に対して無意識のうちに格好つけてしまったのは仕方がないだろ。
「百合ヶ丘か、丁度いいタイミングで来たもんだな」
驚きを誤魔化す時ってアルコールが入ってる時と同じくらいに判断力が下がってるよね。取り付くようにして発した発言は、格好つけているはずなのに格好悪く、何が丁度いいのかわからないし、とりあえず不思議な発言となった。
「そうなんですか。なら良かったです」
百合ヶ丘は気にした様子もなくあっさりと返事をする。なんと言う大人な対応。中学生の頃ならうっかり惚れちゃうレベル。
「まあ、とりあえずそこにかけてくれ」
物が少ないせいか広く見える教室の真ん中に、あの頃と同じように長机か一つ置いてある。黒板側にポツンと佇む椅子を指し示す。彼女は、わかりましたとだけ答えて颯爽とその椅子に腰をかけた。
俺は意外にも素直な彼女の反応に目を丸くしながら、机を挟んで向かい側の椅子へと足を向ける。昼の彼女の様子を見るに憎まれ口のひとつやふたつが飛び出してくるものかと睨んでいたため肩透かしを食らった気分だ。
……いや、むしろ俺のややキモめな反応に心底侮蔑しているだけなんじゃ。
すらりと整った彼女の横顔を見てみると、やはりそうなのでは無いかと思えてきた。
オーケー、気にしたら負けだ。俺はかつて理性の化物と呼ばれた男だ。辱められても屈しない。くっ殺くっ殺。それにしても今考えれば理性の化物という言葉は言い得て妙だなと思いつつ、陽乃さんはよくこんな厨二チックな言葉を臆面もなく言えたな。ちょっと恥ずかしいよ理性の化物なんて口に出すの。まあ、あの人が言ったから格好良く聞こえたのだろう。世の中は「何を言った」より「誰が言った」かの方が大事なんだなとよく分かる。
理性の仮面(笑)をいつものように被って、平然と百合ヶ丘の前に座る。ここに来たのだから何か話すのだろうと待ち惚けると、ぼっちコミュ障お得意の沈黙が訪れた。
話し辛さでも感じているのか、能面を張り付けたように無表情な彼女を見てもその真意は測れなかった。とりあえず、教師なのだから会話を促すのは当然のことだろう。先行は貰った。俺のターンドロー!
「……ここに来たってことは、なんか話でもあるって事だな」
そう言えば今は先行ドロー出来ないんだっけ。
でも最近始まったアニメだと先行でドローしてた気がする。先行はドローしたいよね。俺のターンドロー! って言いたいよね。
「先生は」
言葉尻を窄めることなく、彼女は一音一音を丁寧に口にする。
「変ですから、他の人とは違う気がして」
「それ褒めてるの? ディスってるの?」
丁寧に紡がれたのは不思議な罵倒だった。
「一応褒めてます」
「心から褒めてる人は一応とか使わないからね」
調子を取り戻した彼女の語り口に安堵する。
「んで俺が変だとなんなんだ?」
「ありきたりな一般論だとか、つまらない返答で私の話を聞かない気がしました」
「やっぱディスってるだろ」
「先生なら、もしかしたら解をくれる気がして」
先ほどまでの彼女から、打って変わって弱気な心情を推し測る。
解。
問題をといて得た答え。
それは、きっと自分で解くから意味があるのだ。
だから、誰から貰う解なんて、それはきっと答えじゃ無いと言うことを俺は知っていた。
「解はもらうもんでも渡すもんでもねえ、導き出すもんだよ」
きっと誰もが悩んでいて、誰もが明確でわかりやすい解を求めているのだ。聞こえのいい宗教や明朗で過激な主義主張。世の中にごった返すこれらを見れば明白だ。
だけれど、きっとそれではいけない。それは解じゃ無い。
奉仕部風に言わせて貰えば、飢えた人がいる時に魚を与えずに釣り方を押してやると言うべきか。今の論題からは少しずれているが、当たらずとも遠からずだろう。魚を与えて一時的に満たしたところで、根本的には何も解決していない。それは、悩んでいる人間にも通ずる。悩み迷う人に一時的な解を用意しても、それがその人にとっての正解である可能性は限りなく低いばかりか、次にまた別の悩みを持った時に解決することはできない。
本当に大事なのは悩みの解じゃなくて、悩みの解を見つけられる自分を手に入れる事なのだ。
百合ヶ丘の表情は、やはり高校生だった俺たちとは似ても似つかぬものだった。
だけれども、本質的には同一のものなのかもしれない。
「だから俺ができるのはあくまで相談を受けることだけだ。高校生なんだから動くのも決めるのも、もちろん変えるのも自分の責任だ。ただまあ、別の視点を用意してやったり、行動に手を貸してやったり、決断の背中を押してやったり、そんくらいならする。ここはそう言う場所」
百合ヶ丘は一瞬だけ呆気にとられたような表情になり、
「先生、詐欺師みたいですね」
「えぇ……、いきなり何……」
「自分からここに来るように行っておいて、悩み相談してるとか言ってたくせに答えは渡しませんなんて。詐欺ですよ、詐欺」
俺の知る限りでは初めて彼女は顔を綻ばせた。
その笑みは妙に人懐っこいものであり、やはり俺や雪乃とは、また根本的に違うものなのだと深く実感させられた。
「まぁ、なんだ、お前みたいな面白そうな生徒は嫌いじゃなくてだな。問題児ほど可愛く見えるだろ? そう言うあれだよ」
「私問題児じゃ無いんですけど」
「問題児はみんなそう言うらしいぞ」
軽口を叩き合っていても悪い気がしなかった。それは偏に、全く似ていない彼女が俺たちに似ているからなのだろう。
改めて軽く咳払いをすると、本題に入る。
「で、結局何が悩みなんだ」
「悩み……、と言うほどのことじゃ無いかも知れませんが」
彼女は再び表情を無に戻して俺を見る。視線でその続きを促すように彼女を見つめた。放課後のこの教室はとても静かで、静寂だけが満ちていた。それ故に人の声ははっきりと聞こえ、喉を鳴らす音でさえも過敏に察知できてしまうほどだ。
「私、楽しいことが無いんです」
やはり彼女の言葉は一音一句が正確にかつ綺麗に発音されており、真夜中のプールのように無駄な波が一つもなく澄んでいた。
だと言うのに、少しだけその声が揺れているようにも感じた。
それはきっと、この静かな教室だからこそ微かに感じ取れるものなのだろう。
それはきっと、彼女の心の奥で本当に悩んでいるからこそ僅かな揺れとして音に現れていた。
本当に悩んでいる人間は心の底では助けを求めてもがき苦しんでいるからこそ、表面上はそうじゃ無いように取り繕う。だからこそ、ちょっとした揺らぎが表面に出る。
俺にはその解なんて当然わからない。わかってたまるか。
これは彼女だけの悩みだ。
だからこそ近くで見守りたくなるのだ。
救済だとか更生だとか、そんな大層なもんはできないし彼女は求めていないだろう。
俺は彼女の背中を何処かで少しでも押してあげられれば、無限にある道のいくつかを提示してあげればそれでいい。
ただ、そうしたいと思うのだ。