ベラドンナという名を冠する花のことをご存知だろうか?
主には西欧あたりで自生している多年草。和名ではオオカミナスビとも呼ばれるように、ナス科に属する植物である。
イタリア語で“美しい淑女”を意味するその名前から、桜や薔薇のようにさぞかし綺麗な花を咲かせるのだろうと思ってしまいがちなのだが……これが意外にも地味というか、くすんだ紫色の花を咲かせるらしい。
そのあまりのギャップに思わず「名前負けしてんじゃないの?」と言ってしまいたくなるのだが――それもそのはず。名前の由来となっているのは外見の見目麗しさなどではなく、その草が持つ毒性にこそあったのだ。
葉、茎、根、果実。そのいずれにも強い毒性を秘めており、人間の場合、摂取する量によっては死に至ることすらあるという。
故にベラドンナという花は、古来西欧文化においてこうも呼ばれていた。
即ち――悪魔の花、と。
美の追求とは麻薬のようなものである、と誰かが言った。
時に女性は一寸先の美を追求するためにすら恐ろしくチャレンジャーなことをしはじめるものだ。
細めの体型が持て囃される昨今の場合、痩せる為にとあえて寄生虫を食べたりするダイエットなんかがその一例といえるかもしれないけど……ま、それはいいか。
一概に美しさと言ってはみても、その基準というのは国によって異なりもすれば、時代によっても大きく変わる。平安美人の肖像画を見た現代人が眉を顰めるのと同様に、流行というのは水物なのだ。大昔のヨーロッパではその基準のひとつが「瞳の大きさ」であった。
ここで登場するのが、ベラドンナの持つ毒性の一つ――アポトキシンだかアトロピンだかいう成分。これを摂取することで、瞳孔が過度に拡大して瞳が大きく見えるようになるという効果があるらしく、危険な毒と知りつつも、淑女が美を追求する為の化粧道具の一つ、主に目薬として昔から現代に至るまで重宝されてきたという。
つまりは“瞳の大きな美しい女性になるための花”という意味で、
毒と薬は紙一重とはいうけれど、実際に使用する勇気なんて私には無い。
……っといけない、忘れてた。
前置きの本題にしようと思っていたのは花言葉のほうで、ベラドンナの持つそれは『沈黙』なのだそうだ。
たしかに、淑女というのは口数が少ないほうがそれらしい。沈黙を好む女性になることが、即ち淑女への第一歩ということなのか。
ただし男性諸君はご用心を。
その見目麗しい淑女の中には、恐ろしい悪魔の毒が潜んでいるかもしれないのだから。
第四フレーム、第一組一投目投球開始前。
ボウリングを一時中断する形で、各自が「会話のお題にはぜひこれを!」と思うテーマを紙に書いて提出するという作業が行われていた。
どうせだからスタッフが用意したものではなく自分たちで考えてみたらどうか、というディレクターさんからの進言によるものだ。
こういった企画の場合、油断がならない人物筆頭はやはりこーこちゃんだろう。禁止ワードが三回に一回は飛び交うような危険なテーマをあえて選ぶ、あの子はそういう子だ。
しかし、おそらく素で危険極まりないお題をぶっ込んできそうな人物の心当たりがもう一人いる。
私の中では阿知賀随一の天然キャラと認定された、松実さん家の玄ちゃんである。
何か企んでいそうと丸分かりのこーこちゃんよりも、どんな方向に転ぶかさっぱり読めない彼女のほうが、この場合は危険度が高いと思われた。
お願いだから収録して発売できる範囲のボケで収めておいて欲しい。
それは私だけの願いではなく、取材に訪れているスタッフ陣全員の切なる想いであったはずだ。
「全員書き終わったっぽい? んじゃ誰が箱の中からお題を引くかだけど――誰か引きたい人いる?」
四つ折にされた八枚の紙が入れられている箱を左右に振りつつ、周囲の面々を見回しながらこーこちゃんが言った。
代表は挙手制か。
私はこういう時まず手を挙げたりはしないタイプなので、動向を静かに見守りたいと思う。事なかれ主義バンザイ、誰かにお任せするのが楽でいいよ。
果たして立候補者は現れるのか?と思っていた矢先のこと。
「はいっ! それじゃあ私が!」
元気良く手を挙げたのは、やはりというか彼女であった。
松実(玄)さんはやっぱりお祭り騒ぎが好きなんだろうね。ボウリング対決も最初からノリノリだったし。
しかし、だ。それはつまり、竹井さんとはまた違った意味でこーこちゃんと意気投合できそうな子が現れてしまったことになる。
この派閥が今後も各地で勢力を伸ばして行くことになるかもしれないと思うと……被害者の会名誉会長の私としては、末恐ろしいことこの上ない。
「おー、くろちゃー元気いいね。他にいないみたいだし……よし、じゃあ任せた!」
「お任せあれ!」
やる気満々の松実(玄)さんは勢いよく箱の中に手を入れる。そのままぐるぐると手を回し、よくかき混ぜた上で一枚の紙を引き抜いた。
丁寧に四つ折にされたそれは、折り方を見ても几帳面な人物が入れたものだと推測できる。
で、肝心なそこに書かれていたお題はというと。
「ふんふむ、どれどれ……んん? これ、は……」
「――? どうかしたの、こーこちゃん?」
紙切れを覗いた格好のまま、眉間に皺を寄せてしまっている彼女に問いかけてみるものの、具体的な返事は戻ってこない。
疑問に思い、肩越しにお題を覗き込んでみると、そこには――。
「……あったか~いものについて?」
「あっ、それ私の……」
読み上げた私の言葉に即座に反応したのは、松実(宥)さんだった。
……まぁ、だろうね。
とりあえず最初のお題が“あったか~いものについて”に決定してしまったところで、ようやく第四フレーム一投目からの再開である。
すっかり忘れていたけど、こっちが本題だったんだっけ。
促されて投球準備に入る私を他所に、阿知賀勢は一仕事終えたオフィスレディのようなリラックス具合でベンチに座って寛いでいた。
「小鍛治さんが投げ終わってからがスタートなんだよね。なら今のうちに思う存分喋っといたほうがいいよ、みんな」
「や、別に無理して前もって英語喋っとく必要なんてどこにもないわよね?」
「まぁね。でも何事にも切り替えっていうのは大事だから。あえて今いっぱい喋っておいたほうが、脳の切り替えも上手く行くかもよ?」
「ふ~む、なるほどなるほど。そういうことならお言葉に甘えて――」
「あ、玄さんがやるなら私もやっとこうかなー」
「じゃあ一緒にやる?」
私が風の噴出し口で指先を乾かしていると、待機所で松実(玄)さんと高鴨さんの二人が椅子から立ち上がり、向かい合って何かを始めた。
ここからだとよく分からないけど、ストレッチでもはじめるつもりなのだろうか?
まぁ、彼女たちのことはこーこちゃんに任せておいて、私は私で課せられた使命を果たすことに集中しておくべきかな。
一仕事終えて戻ってきたところ、まだそれが続いていた。
雑音の切れ間に聞こえてくる単語を拾ってみると、
味噌ラーメン、温かい。コンソメスープ、温かい。カレーライス、温かい。アイスキャンディー、温かくない。メンチカツ定食、温かい。ラザニア、温かい。プロテイン、……?。コールスローサラダ、温かくない。
という感じで、お互いに順番で食べ物を一つ挙げ、その食べ物がお題の『あったか~い』に該当するかどうかを松実(宥)さんが判定を下すという流れを繰り返している。
……何をやってるんだろう、あの子たちは。
「ちゃんぽん麺!」
「あったかいけど、ちゃんぽんは日本語のはずだからアウトじゃないかな……?」
「えっ、そうなんですか?」
「たぶん……?」
「ちゃんぽんは普通に日本語扱いだよ。だからアウトっていうか本来の意味で言えばセーフってことになるかな」
「あはは、てことは穏乃ちゃんの負けだねー」
「あちゃー、負けちゃったかぁ」
「誰がこの局面で新しい遊びを考えろっつったのよ、おバカども」
まったくもって同意見である。
緊張感の欠片もないというか、自分から底なし沼に向かって糸のついていないバンジージャンプを繰り返しているとでもいうべきか。
「ところですこやん、まだ投げないの?」
「えっ?」
あっちが一段落ついたからか、全員が揃ってレーンのほうに意識を向ける。
七人全員の視線が一気にこちらを向いたので、思わず気圧されて後ろに下がってしまう私。たらりと背筋に冷や汗が流れていくのが分かった。
……ええと、なんだ。
彼女たちが妙ちくりんなことを始めるのと同じくらいに、もうとっくに一投目は投げ終わっていたりするんだけど。
というかね、あんだけ派手な音が鳴ってピンが倒れていくんだから普通は気づくよね?
目の前の目標物に集中していただけの私は悪くないよね……?
「既に投げ終わっている……だと!? いつから!?」
「えーと、松実さんたちが向かい合って何かし始めたちょっと後、くらいかなぁ」
「ええっ!? ってことは、今のぜんぶ――」
「う、うん。残念だけどカウントされてると思うけ……あ」
――って、ああああいきなりやってしまった。つい流れで私までお付き合いを……。
「あっ、小鍛治プロもカウントって言いましたよね今!」
「うん、言っちゃったね。だけど今ほら、新子さんも……ね?」
「……ハッ!?」
「あっはっは、さすがにそれは自爆っていうんじゃないか、憧~」
「し、しまったぁ!?」
見事なくらい綺麗に決まったお約束の連鎖で、一人自信満々だったはずの新子さんまで道連れになってしまった。
しかも、咄嗟にでも小鍛治プロや福与アナと呼んでしまえばそれだけでペナルティになるというオマケ付き。実に恐ろしい罠が仕掛けられていたものだ。
……まぁ、そこは密かに期待していた通りの結果だったけどね。
「初っ端から大惨事とか、想定してな……」
「でも灼は玄たちがアレやり始めてから一切喋らなかったよね。もしかして小鍛治さんが投げたこと、気づいてた?」
「それは……当然。あと、ハルちゃんの魂胆にも」
にやり、と小さく表情を崩す鷺森さん。怖い、怖いよその笑顔。
「灼さぁん、気づいてたんなら教えてくださいよぉ」
「そ、そうだよ灼ちゃ~ん」
「勝負は既に始まってる。気を抜いたほうが悪……」
それはたしかに、ご尤もな意見である。
地雷原だと知っていて、あえてその場所でタップダンスを踊る人間に危ないから止めろと注意するのは馬の耳に念仏。触らぬ神に何とやら。
とはいえ、この企画の真の危険度を知らない世代の子達に、最初の一投目から謀らずもしっかりと怖さを刻み込む結果となってしまったのは、彼女らにとってはむしろ僥倖といえるのではないだろうか。
……うん、だからきっと私は悪くない。
なのでそんな恨みがましい目でこちらを見るのは止めようか、みんな。
☆現在の罰則ポイント★
[☆×4] 松実玄、高鴨穏乃(※ピンが倒れる前のものはカウントせず)
[☆×2] 新子憧、福与恒子
[☆×1] 松実宥、小鍛治健夜
[☆×0] 鷺森灼、赤土晴絵
再開後一発目の投球自体には、特筆すべき場面はどこにも見当たらない。普通に転がっていき、普通にピンにぶち当たり、普通に七本倒れるという、実に普通な結果だけが残る。
特別ルールの開始を告げる号砲代わりというにはあまりにお粗末な結果となってしまったのは反省すべき点だった……かもしれないけど、個人的には結果オーライ。
「とりあえず最低基準値が七本か。最初からそうだけど、小鍛治さん何気に低目を出さないね」
「うーん、自分でも不思議なんだよね。ちょっと出来すぎなくらいだよ」
ピンのほうを見ながら投げていたこれまではけっこう自分でも思いもよらない方向に転がっていたはずなのに、ちょっと視点を変えただけでまっすぐ進むようになったのだから。
それもこれも鷺森さんの助言のおかげだろう。思わず手を合わせて拝んでしまうレベルなので実際にやってみたら、ジト目で見つめ返された。
赤土さんが第四フレームの一投目を投げに行くのを見届けて、自分の席に座る。
「さ、すこやんの見事な先制攻撃でみんなこの企画の怖さが分かったところで、そろそろお題について話していこうか」
「むむ、もう同じ失敗はしないんだから。それにしても例のお題、どうやって広げていくべきか……まずそこが問題ね」
「あったか~いものについて、だよね?」
「具体的にどんなもの……?」
「さぁ?」
なんだろう。ものすごく松実(宥)さん的にピンポイントな話題のように思えるけど、実質該当するものの範囲がやたらと広すぎて、的がいっさい絞り込めないこのお題。
暖かい、もしくは温かい。
前者だと暖房器具だったり季節の話題だったりするし、後者に食べ物も含まれてしまうともう応用範囲はほぼ無限大である。
単純なようで難解なお題に首を捻っている人間のほうが圧倒的に多かった。収拾をつけなければボウリングどころではなさそうだ。
「ま、まぁ。あったか~いものの話題ってのはいいとして、適当に範囲を絞っておいたほうが話しやすいよね?」
「確かにそれは言えてるわね。たとえばさっきのしずとかじゃないけど、温かい食べ物に関しての話題とか――」
「いいやダメだね、私の勘が告げている。ここはあえて逆転の発想をするべき場面だと!」
「へっ? 逆転の発想、ですか?」
キョトンとしている松実さん。騙されてはいけない。
こーこちゃんのことだから、深く考えている発言のようで実は何も考えていない、ということも十分に考えられる。
そもそもさ、混乱の極みにあるこの事態をなんとか終息させていこうとしているその努力を、変な思いつきで無に帰そうとするの止めてくれないかなぁ。
「……いちおう聞いてみるけど、逆転した結果こーこちゃんの中で発想はどんな感じになったの?」
「範囲が広くてもいいじゃない、女子高生だもの。的な」
「みつを風に言っても騙されないからね」
「てへ」
「てへじゃなく」
うん知ってた。
こういう場面で収束に向かわずに発散に向かうからこそ、こーこちゃんが福与恒子たる所以なのだと。
「ところで、このお題を提供した宥さん的には特になにがあったか~い感じなんですか?」
「えっ? わ、私……? えっと、えっと……お、おこた、とか……?」
「まさかの電化製品から選んできた!? しかも季節外れっぽい!」
食べ物とかならまだしも、そこは狭い、狭いよ松実さん。
今さらだけど、お題を提案する上でやってはいけないことの一つが、自分の得意分野を選ぶことだと私は思う。
参加者の中で自分が一番理解の深いものにしてしまうと、自然と会話の中心に据えられてしまい発言回数が劇的に向上してしまうという欠点があるからだ。
彼女には申し訳ないけれど、これでドツボに嵌まってしまうようであったとしても、その点を測り損ねた自身のミスだろう。私には全力で哀悼の意を捧げる事くらいしか出来そうにない。
松実(宥)さんが高鴨さんを相方にして漫才じみたやり取りをしているうちに、一投目を投げ終わった赤土さんがこちらへ戻ってきた。
実況が仕事をしていないので自分で確認してみると、倒れたピンの数は九本で、残っているのは⑧番ピンのみである。もう少しでストライクといったところだったんだろうけど、お題のほうに気を取られすぎて今回もやっぱりまた誰も見ていなかったっぽい。
……何がメインの企画だったっけ、これ?
「でも穏乃ちゃん、まだ九月なんだし温かいものっていったら季節外れになるのもしょうがないんじゃないかなぁ」
「それはそうですけど……じゃあ玄さん的にあったか~いものってどんなものですか?」
そのフリを待ってましたといわんばかりにぎらりと目を光らせる松実(玄)さん。
「そうだねぇ。あったかいっていったらやっぱりおもちじゃない? 特におねーちゃんのはあったかくて柔らかくて最高なのです!」
「言うと思ってた」
「どうにかしてそっち方面に持っていこうというその気概は天晴れだと思……認められはしないけど」
「く、玄ちゃん……他所の人がいる場所でそういうのは止めなよって、お姉ちゃん言ったよね……?」
「どうせ玄は自分の提出した紙にもおもちって書いたんでしょうがっ」
「おもちっていったらやっぱり私はお汁粉かなぁ。ちょっと意外だけど松実さんっておもち作るの上手なんだね。やっぱ正月とかに宿泊してる旅館のお客さんとかに振舞うから?」
「「「「え?」」」」」
……えっ? なんか私間違ってる?
「すこやんだけなんか反応ちがくない?」
「だっておもちの話でしょ? つきたてはやっぱり美味しいもんね。こーこちゃんはなんとなくきなこもちが好きそう」
「なんだその偏見は。好きだけども。っていうかさ、おもちはおもちでもそのおもちじゃないと思うんだよねぇ。会話の流れからしたら分かりそうなもんだけど」
「……? 他におもちってあるっけ? おはぎとかは厳密にはおもちじゃないよね?」
「いや、まぁ……小鍛治さんはそのままでいいと思うよ私は、うん」
肩に手をポンと乗せながら、赤土さんまで困ったような顔をする。
周囲の子たちを見回してみても、なんというか、可哀想な子を見るような視線でこちらを見つめる人しかいない。
「気になるじゃない、教えてよ。松実さんのいうおもちってなんなの?」
「えーとですね、小鍛治プ……あっ」
チン、と即座に受付の呼び出しベルっぽい音が鳴った。さっきまでそんな判定音なかったじゃないか、と思うがまぁそれはいいや。
さっき新子さんが同じ事をやっていただろうに、学習能力足りてないよ松実さん。
「あう……これで単独一位になってしまったのです……」
落ち込んでいる彼女の姿を図に表すと、○| ̄|_。まさにこんな感じである。
「まぁ凹んでるこの子の代わりに簡単な例文を作るとすると、だ。すこやんはどっちかっていうとおもちじゃないほうだと思うよ」
「ついでにいうと、この中で一番おもちなのは宥で間違いないだろうね。例の集まりの中だと瑞原さんかな」
「その言い方だと、食べ物のおもちじゃなくて何かをお持ちってことだよね……私が持ってなくて松実さんとはやりちゃんが持って……博士号、なわけないし……うん?」
ふと。大人二人の視線が松実(宥)さんの非常にふくよかな部分へと向けられていることに気がついてしまった。
彼女の言うおもち、それは――女性の胸部、つまりはおっぱい。
脳裏に過ぎるのは、とてもいい笑顔でサムズアップしている不詳の弟子の姿である。
「ブルータス、お前もか!?」
判定音が鳴るのも物ともせずにツッコミを入れてしまう私。だが後悔はしていない。
なんだろうこの得も言われぬ屈辱感。
まさかこんなところにそっち方面での彼の同志がいるなんて――っていうか君はどちらかといえば持っている側じゃないか! 余裕か? 余裕から来るおもち狂いか?
……ちょっと言葉の響きから卑猥な感じが抜けていて、意外と使い易いな。なんて思ってしまった自分が悲しいけれど。
「……はぁ。二投目投げてこようっと」
気分はもはや咏ちゃんたちと半荘戦を三回ほどぶん回した後と似たような疲労感を味わっているものの……まだあれから一投しか投げていないという恐ろしい事実に気がついた。
しかもまだ序盤の序盤である。
どうせならスポーツで感じる疲労感としては肉体的な爽やかなものであって欲しかったよ。
精神的なダメージが集中力を切らせるなんてことは運動だろうが頭を使う競技だろうが同じことだろう。スペアを狙って投じたボールは一本も倒すことなく静かにレーンの奥へと消えていった。
「あちゃー、集中力乱されまくりだねぇ。かの小鍛治健夜ともあろうものが、どしたどした?」
「他人事みたいに言ってくれて、いったい誰のせいだと思ってるの」
たしかに半分以上が松実(玄)さんによる犯行だけど、この企画を持ち込んだ時点でこーこちゃんは間違いなく犯罪行為示唆の罪に問われるはずだ。
私だけじゃなくて他の子たちもきっと英語禁止ルールによる精神的な影響を受けているに違いないのだから。
――そんな風に思っていた時期が、私にもありました。
続く第二組の二投目、高鴨さんはきっちりとスペアを取って戻ってきた。これで一気にCM枠を4ポイントもプラスしたこととなり、満足げにハイタッチを交わす二人。
……あれぇ?
「しずんとこは順調ねぇ。まぁ、次は私が一投目だからこっちだって――ってちょっ、玄! あんた投げちゃダメでしょ!?」
「へっ?」
ボールを持って意気揚々とレーンに向かっていた松実(玄)さんを、慌てて呼び止める新子さん。
そういえば第三組に関しては前のフレームでストライクを出した関係で順番が入れ替わっているんだっけ。松実さんはそのことをすっかり忘れており、いざ一投目を、という感じで既に投球準備に入っていた。
幸い投げる前に気が付いたからよかったものの、これそのまま投げていたらどうなっていたんだろう。ファール扱いになるのかな?
「次に投げるのは私よ、私!」
「えっ、どうして順番が変わるの?」
「はぁ!? ったく灼さんの説明の何を聞いてたのよ! いい、玄がさっきの第三フレームでストライクを出し――ああああああああっ!?」
「はい憧、アウトー」
「穏乃も律儀に付き合わなくても……」
華麗な誘導からの流れるようなお約束で見事にポイントを掻っ攫っていく新子さんであった。ただし、罰則のほうではあるけれども。
まぁボケ役よりも突っ込み体質の子のほうが不利なのは、この企画の仕様上もう仕方がないことだ。このメンバーの中で一番頭の回転が速そうな彼女ではあるが、そういった意味では最も危険なポジションにいるといっても過言ではないだろう。
もしもアレが狙ってやった誘導だとしたら……いや、まぁ。天然の松実(玄)さんだし、それは無いか。
なお、事前のやりとりで動揺していたのか、第三組の一投目の結果ピンは四本しか倒れなかった。踏んだり蹴ったりとはまさにこの事だろう。
「くっ……まさか仲間の玄に正面からバッサリやられちゃうなんて……」
「憧、開始前に私が言ったことの意味、今ので身をもって理解したんじゃない?」
「……おかげ様でね」
それはよかったね、なんて冗談を言えるような雰囲気じゃなかった。
鬼や。鬼がおる……。
迸る怒気を纏いながら、にこやかに笑顔を浮かべるその様はまさに鬼。それを受けてにこやかに微笑んでいられる赤土さんも、別の意味で鬼かもしれない。
「憧ちゃんがあったかくない……」ブルブル
「おねーちゃんが通常の三倍震え始めた!? 憧ちゃん、その夜叉のような形相は今すぐやめるのです!」
「――っ誰のせいだと思ってんのよぉぉぉぉぉっ!? くろぉぉぉぉぉっ!!」
「わ、私ぃ!?」
聞き返すまでもなく、間違いなく
火が吹き出るような勢いのお説教を喰らっている妹さんの下からお姉さんを救出し、震える背中を撫でてあげる。
「あ、ありがとうございます……」
「気にしないで。アレに巻き込まれたら誰だってそうなるよ……」
おもち星人VS夜叉巫女、実に興味深いマッチメイクではあるけれど、それに巻き込まれるのは正直ゴメンだ。
「あ、次。私が投げる番ですよね……?」
「うん、そうだけど。そんなに震えてて大丈夫?」
「大丈夫です……私、お姉ちゃんだから」
ぐっと力を込めて立ち上がる。同時に、ふわりと首に巻かれたマフラーが風に靡き――って、ええっ!?
ちょっと待って、今どこからも風なんて吹いてなかったよね……?
重力に逆らって宙を舞うピンク色のマフラー。あったか~い牌を集めるとかよりもこっちのほうがよっぽどオカルト現象じゃないかな。常識的に考えて。
「行って来ます」
呆然と見つめる私を他所に、気合を入れた松実(宥)さんはマフラーをたなびかせながら戦場へと向かっていく。
……ゴクリ。ついに本体が動き出したか。
アレが解き放たれた状態でどれ程のパワーアップを果たすのか、しかとこの目で確かめてみなければならないだろう。
固唾を呑んで見守る中、松実さんがこれまでの二倍速(当社比)で助走をはじめ、勢い良くボールを押し出す。
「えいっ」
ゴロン、コロコロコロコロ……ポテ。
「……あう」
結果、まさかのガター。
……。
そりゃね、あれだけ震えが止まらない状態で投球すればそうなるよ。なんかゴメンよ、変に期待して。
しょんぼりとして戻ってきた彼女の肩に手を乗せる鷺森さん。その励ましのための行動も功を奏さず、本体と思わしきマフラーは重力に負けて無残にもしな垂れていた。
鷺森さんを除いた全員がこのルールが始まってからこっちずっと「ボウリング? なんでしたっけそれ」状態のままではあるけれど、今となっては些細な問題……なのだろうから置いておいて。
誰がババを引かされるのかというこの闘いにおける攻守の切り替えは、実に一進一退の状況下で刻々と推移していた。
例えばこーこちゃんが攻撃に回る際には防衛に回らせられるのは決まって私か新子さん(ツッコミ勢)であり、赤土さんが攻撃をする際の狙いは大抵教え子たちのいずれかになる。
麻雀部の子たちになるともやはカオスであり、狙い狙われ言い言わされの応酬は、私たち見守る側の人間に争いの醜さを教えてくれる尊いものだったといえる。
そんな中、故意に狙われるという意味ではほとんど蚊帳の外に置かれていたのが松実(宥)さん。
といっても別に村八分状態なのではなくて……なんていうか、こう、ね? 小動物の如く震えている彼女に罰ゲームを負わせるような事になりでもしたら、この先一生罰を背負い清らかな心で生きていけなくなるのではないか、とそんな気持ちになってしまうのだから仕方がない。
避けられない庇護欲とでもいうべきか。
一部で極サディストと定評のある長野のTさんあたりには無効だろうけど、ある意味で恐るべき防衛能力であった。
「ふぅ~、ちょっと疲れちゃったね。よし、ここはお姉さんがみんなに飲み物をご馳走してあげよう」
「本当ですか? やったー!」
無邪気に喜ぶ高鴨さんを横目に見ながら、一人静かにため息を付く私。
そういえばボールを投げる以外に特別何をしたというわけでもないのに、やたらと喉が渇いているような気がする。
「ああ福与さん、さすがにこの人数ぶんだと一人じゃ持ちきれないだろうし、私も一緒に行くよ。小鍛治さんはなにがいい?」
「私? えっと、じゃあコー……」
思わずコーヒーをと言いかけて、途中で言葉を止める。
全員の視線が一気に集中し、今お前なんて言おうとした?というような雰囲気がその表情からは見て取れた。
中にはレーンのほうを向いていたくせに光の速さで振り向いてくる子もいたりして、雀卓上でダブルリーチ宣言をした時以上の緊迫感を醸しだす一行。
しかしまだ判定音は鳴っていないので、ごまかせばなんとかなる……かな?
「……こちゃんにお任せします」
言い終わってちらりとディレクターさんのほうを見てみると、判定ベルの上に置かれていた手は動かなかった。
セーフ、セーフ。
思わず松実(玄)さんのそれに勝るとも劣らない渾身のドヤ顔を披露してしまった程には会心の一手だったと思う。
「えー、今のアリなんですか?」
「そうよ、どう考えたってコーヒーって言いかけて……あ」
新子さんよ、そのパターンで自爆するの何回目なのかと。
「でも憧ちゃん、一概にそうとは言いきれないよ? 『こー』だけなら紅茶だってあるし、こぶ茶ってことももしかしたらあったかも」
「ないわー。紅茶はともかく自販機にこぶ茶なんて置いてないっての」
「そっかぁ。私けっこう好きなんだけどなぁ、こぶ茶」
「あったかいよね」
「実は自販機で売られている梅こぶ茶なるものがあるらしい。さすがにここには入れてないけど……」
「ええっ、それホントなの灼ちゃん!?」
「なんか前にお客さんからそんな話を噂で聞いた事がある」
そういえば咏ちゃんが梅こぶ茶を自動販売機で見つけたから飲んでみた、的なことを言っていたっけ。
感想はまぁ……お茶には特に厳しいあの子の舌を満足させられるようなものではなかったようで、彼女の名誉のためにもここでは伏せておくけども。
自動販売機の珍妙な缶シリーズといえばコーンスープやお味噌汁に始まっておでんやらラーメンやら一通り世間を賑わせてきたけど、それらと比べたらこぶ茶は若干大人しすぎるポジションだよね。銘柄上はいちおうあれでもお茶なんだし、あっても不思議ではないというか。
「ふふん、ほらほら憧ちゃん、やっぱりこぶ茶だってありなんだよ!」
「……まぁ実際にあるのは別にいいけどさ。なんかムカつくわね、そのドヤ顔」
残り全員の注文を取って大人二人が自動販売機コーナーへと旅立った後、現在ポイントランキング堂々三位あたりにつけているだろう新子さんが隣へやってきた。
「どうかしたの?」
「えーとですね、ココだけの話で真意を探りにとでもいいますか」
「――真意?」
「正直意外だなって思いまして。てっきり福与さん狙いでいくものだとばかり思ってましたけど、ここまでそんな感じありませんよね?」
「ああ、そういうことか。新子さんは私たちの関係を正しく理解してくれているようで何よりだよ。でもね、そこには大人の事情という名の妥協というものがあって……」
ゲームの流れを考えると、最初から狙いを定めてそこに一点集中させるなんてのは手ずからお墓の穴を掘るかのごとき悪手である。
こういったポイントの積み立てが勝敗を分ける企画の時に中途半端な状態で攻撃を仕掛け、彼女を敵に回すことだけはしてはいけない。そんな見え見えなことをすればあの子は即座にその気配を察知し、周囲を巻き込んで包囲網を敷いた挙句に孤立無援状態を作りながらじわじわ追い込む、くらいのことはしでかすに違いないのだから。
麻雀でならともかく、この状況下でそうなってしまえば包囲を振り切って逃げることも叶わず。もはや退路はなくなってしまうのが目に見えていた。
「つまり日和ったと」
「うーん、そう言われちゃうとね……でもどっちかっていうと、場を整えて狙いを定める前に大勢が決まっちゃってたってのが正しい見解かな」
「う……」
というかさ、開始直後から君らヤマ○キ春のパン祭りのシールよろしく罰則ポイントばんばん集めまくっていたよね。
二十点分のシールを貼り付けられるシートがあったとするならば、そろそろ一杯になっている頃じゃないのかと問いたい。小一時間は問いかけたい。
間になんやかんやありつつも、第五フレームを終えて第六フレームに突入した頃には、序盤から続く三強の三つ巴による争いのまま大勢が決まりかけていた、というのが今の状況である。
ちなみにこの場合の三強とは、松実玄、高鴨穏乃、新子憧の三名のことを指す。間違ってもそこに私の名を加えるべきではない。
既に大差が付いてしまっている以上、ここからポイント一桁のこーこちゃんを集中狙いで攻め立てたとしても、逆転で罰ゲームを喰らわせるところまで持っていくのはまず不可能なのだ。
その事実を把握した上であえて本音を言うのであれば、私だってできる事ならこーこちゃんを狙い打ちたかった。
蜂の一刺しのような、一撃必殺でいける
何故か阿知賀の面々には普通に受け入れられているが、この格好と猫耳の恨みは忘れてはいない。忘れてはいけないのだ。
いつかは彼女にこのツケを支払ってもらわねばならないだろう。フレーズ的にはもはや時代遅れ気味っぽい倍返しくらいで。
……ただ、逆に私の負債ばっかりが溜まって行っているような気がしないでもない今日この頃ではあるけれども。
「ま、どっちにしろ私はやると決めたらとことん突っ走るってのが信条なんでー、そう簡単に術中に嵌まってあげるわけにはいかんのだよ。ほいこれ、すこやんのぶんね」
「わっ!? っとと、もうこーこちゃんいきなり缶を投げるのはやめてよ」
空中に放り投げられた200mlくらいの缶を床に落とさないように慌てて手を伸ばす。
思った以上にずっしりとした重量が腕にかかるけどなんとか踏ん張って、お店の床的には大惨事を巻き起こさなくて済んだ。
ただ、問題はその後である。
なんだろうか、この缶の周りに描かれているラベルのイラストから感じる絶望感は。
私にはどこをどう見ても『ゴーヤー系青汁』と書かれているようにしか見えないんだけど、これ。
「これ、は……?」
「すこやんもそろそろ四十路でいいお年なんだから、そういう所から地道に始めていかないとね、老化抑制老化抑制」
「まだ三十路にもなってないよ!? 無駄に語彙が豊かだからってここぞとばかりに普段使わないような言葉で年齢弄るのは止めようよ!」
「それに咄嗟に返せる小鍛治さんもなかなかのものだけどね。みそじはともかく、普通は
一緒に戻ってきた赤土さんが、科白の語感とは裏腹な呆れ返ったような顔で言う。
たしかに、
三十路が三十歳ちょうどの人を指すように、四十路は四十歳ちょうどの人を指す言葉で、厳密にいえばアラフォーで括られてしまう年齢の人はそこには当てはまらないんだけどね。
それでも、アラフォーと呼べないからって咄嗟に四十路と出てくるこーこちゃんの使いどころを完全に誤った語彙力と、そこまでして年齢弄りを決行しようとするその情熱はいったいどこから湧いて出てくるのか疑問に思わずにはいられない。
同じことを思っているのか、周囲にいた麻雀部の子たちもしきりに感心しているようだった。
この子たち、こーこちゃんの影響を受けすぎて変な場面で必要のない機転を利かせるような人間にならなければいいけど……。
「飲み物がみんなに行き渡ったところで、そろそろ再開しようかねー。えーと、次投げるのって誰からだっけ?」
「はいっ、私です!」
勇ましく手を挙げたのは、松実(玄)さんである。
英語禁止ルールのせいでおざなりだったこれまでの流れを追っておこうか。
いまの時点で私は既に二投とも投げ終わっており、第六フレームの基準値は四本+二本で結果が『6』という、なんとも中途半端な数値を残してしまっていた。
二連続でスペアを取って調子付いている第二組は、一投目の赤土さんが⑧⑩番ピンを残す形の難易度高めのスプリットを叩き出してしまい、二投目の高鴨さんがスペアを狙うも一本も倒せず八本止まり。それでもCM枠が2ポイントもプラスされるという大盤振る舞い状態になっているのは偏に私のせいである。
第三組一投目の新子さん、第四組一投目の松実(宥)さんはどちらも六本と低調気味。
現在は第三組の二投目、松実さんが投球準備に入ったところであり、あったか~いものというお題に限界を感じた一行は、箱に残されていた中から新たなお題を選ぶことにしたのだった。
「今のところ三つ巴って感じだけど、どうせならここらで一発順位のどんでん返しが起こりそうな話題を持って来たいところだね」
箱をカシャカシャと振りながらこーこちゃんが言う。
番組的に波乱が欲しいのは分かるけど、このルールが始まってからの私のボウリングのほうの成績が地味に悪化していることも少しは考慮に入れてほしいものだ。
「うーん、もうあと少しだし無理にお題を決めなくてもいいような気がしてきたんですけど」
「まぁまぁ、英語禁止区間が終わったあとでも喋るぶんには構わないんだし、話題があっても困らないっしょ。ほら、なんだったら今度はしずもんが引いてみるかい?」
「私ですか? よーし」
そんな二人のやり取りを、松実(玄)さんが書いたやつ――おそらくはおもち関連――じゃなければなんでもいいや、という思いで見守っていると。
彼女によって引き抜かれた紙は、どうにも見覚えのある折り方になっていた。
「どれどれ……おっ、これはこれは、ふーむ。ある意味この場に相応しい話題といえるかも」
「この場に相応しい?」
「そう。阿知賀だから通用するって意味ではね。これ書いたのすこやんでしょ?」
「え? 名前書いてあるわけじゃないのにどうしてそう思うの?」
たしかにあの特徴的な折り方――というか、四角じゃなくて三角になるよう二つ折りにされたそれは、私が入れたものとよく似ている。
けど、中身を見てもいないうちに断言できる程の証拠でもないわけで。
ちなみに私が提出したお題はというと、様々な事情を考えた結果『原村和』にしておいた。
ここに集った全員で共有できそうな話題といえば、彼女か麻雀関係か、あいにくとそれくらいしか思い浮かばなかった。発想力が貧困というなかれ、即興というのは意外と難しいんだよ。
で、ここで安易に麻雀についてを選んでしまうと、後でこーこちゃん辺りから「在り来たりすぎる」と馬鹿にされそうだし、なにより面白味に欠ける。
だからこそというか、何かと話題に事欠かなさそうな彼女を話題の中心に据えてみることにしたわけだ。本人の与り知らぬ所で話のネタにされてしまうかもしれない長野のあの子には申し訳ないと思うけれども。
私の問いかけに、こーこちゃんはこともなさげに言う。
「だってすこやんのは筆跡で分かるもん」
……そういえばそうだった。
こーこちゃんは何気に筆跡を真似してサインまで書けてしまうという妙ちくりんな特技(?)を持っていたりする程だし、私が書いた文字を判別するくらいは朝飯前なのだ。
「というわけで、次のお題は『原村和について』に決定~!」
高らかに掲げられた宣言と同時に、残っていたすべてのピンを倒してはしゃいでいる松実(玄)さんの姿があった。
何気にしれっとスペアを取っていくあたり、さすがである。
……と、心の中で褒めてあげたのも束の間。
「和ちゃんのことかぁ。う~ん……やっぱりなかなかいいものをおもちなことは外せないよね。しばらく会わないうちにまた大きくなってたし」
「触ったんかいっ」
戻ってきてすぐさまそう言いながらわきわきと手のひらを動かす松実さんに、ぺしっと突っ込みを入れる新子さん。
「あんたそればっかりじゃないの。まぁ、確かにあれは同性から見てもちょっと訳分からないくらいヤバかったけど……」
「でしょ! あれはきっとおねーちゃんに勝るとも劣らないほどの成長を見せているに違いないのです!」
「――玄ちゃん」
大好物の話題の前に目に見えてテンションを上げてきた妹の前に、ゆっくりのっそりと姉が立ち塞がる。
こちらからは背中しか見えないものの、その表情を見た松実(玄)さんの顔色が見る見る青くなっていく様子を見るに、きっとあれは凄くおっかない顔をしているか、あるいはその真逆で、とても悲しそうな顔をしているかのどちらかに違いない。
さすがの彼女も姉を怒らせてまでその話題を続けるつもりはなかったらしく、あっさりと方向を転換してきた。
「あ。外見っていえばさ、和ちゃんってやたらと可愛いものが好きだよね。なんかいつもお嬢様っぽい服とか着てたし」
「たしかに昔からそうだったわよね、山に登るっつってんのに長い裾のやつ履いてきたり。でもまさか全国大会にぬいぐるみ持参で来る程だなんて思ってなかったけど」
「それって、あの誰かに蹴っ飛ばされたりしてたやつだっけ? まんまるいの」
「対局中もずっと抱いて打ってたからよく覚えてる。対面だったから凄く気になった……」
「さすがにウケ狙いとかってわけじゃないと思うけど、なんでぬいぐるみ抱いて打ってたんだろう?」
「あれ持って打つと集中力が格段に跳ね上がるらしいよ。この前打ち上げの時に本人に直接聞いてみたらそう言ってた」
「えー、それいいなら私も決勝普段着で打ちたかったなぁ」
「だからそれは止めなさいって」
そういえば高鴨さんの普段着はジャージだったっけ。巫女服で打っていた子たちもいたくらいだからジャージ姿の一つや二つくらい許されそうなものだけど、大会規定はともかくとして、さすがにお嬢様学校の生徒として全国放送でそれはあり得ないということか。
とはいえ全国各地の代表校を含めて考えれみれば、オモシロファッション大会とか裏企画でやるという話もあったくらい今年の出場選手の中には個性的な風貌の選手が多かったように思う。
片岡さんは二回戦から何故かマントを羽織っていたし、永水女子の副将の子なんて奇抜すぎる仮面を持って登場してきた程である。
中には日本刀を引っさげて会場入りした猛者もいたというから、そのあたりの自由度はハンパない大会といえるだろう。
私たちの頃はそんなこと無かったような気がしたけどなぁ……これも時代の移り変わりというヤツなのかもしれないけど、なんだろう。何故か羨ましいと思う気持ちは一ミクロも浮かんでこない。
「でも私的に和っていったらやっぱ最初に浮かんでくるのはアレなんだよねぇ」
「あれって……? ああ、決め台詞?」
「そそ。初めてこの面子で麻雀打った時にさ、玄のあれを直に体験した後なのに臆面もなく言い放ったじゃない? さすがっていうか、あそこまでいっちゃうともう和自身がそれっぽいというかさ。言わないけど」
「あー、分かる。分かるよ憧。言えないけど」
うずうずとその決め台詞とやらを言いたそうにしている二人だけど、あいにくと禁止ワードど真ん中なのでうかつに発言出来ないでいる。
どうせもう三人のうちの誰かなのは決まったようなものなんだから、ばんばん喋っちゃってもいいと思うんだけどね。
現在の情勢としては、それなりに口を挟んでいるはずなのに未だ脅威のゼロポイント継続中の鷺森さん。続いて少数なのが赤土さん、松実(宥)さん、こーこちゃんの三名で、私は一桁台だけど、大台に乗る一歩手前でなんとか踏ん張っているといったところ。残りの三人はたぶんぶっちぎりでポイントを稼いでいるはずだ。
ただ、罰則ポイントの正確な累計値は中盤あたりに発生したラッシュのせいで記録係さんくらいしかきちんと把握できていないため、プレイヤー側の私たちは現状トップスリーの中の誰が一位なのかは分からない。
この英語禁止ルールの適用区間も、あとは第四組二投目担当の鷺森さんがボールを投げることで終わってしまう。
短いようで長かったけれども、終わってしまうと思えば名残惜しい――わけがなく。できることならこのまま何事もないうちに、さっさと投球して終わらせてもらいたいというのが偽らざる心情であった。
で、既にゼロポイントでの罰ゲーム免除がほぼ確定しているその鷺森さんはというと、悠々とマイボールを磨きながらこちらの動向を伺っていたりする。
もう一波乱をお望みですか、そうですか。
そんな座敷童子の望みを叶えるかのごとく、ゴーヤー青汁の苦さに眉を顰めていた私の隣に高鴨さんがやってきた。
「あの、ちょっとだけお話聞いてもらってもいいですか?」
「うん? 内容にもよるけど……何かな?」
「和のお題ってことでちょっと思い出したんですけど……実はさっき家に戻ってから少しだけ電話で話をしたんですよね、和と。その時に和の言ってた事が気になっちゃって」
「原村さんが言ってたこと?」
ということは、原村さんから一通りの話を聞けたということだろう。
あっちはたぶん表に出てしまった時点で問いかけられさえすれば答えるつもりはあっただろうし、お互いに妙な蟠りがなくなったのであればいいことだと思う。
麻雀絡みではあるものの、勝敗とはまた別の問題で関係が拗れるなんてのはやっぱりよくない。
もっとも――麻雀で多くの人の精神を屠ってきたであろう私にそんなことを言われたくない、なんて人も世に少なくはないだろうけど。
「お父さんを説得するために色々と手伝ってもらったって、和が言ってました。それで宮永さんと麻雀を打って、勝ったって」
「あー……あれね。まぁ、あんまり役に立てたとは思ってないけど……」
「でも和は言ってましたよ? 条件付とはいえ最終的に折れてくれたのは、小鍛治さんのその戦いのおかげだって」
「そ、そうなんだ。でも、ほんとにそう言ってもらえるほどの事をした覚えは無いんだよ」
強制的に三者面談をやらされたり、麻雀を打ったりはしたけれども。
それが直接あの頑固っぽい父親の心に届いたとは思えない。だからあの人はあの人で最初から落とし所を探していたんじゃないのかな、と思う今日この頃だった。
「私……正直小鍛治さんの麻雀は強くて、たしかにびっくりするくらい強いけど、それはただ壊すためだけのものだって、ずっと思ってました」
まっすぐにこちらの瞳を射抜くように見つめてくる、その眼光。
いつだったか京太郎君から感じたものと同じように、決して逸らせそうにない程強いそれが突き刺さってくる。
――そして、理解した。
そこに浮かんだ、鷺森さんから感じられたものよりも遥かに強いそれは、隠し切れない強烈な敵愾心の発露なんだという事実を。
赤土晴絵を一度
それは刹那の間に掻き消えてしまったものの――無邪気という名の深い森の奥底に潜ませていた彼女の本質、といえるのかもしれない。
「だからこそ私は、貴方のことをあまり好きじゃなかったんです」
純粋で――純粋だからこそ許せないことというのは確かにある。
昼に実際に卓を囲んだ時、テンションの高さが気になった。あれはおそらく、心の根底で嫌っているモノと対峙するにあたり、己の信念でそれを塗りつぶそうとする積極的防衛策とでもいうべきものだったのだろう。
彼女にとって麻雀とは、心の底から楽しむためのものでなければならない。もちろんそこには勝負ならではの負ければ悔しいという当たり前の結果もあるのだろうが、その感情を乗り越えた先で、卓を囲んだ後に全員で「楽しかったね」と言いあえるようなものこそが、彼女にとっての『麻雀』だった。
これは私の推測でしかないけれど。でもおそらく、それに近しいものを抱いているだろうことは間違いない。
彼女の価値観に照らし合わせれば、私の麻雀はまさに毒。すべてを冒し、破壊する忌むべきもの。私には、彼女の深層心理が抱いているであろうそれを、馬鹿げていると断じることなどできはしない。
ただ、過酷な勝負の世界においてそんな理想は妄言に過ぎないと。世界を股に掛けて戦ってきた私にしてみれば、それもまた疑いようのない事実だと知っていて。
でも
だけど、そんな私の考えとは裏腹に、高鴨さんは懸念そのものを吹き飛ばすような綺麗な笑顔を浮かべたまま言葉を続けた。
「でも、勘違いだったんです! 和のために打ちながらあの宮永さんに余裕で勝って、その上で和の転校を白紙に戻すなんてこと、私にはきっと出来ません。だから、やっぱりプロは凄いんだな――って!」
「――あ」
「それを聞いて、なんていうか……とりあえず謝らなきゃって思ったっていうか。ごめんなさい! そしてありがとうございましたっ!」
「あー……うん、まぁ」
いきなり大声で謝られた上に頭を下げられても、それはそれで困るんだけどね。
ついでにいうと、今のでまたポイント加算されちゃったけどそれはいいんだろうか?
……気にしてなさそうだし、いいってことにしておこう。ペナルティをガン無視するその姿勢、私は嫌いじゃないよ。
高鴨さんは、自分たちの麻雀が知らずのうちに原村さんに対する毒に成ってしまったことで気が付いたのかもしれない。
霧の晴れたその瞳の向こう側には、もう私の麻雀に対する嫌悪感は欠片も見られなくなっていた。
「なにいきなり大声出してんのよ、ったくあんたはもう」
「えへへ、ごめんごめん」
照れくさそうに笑顔を見せる高鴨さん。
その彼女の姿を見てから、鷺森さんはゆっくりと助走を始め――彼女の見事なスペアを以って、英語禁止ルールの適用期間が終わりを告げた。
阿知賀編は清澄ほどキャラの特徴が掴めていないので、執筆速度が目に見えて遅くなってしまいます。猛省しなければ……。
次回『第11局:決着@斯くして切り札は微笑する』。ご期待くださいませ