白銀の旅路 作:塩山葵
ボールから出てきたその茶色の毛玉を思わせるポケモンは、少し周りを見渡し、俺達に一瞬だけ目を向く。そしてすぐに、部屋のはじっこに陣取りながら丸まってしまった。
「……見ての通り、あのイーブイは人が苦手なのだ」
あのポケモン──イーブイについてナナカマド博士が話し始めた。
ちょうど先月の今頃、この町──マサゴタウンのフレンドリィショップに泥棒が入ったらしく、その時の犯人がこのイーブイであったらしい。
運良く近くを通りかかったナナカマド博士がそのポケモンを捕獲し事件は解決。研究所に連れ帰ってきたとのことである。
……泥棒か。なるほど、確かに訳ありなポケモンではあるらしい。
「けど、そんなことはよくあることでしょう? それだけなら特別珍しくもないような?」
店員には申し訳ないが、フレンドリィショップに野生のポケモンが入るなどよくあることなのが一般的な認識のはずだ。よほど悪質なものでなければそこいらの子供のいたずらと同程度の問題でしかないものを、いくら捕獲した本人だからって、このナナカマド博士が取り扱わなくてはいけないもんでは無いと思うが。
「そうともプラム。本来であればそれはジュンサーさんの管轄であり私が関わる理由も少ない。……だが」
ゆっくりとあのイーブイの元に近づき手を伸ばすナナカマド博士。だがしかし、触れるまであとほんの数ミリというところであのイーブイの瞳が博士の方に向けられる。
──恐れ。それは野生のポケモンが、滅多に人に向けることのない感情。
恐怖でも不安でも闘争心でもない。ただただ純粋に人を恐れ、諦めるような視線を向けるだけで吠えようともしないのだ。
「……野生のポケモンがこのような目を我々に向けることはほとんど無い。なぜならイーブイとは、ポケモンとはその多くが人よりも強い生き物。恨むことや怒れることはあれど、こうまで萎縮することは稀なのだ」
博士はゆっくりと手を引っ込めながら、心なしか悲しげな表情でそう言った。
「……それで俺に何をしろと?」
「簡単だ。君にはこのポケモンと旅をしてもらいたいのだ」
……それはあまりに傲慢すぎるのではないかと、俺ですらそう思えるほどには酷い提案だった。
確かにポケモンが欲しいとは言った。トレーナーになりジムを巡り、いつか最強の座する頂にまで到達する──そんなありきたりな夢を掲げる一人ではあった。
けどこれは、どう考えてもおかしいだろう。そうだ。おかしいに決まっている。
「……その意見は博士としてどうなんですか。傷ついてケアの必要なポケモンを、よりにもよって新人に渡そうとするのは」
「無論承知の上。君が例えどんな決断をしたとしてもこんな提案をした時点で恨まれても良い。そのつもりで君に話したのだ」
博士の視線は揺らくことなくこちらを見据える。どうやら冗談ではないらしい。
傷ついたポケモン。それは本来ポケモンブリーダーやポケモンレンジャー、ドクターなどその手の専門家が慎重に対処するべき難しい問題のはずだ。
決してそこいらの小僧に任せて良い話などではないことぐらいは流石の俺にもわかることだ。それなのになぜ──。
「プラム。心優しき少年よ。私は君であれば、このイーブイの心を照らし共に歩めると直感している」
「っ、どんな根拠でそんな世迷い言──」
「わかるとも。君ほどポケモンに好かれ、ポケモンと向き合える者は少ないだろう。そう、かつて君が対話したかつてのルクシオのように」
……あの時の話を持ち出すのはどうかと思う。
あれが偶然だ。たまたま偶然が重なり、たまたま最良に近い結果が生み出せただけ──それだけの話。
‥……できるわけがない。こんな無茶振り断って、違う新人用のポケモンを貰うべきなのは明白だ。
「…………」
それなのに、あのポケモンはこちらを見ていた。ナナカマド博士に向けた恐れを含んではいたが、それでも確かにそれ以外を──僅かにこちらに興味を示す、そんな目をしていた。
一瞬、目が合った。揺れるように朧気で弱々しいその瞳がどうしようもなく心をざわつかせ、断るべきだという理性に訴えかけてくる。
……ほっとけない。そう思わされてしまった時点でもうきっと、俺はこの人の手の上なのだろうな。
「…………ああもうっ! そいつ次第ですからね!」
「当然だとも」
差し出されたモンスターボールを雑に片手に持ち、怯えさせないよう気をつけながらゆっくりとイーブイの元に近づいていく。
「ちょっといいか?」
視線を合わせるためにしゃがみ発したその言葉は、自分でもはっきりと認識できる位には緊張を含んでいた。
なんとも情けない。怖いのはあっちの方だろうに。そう自嘲しながらも、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「俺はプラム。年は十。今日からポケモントレーナーになる予定の男さ」
伝わっているかなんて知らない。最近まで野生だったポケモンに言葉を理解できるのかとか俺にはよくわからない。
だからこそ話す。そうやって少しずつでもわかりあおうとすることが、ポケモンと人が通じ合う唯一の手段なのだと俺は思っているから。
「今日から旅に出るんだ。このシンオウ地方をぐるっと一週して、ジムに挑戦したり街を見たり美味しい物を食べたりする。俺の夢のための一歩を、今日から歩こうと思っているんだ。……だから」
手に持っていたボールを音を立てないように、慎重にゆっくり地面に置く。
「もしだけどさ? お前が一緒に来てみたいっていうなら、その時はこのボールに触れてくれ」
視線が合う。先程とほとんど変化はなく、けれど僅かに揺れている──迷いを感じさせる瞳。
もう掛ける言葉はない。あとはこいつが決めることだ。そう判断し、ただただ目の前のポケモンの決断を待ち続けた。
どれくらい経ったか、そう頭をよぎったその時だった。ゆっくりと腰を上げ、決して早くはなくともしっかりと歩きながらこちらに近づいてきて──。
「……ぶい」
ボールに触った。それがこいつの、この子の決断であることは俺にも伝わった。