そういえば、明日を境に春になる。
その事に気づいたのは、1月のページから全く剥がされていない、今年のものに変えてから全く手付かずのカレンダーを直した時。
正しい日付に直そうとして携帯の日付を見れば、そうだったのだ。
そういえばちょっと前は年末年始だった。少しだけ労働時間が短くなったから覚えている。
……春といえば、人生においてそれは転機の季節であることが多い。
入学進級進学卒業。そして入社。決算もあるがこれは人生に直接関係ないか。
そういう転機があるからこそ、自分を変えるには丁度いいタイミングだ。
長い髪はそのままだ。しかし、今や艶めきを持っており、毛先もばらけていない。
生まれつきの童顔は、今までの仕事生活で肌ごと荒れきっていたが、鏡を見ればこの清々しい表情も相まって、好印象。あと可愛い。
「メイクの力とは正に魔法の如き」
輪郭とか肌色を軽く整えて、それとクマを隠す程度だけど、十分可愛い。
なぜ僕はこの性別に生まれてきたのだろう。
「……正式に退職は済ませた。向こうに持っていくものは、心以外はこのケースに詰め込んだ」
この安っぽい部屋とも、携行食染みた食品ともコーラともおさらばだ。
今日は出発日なのだから、
電車に乗り、降りたらバス停を探し、スターデューバレーまで行くバスに乗り込む。
人は居ない。僕の事を珍しそうに見る運転手に、軽く挨拶した。
「目的地はどちらで?」
「え?」
客が自分ひとりだけのままバスが走り出して、ふと運転手が話しかけてきた。
「目的地は何処か、です。……話したくなかったら、別にいいんですよ」
「いや、いや。そういえばこういう話をすること、最近なかったな、って」
「そうですか」
「それで、僕の目的地は……。うん、次なる人生といった所です」
哲学っぽい言葉で返したら、笑われた。
なにおう? けど僕は機嫌が良いんだ、今のところは無言のむくれっ面で我慢しよう。
「スターデューバレー、ペリカンタウン……でしょう?」
「え、なんで?」
「ここのバスで止まる様な海辺のバス停なんて、そこしかないですよ」
なんで海辺のバス停って……。
ああ、この服を着てるからか。
「水兵服だからって、行き先が海辺だとは限らないでしょうけど」
「ううん、合ってます。海辺だったらやっぱりセーラー服かなと思って、着てきました」
安直な発想だけど、うん。似合うから良いや。
今は長袖長ズボンだけど、キャリーケースの中に半袖の物が入ってる。季節が回れば夏服も上着も出番が回ってくるだろう。
「……貴方の名前を聞いても?」
「名前? 僕はノア。君は?」
「私はしがない運転手です」
「……なんか、不公平」
「先程の妙な問答に対する、ささやかな反撃ですよ」
「む」
それから無言が続いて、数時間かかるであろう旅路を窓から眺めている。
空にピンク色の鳥が、2羽飛んでいる。見たことのない鳥だ。この地域特有の動物なんだろう。
南方の海をぼんやり眺める。東側から差す陽光が、時々反射してきらめく。
「……起きていますか?」
「はい?」
「ペリカンタウンについて、話しておこうと思ったことが」
「忠告ですか? 田舎に出るような虫とか悪い通信環境とかは覚悟してますよ」
「いえ、それもあるかもしれませんが。何と言えばいいんでしょう、景気が悪い、というのが近いんですが」
「景気?」
というと、経済的な停滞とか、そういうものなんだろうか。
「小さな町ゆえ、経済を支える生産物が要なのですが……少し昔に、農産物がめっきり出てこなくなりまして。他に海産物や工芸品、祭りなんて物もありますが、農産物はそれらよりも大きく支えになっていたので……」
「お金が入ってこない」
「そうです。しかも、最近進出してきた会社のスーパーマーケットが近くに建てられたものですから……」
「お金が出ていくって事? 町としては痛そうですね」
太陽が雲で隠れて、輝いていた海が息を潜める。
「なので……まあ、幾らか当地でお買い物をしてくれれば、少しは活気が灯るかもしれませんね」
「僕はそんなにお金持ちじゃないけど」
それに、消費者というよりは、生産者の立場になるだろう。
「ええ、無茶ぶりはしませんよ。……看板が見えてきました。あと数分ですよ」
ペリカン・タウンまで、0.8km。
あの地に降りたその時が、僕の新しい人生となるだろう。
「まもなく、ペリカン・タウン。ペリカン・タウン。……荷物、忘れないでくださいね」
・
・
・
「ありがとうございました」
「ええ、良い日を。ノアさん」
トンネルを一つくぐって、見えてきたのはバス停から延びるちょっとした道。コンクリートを見慣れた僕の目には、草や土が丸出しの地面がかえって新鮮に見えた。
見ると、その先には赤茶の髪をした女の人がいる。田舎のお姉さん、という風な見た目だ。
こちらを見つけて手を振っているから、僕も手を振り返した。お迎えが町長ともう1人が来てくれると聞いているから、驚きはしない。
「待ち人が居るようですね。それでは、私は失礼します」
「うん、またね」
「これから会うことはないでしょうが」
「そうなの? 別のバスに異動するのかな。だったら、頑張ってね」
「……はい、ありがとうございます」
それを最後に聞いて、バスから降りる。
町の入口と言うには何もない。看板を見れば分かるかなと思い、その前に赤っぽい茶髪のお姉さんがの所へ行く。彼女が僕を待っていたんだろう、大分エネルギッシュに手を振るから、僕も思わず手を振り返す。しかし僕の手の振り方は少しばかり控えめだ。
「初めまして! 貴方がこのスターデューバレーの新参者ね?」
「うん、初めまして。僕の名前はノア」
「ええ、聞いているわ。私はロビン、この町で1番の大工さんよ」
自慢気にふんすと息を鳴らす。
ロビン。何処かで聞いたことがある気がする名前。それはきっと、おじいちゃんの昔話で聞いた事があるからだろう。大工の娘だと聞いていたが、この様子だと今やその大工を引き継いでいる様だ。
そうすると、話でしか聞いていなかった「スターデューバレー」に今僕が居ると実感して、なんだか妙に嬉しくなった。
「よろしく! ロビンさん」
「元気ね。敬語が似合わないくらい。ノアちゃんって読んでも良い?」
もちろん。僕は頷いた。
しかし、もう一人の方は居ないのだろうか。ちらっと辺りを見渡す。
「町長さんが迎えてくれるって聞いたんですけど」
「彼、今日は珍しく忙しくしてるのよ。といっても仕事って訳じゃないの。行けば分かるわよ」
それからスターデューバレーの話を聞きながら、これから僕が住む場所に連れて行ってもらう。
雑貨屋の様な商会、工房、バー。そしてjojaマート。最後のjojaマートについて話しているときの語調が、少しばかり嬉しくなさそうに思えた。
どうも、この町を苦しめている店というのはJojaが経営しているらしいのだ。
やっぱり、住民にとっても好きにはなれないのだろう。Jojaコーポレーションに勤めていた過去を話す気は元から無いけれど、これが知られたらあまり良い顔はされないだろうなと、僕は気付かないうちに口数を減らしていた。
「それとね、お店では無いのだけど、お洋服を作っている子が……どうしたの?」
「あ、いや、ううん。どうもしてないよ。……ただちょっと、馴染めるかな、って」
「この町の住民は優しいから、心配する必要は無いよ」
道の向こうから出てきた白髪の男が、僕たちに話しかけてくる。
「あら、ルイス! 遅かったわね、もうこの町の紹介は殆ど私が済ませちゃったわ!」
ルイス……。ルイスという名前は、よく覚えている。ロビンよりもお爺ちゃんが多く口にしていた名前だった。この街の住民の中で歳が近かったこともあって凄く仲が良かったらしい。手紙の中でもよろしく言われているから、鮮明に覚えている。
「ルイスさん」
「遅れてしまったか、これは申し訳がないな。……しかし、君のお爺さんから聞いていた通り、可愛い子だね」
「あらやだ。まあ!」
「そう言ってくれて嬉しいです」
お爺ちゃんと似た優しげな雰囲気が、私自身の古い記憶を思い起こさせる。その記憶に出てくるのは私のおじいちゃんだけれど、その姿にルイスさんの姿が重なる。
それなりにお腹の膨らんだおじいちゃんと、目の前のルイスさんとではシルエットからしても見間違えようが無いのに。
「貴方もまだまだ現役なのかしら?」
「妙なことを言わないでくれ。私はとっくに枯れているよ。さて、遅れて悪いね。最後に家と周りをきれいにしようと思ったら、予想以上に時間がかかってだな……。とにかく、ノアの新しい家はこっちだよ」
「はい。ルイスさん」
連れてきてもらった先で最初に見つけたのは看板で、それに書かれた文字『ノアの牧場』と読めるまでの所まで近づいてくると……思わず足を止めた。
石、木、雑草。森の真っ只中と言われてもおかしく無い様子が、あの看板の先にあった。
それどころじゃない。人の大きさぐらいはある大岩や、かつては図太く成長していたのが窺えるような倒木が遠目に見える。
辛うじて、一軒家の辺りとその道だけは全く散らかっていないのが救いだ。
いや、でも。これが『ノアの農場』? 僕は目を点にして立ち尽くしていた。
気になる事は幾つかある。お爺ちゃんが土地の名前に僕の名を添えていたり、牧場をやると言う、気まぐれな筈である考えが見透かされていたり。
でもそういうのは驚きとは関係ない。今までで一番の驚きを与えたのが、その看板の後ろにある土地その物。
「ごめんなさいね。これでも頑張って整地したのよ」
「この辺りは土が良いからね。少しでも目を離したら草木がぼうぼうと生えるんだよ」
「……放置されていると聞いたから、草だけ生えてる光景を想像してたんですけど」
草がぼうぼうなのはまだ良い。木もまあ、うん。でも岩や石は一体どこから湧いて出たのだろう。昔はおじいちゃんがここで耕していた筈だから、その頃も放置していたとは考えづらい。
「お古で悪いけれど、家の中に色々な道具を用意しておいたわ。私達も偶にだけど、ここの整地を手伝うから」
「あ、道具があるんですね! それならなんとかなるかも……ありがとうございます!」
少しは希望が見えてきた。当分の生活費とかは持ち出しているから、農作物が育てられなくてもしばらくは良いんだけど……。
「それじゃあ、私はこのあたりで失礼するわ」
「悪いけれど、こっちも離れなきゃ行けない。必要なものがあるなら、ここから道を東に真っ直ぐ行くと雑貨屋がある。広場に面しているから、直ぐにわかると思うよ」
「はい! ありがとうございます!」
「それと、礼儀も必要かもしれないけれど、気楽な口調で良いよ。この町の皆で私に敬語を使う人なんて、数える程も居ないからね」
「……うんっ」
やっぱり優しい。おじいちゃんに聞いた通りだ。
今のところはここまで
何かが狂って3桁のお気に入り登録でもない限り続きは期待できない。
或いは、あらゆる創作活動に対するやる気が出るいつかの日まで、もうしばらく