「ただいま〜」
ついこの間までは、マルチナがバイト先のパン屋から帰ってきたらおかえりという声が家主から返ってくるのが常だった。しかしここ数週間は、その声が聞こえる事はなく少し寂しいと思っていた。
バイト先で余ったパンと、途中で買ってきたハムとチーズで簡単な食事を作り、コーヒを入れて家主のいる部屋に向かった。
「フェル隊長、入るよ」
ノックをして部屋に入ると、そこには机に突っ伏して眠る家主の姿があった。
「またこんな所で寝てる」
机の上に食事の乗ったトレーを置くと、マルチナはフェルナンディアの肩を揺らした。
「……マルチナ?」
「また勉強しながら寝てたよ。テストが近いからって無理して勉強して体を壊したらまともかもないよ」
寝起きで働かない頭を回転させ、自分が今どういう状況なのかを理解すると、フェルナンディアは口を開いた。
「おかえり」
「ただいま。簡単なのだけどご飯作ったから食べてね」
机の上のパンに目を向けると、フェルナンディアの腹の虫が鳴いた。
「朝から殆ど何も食べてなかったからお腹すいてたのよ。助かるわ」
「一日三食ちゃんとご飯を作ってとは言わないけど、せめてパンくらいは食べたら?」
「そうしたいのは山々なんだけどその時間が惜しいのよ」
自覚があるらしく、バツが悪そうな顔でそう言った。
「だとしても、医者になろうとしてる人が不健康っていうのも問題だと思うよ。私生活から患者の手本になるようにしないと」
「分かってはいるんだけどね。ほら、最近スオムスが作った例の機関あるでしょ」
「例の機関って、たしか……世界ウィッチ権利保護連盟だっけ? あれがどうかしたの」
マルチナはニュースに疎いが、戦時中に多少なりとも関わりのあったエイラが作ったという事で、フェルナンディアとの話で話題に上がったことがあった。
「それにロマーニャが参加する事になったんだけど、ロマーニャ支部の支部長をやらないかって言われたのよ」
「なんで引退してるフェル隊長が? ドッリオ隊長とか501のルッーキーニとか他にもいるよね?」
「大佐は引退して地中海のどこかにいるらしいけど、連絡がつかない。501のルッーキーニは近衛だから手は出せない。結果的に、実績のあるウィッチで支部長をできそうなのが私くらいしかいないのよ」
ロマーニャという国は、数の割にエースウィッチが少ない。アルプス山脈など天然の要害に囲まれたおかげで、直接戦闘の機会が少なくエースが生まれにくかったことが原因だった。当時は戦闘が少ない事はメリットだったが、エースウィッチが価値を持ち始めた現在においては、エースウィッチの数は現役を問わず重要な要素だった。
「断ればいいじゃん。階級的には少し劣るけどフェル隊長には少し劣るけど、ルチアナもやらなくないし、他にも探せば何人かいるはずだよ」
「ルチアナは最終階級が大尉でしょ。最低でも佐官じゃないと釣り合いが取れないわ」
フェルナンディアは最終的に少佐に任官し退役している。少佐として軍にいた期間は極めて短いが、それでも佐官には変わりない。
「佐官でエースとか殆どいないよ。その階級になるとウィッチ隊の隊長と基地指令を兼任しないとだから、それままでとは段違いに難しい仕事な上に、量が多いからできない人のほうが多いんだから」
「だからこそ、佐官のウィッチを支部長にしたいのよ。支部長の仕事はウィッチの管理と機関本部や他支部との渉外担当。実績と階級が低いと舐められるし、意見も通せないの」
「けどフェル隊長は医者になる勉強で忙しいよね。断ったらいいんじゃないの」
マルチナの言葉にフェルナンディアは大きく息を吐いた。
「支部長としての給料に上乗せして学費を援助してくれるって言われたのよね」
「お金なら別に困ってないから断ってもいいんじゃない?」
「大学在学中、アルバイトせずに生活する程度のお金はあるわよ。けどその後、卒業後は余裕があるとは限らないの。しゅうしょくさきによっては地方に引っ越さなきゃいけないかもしれないし、その辺のお金まで考えたら卒業後は余裕がなくなるわ」
フェルナンディアのように、大学に行く資金を貯めている元ウィッチは稀な存在だった。戦時中のウィッチは給料を貯金するものよりも、散財する物のほうが多かった。十代の少女が大金を手にして使わない方が難しいという、未熟さから来るものもあるが、基地陥落や襲撃に際して私物を失い次から次へと買い換える必要があったから、というのも理由の一つだった。
「それに支部長になれば、ロマーニャ市内の病院に紹介状をくれるとも言われたから、尚更断りにくいのよね」
「支部長なんかやったら、下手をしたら医者としての活動が出来なくなるんじゃない?」
「それなのよね。けど戦争に使われるウィッチを救う上で、医療技術があるウィッチはいた方がいいと思うのよ」
もしもこれがただウィッチを一つの組織に所属させる事だけが目的であれば、フェルナンディアは一考もせずに断っただろう。だがウィッチを一つの組織に所属させ争い事から遠ざけ、場合によっては武力によりウィッチを助け出す。
助け出されたウィッチが無傷でない事は十分考えられる。そこに、医者となった自分が求められるのではないか。そんな思いがあった。
「いずれにせよ、私達は戦争で人生を変える事を余儀なくされた。良いこともあったけど、良くないことも多くあった。発起人のユーティライネンなんかは、戦争にならなければ足が吹き飛ばされるようなこともなかった。そう考えると、支部長になって医者を目指しながらまだ見ぬ後輩たちを助けるのも悪くないと思うのよね」
結局のところ、医者になるのも支部長を引き受けるのも人を助ける事に変わりはない。なによりただの医者では手の届かない範囲にある人々を助けられる分、支部長を引き受けた方が自分の思惑とも合致する。そんな思いから、フェルナンディアの気持ちは支部長を引き受ける方に傾きつつあった。
「ていうか、よくよく考えたら片足が義足なのに未だに現役で、しかもレシプロストライカーでジェットストライカーに勝てるってあの人一体何なのよ」
「ジェットストライカーの相手は、相手と実力差があればかろうじて出来るんじゃない?」
「新米とエースくらいの差があれば可能でしょうね。だけど、片足が義足となると赤子とウィッチくらいの差がなければ難しいわよ」
「そんなに違うの?」
それは医者としての勉強をして、初めて知ったエイラの凄まじさだった。
「魔法力はって、体全体から溢れ出すようにして纏うのよ。ストライカーは体全体から出る魔法力のうち、足から出る分で必要な魔法力を賄うんだけど、義足だと出力が安定しないのよ。元々人間の手足っていうのは左右で長さが違うけど、それくらいなら誤差の範囲。だけど片足が完全に義足だったりすると、全く出力が違ってくるの」
「出力が違うなら片方だけ起動しない事にならない?」
マルチナは首を傾げた。
「大きな水瓶に水を入れるとして、使うバケツがどんな大きさでも時間に違いはあっても満タンにできるでしょ。出力っていうのは、一度に使う魔法力の量の事よ」
「それだと左右のユニットで起動時間に違いが出ない?」
左右で量が違うのなら、起動に必要な魔法力を注ぐのにかかる時間も違ってくる。そのため、ストライカー・ユニットの起動にラグがあるのではないかとマルチナは思った。しかしマルチナの記憶では、エイラは両方同時に起動させていたはずだった。
「ストライカーユニットの起動にに必要な魔法力はそんなに多くないでしよ。だから起動はそれほど難しくないはずよ。ただその後、出力の維持は難しいわよ。例えば最高速度を出すならまだ簡単よ。中途半端に速度を変えるのなら、足ごとに調整が必要になるのよ。二つの水瓶に別々の大きさのバケツを使って、同じ時間で同じ量を水瓶に注ぐようなものよ。しかも中の水量は覗いても見えないとくれば、とんでもなく難易度は高いわ」
もしもあのような不幸な事故がなければ、エイラは何ものの追随も許さぬ史上最強のウィッチになっていただろう。フェルナンディアはそう思った。
「ユーティライネンの件は少し違うけど、戦争で四肢を失ったウィッチなんていくらでもいるわ。そんな不幸なウィッチを出さない為にも、もしもそうなりそうなウィッチがいた時に対応できるよう。私はこの話を受けるつもりなのよ」
ルチアナは服飾のお勉強です。
フェル隊長は医師を目指して、マルチナは見合いから逃げるために実家から家出、フェル隊長の家に転がり込んでます。