煽れば尊し
チャンネル登録者数10万人。
その数字の重さはかつて実況者であった林檎も十分理解していた。
「あーもう! 感謝って何だよ!」
林檎はパソコンの画面と睨めっこしながら頭を抱えていた。
今までまったく気にしていなかったこと。
誰かのために何かをするということに、林檎は迷っていた。
先日の夢美へのドッキリは、レオと夢美の組み合わせの魅力を最大限に引き出すために考えたものだった。
確かに二人への感謝の気持ちもあったが、主目的は自分の登録者数を伸ばすために行ったことなのだ。
それを[ついに焼き林檎改心][速報、焼き林檎は人の心を持っていた][同期二人が好きでしょうがないんだろうな][クズデレ最高]などと言われると胸が苦しくなるのだ。
「罪悪感? ……はっ、まさか」
そんなものを感じる心など、とうの昔に壊れている。
親に物を強請ることを躊躇わなくなったとき。
自分に歯向かったいじめっ子を親の名前を使って叩き潰したとき。
人との待ち合わせに平気で遅刻するようになったとき。
人を人とも思わない林檎にとって、感謝とは落とし物を拾ってきた犬にエサをやる程度の認識だった。
しかし、登録者数10万人達成という出来事に関する感謝はそんなものでは済まされない。林檎は視聴者の予想を超える恩返しが思いつかずに四苦八苦していた。
そんなとき、自分の部屋に置いてあるグランドピアノが目に入った。
「……よし、弾くか」
ピアニストの娘である林檎は、母の教えもあって毎日欠かさずにピアノを弾く時間をとっていた。
ピアノを弾いていると、もやもやした気持ちが吹き飛んでいく。林檎にとって、最も心が安らぐときは、一人でピアノを弾いているときだった。
幼い頃、まだ純粋に優しい両親が大好きだった頃。
母に教わったピアノを父の前で披露して、褒められたことが林檎にとっては何よりも嬉しかった。
それに母はピアノに関してだけは厳しかった。手放しで褒められることが嫌いな林檎にとって、唯一自分を叱ってくれる貴重な機会でもあったのだ。
しかし、努力してコンクールで賞を取ったりしても、褒められるのは母親ばかり。
教え方が良いだの、才能の遺伝ですねだの、林檎の努力などなかったように周りは評価する。
周囲からの賞賛を受けて一切の否定をせず、誇らしげにする母を見て林檎は思った――この人は自分を見ているんじゃない〝天才ピアニストである自分の成果〟を見ているんだと。
いつしか、林檎は人前でピアノを弾かなくなった。
実況者としての自分に〝手越優菜〟としての要素であるピアノは不必要だったということもある。
自分の世界に引きこもり、思うがままにピアノを弾く。それだけが彼女にとって孤独を埋める時間となった。
――こんな楽しい時間をみんなと共有できたらいいのになー……。
「っ! ありえないっつーの……」
咄嗟に思い浮かんだ企画を記憶のゴミ箱へと放り捨てて、林檎はピアノを閉じた。
いくらなんでもあの二人に感化され過ぎだ。
迷いを振り払うように立ち上がると、林檎は出かける支度をして事務所へと向かうことにした。
現在林檎を担当している諸星とはRINEでやり取りをしているため、わざわざ事務所へ行く必要はない。
それでも、今はただ自分の部屋にいたくなかったのだ。
多忙な諸星のことを気にしてアポを取ると、数秒と経たずに返信がくる。
打ち合わせの時間が取れることを確認すると、林檎は事務所へと向かった。
事務所に着くと、林檎のリアルの姿を知っている社員達が口々に「10万人おめでとうございます!」と声をかけてくる。
口々に林檎を褒めたたえる社員達に適当に対応しながら歩いていくと、あまり顔を合わせたくない人物と出会う。
「あっ、林檎ちゃん!」
「……まひるちゃん」
白鳥まひる。イラストレーターが同じという繋がりもあり、林檎とのコラボの回数も多い先輩ライバーである。視聴者達からは仲良し姉妹と称されているが、林檎はまひるのことを避けがちだった。
「バラちゃんへのドッキリ企画良かったよ! まひるもう感動して泣いちゃったよぉ」
「へー、そう」
満面の笑みを浮かべるまひるとは対照的に、林檎は興味なさげに相槌を打った。
「で、何か用?」
「用がなかったら話しかけちゃいけないの?」
「ま、できればね」
「冷たいなぁ。でも、まひるじゃなくても心を開ける人ができて良かったよ」
林檎に冷たい態度をとられているというのに、まひるはどこか嬉しそうな様子だった。
「……あんたに何がわかるの?」
「そりゃ、高校生のときからずっと見てたからね」
「はっ、見てただけでわかった気にならないでくれる?」
吐き捨てるようにそう言うと、林檎はまひるを睨みつける。その視線を真っ直ぐに受けて、まひるも林檎を見据えて言う。
「ゆなっしー――ううん、手越先輩は変わったよ」
「そういう、まっちゃ――潤佳は変わんないよね」
実はこの二人は高校時代の先輩と後輩だった。白鳥まひること
二人の関係は林檎が実況者を始めてからも続いた。
純粋に林檎を尊敬するまひると、それを煙たがる林檎。その関係はにじライブに所属して先輩後輩の関係が逆転しても変わらなかった。
「私は変わってなんかない。クズの気まぐれってやつだよ」
「……そうやって自虐するとこ、私は好きじゃないよ」
「好きじゃなくて結構。私も年下の癖にお姉さんぶるあんたが嫌いだから」
歩み寄るまひるを拒絶すると、林檎は諸星との打ち合わせのために会議室へと向かった。
「あっ……白雪さん」
林檎は会議室に向かう途中、前に林檎の担当だった亀戸と出くわした。
「亀ちゃん、お久―。私の担当外れてから元気してたー? てか、仕事あったー?」
林檎は挨拶ついでに亀戸を煽った。林檎からすれば、ほとんど役に立たなかったマネージャーである亀戸の存在は、先程まひるで溜まったストレスの捌け口に持ってこいだったのだ。
「はい、おかげさまでいい勉強になりました!」
「ほ?」
てっきり、いつものように委縮するのかと思っていたところ、笑顔で予想外の返しをしてきたため、林檎は驚きのあまり言葉を失った。
「白雪さんほど滅茶苦茶なライバーさんは今までいませんでしたから、とても貴重な経験になりましたよ」
亀戸は不敵な笑みを浮かべると、煽り返してきた。
「人の振り見て我が振り直せ、とはよく言ったものですよね。おかげで自分に足りないものがわかりました」
「ほほーう、『件名:ごめんなさい』なんてクソみたいなメール送ってたあの亀ちゃんがねぇ」
「読まずに捨てる白雪さんには負けますよ。白雪さん――あっ、白山羊さんでしたっけ?」
白雪さんったら読まずに捨てた♪ と、楽しそうに歌うと、亀戸は核心をつくように言った。
「どうせ10万人企画で迷っているんじゃないですか?」
「っ!」
「白雪さんの担当を外れてからたくさん勉強する機会をいただきました……今の私なら役に立てると思います――それとも私をうまく使うことすらできませんか?」
「あの鈍亀が言うようになったじゃん……!」
林檎は心底楽しそうに笑うと、右手を差し出した。
「これから打ち合わせだからあんたも来なよ」
「ふふっ、言われなくても!」
差し出された右手をパチンと弾くと、亀戸は人差し指で瞼を引き下げ、舌を出して笑った。
「ほら、もたもたしていると置いていきますよ!」
「ちょ、今のは握手するとこでしょー!」
「べー、です!」
この後、二人して騒がしく会議室に入ったことで諸星から説教されたのは言うまでもないことだろう。
正直、この状態の林檎に声をかけるとしたら「鏡見ろ白雪」ですかね