「ねー、環奈。アイドルになりたいって本当?」
「っ、誰から聞いたの?」
ある日のこと。
突然、友人から聞かれた一言に環奈は驚きと怯えが混じった表情を浮かべた。
「いやね。手越さんが教室で話してるの聞いちゃってさー」
「優菜が……」
自分の夢は優菜以外には話していなかったため、話したのは優菜しかいない。
その事実に少なからず環奈はショックを受けていた。
「もう教えてくれてもいいじゃない。水臭いなぁ。知ってたら絶対応援するのに」
笑い者にされる。そう思って身構えた環奈だったが、友人は笑顔を浮かべて環奈の夢を肯定した。
「……笑わないの?」
「えー何で? 環奈って可愛いし、ピッタリじゃん!」
「そ、そうかな?」
「そうだよ! 応援してるからね!」
「あはは……ありがとう」
結果的には、友人から自分の夢を肯定してもらえた。
しかし、環奈はどこかで心にもやもやしたものを感じていた。
それからというもの、環奈はたびたび友人達から優菜に関する噂をいろいろと聞いた。
「手越さんってさ――」
そのどれもがみみっちいが真面目な環奈には看過できないものばかりだった。
家政婦に学校の課題をやらせている。
周囲の友人を当たり前のようにパシリにしている。
学校側から特別な待遇を受けている。
そのどれもが優菜ならあり得るレベルの噂話だった。
「前にも言ったけど陰口は――」
「あくまでも噂だって。気になるなら本人に聞いてみたら? 環奈って、手越さんと仲良いじゃん」
そのたびに環奈は優菜をフォローしたが、友人達もあくまで噂だからと、直接優菜を貶めるようなことを言っていたわけではなかった。
それもそうだと友人の言葉に従い、優菜本人に聞いてみれば、
「うん、ホントだよ。それがどうしたの?」
などと、悪いことをしている自覚などないような返答が返ってくる。
いつからか、環奈は優菜と距離を置くようになった。
優菜も前に「アイドルになりたい」という環奈の夢を無意識のうちに他のクラスメイトに言ってしまったという負い目があったため、環奈にそう言われると強くは出れなくなっていた――本当は優菜がそんなことを言ったという事実はないのだが。
環奈も環奈で友人から優菜の噂を聞かされても、優菜に確認しなくなり始めていた。
そんなあるとき、いつものように友人が環奈の元へとある噂を持ってきた。
「ねえ、聞いた? 手越さんって、学校側から事前に試験問題もらっているらしいよ」
「……へー、そう」
いつものくだらない噂だ。そう聞き流すには内容が重すぎたが、環奈は聞かなかったことにしようとした。
「いや、これがマジなんだって。手越さんって授業真面目に受けてないじゃん? それなのに碌に勉強しないで100点なのはおかしいじゃん? あの子が勉強してないのは環奈も知ってるっしょ」
「……まあ、確かに不自然よね」
環奈の記憶の中でも優菜が真面目に勉強に取り組んでいる姿は思い当たらない。家で何をしているか聞いても、遊んでばかりだと言っていたこともよく覚えている。
「私さあ、見ちゃったんだよね。今日、先生から〝期末考査〟って書かれたプリント集をもらってる手越さんをさ」
「ほ、本当なの?」
「マジマジ! まったくやってらんないよね。環奈がこんだけ努力しても一回も点数で勝てないのに、全部不正だったなんて。しかも、小学校のときのピアノコンクールもあの内藤郁恵の娘だからいつも優勝してたみたいだし、あの子がアイドルやったらタケさんのコネであっという間にトップになれちゃうんだろうね」
環奈の劣等感を煽るように友人は優菜の悪評を環奈に語った。
「あ、ごめん。ちょっと無神経だったよね?」
「……大丈夫よ」
まったく大丈夫そうではない表情で、環奈はふらふらと席を立つ。
そんな彼女の様子を見て――環奈の友人達や優菜の取り巻き達はニヤリと笑ったのだった。
部活を終えた放課後。
教室に戻ってきた環奈は、無人の教室に優菜の鞄が置きっぱなしになっていることを発見した。
教室に戻る途中、環奈は優菜と会っていたため、彼女やその取り巻きが〝時間のかかる階段掃除〟の当番だったことを知っていた。
「この鞄の中に不正に手に入れた問題が……」
すっかり優菜を信じられなくなっていた環奈は周囲を気にしながら鞄の中身を開けた。
すると〝期末考査〟と表紙に書かれた試験問題が出てきた。
「う、嘘……」
信じたいと思っていた。それでも確固たる証拠が出てきたことで、環奈は優菜が不正に手を染めていることを確信してしまった。
――私は今まで不正をしている人間に負け続けて、そんな相手に勝ちたいと思って努力していたの? そんなバカなことがあってたまるか!
反射的に優菜の鞄を持ち去っていった。
困らせてやればいい。不正に手に入れた試験問題をなくして焦ればいい。
ちょっと鞄を隠して、優菜が困っているところで見つけた振りをして渡す。
それで、たまたま不正に手に入れた試験問題が見えたとでも言って、注意して反省を促せばいい。優菜を嫌っている人間は少なからず一定数いる。鞄ごとなくなれば違和感はないはずだ。
環奈は根本的なところで間違えていた。
優菜を注意するだけならば、こんな方法をとる必要はない。
優菜が戻ってくるタイミングを待って、真っ向から注意すればよかったのだ。
どんなに努力したところで、優菜には勝てない――何故なら彼女は学校からも特別扱いを受けている。勝てるわけがないのだ。
優菜と友人関係になって消えかかっていた嫉妬心が、ここ最近の優菜への不信感から爆発してしまい〝自分自身で直接的な罰を与える〟という間違った手段を選ばせてしまった。
一階の階段の裏に優菜の鞄を隠した環奈は、何食わぬ顔で教室に戻った。
環奈が教室に戻ると、案の定優菜が困ったように辺りを見回していた。
「あっ、環奈。私の鞄知らない?」
「鞄?」
「……うん、鞄」
困ったように聞いてくる優菜は、どこか悲しそうな表情をしていた。そんな彼女を見て環奈の胸が痛んだ。
「か、鞄ね……ちょっと探してくる」
――私は何をやってるんだ! 早く優菜に鞄を返してあげないと!
優菜の悲し気な顔を見たことで正気に戻った環奈は、慌てて教室を飛び出して鞄を隠した一階の階段裏まで向かった。
「嘘、鞄が無い!?」
しかし、環奈が隠した場所に鞄はなかった。
「どうしよう……探さないと」
環奈は必死になって優菜の鞄を探し回った。
陸上部の練習後だというのに、学校中を駆けずり回った環奈は汗だくになりながら、教室へと戻った。
「優菜、ごめんなさい。鞄、見つからなかったわ……」
謝罪と共に環奈が教室に入ると、優菜だけではなく、優菜の取り巻き、環奈の友人達までいた。
「あら、狩生さんったら白々しい」
「そんなに必死に鞄を探す振りなんてしちゃって、滑稽だこと」
「な、何が言いたいの」
厭らしい笑みを浮かべる優菜の取り巻きに、環奈は悪寒を覚えた。
そんな取り巻き達を押しのけ、一歩前に出た優菜は悲しさを隠すように、わざとらしく明るい声で言った。
「まいったなー。あのカバンの中にはママからもらった三十万の財布とかいろいろ入ってるんだけどなー。合計するといくらになるんだろうね?」
「ゆ、優菜?」
今まで環奈にも見せたことがない濁りきった暗い瞳が、環奈を真っ直ぐに見据える。
「ま、鞄が一人でになくなるわけないし、犯人はいるよねー? 私はいいけど、パパとママ悲しむだろうなー。もし捨てられたんだったら弁償もしてもらわないといけないよね?」
「犯人、弁償……」
環奈の背中を冷たい汗が流れ始める。
「ゴミ捨て場に優菜さんの鞄が捨ててあったわ。こんなにボロボロになってね!」
「なっ!」
階段の裏に隠しただけの鞄。それが土まみれになっているのを見て、環奈は目を見開いた。
「この時間、教室にいたのは狩生さんしかいないわ。しかも、あなたが教室から鞄を持って出てくる姿を見た生徒もいるわ」
「まさか環奈ちゃんがこんなことするなんて思わなかったよ……」
「どうしてこんなことしたの?」
「見損なったよ、環奈」
環奈の友人達も口々に環奈を非難する。
違う、自分はやってない。そう言おうとしたが、自分が鞄を持ち去ったのは紛れもない事実である。
一縷の望みを託して、環奈は優菜の情に訴えかけた。
「ゆ、優菜、これは違うの!」
「違う? くくくっ……今更何言ってんのさー。言い訳なんて見苦しいよ」
優菜は壊れたように笑って言った。
「
「えっ……」
「楽しかったよー。あんたとの友達ごっこ」
そこで環奈は思い出した。
手越優菜の父親が――俳優、歌手という肩書を持つ芸能界の大御所、手越武蔵ということを。
今まで友人だと思っていた。
自分の夢を笑わないで真剣に聞いてくれた。
それらは全部、演技だったのだ。
『どうしてだろうねー。環奈が他とは違うからかなー。煽るとすぐキレて面白いし』
環奈は以前、優菜の言った言葉を思い出す。
――ああ、そうか。所詮、自分は手越優菜の
「……あんたまさか私を嵌めたの?」
「あっはっはっは! 何言ってんの? 先に喧嘩を売ったのは狩生さんでしょ?」
優菜は高笑いをすると、さらに一歩前に出てきて環奈に向けて言った。
「あんたが退学になるのは本意じゃないんだよねー。ま、態度次第では許してあげるよ?」
「たい、がく……」
学費の高い私立に通っている自分が退学になったら両親はどう思うだろうか。
決して裕福な家庭ではない環奈は考える前に土下座をしていた。
「ごめんなさい! こんなことするつもりじゃなかったの!」
優菜は即座に土下座する環奈を、ゴミを見るような目で見降ろす。
「ま、土下座もするよね。だって私にこんなことしたってバレたらアイドルなんてなれないもんね。狩生さんさー、アイドルになりたいんじゃなかったの?」
「なりたいに決まって――」
「はっ、あんた何かがアイドルなんてなれるわけないじゃん」
「そん、な……」
優菜は環奈の夢を鼻で笑った。以前、真剣に相談に乗ってくれたときとは真逆の態度に、環奈は絶句した。
「ねえ、今どんな気持ち? ムカついた女の鞄を捨てただけのつもりがこんな大事になった上に、私に土下座までしてさぁ……ねえ、どんな気持ちか教えてよ?」
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
親しい友人だと思っていた存在からの裏切り、これから起こることへの絶望。
全ての感情が綯交ぜになった環奈は、泣きじゃくりながら優菜へと土下座を続けたのだった。
「はっ、くだらな……」
優菜は環奈のために父親からもらったアイドル養成所のパンフレットを燃えるゴミに突っ込むと、そそくさとその場から立ち去った。
環奈は知らなかった。
優菜が授業を聞いただけで大事なポイントを即座に理解できる天才だったことを。
優菜が鞄の中に貼っていない残りのプリクラを入れていたということを。
優菜が俳優の娘だろうと、演技は得意ではなかったということを。
こうして、狩生環奈は出席停止処分となり、一生懸命に打ち込んでいた陸上部は退部、出席停止明けからは周囲から苛烈ないじめを受ける中学時代を過ごすことになったのであった。
回想は今回で終わりになります。
捕捉すると、カリュー視点では林檎が黒幕で、自分を嵌めるために入念に準備をしたという認識になっております。
感想で、中学に停学はないとのご指摘があったため、出席停止という表現に変えました。
私立中学なら退学はありえるのに、停学はないという謎……