キッカケは、ただの八つ当たりだった……私を怖がってる男の子を傍に置いて、イジワルしたかっただけの筈なのに……
「先輩、おはようございます。」
そう言って挨拶をしてくる男の子からは、以前まで感じていた筈の私に対する緊張や警戒の雰囲気は消えていた。
「……うん、おはよう。」
私は少しの戸惑いを感じながら返事をする。
「最近、また寒くなって来ましたね。」
「うん、もう12月だもんね。」
少し前までの彼なら、自分から話題を振るなんて事はしなかった。挨拶くらいはして来るけど、私の不興を買うのを避ける様に発言は少なめで……まぁ、そうなるくらい怖がらせたのは私だから、何も文句は無かったんだけど……
「風邪引かない様に気を付けて下さいね?」
「……うん、石上君もね。」
いつからだろう……目の前の男の子が私を怖がらなくなったのは……
「じゃあ、また放課後に。」
「ん、またね。」
いつからだろう……その些細な事実に、胸の奥が暖かくなる様になったのは……
「……」
いつからだろう……あの子に逢う時間を、待ち遠しく感じる様になったのは……
「違う、そんな筈無い……」
でも私は……その事実から、今も目を逸らしたままでいる。
〈中庭〉
「最近の渚は楽しそうね。」
「……そう見える?」
昼休み……中庭のベンチに腰掛けて眞妃と話をしていると、そんな事を言われた。眞妃は髪の毛先をイジりながら、言葉を続ける。
「えぇ、少し前までは何処か影のある雰囲気が漂ってたけど、最近はそうでもなさそうだし……優のお陰かしら?」
「それは……」
「なんだか……私と居る時より楽しそうで、少し妬けちゃうわ。」
「え?」
眞妃のその言葉に、心が満たされて行く……あぁ、眞妃も私と同じ様に思ってくれてたんだと、嬉しく感じたのも束の間……
「……なんてね。冗談よ、そんな事で妬いたりしないわよ。」
「え……」
「じゃ、そろそろ行くわ。また後でね。」
「あ……」
眞妃の去って行く背中を見つめていると、ギュッと胸が締め付けられた。
「なんで……」
私にとっての1番は……眞妃。それは変わらない、でも眞妃にとってはもう……そうじゃ無いんだ。
放課後……昼休みの一件で気落ちした心を奮い立たせ、私はボランティア部の予算について聞く為に、生徒会室に向かっていた。今はとにかく、考える暇も無い程の忙しさを求めていた。それは、昼休みの事から目を逸らす為……
「石上君は……もう部室に居る頃かな? 急がないと……!」
おそらくは、もう部室で待っているであろう男の子の姿を思い浮かべながら、私は生徒会室の扉に手を掛け……
〈そうなの! 翼君はすっごい優しくて……〉
室内から聞こえて来た声に、扉を開け様とする手が止まった。私がこの声を聞き間違えるなんて事は有り得ないから、間違いなく声の主は……
「……眞妃?」
私は物音が鳴らない様に気を付けながら、僅かに開いた隙間から中の様子を窺った。
「……それで、この前は付き合って半年記念だったんだけどね?」
生徒会室には、眞妃と四宮さんだけで……2人はソファに腰掛けて話をしていた。
「その日の翼君は、凄い強引で……」
「……」
眞妃の惚気話を四宮さんは黙って聞いている。
「い、所謂……フ、フレンチキスっていうの? そういう感じのをされちゃって……」
眞妃と四宮さん……あの2人は、とてもよく似ていると思う。昔の……周囲の人間を自らの実力で黙らせていた眞妃と、氷のかぐや姫と呼ばれ孤立し、それでも結果を出し続けていた四宮さん。最近の柔らかい印象を受ける様になった所もそっくりで、人を好きになる事の影響力に随分と驚いた記憶がある。
「それでね……!」
楽しそうに、嬉しそうに、そして……少しだけ恥ずかしそうに、眞妃は田沼君との思い出を四宮さんに話している。つい最近まで、眞妃の惚気話を聞く相手は私だったのに……
「……」
私は眞妃から聞かされる惚気話を喜んで聞いていた訳じゃない。出来る事なら、聞きたくないと思った事も当然ある。だけど……眞妃の傍に居られるのなら仕方がないと、我慢して心が騒ぐのを抑え付けていた。でも、その惚気話を聞く立場さえ……
「私の居場所、無くなっちゃった……な。」
彼氏が出来て眞妃の隣には居られなくなった……
眞妃の惚気話を聞く役目も、四宮さんが代わりになっていた……
じゃあ、私の居場所は……何処にあるの?
………
生徒会室から逃げる様に立ち去った私は、ボランティア部へと向かった。途中、白銀君とすれ違った気がしたけど……今の私には、ボランティア部の予算についての興味も……冷静な思考をする余裕も無かった。
「あ、先輩、お疲れ様です。」
「うん、待たせてごめんね……」
「……あの、大丈夫ですか? もしかして、体調悪かったりします?」
「……ううん、大丈夫。」
「なんかあったら言って下さいね。」
「……うん、ありがとう。」
「……」
(石上君て、ちょっと犬っぽいのかな?)
「先輩? どうしました?」
石上君の頭に、ひょこっと犬耳が生えた姿を幻視する。
(ふふ……)
「ううん、なんでもないの。」
その姿を思い浮かべると、少しだけ気分が楽になった。
「……先輩、コレ見て下さい。」
石上君はパサッと5枚の紙を机の上へと広げた。その紙は期末のテスト用紙で、赤字で書かれた点数はどれも……90点以上を記録していた。
「コレって……」
「先輩との約束、やっと果たせましたよ。」
……すっかり忘れていた。只々困らせたい、怖がらせたいという不純な動機で、私は3ヶ月前に……テスト平均90点という課題をこの子に科していた。9月の実力テストでは、惜しくも目標には届かなかったけど……
「いやー、人間やれば出来るもんですね!」
この子はそれ以降も、忘れずに日々の勉学に励んでいたらしい。約束と石上君は言ったけど……私が一方的に言っただけの、口約束にもならない言い掛かりに近いモノだったのに……
「凄い……頑張ったんだね。」
それでもこの子は、私が勝手に設定した点数を目指して……並々ならぬ努力をし続けたんだ。その事実に胸が満たされる……3ヶ月前、今の関係が始まった時には、想像もしていなかった……私の中で、この子の存在がここまで大きくなるなんて……
「はい、滅茶苦茶頑張りました。それで……先輩に聞いて欲しい事がありまして……」
「うん、なぁに?」
そう思っていたのも束の間……
「先輩と僕の……この関係を終わりにしたいんです。」
その言葉を聞いて、私の辛うじて保たれていた心のバランスが……この時崩れた。
「え…あ……」
グラグラと視界が揺らぎ、身体の力が抜けて行く様な感覚に必死に耐える。
眞妃に彼氏が出来て、隣には居られなくなった……
惚気話を聞く立場も、四宮さんになっていた……
今の私に残されたのは、石上君の恋人という立場だけ……でも、その
「……先輩? 大丈夫ですか?」
「……うん、大丈夫。それより、石上君にお願いがあるんだけど……」
私は平静を装ってそう答える……この時の私は、石上君が言った言葉の本当の意味も、自分自身の気持ちも……何もかもわかっていなかった。
「お願い……ですか?」
「うん……お願い。」
この時……ちゃんと話の続きを聞いていれば、この子を傷付ける事はなかったのに……