「失礼します。」
入門初日の夜、ちゃんこの後始末をしていた蛍は親方から呼び出しを受け、親方の個室へ。
中では大和国と草薙が将棋盤を挟んで座っていた。
「うむ、まぁ座りたまえ。」
「あ、はい。」
あらかじめ置かれていた座布団の上に腰を下ろす蛍。
「私は話があるから、今日はここまでだ草介。」
「ええっ!もうほぼ詰んでるじゃないですか・・・今更勝負無しですか?」
不満そうに抗議する草薙の言葉に、蛍は思わず盤面を除く。
「うわぁ・・・」
「ねぇ三ツ橋君、どう見てもこれは僕の勝ちだよね。」
どういう将棋を指せばこの状態になるのだろう、草薙は飛角金銀桂で幾重にも包囲網を敷き
持ち駒もたっぷりとあるのに対し、大和国の方は王将の他は歩が数個と言う有様。
「12回も『待った』するなんて・・・本場所でこれやったらウチじゃ破門ですよ。」
ああ成程、待ったの度に王将を逃がして、代わりに強力な駒を次々に献上していったわけだ、
案外往生際が悪いのな、この親方。
「さて、本題に入ろうか。」
そう言って蛍の方に向き直りつつ、左手でジャラッと盤面の駒をかき集めて箱に詰める親方。
草薙はああっ・・・また?と不満の声を述べるが、さらっとスルーする父。
っていうか『また』って。
「どうかね、初日の感想は。」
真面目モードに入った大和国の問いに、蛍は真剣のスイッチを入れ直して答える。
「そうですね・・・最初はともかく、場が締まってからは充実してたと思います。」
来てすぐの下位力士のやさぐれた態度に最初は落胆したものだが、草薙はじめ関取の面々が
稽古に参加してからは打って変わって熱の入った場になった。鵜池はじめ下位力士たちも
上位陣に懸命の抵抗を見せていたあたり、向上心は失われていないようだ。
蛍と同じレベルにいる同部屋力士が意欲的ならば、彼にとっても得るものは多いだろう。
それは何よりだ、と前置きして居ずまいを正す親方。
「さて、約束だったな。私に身を預けてくれれば、いつか鬼丸の前に立たせてみせると。」
その言葉に蛍以上に反応したのは、すぐ横にいた草薙だった。
「えっ・・・潮君に?」
「彼に影響されたのはお前だけではない、ということさ。」
親方の返しに、そうか、潮君にねぇ、と顔をほころばせる草介。彼にとって相撲を取ることは
鬼丸こと潮火ノ丸という人物と高め合う事でもあるのだ、頂に達するその時まで。
自分以外にも彼に影響を受け、人生を変えた人間がいることに感心し、納得する。
うんうん、さすが潮君だ、と。
「そのために、ふたつの課題を君に課そう。まず一つ、3年先の稽古をしなさい。」
相撲界の格言、稽古とは一日二日で成果が出るものでは無い、三年先の自分を見据えて
日々精進を重ねることが大事である、と。だがそれは蛍にとっても、もうひとつの意味を
示していた。
「火ノ丸さん・・・鬼関と戦えるのは、3年先になると?」
蛍の返しにこくりと頷く親方。確かに今の自分では火ノ丸の相手にもならないだろう、
3年でも足りるかどうかはわかったもんじゃない、彼も3年後は更なる高みに行っているだろうから。
「君はケガの怖さを知り、相撲を続ける明確な目標もある。焦らずじっくりと力を蓄えなさい。」
それはいつか堀柚子香嬢に聞いた三ツ橋蛍の『心の芯』。かつての苦い記憶を覆すための
鬼丸と言う目標と、負傷による挫折の怖さを心得ているその心は、指導者として何より
有難い資質と言えた。
「そしてもうひとつ。常にファンの目を意識して、観客を沸かせる力士を目指しなさい。」
その言葉に蛍も、そして草薙も目を丸くする。強くなることにあまり繋がらなさそうな
その物言いに疑問を感じ、続きの言葉を待つ。
「君の相撲は誰よりも明確に人目を惹く、それを使って観客を味方にすることだ。
そうすれば君の背中を皆が押してくれるし、対戦相手は君の事を色眼鏡で見るだろう、
そういった相手の心理をよく読んで『心』で相手を上回ればいい。
「あ・・・。」
かつて諸岡顧問に教わった心理戦、それに相撲ファンの後押しを上乗せしろという事。
もし自分が変化を使う奇抜な相撲で人気を博し、土俵に上がるたびにファンの期待の
声援を受ければ、相手は自分に様々な感情を抱いて向かって来るだろう、それは彼にとって
格好の攻略のヒントになるはずだ。
「かつて『昭和の牛若丸』と呼ばれた力士がいた、彼がそういうタイプだったんだよ。」
大和国が語る。その小さな力士が土俵に上がるたびに観客は『今日はどんな相撲を取る?』と
期待に目を輝かせ、相手もまたその多彩さに翻弄され、または迷わされて土を付けられる、
その度に座布団が舞い、観客を熱狂の渦に包んだものだった。
「そのためにも、君は多くの者の矢面に立たねばならん。」
その言葉と同時に、大和国は蛍に木札を差し出す。所属力士の名を記入したその札を。
”蛍丸”
鎌倉時代に作られたとされるその名刀、刃こぼれの破片が蛍火のように集まって治ったという
逸話からそう呼ばれる伝説の刀。
四股名を刀銘にする、それは昨今の相撲界にとって、将来の横綱候補『国宝』として
負けられない立場に立つ事を意味する。言い方を変えれば、刀剣銘を名乗ることで
否応なくファンの注目を集めるという事でもある。
最初は非難を浴びるかも知れない、横綱候補がぴょんぴょん飛び跳ねる相撲をするなど、
認めない者は少なくないだろう。それを蛍は良く知っている、『力士』とはあくまで
力ある者を指す言葉なのだから。
だか別の事も彼は知っていた。勝ち続ければ否定も非難もやがては称賛に変わることを。
蛍の変化は決して『楽をして勝つ相撲』ではない、相手に読み勝ち、乾坤一擲の力と技で
大きな男を仕留める決死の一手なのだから。
「私も現役時代は、ファンの声援にずいぶん力を貰ったものだ。」
珍しくにやりと笑う大和国。かつての力士時代を思い出しているのだろう。
蛍は木札を手に取り、しげしげと眺める。彼自身、四股名を名乗るならこの名にしようとは
思っていた。だがそれはずっと先、火ノ丸さんと戦えるところまで行ってからだと思っていた。
でも、今じゃなきゃ駄目だと。親方が、伝説の横綱がそう言ってくれた。無謀も、試練も、
全て飲み込んで、この名を観客に、角界に刻み込めと!
「ありがとうございま・・・ごっつぁんです、親方!」
まるで卒業証書を受け取るように、深々と一礼しながら木札を手にする蛍・・・いや蛍丸。
今、彼は彼を強くする最後のピースを手に入れた、その名と共に。
・生来のガッツある相撲と、桐仁によって仕込まれた変化を使いこなす。
・諸岡顧問に教わった『目線の誘導』『心理戦』を常に意識する。
・かつてのダチ高の後輩たち、流星大の仲間たちとそうであったように、大和国部屋の
仲間たちと研鑽を続け、高め合う。
・小さな自分が勝つにはどうすればいいかを考え工夫する、周囲のアドバイスに耳を傾ける、
かつて夜叉落としの連発を提案された時のように。
・全国優勝したチームで全敗した屈辱。拭うために鬼丸関の所までたどり着き、そして勝つ。
・自身の夢である、カッコいい力士に、人物になってみせる。
・ケガの怖さを心に刻み、ケガを未然に克服する相撲を目指していく。
・自分を信じ、成長するチャンスをくれて、待ってくれている『彼女』の為に上に行く。
・そして・・・相撲ファンに慕われる存在になり、その声援を力に変える、そんな男になる。
かつて相撲部の門を叩いた、あまりにマワシの似合わない、ひ弱な少年。
彼は今、己に必要なものを全て胸に書き留め、それを満たすべく歩き始める。
新弟子検査を受け、正式に番付にその名を乗せる。草薙の付き人の1人に指名され、
いよいよ初土俵を迎えることになる。
そんな蛍丸を後押しをするような出来事が起こる。それは大相撲初場所、その初日の割。
草薙(大関)-圧切長谷部(前頭八枚目)